享保年間リンク⇒ | 東北 | 関八州・江戸 | 東海・北陸・甲信 | 近畿 | 中国 | 四国 | 九州 | 洋上 | 前ページへ |
●享保8年(1723)
●享保12年(1727)
●享保15年(1730)
●享保16年(1731)
●享保17年(1732)
●享保18年(1733)
西条藩、開発を中断していた新居郡黒島(新居浜市)表干潟、備後国より
天野喜四郎らが来て開発を再開させる。
吉田藩、宇和俵津(たわらず=明浜町)境界を明確にするために木彫の立体模型できる。
大洲藩、紙方本座連中(かみがたほんざれんちゅう)を定め、大洲和紙の専売制度が始まる。
12月3日−宇和島藩が領内に楮の栽培を奨励する。
伊予国各藩でウンカが大発生し、餓死者5,818人(全国の死者の約半分)をだす享保の飢饉おこる。
7月16日−松山藩領内郷方の者が大飢饉のため袖乞(そでごい)と称して城下に参集し,町家に乱入する。
西条藩、黒島前干潟の干拓を実施、この事業により大飢饉による難民を救済することができ、
多喜浜(たきはま)と呼ばれる。