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●文化2年(1805)
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●文化6年(1809)
●文化7年(1810)
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●文化9年(1812)
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●文化14年(1817)
●文政元年(1818)
●文政2年(1819)
●文政3年(1820)
●文政4年(1821)
●文政5年(1822)
●文政8年(1825)
●文政9年(1826)
●文政10年(1829)
幕府、関東取締出役(かんとうとりしまりでやく=八州回り)を設ける。
10月23日−先手鉄砲方井上正治が相模・伊豆・房総の巡視を命じられる。
8月23日−江戸と周辺が暴風雨に襲われ、大災害を受ける。
2月26日−幕府が,会津・白河両藩に異国船防御のための砲台を相模・安房両国沿岸に
構築することを命じる。会津藩、観音崎と三崎に陣屋、台場を築く。
城ケ島大筒台、浦賀平根山大筒台ができる。
会津藩、三崎町に集義館を建て、陣屋詰め家臣に朱子学を教授。
誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)、円覚寺住山189世となり、円覚禅を大成する。
2月1日−小田原城下の大火で1,264軒が焼失する。
9月−イギリス船が浦賀に来航する。
2月7日−幕府が鎌倉で大砲を試射する。
5月13日−イギリス人ゴードンが浦賀に来航し貿易を求めるが、幕府は拒絶する。
小田原藩主大久保忠真(ただざね)、老中となり、酒匂川原で村役人に訓戒を与え二宮尊徳らの奇特者を褒賞する。
二宮尊徳、小田原藩家老の服部家の家政改革に着手。
女流歌人三田菅子没(35)。
1月25日−幕府が、浦賀奉行を2人に増員する。
小田原藩足軽浅田鉄蔵、親の仇討ちを行う。江戸時代最後の公許仇討ちとなる(文政曽我)。
12月30日−幕府が、会津藩の相模沿岸警備を免除し、浦賀奉行内藤正弘に警備を命じる。
1月17日−鎌倉鶴岡八幡宮が全焼する(1828.8.20再建)。
4月−幕府が、小田原・川越両藩に、浦賀に異国船来航のさいの海防役を命じる。
干ばつのため川崎領20カ村と溝口(みぞのくち)村、二ケ領(にかりょう)用水の分水をめぐり騒動がおこる。
誠拙周樗没(76)。
4月28日−イギリス船が浦賀に入港(5.4幕府がイギリス船に薪と水を与え,
交易を禁じる旨を伝える。5.8イギリス船退去)。
小田原藩主大久保忠真、小田原城三の丸に藩校の集成館を建てる。
この年以降、縁切寺を相模国東慶寺と上野国満徳寺に限定する。
9月28日−幕府が、関東の無宿人・農民・町人が長脇差を携帯することを禁止する。
シーボルト、江戸参府の途中箱根宿に立ち寄り、箱根細工に興味をもつ。
2月−幕府が関東で改革組合村の結成を命じる(文政の改革)。