◎「おおよど歴史てくてく散歩」(大淀町教育委員会発行):「25.大岩・大日堂・木造大日如来坐像(町文)」の項に
大日堂内に金剛界大日如来坐像(像高5尺2寸4分158.5cm、平安後期、クスの一木造)がある。
なお地区内神社には舎利孔がある礎石が2基あり、大寺院が存在したと思われる。
との記載がある。
★心礎A
「幻の塔を求めて西東」:
吉野郡大岩八大龍王(現野郡大淀町大岩水別神社)に心礎がある。
心礎は120×90×45(見える高さ)cm、径66×2.5cmの円柱座を造り出し、径27×3cmおよび径17×18cmの二重円孔を穿つ。
2013/05/30追加:
「大岩水分神社境内の一中心礎」田村吉永(「大和文化研究」第1巻 1号、1953 所収) より
大岩集落は起伏する丘陵上にあるが、その中央にあたる高所に水分神社が鎮座する。
拝殿を入ると社殿左に手水鉢代わりに置かれた心礎がある。
長径4尺1寸(124cm)、短径2尺7寸(82cm)の石面に径2尺1寸5分(65cm)、高さ1寸(3cm)の円形造出を施し、その中央に当たって径9寸(27cm)深さ1寸4分(4cm)、その中に更に径5寸7分(17cm)深さ同様に5寸7分(17cm)の二段の穴を穿ったものである。
本心礎は、他の舎利孔を有する心礎とは違って、石表面に柱座を造り出していることがその特徴である。
この類例は今まで備中赤茂の英賀廃寺心礎が知られるのみである。この心礎は径4尺1寸高さ1寸5分の造出円形柱座の中央に径1尺1寸7分深さ6寸4分の穴を有しその中に径5寸深さ4寸の二段の穴を穿つものである。
大岩八大龍王の場所からしてこの心礎を有する塔阯の所在地とするわけにはいかない。どこからか搬入されたものであろうが、その伝承などは一切ない。ただ数町隔てた丘陵の上に堂の前、堂の上の小字があるので、ここにあったとも伝わる。神社の下方にある大日堂(安楽寺)本尊(藤原中期・像高5尺3寸1分)も他所から遷されたと伝え、これまた前期小字からとも云われる。
★心礎B
現地には破壊されているが、心礎と思われる石がもう1個存在する。
この石が標記「おおよど歴史てくてく散歩」で云う舎利孔のある礎石2基のうちの1基であろう。
現状の大きさ(実測)は、約80×55×60cmで、径40×2.5cmの造出があり、その中央に内径15.5×19cmの円孔を穿つ。
周辺が破壊され元の大きさが不明である。
しかし、心礎とするには円形造出が小さすぎるきらいがある。
この石の破壊は近年のことと思われる。
それは破断面が新しく、また明らかにドリルで穿孔した楔痕が明瞭に見て取れるからである。(推定心礎B6の写真参照。)
◎心礎A、Bが本当に心礎かどうかについては若干の疑問がある。
それは
両者とも出土地および出土状況の記録を欠くため、塔跡から出土した確証がない。
また、この地及び周囲に寺院跡があるあるいは寺院跡が発見されたということがない。
また形状・大きさから見て、特に心礎Bは、心礎とするには無理があると思われる。
心礎Bは心礎と云うより鳥居の柱台石あるいは何かの台座石などの可能性が高いと思われる。
★大岩八大竜王(水分神社)
大岩水分神社神社は明治維新まで八大龍王と称するが、明治の神仏分離の処置で、水分神社と改称する。
神体は六体の八大龍王(女神男神各三体で二体欠ける)で、鎌倉初期の彫刻と云う。
古来、吉野水分神社とともに郡内水分三社とされてきたと云う。
地元民の話では神社にある礎石は大日堂の礎石と伝えられ、何か別の大寺院があったような伝承はないと云う。
確かに、神社の立地は大寺院の建立されるような地形ではなく、僅かに大日堂のある地点に平坦地があるだけである。
もし何等かの寺院伽藍が想定されるなら、現在の神社付近ではなくて、神社周辺部になると思われる。
□大岩日堂遠景:中央が大日堂で背後の丘上が水別神社の鎮座地で
ある。
なお大岩の集落は低い山上に展開するが、周囲はゴルフ場として開発され、現在は日本の底の浅い近代化の典型のような景観を呈する。
地元民の話では、このゴルフ場開発で多くの古墳が調査もそこそこに、保存もされず、破壊されたと云う。
要するに、札束(資本の論理)で、日本の景観を壊しても恥とせず、そこで平気で遊ぶ輩がいるという日本の近代化の景観なのである。
なお、地元民は、出土瓦はカシワラ?歴史博物館?が全部持って帰ったという言い方をするが、これは古瓦ではなく、破壊された古墳の出土品との混同とも思われ
る。しかし、本当に古瓦が出土したのであれば、今神社に心礎を残す古代寺院が陽の目を見ず破壊されたことがあったのかも知れない。
2006年以前作成:2013/05/30更新:ホームページ、日本の塔婆
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