末広炭礦 探検: 北の細道 末広炭鉱

末広炭鉱跡で十・七・六・四作戦を垣間見る





北海道赤平市

  赤平炭鉱は昭和38年(1963)、 赤平第一立坑ベルト斜坑の完成により、
深部開発計画に基づく設備配備は完了し、ビルド鉱としての新体制が整った。

しかし人員確保の難航、物価上昇、災害によるストライキ等により、
一時的に業績の停滞が生じたのも同時期である。

この事態に対し昭和40年代末より自主採算計画が策定され、
採炭夫能率10車、日産7,000t、月能率60t、山元手取り額4,000円を目標とする、
いわゆる『十・七・六・四作戦』が発表された。

それまで日産6,200t、月能率51.6t、山元手取り額3,746円だった成績を、
坑道掘進による新規採炭現場の確保、良質の炭層への集中、
市場の情勢に合う中塊炭の生産比率向上などにより、
販売拡充体制とともに向上させる狙いがあった。

実際、昭和43年(1968)には日産7,200t、月能率61t、山元手取り額4,025円と目標を達成、
これは石炭政策が価格に対し効果を発揮しない状況の中、
「固定費」人件費や減価償却費など、 売上の増減にかかわらず発生する一定額の費用のこと の削減により原価の低減を行い、合理化を進めた結果だと言える。


末広坑は赤平市美園に事業所があり、昭和14年(1939)10月開坑、
もともとは明治時代に奈江炭山、大正時代に赤平坑として短期間稼業していた休止炭鉱を
戦時下の増産政策に従い、北海道炭礦汽船(株)が末広礦と改称して独立させた。

昭和30年(1955)には赤間礦と合併させ、末広坑として昭和44年(1969)9月まで操業した。


住友赤平、北炭赤間、三井大谷沢、北菱平岸と、
メインとなる各炭鉱群から山裏にひっそりと存在した末広坑。
雪解けのベストシーズンに、
かつての繁栄を覗いてみたいと思う。




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