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●延享4年(1747)
●寛延3年(1750)
●宝暦3年(1753)
●宝暦4年(1754)
●宝暦5年(1755)
●宝暦9年(1759)
●宝暦10年(1760)
●宝暦12年(1762)
●延享3年(1746)
8月29日−高鍋藩が禄100石以上の藩士に馬を飼わせる。
延岡藩牧野氏、常陸国笠間へ転封、代わって陸奥国平より内藤政樹入封(7万石)。
7月−延岡藩が年貢増徴のため定免制を実施する。
12月16日−延岡藩領宮崎郡瓜生野(うりうの)組五カ村(大塚・長嶺・富吉・瓜生野・大瀬)
の農民が検見取り・夫食米を願い出るが拒絶される。藩庁は宮崎八寺に鎮撫を命じる。
(翌宝暦元年1月薩摩領へ逃散)。
6月19日−延岡藩が,幕府の許可をえて,城下近辺での藩札の15年間通用
の触れをだす。明和2年(1765)に通用停止。
米良(めら)領民170人薩摩藩領須木(すき)郷へ逃散。
延岡藩、曾木村日平(ひびら)銅山の採掘に着手。
7月8日−幕府が,追放者や欠落者が長崎に入って悪事を働くとして,彼らの長崎立入禁止を
九州などの諸大名に命じる。
高千穂山裏(やまうら)逃散一揆(豊後竹田領へ逃散)。
4月17日−児湯(こゆ)郡の幕府領農民が代官の非法を訴えて高鍋藩領へ逃散する。
7月,幕府は,高鍋藩へ主謀者らの引き渡しを要求し,隣接の2藩へ騒動時の要員派遣を命じる。
天領穂北郷の農民が薩摩・高鍋両藩領内に逃散。
6月12日−延岡藩が家臣困窮のため,屋敷修理や葬式の費用を身分に応じ貸し与える制度を定める。
米良領民140名薩摩藩領須木郷へ逃散。
米良領民130名薩摩藩領須木郷へ逃散。