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●天明元年(1781)
●天明3年(1783)
●天明4年(1784)
●天明6年(1786)
●天明8年(1788)
●寛政5年(1793)
吉田藩、藩校時観堂(じかんどう)を設立する。
●寛政11年(1799)
●寛政12年(1800)
●享和2年(1802)
●享和3年(1803)
西条藩、松平家の私財と郡奉行竹内立左衛門(たちざえもん)の見立による氷見村・西泉村(西条市)
地先干拓地が完成し、禎瑞新田と呼ばれる。
新谷藩、藩校求道軒を設立する。
松山城天守閣が雷により焼失する。
秋−中国や瀬戸内の各地が暴風雨に襲われ、凶作となる。
別宮猶重(べっくなおしげ)、新谷領金比羅宮に和算の問題を解いた算額を奉納する(愛媛県で最古のもの)。
吉田藩領の農民、宇和島藩領に入り11カ条の願書を提出する(吉田騒動・武左衛門一揆)。
8月27日−吉田藩が、大干ぱつをきっかけに藩士の知行半分の借り土げをふたたび命じる。
宇和島藩、領内の婦女子に養蚕・製糸を奨励する。
大洲領喜多郡中居谷村(なかいだにむら=肱川町)庄屋隠居富永彦三郎、
『大洲旧記』を編纂する。
小松藩、藩校培達校(ばいたつこう=養正館)を設立し、近藤篤山(とくざん)を教授に迎える。
閏1月19日−松山藩が、45万俵の借財のため,家臣の俸禄を5割削減する。