夕張鉱業所 第二礦 中央竪坑跡 探検: 北の細道 夕張炭鉱 第二坑 中央竪坑跡

中央竪坑で合理化の痕跡をみる



北海道夕張市

 毎日新聞社 企業の森 昭和40年版によると、
北海道の炭鉱の合理化はコスト低下に向けて邁進している状態であると紹介されている。
炭鉱の合理化、これは突き詰めると近代化であり機械化が進むこととなる。

当時の在籍人数で近代化を押し進めると、結果的に出炭量が増加する。
しかし販売のシェアや政策はこの事実に伴わない。
政府による出炭需給の枠が5,500万tと取り決められた時代、
炭鉱側からの6,000万tの要求は通らず、しかし近代化は減速しない。
そうなると結局発生するのは人員整理だ。

「北炭」の代表的な合理化としては昭和35年に空知鉱業所の 赤間
幌内鉱業所の万字美流渡の三山分離が行われたのが大きな岐路となる。

昭和38年には空知鉱業所が独立、夕張鉱業所第三坑が新夕張炭鉱として分社化した。
このように非能率炭鉱を分離しつつ、
坑内骨格の合理化、機械化、営繕/修理部門の外注化などが進められた。

出炭量を増加させるための措置として、北炭夕張鉱業所では中央竪坑が昭和40年春に完成した。
深さ630m、坑径6.3mの大型のもので、
坑道入り口までの所要通勤時間の短縮をも目的とした立坑だ。

当時の各立坑の変遷をまとめると以下となる。

  鉱区    立坑名    内径(m)    深さ(m)    完成年月 
 夕張  大新坑立坑  5.45  178.5  大正4年9月
     大井立坑  4.5×2.4  105  大正8年
     奥部排気立坑      450  昭和16年8月
     奥部入気立坑      450  昭和17年5月
 平和(真谷地)  本沢立坑      138  明治41年8月
     桂立坑          大正7年
     桂排気立坑      290  昭和27年1月
 幌内  滝ノ沢立坑          明治34年
     養老立坑  4.5×3.3  203  明治32年11月
     那智立坑          明治45年
     布引排気立坑      291  大正15年4月
     布引入気立坑  5.0  291  大正9年
     錦立坑  5.0  197  大正9年12月
     三笠山立坑          昭和23年6月(25m掘削後中止)
 空知  佐久志立坑      190  明治30年8月
     明石立坑        明治34年
     舞鶴(ペンケ/中ノ沢)立坑          明治43年3月
     立山立坑          大正7年2月
     西山立坑      80  明治26年
     空知礦立坑      285  昭和34年


中央竪坑は北炭夕張坑の将来を担う立坑と位置付けされていた。

それまで 奥部立坑 から徒歩とマンベルトで切羽までが片道70分を要していた。

マンベルト
マンベルト


マンベルトは文字通り、人が座って乗るベルトコンベヤーだ。
立坑完成後は坑口までの約5kmを坑外電車で11分で到達、
その後、立坑経由で切羽まで30分と大きく短縮した。
これにより実働時間が増え、出炭量は25%増加すると想定され、
通気回路の安定、運搬系統の整理など二次的な効果も高かった。

中央竪坑
工事中の中央竪坑

今回は夕張のヤマ奥深く、かつての立坑跡を目指す。
山中深く、遭難の危険性が高いため詳細な場所については伏せさせていただく。



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深部通洞
深部通洞





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