平和第二炭鉱 探検: 北の細道 平和第二坑

平和第二炭鉱で立型インジケータをみる





北海道夕張市

   炭鉱の操業に付き物のメタンガスは、窒息そして濃度5〜15%の場合に爆発の危険性がある。
過去には重大な災害を惹起してきたため、その保安には尽力が注がれてきた。

Ωカーブを繰り返す北海道の褶曲炭層地形は、その空洞部にメタンガスが溜まりやすく、
その量は九州地方の約5倍と称される。
これらメタンガスを薄めるのが通気技術であり、湧出するガスを資源として有効利用するのが
ガス誘導技術(ガス抜き技術) である。
通気は風の通り道である坑道(=風洞)から扇風機にて坑内の汚れた空気を吸い出し換気を行う。
ガス誘導は坑内のガスを大量に採取して、専用パイプで郊外に排出する方法である。


平和礦 は大正9年(1920)1月、前身の石狩石炭株式会社により譲渡され、
若鍋(若菜辺)礦の名称で昭和5年(1930)7月まで稼行した。
当時は前述の坑内ガスの湧出量が非常に多く採掘困難とされていた。

その後、国を挙げての増産要請から、昭和12年(1937)1月に旧平和坑(=1区/第一斜坑)を開削し
昭和14年(1939)5月から本格採炭、平和鉱業所として昭和16年(1941)10月、
夕張鉱業所所属の平和・ 真谷地登川の3礦を同所から分離、
17年に角田坑、25年に 新穂別坑 を管下に収めて計5礦を統括した。

その後、隣接区域の開発を図るべく、昭和23年(1948)8月から
旧平和第二坑(=2区/第二斜坑)を開削、約6年の歳月と16億3千万円の資金投入により
昭和29年(1954)8月に完成、平和第二炭鉱として操業した。
生産炭は発熱量8,000kcalで、炭界随一の高品位と言われた。
しかしながら、昭和50年(1975)7月末をもって全坑口を閉鎖、両坑とも完全閉山に至る。

鉱区比較

  鉱区   1区(第一斜坑)   2区(第二斜坑)
 炭鉱名  平和礦  平和第二炭鉱
 稼行状況  海抜247m地点から3本のベルト斜坑、材料斜坑、人道斜坑を -40m地点まで1,200m掘削  海抜290m地点から新坑と直角北東向きに延長1,140mの本卸、添卸を開削
 産出炭  日産600t  発熱量7,850kcalの原料炭を600t/日、年間約18万t
 開坑  昭和12年(1937)1月  昭和29年(1954)8月
 合併  昭和32年(1957)10月、平和第二炭鉱と合併 (以降、平和礦1区と別称)  昭和32年(1957)10月平和礦と合併 (以降、平和礦2区と別称)
 終堀  昭和39年(1964)11月終堀 2区へ集約         
 閉山  昭和50年(1975)7月末  昭和50年(1975)7月末

平和坑
鳥観図


『風雲急を告げる』
これは紛争など大きな変動が起きそうな、さしせまった情勢を言う。
上記の通り、平和礦が開坑した昭和12年1月の半年後に 日中戦争は勃発している。
開坑は正に風雲急を告げる時代、それは戦争反対や平和を口にできない時代だ。
その時代にかかわらずも命名された『平和』礦。

名づけられた坑名の来歴にも差し迫りつつ、メタンガスとの攻防
そして立体的な坑道のメカニズムをも紐解いてみたいと思う。

スキップチップラー・横型インジケーター・本卸・・・




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