日曹炭鉱跡  探検: 北の細道 日曹炭鉱

北端のビルド鉱、日曹炭鉱の最奥に眠る主要坑を探す




北海道豊富町

   大正15年(1926)5月17日夜半、大音響とともにそれらは噴出した。
沙流村と呼ばれた現豊富町は、入植者も希薄な未開の時代から、
各所にガスが噴出していた。

開拓が進むにつれ、付近の地下資源の将来性に希望がもたれ、
石油試掘に着手すべく、現地調査と掘削が施工されたのが大正13年(1924)。
2年後には深度960mに至り、天然ガスと温泉が突然噴出した。
高さ30m余りに及ぶ中空に噴き上げる温泉水で、
一帯が湯の雨となり、透明で無臭、
その後、日産約47klを噴出したと言われる。


遡ること明治37年(1904)には、すでに付近に石炭採掘の鉱区が設定され、
幌延炭鉱と称して日曹地区での採炭が開始された。

幌延に企業本拠地があったがために、日曹に至る13qは刈分け道しかなく、
送炭に関する問題が最大の課題であった。
この解決のため豊富ー日曹間16.7Kmに、
日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道(歩鉄の達人) が敷設されたのが昭和15年(1940)2月である。

昭和27〜28年(1953)から最盛期を迎えたものの、
昭和30年代後半からは坑内火災が相次ぎ、
昭和42年(1967)には露天掘り、坑道掘りを行い66,000tの出炭を行った。

しかしながら不況の波に逆らえず、
昭和47年(1972)10月に閉山を迎える。

天北炭田の埋蔵量は推定20億tといわれ、
ところがカロリーが低く発熱量が少ないことが、天北炭の特質となっている。

昭和37年(1962)、第一次石炭政策において重油には対抗不可な石炭鉱業の自立化を目指し、
採算可能な大型炭鉱に政府資金を投入、
坑内構造の改革、機械化、西欧水準の合理化が推進された。


これに該当する道北地方唯一の『ビルド炭鉱』として君臨した、
日曹炭鉱の最奥の鉱区、 三坑を目指してみよう。



風洞・専用線・鹿道・・・



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