美流渡炭鉱跡  探検: 北の細道 美流渡炭鉱跡

美流渡炭鉱跡で林檎園の中の炭鉱を見る




北海道栗沢町

   昭和30年6月に国会へ上程された「石炭鉱業合理化臨時措置法」は、
安定上昇を遂げつつあった炭鉱現業に対して、混迷をもたらすものとなった。
当時、生産性の高まりに対して、デフレ政策(意図的な財政支出及び通貨の流通量縮小政策)による、
金融難や乱売、炭価急落が発生し炭鉱各社による自主的な生産制限が申し合わされた矢先であった。

後の「スクラップアンドビルド政策」の源流に通じる、
非能率炭鉱の買い上げと高能率(ビルド)坑への生産集中、
高能率炭鉱のみの坑口開坑許可、石炭鉱業審議会の設置、
標準単価の設定・カルテル(同種企業同士が独自性を持ちつつ連合)の認可等
石炭政策の方針が定まりつつあった。

昭和32年〜34年に発生した「エネルギー革命」はアメリカの経済恐慌に端を発し、
付随する日本には「なべ底景気」が訪れ、全国で1,200万tの異常貯炭を抱えることとなる。

その後の高度経済成長に伴う石油エネルギーの進出や安価な海外炭に翻弄され、
炭価制限、経済性、出炭制限等がもたらされたことにより、閉山炭鉱は179坑に及ぶこととなる。
やがて、企業合理化の指向と共に、労使問題の表面化が激化する。

各炭鉱では労働組合によるストライキや関係自治体への要請行動等が高まり、
昭和37年9月には石炭鉱業視察団による人員整理や出炭制限が答申され、
更に産炭地の危機感は高まることとなる。

この後、「炭鉱整理促進交付金」=閉山(スクラップ化)交付金の増額で
昭和37年には608あった稼行鉱山が、昭和47年には77と、
10年間で13%に縮小し、雪崩的に閉山が促進してしまう結果となる。


栗沢町の東部に位置する本鉱区には、
南幌内・伊藤・大和・三和など当時町内には11の炭鉱が犇めいていた。
大正6年開坑の本坑は、日の出坑・双葉坑・初音坑などを有し、
典型的な中規模炭鉱として、大きな事故もなく平和な炭鉱であった。

岩見沢市にも鉱区が跨り、農村の中にあることから、
坑内の風井を出ると、林檎園や西瓜畑であるような珍しい立地であった。

今回はシコロ沢沿いの美流渡(みると)炭鉱(昭和38年閉山)、
旧美流渡駅北方の東幌内炭鉱(昭和42年閉山)、岩見沢市に跨る北東部、
滝の上方面の東美流渡炭鉱(昭和40年閉山)を探索する。




閉山からおよそ50年。
その産業遺産を追う。











万字線跡・風井・選鉱所・・・


J38
( ̄u ̄;)老兵は死なず



トップページへ