★大和尼寺廃寺(尼寺北廃寺)
当地では以前より明確な土壇様の高まり(塔跡)があり、寺院跡と認識されていた。
〇1995年の発掘調査では土壇の上面が取除かれ、塔礎石が出土し、更に地下から、心礎が発掘される。
発見された心礎は日本最大級の心礎とされる。
尼寺廃寺伽藍復元図 尼寺廃寺塔跡平面図
大和尼寺心礎
心礎は3.8×3.8mで厚さは1.2mの最大級の巨大な心礎である。 中央には径78×8/15cmの柱座を穿ち、四方に半月形の添柱の穴が彫られる。
柱座底には5cmの厚さで炭が敷き詰められていた。 炭の上から舎利荘厳具と見られる金製耳環12点・水晶玉4点・ガラス玉3点・刀子1点が散らばって出土した。
(心礎模型と心礎の据付模型及び出土舎利荘厳具などは二上博物館に展示がある。)
2007/05/01追加:「大和の古代寺院跡をめぐる」より
大和尼寺北遺構塔跡 →(2020/07/15追加写真:尼寺廃寺塔跡発掘状況)
2009/09/01追加:
「尼寺廃寺北遺跡(奈良県香芝市)研究の現状と課題」塚口義信(「堺女子短期大学紀要」1998 所収) より
○これまでの発掘成果は以下の通り。
・塔基壇は一辺7.08m、地下1mの処で日本最大級の心礎が発掘された。
・心礎柱座の底に暑さ5〜6cmの炭が敷かれていたが、これは腐食防止と思われる。また柱座から多くの舎利荘厳具が出土した。
・出土瓦の最も古いものは坂田寺式のもので7世紀中葉ころのものと推定される。焼けた瓦が多いことから寺院は焼失したと推定される。
・伽藍配置は東向きの法隆寺式伽藍配置と推定される。(南方面に門跡がない、金堂と思われる堂跡は南北に長いなどが理由とされる。)
現存する古代寺院の心礎の大きさ(平面)の上位3傑と著名な心礎の大きさ
順位 |
寺院名称 |
心礎の大きさ、単位:m |
心礎表面積、単位:平方m |
1 |
大和尼寺廃寺 |
3.8×3.8 |
14.44 |
2 |
大和久米寺 |
3.9×2.9 |
11.31 |
3 |
河内西琳寺 |
3.0×3.0 |
9.00 |
|
大和若草伽藍 |
2.7×2.4 |
6.48 |
|
大和飛鳥寺 |
2.6×2,4 |
6.24 |
|
大和川原寺 |
2.5×1.9 |
4.75 |
|
大和法隆寺 |
1.8×1.8 |
3.24 |
|
大和唐招提寺 |
1.9×1.6 |
3.04 |
|
攝津四天王寺 |
1.5×1.5 |
2.26 |
2020/07/15追加: 〇大和尼寺廃寺心礎 柱座の四方には4本の添柱孔が彫られる。これは法隆寺若草伽藍心礎と類似する。
この廃寺は片岡にあるが、この点からは敏達天皇系の王族が造営したという説が有力であるが、心礎の形態などから聖徳太子とその一族とする説などもある。
心礎は割れているが、それは心礎据付のとき、割れたものと推定される。
尼寺廃寺心礎5 尼寺廃寺心礎柱座
○創建時期・想定される寺院名などの森郁夫などの見解
・心礎上面から金環などが出土した4例(飛鳥寺・中宮寺・定林寺・四天王寺)から推定すると6世紀末・7世紀初頭であろう。
・心礎柱座の形式は若草伽藍心礎と同一で、これも7世紀初頭であろう。
・出土瓦から見れば坂田寺式であり、7世紀中葉となる。
この中で何を重要視するべきか。心礎柱座の形式と荘厳具に着目すれば、法隆寺若草伽藍との類似性から斑鳩地区の工人が関与した可能性が大きいだろう。
「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」では「法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・葛木尼寺」が推古天皇・聖徳太子が関わった寺院とする。この尼寺北廃寺は今まで所在が不明であった葛木尼寺の可能性が高いのではないだろうか。この地はかっては大和国葛下郡(葛城下郡)であった。
○森郁夫などの説に関する反証
下に掲載の『「続日本紀」光仁天皇即位前紀、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」(童謡)が収録され、葛木寺が豊浦寺の西にあったと伝えられる。
』という有力な根拠を否定しなければ、「葛木尼寺説」は成立しないであろう。
(筆者は尼寺北廃寺の建立者は斑鳩の聖徳太子系ではなく、敏達天皇孫の茅淳皇子系ではないかと推論する。)
○寺院名の推論
1)この尼寺北廃寺と約100m南の尼寺南廃寺が一体の寺院であるならば、以下のように推論できる。
下に掲載『般若院にある毘沙門天立像には「華厳山般若院片岡尼寺」という墨書がある』
同じく下に掲載「南都七大寺巡礼私記」大江親通<保延6年1140>では「般若寺別当迎彼寺之塔所敬安置也。件般若寺亦号片岡寺」とある。
般若寺は尼寺であり、片岡寺は従って片岡尼寺ということであり、この南北尼寺は片岡尼寺ということになる。
(正直にいって、この推論は無理があるのではないかとも思われる。)
2)南北の寺院がもし別々の寺院であるならば、殆ど定説化している片岡僧寺=片岡王寺が否定され、北廃寺は片岡僧寺、南廃寺が片岡尼寺ということになるのであろう。
2022/06/23追加:
2000年に小笠原好彦によって、論文「同笵・同形式軒瓦からみた尼寺廃寺の性格と造営氏族―紀氏の造営寺院」にて、本廃寺は紀氏の氏寺との見解が示されている。(下に抄録を掲載)
ただ、「この廃寺を紀氏の氏寺に想定すると、飛鳥に所在する紀寺を新たに検討すべき課題が生まれることになる」というように、飛鳥の紀寺跡(小山廃寺)の性格が何かと問われることになる。
このことに関して、小笠原好彦は、2004年の論文「大和紀寺(小山廃寺)の性格と造営氏族」の「2.紀寺の性格と諸説」にて、尼寺廃寺は紀氏の氏寺ではないかと提起している。
↓
○「同笵・同形式軒瓦からみた尼寺廃寺の性格と造営氏族―紀氏の造営寺院」小笠原好彦(「日本考古学 7巻第10号」日本考古学協会、2000 所収) より
抄録
尼寺廃寺は大和の北西部に所在する古代寺院である。この廃寺は片岡尼寺とも呼ばれ、早くから現在の般若院付近とその北の白山姫神社の東方にある塔基壇付近とが対象にされ、いずれも同一の軒瓦が採集される寺院として知られている。
これまで尼寺廃寺は般若寺に想定する考えがだされてきたが、近年は2つの地区の調査が行われ、北地区で塔跡が発掘され、ここから心柱と添柱の柱座を穿った巨大な心礎と舎利荘厳具が出土した。
そこで、あらためてこの寺院の存在が注目されるところとなり、新たに葛城尼寺を想定する考えや調査関係者によって、飛鳥の坂田寺に葺かれた坂田寺式軒丸瓦と同笵の軒瓦が葺かれたことを重視し、敏達天皇の後裔王族によって建立されたとする考えがだされている。
しかし、この廃寺が敏達天皇の後裔王族によって造営されたとすると、その後、この寺院に川原寺式軒瓦が葺かれてほぼ完成をみることになった造営経過との関連がほとんど知りえないことになる。
また、造営者の具体的な活動もよく知りえないなどの難点が残ることになる。
尼寺廃寺の造営氏族を検討するには、北地区と南地区との関連が十分に明らかでないという制約があるが、創建時に葺かれた坂田寺式軒丸瓦の同笵瓦に加えて同形式軒丸瓦の分布も踏まえて検討すると、この同形式軒瓦が紀ノ川流域で造営された西国分廃寺、最上廃寺、北山廃寺など初期寺院に集中して葺かれていることが注目される。
そして、これらの紀ノ川流域の3寺院の造営氏族と尼寺廃寺の造営氏族との間に同族関係があった可能性がきわめて高い。
そこで、そのような関連を認めうるとすると、尼寺廃寺は紀ノ川流域に氏寺を建立した氏族との関係からみて、大和に本拠地をもっ紀氏を想定しうる可能性が高い。
尼寺廃寺の周辺には三里古墳のように、紀ノ川流域の横穴式石室に顕著にみる石棚をもつ後期古墳が知られ、式内社の平群坐紀氏神社が鎮座する。
さらに紀氏系図に記された平群氏と紀氏との関係などからみると、ここに6世紀以降に紀氏一族が本拠地として居住していたことと深く関連する氏寺であったと推測される。
また、この廃寺を紀氏の氏寺に想定すると、飛鳥に所在する紀寺を新たに検討すべき課題が生まれることになるのである。 →大和紀寺(小山廃寺)>「大和紀寺(小山廃寺)の性格と造営氏族」小笠原好彦>「2.紀寺の性格と諸説」に
大和尼寺廃寺に関する記述がある。
〇2005/10/25追加:「X」氏ご提供画像
大和尼寺心礎発掘現場
大和尼寺心礎1 大和尼寺心礎2 大和尼寺心礎3 大和尼寺舎利荘厳具
基壇上には心礎をはじめ計13個が残存、四天柱礎は4個とも1.3〜1.8mの大きさを測る。 側柱礎は8個が残り(4個亡失)最大で2.3×1.7m、最小で1.5×1.0m
を測る。 柱間は等間でいずれも2.36m(唐尺8尺)と計測された。一辺は7.08m。
塔の北側からは、南北約16m、東西10mを測る金堂跡と見られる基壇が確認される。
塔基壇は版築で築かれ、現状は礎石を含め、土壇として保存される。
但し地下の心礎は埋め戻され見ることは出来ない。
〇1998年の北遺跡(尼寺北廃寺)発掘調査で、金堂と塔を長方形に囲む北西角回廊と東面回廊を検出し、寺院規模を南北約70.8m、東西約44.25mと確定した。
前回調査では上図のように、極めて異例の東向きの法隆寺式伽藍配置(現在の法隆寺より一回り規模が小)と判明。
出土瓦などから7世紀中ごろに着工し、その後奈良期後半まで存在し、その後消滅したと推定される。
2004/06/13撮影:
大和尼寺塔基壇1 大和尼寺塔基壇2 大和尼寺塔基壇3 大和尼寺塔基壇4
大和尼寺塔礎石1 大和尼寺塔礎石2 大和尼寺塔礎石3 大和尼寺塔礎石4 大和尼寺塔礎石5
大和尼寺復元伽藍
2020/07/28撮影: 大和尼寺廃寺伽藍配置:香芝市教育委員会ルーフレット より
東向の伽藍で、北に金堂、南に塔を配し、回廊が堂塔を囲む。 さらにその周囲を築地が巡り、西側はすぐ際に丘陵が迫る。講堂や僧坊やその他の付属施設を建立する余地がなく、現存する日本最大級の心礎を持つ寺院であるのも関わらず、なんとも簡素な寺院である。そういった意味では、現在判明している遺構だけでは、釈然としない寺院跡である。
本廃寺は行政により、奇麗に復元整備され、学習館までも付設される。
北方の大和中宮寺跡や山城高麗寺跡(現時点で工事中)も近年復元整備された。教科書的な教材として活用するなら、これで良いのかもしれないが、遺跡の持つ廃跡の雰囲気は全く失われてしまっている。整備されない剥き出しの遺跡あるいは廃墟である遺跡が訴える人々の想像力を刺激するような遺跡力は全く失われてしまったのではないだろうか。
勿論、この尼寺廃寺・大和中宮寺跡・山城高麗寺跡だけではなく、全国の国分寺を初めとする各地の復元整備も同じことと思われる。
復元整備により、もともと破壊されて現在に伝えられた遺跡がさらに破壊されて後世に伝えられるような気がしてならない。
尼寺廃寺復元土壇:向かって左が塔復元土壇、左は金堂復元土壇、左端上に香塔寺が写る。
尼寺廃寺復元塔土壇11 尼寺廃寺復元塔土壇12 尼寺廃寺復元塔土壇13 尼寺廃寺復元塔土壇14
尼寺廃寺復元塔土壇15 尼寺廃寺復元塔土壇16 尼寺廃寺復元塔土壇17 尼寺廃寺復元塔土壇18
尼寺廃寺復元塔土壇19 尼寺廃寺復元塔土壇20 尼寺廃寺復元塔土壇21 尼寺廃寺復元塔土壇22
尼寺廃寺復元塔土壇23
学習館・心礎模型1 学習館・心礎模型2
原寸大(と思われる)の心礎模型が学習館の床下に展示される。しかし、強化ガラス(と思われる)で覆っている為、天井や周囲の窓などが写り込み非常に観察しずらい。学習館に置いて、学習意欲を削ぐ試みなのであろうか。ガラスなど不要である。
尼寺廃寺復元金堂土壇1 尼寺廃寺復元金堂土壇2
尼寺廃寺回廊発掘調査 尼寺廃寺復元回廊・西部 尼寺廃寺復元回廊・北西部
★大和尼寺南遺跡(般若寺)
2004/5/2追加:
2004年南遺跡(現般若院境内・尼寺南廃寺)を発掘調査。 2つの基壇を発掘・・東側基壇は南北約14m(東西不明・12mのみ確認)、西側基壇は約12mの正方形と推定される。 また東西基壇の間隔は約6m。出土瓦から7世紀中葉から建築が始まったと推定される。伽藍は南向き。西側基壇は塔跡と推定される。 なお遺跡は既に埋め戻されている
。
また、以下の諸説あるいは事象がある。
約2町北の北遺跡・尼寺北廃寺(東向き)とは僧寺・尼寺の関係と考えられる。
敏達天皇の一族(茅渟王)が造営した般若寺(片岡寺)の可能性がある。
寺院名は般若寺と推定される。
※飛鳥池遺跡(7世紀後半)の溝からの出土木簡に「波若寺」の名があり、かつ寺院址に立つ寺院は現在も般若院の寺名である。
「七大寺巡礼私記」(平安期)には「片岡(同遺跡周辺の地名)の地に般若寺があり、片岡寺ともいう」とある。
以上の推測から、尼寺廃寺は葛木寺とする推定もある。
文献上、葛木寺は、葛城尼寺、妙安寺、般若寺、片岡寺、片岡尼寺と寺号を変えながら存続したと推定される。
(但し
、現段階では和田廃寺が葛木寺であると云う説が有力である。・・・<注>)
また、般若院にある毘沙門天立像には「華厳山般若院片岡尼寺」という墨書があるのは以上の傍証であろう。
<注>葛木寺<葛城寺>は飛鳥和田廃寺、大和尼寺廃寺(南)、御所朝妻廃寺の3ヶ所がその候補地とされる。
和田廃寺を葛木尼寺とする説の根拠は以下の通りで有力と思われる。
「続日本紀」光仁天皇即位前紀、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」(童謡)が収録され、葛木寺が豊浦寺の西にあったと伝えられる。
「興福寺大和国雑役免坪付帳」(延久2年)には、和田廃寺の寺域が11世紀後半まで葛木寺の田であったと記す。
塔跡基壇(西側基壇)の南西隅から凝灰岩の地覆石が検出され、さらに北面で基壇の跡が見つかったことで、一辺約12mの遺構と確認される。それ故この基壇は塔跡と推定される。なお現在この西側基壇上には本堂が建
つ。
以前から般若院境内及び東の薬師堂周辺にいくつかの礎石が残り、また多くの瓦が採取され、寺院跡と推定されていた。
また本堂下に土壇が残り、これが版築であると判断されてもいた。
般若院関係者談:
2004年2月に現本堂南側境内(本堂の向かって左)と西側境内(本堂裏の狭い境内地・ここは塔跡の想定地)、および現毘沙門堂東と東北
(ここは金堂の北辺の想定地)を深くを発掘したという。
また2003年2月は門と本堂間南を発掘・・・ここは金堂の中央と想定される・・・したという。
現在の般若院境内自体が小規模であり、現境内地は、ほぼ金堂跡土壇と塔跡土壇が占める。
現本堂は塔跡の北半分に乗り、本堂前の境内地がほぼ金堂跡と思われる。一方現毘沙門堂は金堂跡ほぼ中央に位置していると思われる。
周辺は道路・民家・庫裏で
現状ではこれ以上の発掘は困難とされる。
2005/10/25追加:
「尼寺廃寺南遺跡の発掘調査」初芝市二上山博物館 平成16年度企画展(「X」氏ご提供)
尼寺廃寺南遺跡(般若寺)
2004/06/13撮影: 現在、般若院は融通念仏宗、住職は下田の寺院が代務しているといい、通常は留守役が守る。
檀家数が極端に少なく、また建物が古く維持管理には大変な苦労があると留守役は云う。 大和般若寺現況(本堂) 般若寺本堂床下 般若寺本堂床下 般若寺推定礎石
2020/07/28撮影: 尼寺南遺跡般若院本堂
尼寺南遺跡推定塔土壇11 尼寺南遺跡推定塔土壇12 尼寺南遺跡推定塔土壇13
尼寺南遺跡推定塔土壇14 尼寺南遺跡推定塔土壇15 尼寺南遺跡推定礎石
般若院・薬師堂附近見取図:香芝市舞ぞ王文化財発掘調査概報16 より
★大和香塔寺石造露盤:(推定尼寺廃寺石造露盤)
香塔寺は尼寺北廃寺(北遺跡)の西にある。
尼寺廃寺のものと思われる露盤及び礎石が境内墓地で石碑に転用されていると云う。
「南無阿弥陀仏」刻まれた石碑が礎石の転用で露盤はその台石になっている。
露盤(花崗岩製)は一辺約1,2m・厚さ約30cmで、中央には径約60cmの穴が貫通していると思われるも、台石のため確認不可と云う。
推定礎石は1.5×1.2×0.5mで径90cmの円形柱座がある。
これに関連して、尼寺(北廃寺)塔跡では4個の礎石が亡失しているが、この礎石の材質は尼寺塔跡礎石と同一という。
なお香塔寺は天保11年(1840)に再興されたといわれ、この頃、北廃寺塔礎石が持ち込まれたと推定される。
現状、香塔寺に案内を請うも「当寺は見学を受け付けてはいない」との返答で、門前払いを喰らう。
周囲の様子を窺うも、門以外から境内地に入ることは困難と思われる。
以上のような事情で、露盤及び礎石は実見不可。 2020/07/28撮影: 香塔寺遠望:今回も住職により、観光寺院ではないので云々の理由で、怒った口調で、石造露盤見学の申出は「門前払い」を喰う。
2006年以前作成:2022/06/23更新:ホームページ、日本の塔婆
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