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●寛永4年(1627)
●寛永6年(1629)
●寛永7年(1630)
●寛永12年(1635)
●寛永13年(1636)
●寛永15年(1638)
●寛永16年(1639)
●寛永19年(1642)
加藤嘉明が会津へ移り、出羽(山形県)より蒲生忠知が松山へ入る。幕府、隠密使を遣わし伊予各地を
探索させる。(『回国七城巡見録』の成立)。
1月18日−松山藩主蒲生忠知が,領内を荒らした山賊水無又兵衛の捕縛を幕府に報告ずる。
7月−松山藩領の片原・片平村で干ぱつのため年貢減免を要求し,一揆がおこる。
前年の蒲生忠知の死去により、伊勢より松平定行が松山15万石、松平定房が今治3万石に入る。
一柳直重(ひとつやなぎ・なおしげ)西条3万石、一柳直家が川之江2万3,000石、一柳直頼が小松1万石に入る。
松山藩主・松平定行により道後の温泉施設の整備が行われる。
大洲藩より新谷(にいや)藩1万石が加藤直泰へ分知される。
一柳直家の死去により、川之江付近は天領(幕府領)となる