大和吉備池廃寺(百済大寺)・大和高市大寺・大和大官大寺跡(文武朝大官大寺)・大和木之本廃寺

大和吉備池廃寺(百済大寺)・大和高市大寺・大和大官大寺跡(文武朝大官大寺)・大和木之本廃寺

参考文献:
「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」木下正史、角川書店、2005.2
「大安寺の歴史を探る」大安寺歴史講座2、森下恵介、東方出版、2016

大和吉備池廃寺(百済大寺跡)

吉備池廃寺はその規模、創建時期、廃絶時期、遺跡の発掘成果などから、「舒明天皇・百済大寺跡」であるとほぼ確定されたと云って良いだろう。

2008/07/25追加:「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」より:
百済大寺・高市大寺・大官大寺概要
 百済大寺は聖徳太子創建の熊凝精舎の後身と云う(但し史実かどうかは不明)。
舒明天皇百済川のほとりに移し、百済大寺と為す、崩御の後、舒明天皇皇極天皇が造営を推進する。
 天武天皇の時、百済大寺は高市の地に移り「高市大寺」と改号、さらに「大官大寺」と寺名を改め飛鳥三大寺(大官大寺・川原寺・飛鳥寺)の筆頭となる。
藤原京の時代にも文武天皇によって大造営が行われ、引き続き四大寺(上記三大寺に薬師寺を加える)の筆頭の地位を占める。
 平城京遷都とともに藤原京諸大寺は移転し、大官大寺も左京に移転「大安寺」となる。
要するに、東大寺の創建までは、百済大寺→高市大寺→大官大寺→大安寺は国家の筆頭寺院であり続けた。
 ※「日本書紀」「続日本紀」「大安寺資財帳」(左縁起部の要約が「日本三代実録」)などにこの大寺の事蹟が断片的に記録される。
「日本書紀」舒明天皇11年(639)7月:今年、大宮及び大寺を造作らしむ。即ち百済川の側をもって宮処とす。・・・
   同   舒明天皇11年12月:百済川の側に九重の塔を建つ。
「大安寺資財帳」舒明天皇11年2月:百済川ほとりの「子部(こべ)社」を切り開き九重塔を建て百済大寺と号する。しかし社地を切り開いたため、神の怒りをかい、九重塔と金堂石鴟尾を焼失する。
「(諸記録)」:舒明天皇崩御の後、百済大寺の造営は皇極天皇・斉明天皇・天智天皇に引継がれる。種々の事蹟が諸記録に記される。
「続日本紀」「大安寺資財帳」天武天皇・天武2年(673):造高市大寺司任命、
「大安寺資財帳」:百済大寺を百済の地より高市の地に移す。天武6年(677):改高市大寺、号大官大寺。
「続日本紀」「大安寺資材帳」など文武天皇代:九重塔建立、金堂作建、丈六像敬造など大々的に大官大寺の造作が行われると記録される。
 ※「史跡大官大寺跡」の発掘結果、この寺院跡は文武朝の大官大寺と確定された。
 ※天武朝および文武朝の大寺造営記事および「史跡大官大寺跡」の発掘調査結果は何を意味するか、天武朝大官大寺と文武朝大官大寺は別寺ではなかったのか。
即ち天武朝大寺は高市にあり、文武朝では新しく、今「史跡大官大寺跡」として認識されている地に、高市の大寺と並立する形で、大官大寺が造営された可能性が大き いと思われる。実際「大安寺資材帳」では文武朝の資財が大安寺に引継がれず、天武朝を含む以前の資財が引継がれている。つまり「大官大寺跡」の発掘調査でこの寺 は激しい火災で焼け落ちたことが確認されたが、そのため大安寺に文武朝大官大寺の資財は引継がれなかったのでないだろうか。 (別立していた天武朝大官大寺の資財は引継がれた。)
 和銅3年(710)平城京へ遷都、大官大寺も和銅3年に移転(「大安寺縁起」「大安寺碑文」「扶桑略記」「元亨釈書」)
あるいは天平元年(729)遷寺と云う(「続日本紀」など)。
平城京へ遷寺した時期の真偽はよく分からないが、一方では「扶桑略記」「帝王編年記」には和銅4年に大官大寺・藤原京の焼失記事を載せる。※和銅3年の遷寺が偽であるかあるいは真とするならば遷寺の内容の吟味が必要か。

2017/01/19追加:
○大安寺の系譜
熊凝精舎(聖徳太子) → 百済大寺(舒明天皇/吉備池廃寺) → 高市大寺(天武天皇) → 大官大寺(天武天皇→文武天皇/大官大寺跡) → 平城京大安寺
○天皇系譜:
推古33→舒明34→皇極35/斉明37(舒明皇后)→孝徳36→天智38(舒明皇子)→(弘文39)→天武40(舒明皇子)→持統41(天武皇后)→文武42→元明43→元正44→聖武45

2008/07/25追加:「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」より:
吉備池廃寺概要
発掘調査により寺院は南面し、西に塔・東に金堂を配し、周りに回廊を廻らせ、北方に推定僧坊跡などを配置していたことが判明。
中門は金堂の前(中軸線の東寄り)で検出され、左右対象でない伽藍配置が確認された。(2000年冬発掘調査)
 ◆吉備池廃寺復原図:奈良文化財研究所紀要2001、「大和の古代寺院跡をめぐる」より転載
○塔基壇:一辺約32m位と推定される、版築工法で高さ約2.3mを測る。心礎抜き取り穴は6×8mで、基壇の一辺および心礎(4m四方くらいと推定される)は大官大寺 跡、尼寺廃寺、東大寺などの塔の規模に匹敵する規模である。
金堂土壇と同様にその他の礎石及びその痕跡、基壇化粧の手がかりは全くなし。
○金堂跡:規模は東西37m、南北25mで、南に土壇の張り出しがあり、それを含めると南北28m、高さ2m以上と復元される。堀込地業を伴い、版築で築く。現在礎石は勿論その据付痕跡・抜取痕跡もみられない、また基壇化粧も全くその手がかりさえ未発見。
なお金堂・塔跡とも全く災害にあった形跡は見当たらない。
○瓦の分布状況:軒瓦の出土は通常の古代寺院址での出土と比べ、極端に少量であり、かつ大半が小破片である結果であった。
これはこの廃寺は倒壊・火災などで退転したのではなくて、解体・移転し廃寺となったと考える以外にこの現象は説明がつかない。
 以上の発掘結果は次のような結論を導く。
吉備池廃寺(百済大寺)堂塔は7世紀後半に解体され、他の場所に移転された蓋然性が非常に高い。礎石や屋根瓦は移転先(高市大寺)に運ばれて可能性が高いであろう。
○百済の地名:
現在、吉備池廃寺の地には百済の地名は残っていない。しかし古代の記録・詩などを子細に検討すれば、古代では香具山の北方・西北が広く「百済」と呼ばれていた可能性が高いことがわかる。磐余の吉備池廃寺も古代の百済の地であった可能性は高いであろう。
しかしもしそうではなくても、吉備池廃寺の西側を流れる米川は古代の百済を貫流し、「百済川」と呼ばれていた可能性は非常に高いであろう。
 (百済川のほとりに「百済大寺」を造る。)
○子部社:
吉備池廃寺金堂基壇のすぐ東の水田に字「コウベ」と「コヲベ」が残る。(条理の一坪区画の北が「コウベ」、南が「コヲベ」である。)
さらに北側の僧坊跡北の小丘陵が字「高部」であり、現在春日明神が鎮座する。
 (「大安寺資財帳」:百済川ほとりの「子部(こべ)社」を切り開き九重塔を建て「百済大寺」と号する。)
以上も吉備池廃寺が百済大寺であることの証左の一つの材料であろう。

2017/01/19追加:
「大安寺の歴史を探る」大安寺歴史講座2、森下恵介、東方出版、2016 より
熊凝精舎は平端の額安寺(額田寺)であるのか。
額安寺が熊凝精舎と云われるようになるのは、鎌倉期のことである。
確かに平安期初期の「三代実録」や中期の「扶桑略記」には平群郡の熊凝精舎を移したのが百濟大寺という記載はあるが、その熊凝精舎が額田寺である記述は全くない。鎌倉中期の「聖徳太子伝私記」(「古今目録抄」)で、聖徳太子建立46ヶ寺の一つとして「熊凝精舎 平群郡額田部郷額田寺也 今大安寺本寺也」が出てくる。
額田寺は額田氏の氏寺であり、奈良期大安寺造営にあたった道慈は額田氏の出身であった。
こうしたことから、熊凝精舎は平群郡にあり、大安寺道慈は額田氏の出であり、額田寺も平群郡にあり、額田寺と熊凝精舎が結びつけられたのであろう。
なお、額田寺を額安寺と改号したのも道慈と云われる。
額安寺の出土瓦には7世紀のものがあり、創建が古いことは事実であるが、現在の所、額安寺と大安寺・大官大寺と結びつける史料は皆無である。
 →「聖徳太子建立46院

現況:
2004/06/13撮影:
塔跡・金堂跡土壇は元の畑地に戻り、巨大な土壇のみ見ることが出来る。
土壇の大きさと土壇間の距離で超一級の規模の寺院であったことが実感できる。
 吉備池廃寺僧坊跡附近
 吉備池廃寺塔土壇1       同         2       同         3:いづれも西から撮影
 吉備池廃寺跡遠望:北西から撮影、左が金堂跡土壇・右が塔跡土壇
 吉備池廃寺金堂土壇:西から撮影
2017/03/09撮影:
 吉備池廃寺遠望1:南西より撮影、中央左の土壇が塔跡、右が金堂跡
 吉備池廃寺遠望2:西南西より撮影、中央土壇が塔跡、すぐ右が金堂土壇
 吉備池廃寺塔土壇4     吉備池廃寺塔土壇5     吉備池廃寺塔土壇6     吉備池廃寺塔土壇7     吉備池廃寺塔土壇8
 吉備池廃寺金堂土壇2    吉備池廃寺金堂土壇3    吉備池廃寺金堂土壇4    吉備池廃寺金堂土壇5


史跡大官大寺跡(文武朝大官大寺跡)

最近の発掘調査などから、大官大寺は天武朝大官大寺と文武朝大官大寺の2寺が並び立ったとする説が定説となる。
この説に立てば、この史跡大官大寺跡は文武朝大官大寺とされる。

大官大寺(文武朝大官大寺)塔・心礎

心礎は(他の礎石も含め)明治初期まで残っていたが、明治22年の橿原神宮造営で搬出し、 (ほぼ100%)破壊されたものと思われる。

○延宝9年(1681)「和州旧跡幽考」林宗甫:
「大官大寺、俗に講堂と云ふ。思ふに一宇の礎石はありしにかはらず残り、昔の講堂の跡なればにかくはいふならん、その礎石径六尺計柱口四尺五寸、又ほとりに塔の礎あり。心柱などの石よのつねのもの にもあらず、」
○宝暦元年(1751)「飛鳥古跡考」:
「字講堂・・礎四十四。大官大寺の旧跡と申伝ふ。南北九間、東西二十間。・・塔礎、真柱ノ礎一ツ方七間。・・・・・又塔の礎なとよのつねの物にあらす。・・・」
○大和名所圖會 寛政3年(1791)刊:<挿絵はない>
記事:「小山村に礎石あり。・・・またこのほとりに塔の礎あり。心柱などの石、よのつねのものにもあらず。」
文政12年(1829)「卯花日記」津川長道:
「金堂ノアト大石ノ礎46南ニタテラレタリト見エ東西石ヨリ石迄23間南北17間イニシヘノ此寺ノヒロク大ナル事知ベシ」
「塔ノ礎石心柱ノ跡サシワタシ4尺5寸丸クエリタリ」
○「幻の塔を求めて西東」:
 p92-93では
 「飛鳥藤原京発掘調査概報 9」:心礎は二重円孔式、420×300cmで、径120cmの円穴と舎利孔を持つ。
 p128では大官大寺心礎は大和久米寺東塔心礎に次ぐ2番目の大きさとし、長径360cm・短径300cm
   の数字をあげる。
   ※「飛鳥藤原京発掘調査概報 9」は未見、この数字の根拠は良く分からない。

○大官大寺古記録:
  次の図録は「大和上代寺院志」保井芳太郎、大和史学会、1932 より転載

大官大寺・岡本桃里作図
:下図拡大図

大官大寺・本澤清三郎作図
:下図拡大図


○2006/06/10追加:「東大寺七重塔考」より
1987年に発掘された大官大寺の塔跡は方5間の平面を持ち、中央には径5.5mの心礎抜取穴が確認され、6ヶ所の礎石抜取穴が確認された。ところが四天柱礎石抜取穴は確認されてはいないと云う。
 大官大寺塔跡発掘遺構図:1979発掘調査図
 岡本桃里の塔跡図:明治初頭に描いたという 。但し若干不正確な要素もあると思われる。 ※上掲載大官大寺・岡本桃里作図も同一
   方5間の礎石が完存していたと思われるも、四天柱礎は描かれていない。
  ※明治22年橿原神宮造営用材として大官大寺礎石が持ち去られる。
 本澤清三郎の実測図: 明治37年  ※上掲載大官大寺・本澤清三郎作図も同一
   礎石が一部抜かれた様子が描かれているが、四天柱礎は描かれていない。
 (大官大寺は百済大寺の後継、南都大安寺の前身で、「続日本記」「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では九重塔があったと云う。)
以上の記録では、四天柱礎はなかったと思われるが、これは明治以前に四天柱礎のみが総て抜かれたと考えるより、四天柱礎は最初からなかったと考える方が自然であろう と云う。
○2007/01/14追加:「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年より:
幕末から明治初頭に大和の古跡を訪ね写図をものにした岡本桃里の図によれば、当時まだ画然たる土壇上巨大な礎石を整然と存したことが知られる。(上掲岡本桃里の塔跡図)  ※上掲載大官大寺・岡本桃里作図も同一
明治22年橿原神宮造営用途のため掘り取り、搬出、明治42年土地も民有に帰して漸次開墾された。
その礎石壊滅の際、本澤清三郎氏が僅かに残る礎石址を実測。それによると、塔は裳階を有する方5間(唐尺55尺)、講堂は桁行9間(唐尺145尺)梁間4間(唐尺60尺)のものであった。
 大官大寺址本澤氏実測図:塔跡は上掲図と同一 (「廃大官大寺」本澤清三郎<「考古界 四−ニ」明治37年 所収>)
  ○は石を取りたる跡明確なるもの、●はその不明なるもの、丸に石は礎石もしくはその破片の現存するものなり、
  大和名所圖會に礎石径6尺柱口4尺5寸と記せり。今橿原神宮境内に散点するものを見るに円形の柱口を有するものの如し。
   ※この記事によれば、神宮境内には割られた礎石の点在があると思われる。
  塔の跡:・・中心の礎石今も残れり。円形の柱口凹状をなし直径3尺8寸其中心更に凹状をなす
                                          ※上掲載大官大寺・本澤清三郎作図も同一
○2008/05/29追加:大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
この遺跡には地字に講堂・阿弥陀堂・塔ノ井・大安寺・東金焼などを留める。
この塔跡は5間にして、九重塔ありしこと伝えるはおそらく事実であろう。
 大官大寺礎石:近年まで礎石が1個だけ附近の民家に残っていた。その直径は2尺2寸であった。
○2008/07/25追加:
「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」より:
岡本桃里の記録では、小字「講堂」の土壇上には45個の礎石があり、その中央に東西30尺(9m)に及ぶ巨石があり、本尊の台石との見解を示す。土壇は東西90足、22間半(約40m)、南北60足、15間(約27m)。
岡本桃里の塔跡図(上掲載)では、小字「塔ノ井」の土壇上には34個の礎石を描き、心礎は12尺(3,6m)×10尺(3m)の大きさで、上面中央に径4尺(1.2m)の円穴があり、更に円穴中央に舎利孔を穿つ。心礎の四隅の礎石は6尺(1.8m)四方で、その他の礎石は5尺(1.5m)などと記録される。  ※上掲載大官大寺・岡本桃里作図も同一

大官大寺(文武朝大官大寺)の概要
◎2008/07/25追加:「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」より:
昭和49年より10次に渡る発掘調査が実施される。
○字「講堂」から大量の焼土・焼瓦を発掘、焼ける垂木が落下し、地中に深く突き刺さった穴の列も発見される。基壇化粧石は全て抜き取られ、その時期は出土土器から奈良前期と思われる。また基壇の下層から藤原宮期の土器が出土し、この建物は天武朝には溯らないと判明する。
○塔跡では基壇規模は東西36.3m・南北37.3mと確定され、礎石は全て抜き取られていたが、心礎などの抜取り穴および据付穴の若干を検出する。また大量の焼土・焼瓦が出土し、塔も焼失したとされる。なお焼失 した時期は基壇化粧前の段階であった。
 (「扶桑略記」「帝王編年記」和銅4年:大官大寺・藤原京の焼失記事が裏付けられたとされる。)
○その他、中門跡も発見、真の講堂跡も発掘により発見され、字「講堂」建物は金堂であると確定される。
 以上などの結果、この「大官大寺」は文武朝大官大寺(天武朝まで溯らない)であり、その伽藍配置は中門・金堂・講堂が直線上に並び、回廊内の東に塔が配置され、西の塔の対面には堂塔は配置されない配置であった。その規模は 、南北 370m、東西250mであり、群を抜く規模であった。
塔は1辺35m以上の基壇に、1辺15mの塔が建立されていたと復元された。
 ◆大官大寺の伽藍配置

2022/06/28追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
28.大官大寺
大官大寺の名は「日本書紀」天武2年(673)に見える。
しかし、これは「日本書紀」編纂段階での名称であって、「大安寺縁起」では天武6年(677)高市大寺の名を改めて大官大寺とするとある。
大官大寺と呼ばれた寺は二つあった。一つは高市大寺を改称したもの(天武朝大官大寺)ともう一つはその法灯を受け継ぎ、文武の時代に造営された大官大寺(文武朝大官大寺)である。
寺跡は古くから小山の東側にある古跡が寺跡とされてきたが、1976年以降の発掘調査で、この寺跡は文武朝大官大寺の跡と判明する。
 文武朝大官大寺の造営経過には不明な点もあるが、
「大安寺縁起」では文武の時代に九重塔と金堂を建て、丈六仏を造立したと伝える。「芙蓉略記」では塔建立を文武3年(699)のこととする。
和銅3年(710)平城京遷都に際しては、いち早く移転が計画されたようであるが、翌年焼失する。(「芙蓉略記」)
1976年から発掘調査が始まり、7世紀の寺院としては日本最大級の伽藍が姿を現す。
なを発掘調査で伽藍焼失時の状況が明らかになる。
即ち、金堂は完成してが、塔・中門・廻廊は足場が架かったままで、基壇化粧をすることなく焼失する。東回廊は屋根葺の途中で、瓦は未だ乗っていない段階であった。
なお、この文武朝大官大寺は塔が計画当初から1基であったかどうかについては、のちの平城京大安寺と比較しても、おそらく双塔式の伽藍を目指していたものと思われる。
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

◎現況:
田畑の中に塔跡土壇と金堂跡土壇が残る、そこには巨大な史蹟碑2基が建つ。
この尋常ではない巨大な廃寺跡空間に、この寺院の古に占めた存在の大きさを偲ぶことができる。
2002/03/28撮影:
 史跡大和大官大寺跡

2009/09/01追加;
「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 大官大寺塔跡発掘:塔跡中央は心礎抜取穴、写真左手の礎石列は東廻廊跡(北西より撮影)

2017/03/09撮影:奈文研/飛鳥資料館展示
 大官大寺隅木先飾金具     大官大寺出土瓦

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伝大宮大寺心礎とは何か?<不明心礎>
「佛教考古学論攷」に「伝大宮大寺心礎」の写真掲載があるも、「伝大宮大寺心礎」については全く不詳。
 □伝大宮大寺心礎・・・大宮大寺自体も不明
  ※「大和の古代寺院跡をめぐる」網干善教に以下がある。「日本書記」舒明天皇11年(639)、今年、大宮および大寺を造らしむ。
   即ち百済川のとなりを以て宮拠となす。西の民は宮と造り、東の民は寺を造る。・・百済川のほとりに九重の塔を建つ。
   (勿論、これは百濟大寺のことである。)
  ※大宮大寺とは如何なる寺院なのか全く分からない。百済大寺あるいは大官大寺の「別名」なのであろうか?
   写真の伝大宮大寺心礎もどこに存在するのか、果たして今も存在するのか全く分からない。

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高市大寺跡

大和木之本廃寺(仮説としての高市大寺想定地)

吉備池廃寺が発掘され、吉備池廃寺が百済大寺とほぼ断定される以前には、木之本廃寺から出土する瓦の年代観から、当廃寺が百濟大寺であろうとする説が主流になりつつあった。
 (吉備池廃寺が百済大寺とほぼ断定されたことによって、木之本廃寺が百済大寺であることはほぼ否定されたこととなる。)

2008/07/25追加:
○「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」 より
木之本廃寺からは吉備池廃寺と同范の軒丸瓦・軒平瓦が揃って出土する。しかも同范である以上に傷の多寡・大小・製作技法・素材の質・焼成なども全く同一と云う。
木之本廃寺が百済大寺ではありえないとすると、出土瓦が意味することは、吉備池廃寺(百済大寺)から瓦(礎石は木之本廃寺が未発掘のため不明)がこの地に運ばれ、高市廃寺として転用されたのでないか という結論に至る。
つまりは出土瓦の同一・同質性からは、瓦は吉備池廃寺から木之本廃寺に運搬され再利用されたとしなければ、説明がつかない。
(勿論同一窯元から同時供給された可能性も残る。)
但し、現段階では当廃寺の寺院遺構そのものが未発見で、それらの発見によって寺院規模や創建年代等の解明がなされない限り、木之本廃寺=高市廃寺(天武朝大官大寺)説は仮説でしかないのも事実であろう。
○2017/03/09撮影:
現在、寺院の遺構そのものは発見されていないが、吉備池廃寺の創建瓦と同笵の瓦のかなりの量が畝尾都多本神社に近いところから集中して出土する。寺院の中枢部は神社の境内か、その西方または北方に存在する可能性が高いと思われる。
 畝尾都多本ノ社1     畝尾都多本ノ社2
 ※畝尾都多本ノ社とは得体の知れない社であるが、各種のWebサイトには「創祀年代は不詳」、「式内社・畝尾都多本神社に比定されている」、「祭神は古事記に出てくる泣澤売神」、平田篤胤玉襷では「命乞の神なり」といい、また本居宣長古事記伝では「水神なり」という云々とあり、要するに、例えば八幡大菩薩などであった社を近世あるいは明治もしくは幕末の復古神道の跋扈で、「式内社・畝尾都多本神社」に付会したというのが実態ではないだろうか。

2017/01/19追加:
○「大安寺の歴史を探る」大安寺歴史講座2、森下恵介、東方出版、2016 より
天武天皇の高市大寺の位置については、現在3つの説(小山廃寺、木之本廃寺、ギオ山西遺跡)がある。
小山廃寺
キテラという小字名があるため、「紀寺跡」ともいう。紀氏の氏寺との想定をする説もある。
しかし、この廃寺の規模は吉備池廃寺や大官大寺に比べて小さく、とても高市大寺とは考えにくい。しかも出土瓦も吉備池廃寺や大官大寺とは無関係の瓦であり、この点でも高市大寺とは考えにくいのが現状である。
さりとて、この小山廃寺は紀氏の氏寺とする決め手もなく、どのような寺院なのかはよくわからないのが実情である。
 → 喪失心礎>大和紀寺
 → 飛鳥の塔跡>大和紀寺(小山廃寺)
木之本廃寺
吉備池廃寺の瓦が出土するので有力な候補である。しかし未だ寺院に関わるような遺構は出土せず、この点が難点である。
また付近は高市郡ではなく、十市郡に属するのも難点である。
場所は天香久山の北方の畝尾都多本神社境内を中心とした地点である。
 → 飛鳥の塔跡>大和紀寺(小山廃寺)
ギヲ山西遺跡(雷廃寺)
雷丘の北方、大官大寺の西側にギヲ山(ギオン山)と呼ばれる丘があり、その西側に位置する。
この付近から大官大寺の瓦が多く出土する。しかし発掘調査がなされたことがなく、寺院遺構は未発見である。
さらに、本遺跡からは大官大寺の瓦以外に別系統の瓦が出土する。この瓦は南都大安寺からも出土する瓦である。つまり、この瓦は大官大寺を経ずに、高市大寺から直接大安寺に運ばれた瓦ではないだろうか。だとすれば、ギヲ山西遺跡は高市大寺の可能性が高いと考えられる。

2022/06/17追加:追加論文
○→「高市大寺の史的意義」相原嘉之(「奈良大学紀要第49号」2021.1 所収)
論文中の一節:
 木之本廃寺が高市大寺であった可能性は高く、報告書でも示唆していた調査地の郡域についても、先に文献史料の検討を行ったように、高市郡に属するとみて問題はないと考えるので、これまで指摘されていた多くの課題は解消できる。
あとは、寺院遺構が確認されることを期待するだけである。


百濟大寺式伽藍配置(百濟大寺式軒瓦)

吉備池廃寺が百濟大寺であるならば、将来は、現在「法隆寺式伽藍配置」と呼ばれている「伽藍配置」は百濟大寺式伽藍配置と言い換えることになるかも知れない。
同様に、現在「山田寺式軒瓦」と呼ばれている瓦形式は「百濟大寺式軒瓦」と言い換えることになるかも知れない。

2015/04/01追加:
代表的ないわゆる法隆寺式伽藍配置の古代寺院を概括しよう。
 大和法隆寺は現在主流である再建説に従えば、天智天皇9年(670)法隆寺焼失の記述(「日本書紀」)によって、現在の法隆寺式伽藍配置を採って 、その後に再建(7世紀後半)されたものである。
 大和法輪寺の創建時期は諸説あるようであるが、再建法隆寺と同時期の建立とするのが妥当であろう。
 大和安倍寺跡は創建時のものと思われる「山田寺式軒瓦」/単弁蓮華文の軒丸瓦等が出土していることなどから山田寺の創建時代(641-685))とほぼ同時期に建立されたと推定される。但し講堂などが不明確であり、伽藍配置ははっきりしない面もある。
 大和尼寺廃寺は東向きの法隆寺式伽藍配置を採り、塔の瓦の形式や唐尺が使用された可能性から、7世紀後半の建立と推定される。
 摂津伊丹廃寺は白鳳期(8世紀初め)の創建と確認されている。
 和泉海会寺跡は吉備池廃寺式軒丸瓦の伝播が指摘され、吉備池廃寺の影響下、わづかに遅れて造営されたことが分かっている。

 さて、問題なのは、いわゆる法隆寺式伽藍配置を採ると判明した吉備池廃寺である。
もし、吉備池廃寺が百濟大寺であるならば、その創建は舒明天皇11年(639)であり、吉備池廃寺の伽藍配置がいわゆる法隆寺式伽藍配置の最古の例となる。
つまり、法隆寺式伽藍配置とは現在の法隆寺伽藍が嚆矢ではなく、吉備池廃寺がその「初原」であるということなのである。
但し、同じ法隆寺式伽藍といっても吉備池廃寺と安倍寺跡の配置は、塔と金堂の間が極端に開く。このことは留意を要する。
2015/04/01追加:
○「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」木下正史、角川選書、平成17年 より
 法隆寺式(法起寺式)伽藍配置は地方寺院や小規模寺院に多く採用されたこともあり、私寺系あるいは普及型伽藍配置と見て、その歴史的意味を強調するむきもあった。だが、この伽藍配置の古い例は650年頃の斑鳩法輪寺や桜井安倍寺、泉南海会寺などで明らかにされており、香芝尼寺廃寺も最近の発掘で7世紀中葉の法隆寺式伽藍と確定した。
法隆寺式伽藍配置は日本最初の官寺・百濟大寺で初めて創出されたのかも知れない。
 同范軒瓦については、吉備池廃寺→四天王寺の順で作成されたことは分かっていて、それはさらに海会寺に伝わっている。
2015/04/01追加:
○パンフレット「重要文化財海会寺跡出土品」泉南市古代史博物館、平成15年 より
 海会寺金堂で最初に使われた軒丸瓦は「単弁八葉蓮華紋軒丸瓦」(7世紀中葉)であり、これと同じ紋様の瓦は畿内各所で出土している。
近年、大和吉備池廃寺が発掘調査され、この廃寺は最初の国立寺院である百濟大寺跡とほぼ断定されるが、この吉備池廃寺で海会寺と同范の瓦が出土したのである。そして、この瓦は有名な「山田寺式軒瓦」と呼ばれる瓦よりやや古い時期に作られたと分かってきたのである。
この「吉備池廃寺式」とも云うべき軒丸瓦は、まず640年頃吉備池廃寺で使われ、後に同じ(2枚の)范型が摂津四天王寺で使われ、最後に650年頃海会寺跡で(2枚の内の1枚の范型が)使われたことが判明する。
これが何を意味するかは不明であるが、国家最初の大寺や四天王寺と海会寺は強いつながりがあったことは確かであろう。
 ※大和木之本廃寺も同范の瓦を出土するが、これは木之本廃寺が高市廃寺(天武朝大官大寺)であることの証左の一つと考えるべきことなのであろう。、
 ※上記に関連して、次のような大脇氏の指摘がある。
○「畿内の古代寺院」大脇潔(「古代寺院の成立と展開」泉南市教育委員会、1997 所収) より
 法隆寺式伽藍配置は、今まで聖徳太子との関係のみが重視されてきた。しかし吉備池廃寺が百濟大寺であったならば、将来は百濟大寺式伽藍配置と言い換える必要があるかもしれない。
山田寺式軒瓦も、百濟大寺式軒瓦言い換える必要が今後出てくるかもしれない。
このことは、大王家が初めての本格的な寺造りに際して採用した伽藍配置と軒瓦の紋様がその後流行したと理解すれば、理解しやすい。
2017/01/19追加:
○「大安寺の歴史を探る」大安寺歴史講座2、森下恵介、東方出版、2016 より
 吉備池廃寺は回廊内の左に金堂を置き、右に塔を置くいわゆる「法隆寺式伽藍」と呼ばれるものである。
この配置は地方にも多く見られる。山麓に立地することの多かった古代寺院の場合、法隆寺式や法起寺式の方が、縦長の四天王寺式より造りやすいこともあるが、これは古代寺院が法隆寺をモデルにしたのではなく、吉備池廃寺をモデルにした可能性があるだろう。
吉備池廃寺が百濟大寺であるならば、大王が造った寺をモデルに各地の寺院が造られたいったという考えがスムーズであろう。実は法隆寺西院伽藍も百濟大寺をモデルに造られたのではないだろうか。
 現在の所、吉備池廃寺(百濟大寺)がいわゆる「法隆寺式伽藍」を採る一番古い寺院であるから、将来は「法隆寺式伽藍配置」は「百濟大寺式伽藍」と呼ぶようになる可能性が大きいだろう。
 吉備池廃寺と同種の単弁八弁蓮華文の軒丸瓦は「山田寺式軒丸瓦」と呼ばれ、山田寺を7世紀の多くの古代寺院で使われる。吉備池廃寺のものが古いので、吉備池廃寺のものが各地の古代寺院の瓦文様のモデルとなったと考えることが可能で、軒丸瓦についても「吉備池廃寺式」と呼ぶべきかも知れない。


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