稚内炭鉱跡  探検: 北の細道 稚内炭鉱

稚内炭鉱群で人造石油の夢を追う




北海道稚内市

   石炭は過去長きにわたって使用されてきた重要な燃料である。
特に昭和30年代まではその隆盛を極めたものの、エネルギー革命による石油時代の到来を受けて、
その陰の存在となってしまった。

ところが1973年の石油ショックにより石炭は再び脚光を浴びることとなる。
過去からも石炭の液化による利用拡大は研究成されてきた分野である。
この主たる理由は石炭の埋蔵量にあり、石油を遥かにしのぐことにある。

石炭と石油の物理的な相違点は、固形/液体の違いであるが、
化学的な相違点は灰分や窒素分の含有量の差を除くと、原子比(H/C)にあると言える。
原子比とは(水素量(H)%÷水素相対質量1.0078)÷(炭素量(C)%÷炭素相対質量12)となり、
例えばメキシコ産の石油なら((H)%【10.2】÷1.0078)÷((C)%【83.7】÷12)=1.45となる。
石油のH/Cが1.4〜1.8程度であるのに対し、石炭は1以下である。

この科学的相違を突き詰めると、石炭は分子量の割に水素が少なく、
大部分の炭素も環状に接続しているので硬い固体となっている。
それに対して石油は多数の水素が炭素原子に纏わりついており、
分子が小さく鎖状に接続し、自由に動くことで液体となっている。


特に軍需の観点にて石油資源に恵まれていない日本では、石炭から液体エネルギーを抽出する研究がなされた。
輸送や貯蔵の面からも有利な液体化を目指したのが人造石油で、
具体的には500℃、700気圧の高温高圧下で触媒を用いて水素化させる方法などが行われてきた。
しかし戦後は中東産油国の躍進もあり、石炭液化技術は経済的に不利となった。


天北炭田の炭質は良好とは言えず、煤煙の稀薄、灰分の稀少という特徴はあったものの、
そのカロリーの低さは補えるものではなく、
炭価と採炭コストのバランスが経営を圧迫していた。

そんな中、昭和18年(1943)が一つの転機であり、
大阪貝島化学工業からダビットソン式低温乾留装置と蒸留製油装置を譲り受ける計画を立案した。
戦争の要求も相まって、天北炭田で石炭液化事業に着手することを目論んだのである。


昭和33年(1958)閉山までの液化事業を含めた道程と、
現地運炭軌道の隧道跡を追って現地を歩いてみよう。

液化事業・軌道跡・温泉跡・・・



コークス炉
( ̄u ̄;)コークス炉





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