大  和  中  川  寺  多  宝  塔

大和中川寺多宝塔

諸記録に見る中川寺

※現状では以下の情報が知られるも、多宝塔に関する詳細は殆ど無く、不詳のままである。

◇「大和名所記 和州旧跡幽考 第四巻」延宝9年(1681):
「中川寺 奈良の東
中川寺成身院の開基、実範大徳は藤氏諌議太夫顕實の第四の子なり
はじめ忍辱山に居給いし時、花をもとめ給いなんとて中川山に入り給いしが、その地只
ならず見えし程に官に申しこいて伽藍をたて成身院と名づけられしとなり(釈書)。」

◇「大和名所圖會」寛政3年(1791) より
・・・成身院と号す。本尊は愛染明王又地藏の石像を安置す。ニ層塔あり。開基は沙門實範にして・・・

◇吉田東伍「増補 大日本地名辞書」明治33〜40年:
  中川寺《ナカノガハデラ》址
 般若寺の東二十町、中之川村に在り、中之川は今東里《ヒガシサト》村に属す、相楽郡小田原浄瑠璃寺と国界を隔て相去る十町に過 ぎず、或書に此寺長寛二年款識の古鐘を載す。僧実範初め興福寺に居り相宗を学ぶ、唐招提寺に至り鑑真和尚影堂に就き戒本を得て遂に律を唱ふ、嘗忍辱山に在り採花に因て中川に至り境地の奇勝を見官に奏して伽藍を建て成身院と曰ふ是なり、戒法復世に興る云々。〔元亨釈書東国高僧伝〕
補【中川寺】添上郡○人名辞書 実範は高僧なり、参議藤原顕実の第四子にして、俗を出で興福寺に投じて相宗を学ぶ、一夕夢に招提寺より銅筧を以て清水を中川に通ず、夢覚て以て好相とす、明暁招提寺に赴く、招提は唐の鑑真律師の弘戒の場なり、殿宇荒廃、緇徒寥落、一禿丁田間に耕す、範問ふに真公の影堂を以てす、禿丁日く、我れ已に比丘に非ずと雖も、嘗て四分の戒本を聴きたり、範大に喜び、遂に影堂に就き、乞ひて戒伝を得、尋で中川寺に帰りて律堂を開く、有志の緇侶翕然として来帰す、是より戒法復た世に興る、初め範忍辱山に在る時、花を採るに因て中川寺に至り、境内の奇勝を見、乃ち官に奏して伽藍を建つ、号して成身院と曰ふ、後に光明山に移りて終ふ、嘗て大経要義七巻を述ぶ、貞慶法師甚だ之を称す(元亨釈書東国高僧伝)○般若寺の東二十町に在りて、今廃址となる。

2013/06/24追加:
◇「大和志料 上巻」奈良県教育会、大正3年:
成身院
 一に中川寺と称す、東里村大字中川に在り、故に名つく、愛染明王を本尊となす、
  忍辱山の僧實範(藤原顯實の子)供花を覔めんとして中川山に入り、・・・精舎を建立して、成身院と名つくと、事元亨釈書に見ゆ、
  爾後沿革詳らかならす、「東大寺雑集録」に、
   一中川寺成身院本寺也(法相真言天台)
    弥勒院、清浄院、地蔵院、瓦坊、東北院、仏眼院、十輪院、薬師院、三蔵坊
    西念寺(大念仏宗)
   一薬師十二神在之、薬師は木津鹿背山西念寺に在之、由薬師仏足裏に中川山と書付在之、由村老申伝云
   ・・・
   一三石余(地方) 成身院 ・・・
    鐘銘
   成身院鐘大治四年・・・・

2013/09/30追加:
◇「当尾と柳生の寺々:浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」黒田f義、関西急行鉄道、1943(昭和18年) より
 中川寺の寺史として、各々「和州舊蹟幽考」、「元亨釈書」(寓話の意訳もある)、「根本成身院書上写」、「大和志」からの引用があるが、既知の情報のため割愛する。
以下の記述は直下に掲載の2013/09/30追加:「中ノ川に在住する某氏」情報と符号する部分がある。
 「明治維新の「旧物破壊の犠牲」となり、多くのものが滅失するが、「土地の古老の言によれば、寺址には50年ほど前までは猶残礎もあり、十三重石塔等も存したといふ。」
 「五輪塔:・・・刻銘はどの部分にも見られない。・・・しかしこの塔は一般に開山實範上人の廟塔と著聞し毎年實範の寂日たる9月10日に興福寺から供養を続けている。彼は天養元年・・・山城棚倉山の光明寺で聖衆来迎のうちに示寂した。・・・・
 大正13年の9月この塔は末法の徒輩によって奈良まで搬出せられ、危うく転売の厄に遭はうとしたが、その際この塔の搬出に従った土地の古老の話では、基壇中に納骨があったといふから、果たして實範の廟塔であったとすれば、後の移葬を考へなければならぬ。」
  2013/09/30追加:「中ノ川に在住する某氏」情報
    「廟塔(五輪塔)は一時期人の手によって売られそうになり、ごっそり持ち出されそうになったことがあったと云う。
    今ある場所が本来置かれていた場所ではない可能性があるとも云う。
    売られなくて済んだのは、中にお骨が入っていたからと書籍で読んだことがある。(書籍名は「東里村史」と記憶)
流転せる遺物:銅鐘と多聞天像も既知の情報のため割愛する。
遺物のうち、「大般若経」は以下のように述べられる。
「大般若経:
 大和吉野郡天川村天河神社(天川弁才天社)所蔵、今65巻を存する。各巻毎に書写識語が加えられ、それによれば、本経は建久9年に起筆し元久2年に終筆したものである。鎌倉末頃生駒郡生駒村伊古麻都比古神社の持経となり、南北朝期中頃から室町初期にいたるまで、中川寺にあり、後河内神感寺(所在未詳)に移ったことが知られる。
厳密には中川寺の遺物とは言い難いが、かって当寺の存したものとして取上げる。」
  ※河内神感寺は所在未詳とあるが、昭和18年当時では無理もないことで、寺跡が調査された現在では「河内神感寺」 と即断できる。
 2015/01/29追加:
 「河内神感寺跡の調査」佐藤虎雄、昭和39年(1961) より
 天川神社には巻数の分かるもの65巻、不明のもの3巻の大般若経断章が伝えられる。
 この巻の大部には奥書があり、元は大和平群郡生馬寺の持経であったと知れる。その内の392巻裏面には「河内神感寺」の墨書がある。
 生馬寺と神感寺は生駒山を挟んで東西に位置し、何等かの繋がりがあったのかも知れない。
 なお、生馬寺は往馬坐伊古麻都比古神社の神宮寺であったと考えられるが、詳細は分からない。

2013/06/24追加:
◇「大和中川寺の構成と実範」堀池春峰<仏教史学 6(4)、1957-10(昭和31年)及び 仏教史学 7(1)、 1958-02(昭和33年) 所収> より
 ・廃寺跡は現在、民家・田畑・藪・雑木林と化し、ただ字東福院と伝える院址の畔畔の狭地に實範の石塔と伝える鎌倉末期頃と推定される五輪石塔一基が残存し、その右側に自然石に刳出を有する平安末期か鎌倉初期と思われる礎石1個が地上に露出している。
草創期の中川寺を偲ぶものはこの礎石1個と云っても過言ではない。
 中川寺跡礎石実測図:現地に残存し露出と云うも、未見。(不注意なのであろうか、見かけず。)
  2013/09/30追加:「中ノ川に在住する某氏」情報
   「実範上人廟塔の右側に存在する礎石について、3,4年前に落ち葉の清掃をしたときにそれらしきものを見ることが出来た。
   ちょうど、中川寺跡礎石実測図にある3つの図のうち、右下のものに形が似ていたが、当方の記憶では実測図より多少沈下している
   ように見えた。」
    ※この実測図は1個の礎石を平面及び2側面を描いたもjのと思われ、3個の礎石の実測ではないと思われる。
    ※この礎石はまだ現地に埋没してあると思われる。(良く探せば発見できると思われる。)
   2013/12/12撮影:
    ○中川寺跡礎石か:廟所付近を探すも、左写真以外の礎石らしき遺物は見当たらない。
    若干上記の実測図とは違うような気もするが、あるいはこの写真の石が礎石実測で云う礎石かも知れない。
   2017/02/19撮影:
    中川寺跡礎石?2     中川寺跡礎石?3
    実測すれば、長径約89cm短径約50cmを測る。しかし「中川寺跡礎石実測図」に示される形状とは齟齬があり、
    また短径の長さなど合致しないなどのことがあり、礎石かどうか不明である。
その他、小宇内に永正14年((1517)銘の地蔵石仏(下に写真掲載)があり、字地蔵院・東福院の東の畔畔には往古の子院の溝渠が南北に走る。
 ・中川成身院の創建とその内部構造
創建については明らかにしないが、断片的に残る緒史料から、おそらく天永3年(1112)に建立に着手し、永久2年(1114)頃に完成したものと推定される。またその内部の荘厳については、「覚鑁聖人傳」「真俗雑記問答抄」などでその片鱗を窺うことができる。また緒史料から経蔵の存在が強く示唆される。
 ・中川寺の諸院
上述のように「東大寺雑集録」では、
  一中川寺成身院本寺也(法相真言天台)
    弥勒院、清浄院、地蔵院、瓦坊、東北院、仏眼院、十輪院、薬師院、三蔵坊
とあり、瓦坊は造瓦所、三蔵院は経蔵とも考えられるが、それを除外しても、室町末期には8院で構成されていたようである。
もとより諸院の創建・沿革などは明らかでは無いが、その位置はおよそ明治22年の「中ノ川村実測図」(中ノ川町々有)で知ることが出来る。
成身院を除く緒院の沿革は以下の通りである。
・十輪院:橋本節哉氏蔵(現東博蔵)毘沙門天立像<重文>には、「応保2年(1162)中川寺境内十輪院法印觀門代」の墨書があり、創建と認められる。以降応永7年(1400)の中川寺十輪院舜宗房水田沽却状(東大寺文書)まで存続が確認できる。
・無量寿院:真福寺蔵本「法相名目」奥書に文治2年(1186)から建久6年(1195)まで中川無量壽院朝西が書写と記す。無量寿院は永仁2年(1294)まで認知し得る。
・舎利堂:真福寺蔵「唯識義六巻私記第二」の跋に「中川寺舎利堂西房」の名を見出すことが出来る。
・地蔵院:東大寺図書館蔵「弥勒如来感應指示抄」などで建長3年(1195)、文応元年(1195)頃に地蔵院の存在を認め得る。また真福寺蔵「十住心論聞書」の跋によって康永2・3(1343・4)年までその存在を知ることができる。
・發心院:真福寺蔵「五重結護顕秘抄」の帖末に文永8年(1271)に存在が確認され、乾元元年(1302)存覺は中川寺に入寺し翌年發心院講問に列する。
・東北院:乾元元年(1302)中川寺東北院に宿す云々の「存覺上人一期記」がある。
残りの院については、その名を伝えるのみで詳細は不詳である。
 ・中川寺の遺物
上述の明治年中に橋本関雪氏に属した「毘沙門天立像」
及び
同じく上述のように「東大寺雑集録」に云う
  「西念寺(大念仏宗)
  一薬師十二神在之、薬師は木津鹿背山西念寺に在之、由薬師仏足裏に中川山と書付在之、由村老申伝云」
があり、西念寺に現存する。
 ・中川寺は中世には隆盛であったと推定されるが、戦国期には衰微し、「大和志」の記載のように、江戸初期には成身院一院とニ層塔、鐘楼などを具備するだけに衰微したものと思われる。

◇「日本塔総鑑」昭和53年:
「中川寺多宝塔(京都府加茂町)浄瑠璃寺の南西にあった。今廃寺。明治維新まで本堂と多宝塔があったと云う。」
  ※但し、中川寺の所在は山城国相楽郡(加茂町)ではなく、大和国中川村(現奈良市)である。

2013/11/11追加:
◇「東里村史」東里村史編集委員会、1957.8(昭和50年) より
中川寺の寺址は大字中ノ川、小字薬師、東福(北)、地蔵院、清浄院、弥勒院等の地域であり、当時の院名をそのままに毘している。
 (「東大寺雑事録」の引用がある。)
寺の創建については「和州旧跡幽考」を引用する。その「和州旧跡幽考」も「元亨釈書」に寄ったものである。
 (さらに實範の律再興に関する「元亨釈書」の「半生記」を紹介する。)
近世の様相については「春日大社文書第弐」に収むる「根本成身院書上案」を紹介する。
 (端裏書)
  「寛永9年11月23日 根本成身院」
 和州添上郡 / 中之川寺 根本成身院 / 興福寺之末寺
   知行は一円無御座候 / 本堂並塔 鐘ろ 鎮守 / 一条院様御持
    寛永9年霜月23日 弥勒院判 観音院判
      興福寺
さらに 「大和志」享保11年 のこの寺の条を紹介する。
今は・・・この寺の結構を幻にすら描きがたい状態であるが、古老の言によれば、寺址には数十年前までは尚残礎もあり十三重石塔等も存したと云う。
五輪塔:総高約1丈、・・各部完存・・鎌倉末期の造立と見て大過ないであろう。
この塔は一般に開山實範上人の廟塔として著聞し毎年実範の寂日に興福寺から供養を続けている。・・・實範は天養元年9月10日山城棚倉呼光明寺で寂する。中川寺に廟が営まれたことは文献を見ない。
大正13年9月、この塔は末法の徒輩によって奈良まで搬出搬出され、危うく転売の厄に遭おうとしたが、この際この塔の搬出に従った古老の話では、其壇中に納骨があったと云うから、果たして實範の廟塔であったとすれば、後の移葬も考えねばならぬ。

2007/01/03追加
◇「奈良市史 社寺編」昭和60年(1985)
遺構は何も残っていないが、東福、薬師、地蔵院、清浄院、弥勒院などの小字と石造大五輪塔を残す。
開基は藤原顕実の子、実範で、はじめ忍辱山にいたが、中之川に移る。晩年は山城棚倉山光明寺に住し、その地で寂す。
「大乗院寺社雑事記」:文明13年、・・・今暁中川寺発向、本堂計相残悉以焼払之、・・・」
寛永9年(1632)根本成身院書上案 及び 享保21年(1736)「大和志」の記事は「奈良県史6・寺院」と同一。
その後、中川寺は次第に衰微し、明治維新の頃には殆ど破壊されてしまった。
成身院梵鐘(重文):銘文「成身院鐘大治四季 四月七日鋳造匠多 治比頼友等也・・・・ 既経三六季破損仍
                長寛2年七月・・・尊智上人鋳直之」とある。
 神戸生田区中山手通8丁目徳照寺に現存、総高130cm、口径75cm。
木造毘沙門天立像(重文):川端紀美子氏所蔵(以前は京都橋本関一氏旧蔵)、この像は長く多聞天とされてきたが、近年毘沙門天と改められる。納入印仏の墨書では中川寺十輪院持仏堂旧仏で、応保2年の供養という。
「東大寺雑集録」:中川寺塔頭として「弥勒院、地蔵院、瓦坊、東北院、仏眼院、十輪院、薬師院、三蔵坊」があるという。

◇「奈良県史6・寺院」平成3年(1991):
「初範在忍辱山、採花至、中川山見、地勝形申官建、伽藍名曰成身院」(元亨釈書)とあり、平安末から鎌倉期にかけては中川寺成身院として栄えた。中世以降は興福寺一乗院末であった。
文明13年(1481)「山内の不和から本堂を残し一山悉く焼失」(大乗院寺社雑事記)
寛永9年(1632)根本成身院書上写「興福寺の末寺、知行は一円無御座候、本堂并塔・鐘ろ・鎮守、一乗院様御持」とある。
 ※中川寺成身院書上写は「春日大社文書 巻5」に文章「1071」として所収。弥勒院及び観音院の在判。
「大和志」「中川寺 一名成身院、沙門実範創立、正堂安置愛染明王像、有二層塔又有地蔵石像、勒曰永正14年刻」とある。
塔もしくは二層塔とは多宝塔と思われる。
部落内の辻堂に永正14年(1517)銘の地蔵石像が現存、寺跡には開山実範上人廟塔と伝える鎌倉期の五輪塔がある。
五輪塔は花崗岩製で高さ約2m、壇上積基壇上にある。

◇声明「進流」:
実範大徳は大和興福寺・比叡山・醍醐などで修行した学僧で、多くの弟子を育成。その中の宗観(大進上人)は声明に優れ、その声明は弟子・観験上人に引継がれる。
久安年中、御室仁和寺金剛乗院覚性法親王により声明が三流に校合される。(のちには四流となる)
※四流とは本相応院流(覚性法親王)、新相応院流(能覚法印)、醍醐流(定遍権僧正・山城醍醐寺)、進流(観験上人・大和中川寺)を云う。
※進流とは観験上人が、宗観の声明を先師の別名・大進上人に因み「大進上人流」(進流)と呼ぶ。

◇一般情報
○毘沙門天立像(東京国立博物館蔵):
平成15年、川端龍子氏所蔵、自宅内念持堂安置の四体(十一面観音立像、帝釈天立像、不動明王立像)が、川端家から東博(毘沙門天像)、東京都大田区に寄贈される。
その内の毘沙門天立像<重文、応保2年(1162)>には墨書があり、中川寺十輪院持仏堂安置仏と記すと云う。
2012/03/08追加:
○山城鹿背山西念寺(西山浄土宗)蔵木造薬師如来坐像(京都府文)
平安後期作、全高99.5cm。
中川成身院旧蔵と伝承する。
西念寺は百済僧の開山、行基が堂塔を整備、浄勝寺と号す。その後遍照僧正が鹿山寺と改号、元禄
6年(1693)医王院西念寺と再改号する。

大和中川寺成身院跡現況

2012/03/08追加:無印は2012/02/26撮影:○印は2013/12/12撮影
 中川寺跡は大和中ノ川にあるも、中ノ川の集落の中で遺構がどのような展開をしていたのかは、小字の位置も分からず、殆ど理解することができない。
そんな中で、唯一明確に残る遺構は実範上人廟塔と伝承される五輪塔である。
 現地を訪れると、山間の集落中に伝実範上人廟塔・伝中川成身院跡、中ノ川墓地、中ノ川三神社、中ノ川共同墓地、中世の地藏石仏などが点在する。しかし、案内人なしにはこれ等の遺物を廻るには所在場所が分かり難く、容易ではない。
 ※中ノ川墓地については、バス停下中ノ川脇にあり、多くの石仏(中世の年紀も含まれる)があるとのWeb情報があるが、
  所在場所不明で未見。
   ◎2013/09/30追加:「中の川に姻戚を有する某氏」情報
    中ノ川墓地は「下中の川のバス停から柳生方向に200m程進むと、左手に戻って下る道があり、すぐにY路に分かれていますが、
    そのY路を左に進んだ辺りすぐにある。」
    直下に掲載の◆中ノ川略図中の最下段の向かって右の部分が、上記の説明に合致するので、中ノ川墓地の存在は明らかとなる。
 ※上記に列記した遺物遺構のうち、中ノ川墓地以下の遺物遺構が中川寺と関係するのかどうかは不明。
◎中ノ川墓地:2013/12/12撮影
 ○中ノ川墓地全容     ○中ノ川墓地地蔵尊     ○中ノ川墓地宝筐印塔     ○中ノ川墓地供養碑

 ◆中ノ川略図:中ノ川の遺物・遺構の 所在場所の概要を示す。

◎伝実範上人廟塔(五輪塔)

 伝実範上人廟塔1:向かって右にも平坦地が広がるようであるが、確認不可。
 伝実範上人廟塔2:左図拡大図 、
写真奥は谷筋で、その右岸には平坦地らしきものが残る。
 伝実範上人廟塔3
 伝実範上人廟塔4
 伝実範上人廟塔5
※五輪塔は無銘ながら鎌倉後期の造立と考えられる。
 (鎌倉後期とすれば、実範の活躍期の平安後期とは時代が合わない。)
※総高は280.5cm、塔高190.5cmを測ると云う。
※塔前では興福寺による供養が今も続けられると云う。

  ○実範上人廟塔6     ○実範上人廟塔7     ○実範上人廟塔8
2013/09/30追加:「中ノ川に在住する某氏」情報
 「(五輪塔は)明治から大正にかけての時代あたりまでは、屋根が廟塔にかかっていたと聞く。
 しかし、それも朽ちてしまい、現在は塔のすぐそばの谷底にある。」
2017/02/19撮影:
 實範上人廟塔9     實範上人廟塔10    實範上人廟塔11

◎中ノ川辻堂
中中ノ川バス停前に辻堂がある。
辻堂には永正14年(1517)年紀の地蔵菩薩石像が祀られる。
 中ノ川辻堂地蔵石仏:光背左に「奉造立地蔵菩薩 逆修 慶圓」右に「永正十四年(1517) 六月二十四日」と刻む。
「大和志」(享保21年刊)では
「中川寺一名成身院沙門実範創立、本堂安置愛染明王像、二層塔有、又地蔵石像有、勒(刻して)曰永正14年刻」というから、本像は中川寺伝承の通り中川寺廃寺の後、寺跡から遷したものであろう。
その他に、舟形宝篋印塔、小石仏などを祀る。
 辻堂地蔵浮彫宝篋印塔

◎三社明神(十所権現):2012/02/26撮影:
宝永8年(1711)銘の石燈籠に「奉寄進十所権現」の刻銘があるという。
 ※十所権現とはは伊勢両宮・八幡四神・春日四神を配祀したものという。
中川寺鎮守と伝承される。中川寺に近接している故に、さもありなんと思われる。
 三社神社社殿:三社とは、神明(アマテラスか)・八幡 大菩薩、春日権現であるらしいと云うので、十所権現を明治の神仏分離の処置で社号を「三社」と言い換えたものであろう。
左に写るのは社務所であるが、これは元観音寺で今も本尊十一面観音及び弘法大師坐像(江戸期)を祀ると云う。社僧あるいは本地堂であったのであろうか。但し建物は近年の造替と思われる。
  2013/09/30追加:「中の川に姻戚を有する某氏」情報
   「三社神社の左手に元観音堂があり、中の川の男性が輪番制(一年交替)で管理をする。年一度、祭事あるいは供養をするようであるが、
   (当番の者は)その祭事を夜に行い、お唱えの声(読経)は決して誰にも聞かれてはならない風習」ということのようである。
    ※この祭事は「夜の秘祭」の様相を呈するが、その意味は不明である。
    ○三社神社社務所:現在は社務所であるが、元観音堂であろうか。
 中ノ川の集落:一段高い左の林が三社神社で、集落中には多くの石塔残欠や石仏が道端に置かれる。 これ等は中世墓制に由来するのか中川寺に由来するのかは不明。
2017/02/19撮影:
 十所権現社殿

◎中ノ川共同墓地:2012/02/26撮影:
 中世墓制五輪塔:共同墓地      2017/03/25撮影:中世墓制五輪塔2
 宝篋印塔:共同墓地
 共同墓地石組:共同墓地:出枘が見えるが、これは石仏・石塔類の出枘で、おそらくは中世墓で使用された石仏・石塔類を土止石材として使用したものであろう。
中ノ川の共同墓地には多くの中世・近世の石仏・石塔類が散在し、その中に現代の墓石も混在する。
 ※「中世大和の葬送と墓制」狭川真一(奈良県立同和問題関係史料センター「研究紀要」第16号、平成23年 所収) より
墓制は中世には、中ノ川などの大和の山間部では集落単位での納骨が行われる ようになる。即ち大和の山間部では埋め墓の中央に大きな五輪塔があり、その回りに木製の卒塔婆や石製塔婆が立ち並ぶと云うような墓制に変化する。
この墓制は全国的に近世初頭に現在のような石墓を建てる墓制に変っていくが、大和では、五輪塔を中心とした墓地は現在も墓地として使われ続けられている現象がある。

2013/12/16追加:
○奈良グリーンセンター建設計画
 奈良市では中ノ川に「奈良グリーンセンター」(所謂清掃工場)の建設を計画している。
計画予定地は中川廃寺(成身院)を含むと云い、もし計画が実行されれば、地下に眠る中川廃寺遺構は壊滅的打撃を受けると推測される。
さらに、北方は京都府の行政区ではあるが、当尾が接し、山城浄瑠璃寺、山城岩船寺などが至近距離にある。おそらくは当尾の風土・環境に大きな影響を及ぶすものとも懸念される。
 中ノ川と塔尾間には山道が通うようである。
中ノ川三社神社から北に緩やかな下りの尾根道が続き、西小に至る。西小から南に上がれば、浄瑠璃寺に至る。
浄瑠璃寺参道の入り、すぐに左折し山中の入る道があるが、この山道も中ノ川に至ると云う。上記の道と比して、半分以下の短距離と思われる。しかし地元民や寺院の話を総合すると、この道の途中には訳ありという噂の事業主による養豚場があり、付近には大型犬が放たれていると云う。そして、通行は控えた方が良いと異口同音に語る。また西小の住人の談によれば、大雨で養豚場のおそらく汚水が西小に流れ落ち異臭がすると云う。
さらに、もう1本、浄瑠璃寺奥の院から山中に入り、中ノ川に入る山道があるとの情報があるが、中ノ川側の取付きが分からず、未踏であるので、詳細は不明である。
2017/02/28追加:
○資料:33−2「奈良市中ノ川地域における文化財の指定と保全、及び歴史的資産として活用策を確定する要望書」
 上記の「奈良グリーンセンター建設計画」に関連して、サイト「奈良市クリーンセンターの課題と新しい奈良の創造」がある。
そのサイト中に「資料集」があり、その「資料集」の一つとして、
標記の「奈良市中ノ川地域における文化財の指定と保全、及び歴史的資産として活用策を確定する要望書」がある。
その中の「2.中山(川)寺成身跡と開山実範上人の遺跡」などは簡潔に纏められているので、転載する。
<以下転載。>
2.中山寺成身跡と開山実範上人の遺跡
 平安時代、興福寺の学僧であった実範が開いた中川寺成身院の寺跡があります。実範は参議藤原顕実の子息で、生年は寛治3年(1089)とされ、入寂は光明山寺において天養元年(1144)とされています。法相宗・真言密教・天台宗・律宗を学び晩年は浄土教をも修められた高僧であります。律宗との関わりにおいては、東大寺における受戒の制度があってなきがごとくなっていることから、律宗を学んで戒律の興隆を期すべく唐招提寺に至り、戒光について四分比丘戒本を聴き、これを機に東大寺における受戒を復興せしめたといわれています。
 実範の主たる業績としては、@ 成身院において、法相・真言・天台三宗兼学の道場を築き、数多くの弟子を育て、A南都において、始めての本格的密教寺院を創建しその布教につとめ、B 当時、形骸化していた受戒を「東大寺戒壇院受戒式」を作ることにより戒法の興隆をはかり、もって律宗中興の祖とされ、C 日本浄土経三流、南都浄土教、叡山浄土教、密教浄土教の接点に立ち、それらの橋渡し役を務め、南都浄土教系資料として極めて重要性が高いとして、昭和42年、国の重要文化財に指定された浄土教古文献「念仏式(往生論五念門行式)」を著し、D 鳥羽院の招きにより唱礼師を務めるなど声明に通じ、中川大進流開祖とされる弟子宗観以降の中川寺における声明の礎をつくったことにあります。
 時の摂政関白藤原忠実や左大臣藤原頼長などの帰依を受けられました。また、弟子の中には大進上人をはじめ声明(しょうみょう)の大家が輩出せられ、中川寺成身院は平安後期から鎌倉時代を通じて奈良における仏教修学の拠点寺院でありました。創建時の成身院は朝廷及び藤原一族の支援を受け、豪華絢爛たる密教様式の大伽藍でり、本尊は、金剛界の大日如来。本尊の左右には両界曼荼羅が配置されていたといわれます。十指に余る子院・弥勒院・清浄院・地蔵院・瓦坊・東北院・仏眼院・十輪院・薬師院・三蔵院等をもち、永正14年刻と刻まれた地蔵石像があったと伝えられています。集落内の辻堂には地蔵石像が現存しています。惜しくも明治の廃仏毀釈の際に寺は消滅し、開山実範上人の廟塔といわれる五輪塔のみを残し山野と化しています。しかし、地下には貴重な遺構が残ると推定されています。五輪塔周辺には瓦の破片や水路跡と思われる遺構、整地をした際の石組みの跡なども残されています。成身院の所蔵であったといわれる、毘沙門天立像は東京国立博物館に、薬師如来坐像は山城鹿背山西念寺に、梵鐘は神戸市生田区徳照寺に現存しています。実範は興福寺で法相宗を学び、成身院は興福寺の末寺でもありました。五輪塔前では興福寺による供養が今も続けられています。
3.声明の発祥地
 仏教の法要様式で音楽的にお経を唱えるのは何宗であれ声明と言います。日本の声明は大きく分けると天台宗と真言宗の二つであり、さらに天台からは融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗にも伝わっています。天台の源流は京都大原勝林院・来迎院です。それに対し真言声明の源流は中ノ川です。中川上人・実範から弟子の大進上人・宗観へ、さらに孫弟子観験(かんげん)へと伝えられ、中川寺が声明の本山でありました。大進上人の名をとって「大進流(だいしんりゅう)」または「進流(しんりゅう)」と命名されました。さらに中川寺の慈業(じごう)が住職の時、高野山へ伝えられ「南山進流(なんざんしんりゅう)」として栄えました。
(中略)
4.保全すべき貴重な石像文化財
(中略)
  *地区共同墓地の五輪塔:中世墓で使用されたと思われる石仏・石塔類が多数現存しています。大和では近世以前の五輪塔を中心とした集落単位での納骨・墓制が現在も墓地として使われ続けているという、貴重な民族現象が残されています。
(後略)
<転載終り>

2017/02/28追加:
弥勒の道プロジェクト
 「弥勒の道プロジェクト」という優れたサイトがある。
本サイトの内容は多岐に渡るが、その中に「中川寺跡」を探求した幾つかのページがある。
「中川寺跡」ということに絞れば、中川寺跡の具体像というか中川寺の遺構を明らかにした、しかも生き生きと蘇らせた最初のページであろう。
それは、見る者を捉えて離さないのである。

 そのページを時系列で紹介すると次の通りである。・・・()付番号はs_minagaが付与
(1)2014年2月1日(土) 発見!中川寺!?
(2)2014年2月11日(火) 探検、中川寺! 西側に尾根まで届く大スロープ!
(3)2014年2月23日(日) まるで山城? 見えてきた最盛期の中川寺!
(4)2014年12月30日(火) 発掘!? 中川寺!(完敗)
(5)2015年12月30日(水) 開通!中川越道〜実範上人御廟塔!
(6)2016年6月18日(土) 「中川寺成身院を学ぶ会」主催の講演会を聴講してきました。
また、動画のアップもある。
2014年12月10日(水) 【動画】奈良から奈良坂般若寺を経て浄瑠璃寺へ、堀辰雄も歩いた笠置街道を行く

 今般、上記のページの内容について、一部転載をさせて頂き、また大幅に利用をさせて頂くこととする。<深謝>
更には、上記ページの記載内容に従い、中川寺跡の表面探索をさせて頂いた。
その結果も以下報告する。

2017/02/19中川寺跡表面探索
 (3)に弥勒の道プロジェクト氏が探索し作図した「中川寺跡全体像」がある。
この「中川寺跡全体像」は「Google マップの地図に、1946年の航空写真(出所:国土地理院が公開している『地図・空中写真閲覧サービス』)を重ね」、更に弥勒の道プロジェクト氏が探究し・作図した「平坦地を書き込みました」という、優れた「中川寺跡境内図」ともいうべき絵図である。
 中川寺跡全体像
弥勒の道プロジェクト氏は現在山林や叢林となる山野に入り、東及び西のスロープを発見し、その各々のスロープの南北に段差状の平坦地があることを突き止め、発表し作図をされる。まさに、本「全体図」に示される階段状をなす平坦地が中川寺の堂塔跡及び坊舎跡なのである。
今般、s_minagaはその階段状の平坦地を巡り、これこそが中川寺の遺構であることには間違いないと納得をし、賛同をするものである。
さらに(6)には「中川寺跡全体像」の増補版ともいうべき「増補版中川寺跡全体像」(境内絵図)がある。
 増補版中川寺跡全体像
本図にはAとBとの印があるが、その意味するところの詳細は「(6)2016年6月18日(土) 「中川寺成身院を学ぶ会」主催の講演会を聴講してきました。」を参照願うとして、それは弥勒の道プロジェクト氏が推論した「中川寺成身院(本堂・5間堂)と例時堂(3間堂)」の位置を示すものなのである。
弥勒の道プロジェクト氏はそれはカギ型に曲がる通路(黄色のカギ型)を持つAかBの平坦地であろうと推定する。さらに平坦地の広いAの方に「中川寺成身院と例時堂」と考える方が合理的とする。
Aの場合、中川寺多宝塔は紫色の■のある平坦地がその候補地であるだろうと推定する。

 ついでながら、これら「中川寺全体像」について若干の補足がある。
「全体像」の南東に「小字弥勒院?」、「小字地蔵院?」の区画が描かれるが、これについて、偶々「弥勒院?」の南の田圃で耕耘作業中の男性について聞取り(2017/02/16)を行う。なお、当日、中ノ川で出会った人物はこの一人のみである。
問:耕作中の田圃は中川寺の坊舎跡という伝承などはないのでしょうか。
答:坊舎跡とは聞いてはいないが、瓦が出ることがあるので、何かの建物があったのかも知れない。
問:その瓦は古そうなものですか。
答:黒色でそういった意味では新しいものと思う。
問:實範五輪塔の裏側の谷道に黒色の新しい瓦が散乱しているが、あの瓦は五輪塔の覆屋の瓦なのでしょうか。
答:中ノ川に生まれて60年になるが、五輪塔の覆屋は見たことはない。それより、あの五輪塔は移設されたと聞いているが・・・。
問:一度売却されかけて、一度運び出されたが、遺骨が出て、また中ノ川に戻り、その時元地ではない場所に置かれたという話があることは来てはいますが、どうなのでしょうか。話は変わりますが、(「弥勒院?」とされる区画の方を指さし)、ここは小字を弥勒院というのですか。
答:いや、「東福」という。この田圃(「弥勒院?」の南の区画)も「東福」という。この北側の田圃があった東側も「東福」という。
問:(「小字地蔵院?」という区画の方を指差し)あそこら辺は小字を地蔵院というのですか。
答:(首をひねり)、いや知らない。
問:實範上人五輪塔横の谷に降りて、ずーと北の奈良・京都の府県境である笠置道の石橋のある所に行けるでしょうか。随分水があるようですが。
答:20、30年前は行けたが、今は行ったことがないから、分からない。その東にも、浄瑠璃寺に行ける道があったが、それも通れるのかどうかは知らない。若いころには浄瑠璃寺方面に行くとき、利用したが、今は全く使わない・・・。
問:その道は最近奇特な人が整備して、容易に通れるようになったと聞いていますが。
答:その話は聞いている。
問:お聞するのは中川寺跡に行きたいからですが、實範上人五輪塔の横の谷道から行けるかどうか・・・ところで、中川寺(成身院)はどこにあったのでしょうか。
答:中川寺は五輪塔の北の方にあったと聞いている。五輪塔の横の谷道から行けない場合、中の川バス亭に引き返し、三社神社、共同墓地を通り、山道の分岐を右に折れていけば、(おっしゃる)石橋に行けるはずである。そこから南に入れば中川寺跡に行けるはずである。
問:とりあえず、五輪塔横の谷道を行ってみます。無理ならば、北側の石橋を目指し、そこから南に入ってみます。
色々、ありがとうございました。
 ※結果は五輪塔横の谷道はすぐに水浸し(泥地)となり、ズック靴では無理である。(帰宅後、検討すれば、浄瑠璃寺道を少し北に進み、灌木の中を西進すれば、泥地を回避でき、可能なようである。)従って、笠置街道の石橋に出て南下することになる。
 ※以上の文面を書いた後に、弥勒の道プロジェクト氏の
2014年12月10日(水) 【動画】奈良から奈良坂般若寺を経て浄瑠璃寺へ、堀辰雄も歩いた笠置街道を行く
を知る。
その動画の解説によれば、おそらく、弥勒の道プロジェクト氏も「田圃で耕耘作業中の男性」に聞取りを行っているようであるが、しかし、小字名については、上記の「答」とは違う「答」をしている。
どちらが、本当なのかは現状では分からないので、聞いたままを上記では記載する。

 中川寺跡の凡その姿については、上述したように、弥勒の道プロジェクト氏作成の「中川寺跡全体像」「増補版中川寺跡全体像」があるのであるが、敢えて、表面探索の結果、自分で「中川寺跡概要図」の作成をしてみることとする。
 まず、弥勒の道プロジェクト氏のご教示の通り、国土地理院が公開している1946年(昭和21年)の航空写真を入手、その写真は大容量であるので、中川寺跡附近を真中にして、トリミングを行う。
 昭和21年中川寺附近航空写真
中央の上下に展開する田畑が谷筋で、この谷筋及びその左右の山地一帯に中川寺の伽藍が展開していた ことは弥勒の道プロジェクト氏が明らかにした通りである。
上記の「昭和21年航空写真」に現在のYahooMapの地図を重ねたものが次の「航空写真+現在の道路・河川図」である。
 航空写真+現在の道路・河川図
上の「航空写真+現在図」に「弥勒の道プロジェクト」が明らかにした通路を加筆したのが次の「航空写真+現在の道路・河川図2」である。
 航空写真+現在の道路・河川図2
上の「航空写真+現在図2」に弥勒の道プロジェクト氏作成の「中川寺跡全体像」の優れた「ケバ図」部分を拝借し、「ケバ図」を重ねたのが次の「中川寺跡遺構図1」である。
 中川寺跡遺構図1
上記「中川寺跡遺構図1」に文字入れをしたのが次の「中川寺跡遺構図2」である。
 中川寺跡遺構図2
ここで、この「中川寺跡遺構図2」を眺めると、「弥勒の道プロジェクト」氏が発見した東のスロープと西のスロープ及びその各々のスロープの左右(南北)に展開する平坦地は中川寺の堂塔・坊舎跡であることは勿論であるが、東西のスロープの中間の谷筋に展開する田畑は、実は中川寺の堂塔・坊舎跡の区画が中川寺が廃墟になった後に田畑に転用されたのでないかという思いが忽然と浮かび上がってくる。
おそらくは航空写真で展開する田畑は実は中川寺の堂塔・坊舎の区画(屋敷跡)が 開墾され、田畑となったのであろう。このことは、多くの大寺の姿が証明をしている。
 以上のような見方をすれば、古代及び中世の中川寺の山内は「石橋」附近から「實範上人廟塔」附近まで堂舎が連続していたと思われる。
それ故、それらの堂舎を繋ぐものとして、川沿いには当然「中道」が南北に通っていたと想定されるのではないだろうか。
「中川寺跡遺構図2」に茶白で「中道」を追加しているのは以上の意味である。
 実際の「中道」「川」はもう少し直線的であったかも知れないが、ともかく南北の筋として「中道」があり、中川寺は、その「中道」の北部は「北谷」と称し、南部は「南谷」と称し、「中道」中央付近で東西に東谷及び西谷が展開するような伽藍配置であったと想像するのである。
 (以上の意味で、東のスロープは東谷道、西のスロープは西谷道と言い換えてある。そして現地の探索の結果西谷道の北には若干の堂舎を繋ぐ道が見られ、これを北谷道として記入している。)
 かくして、或る意味想像の産物であるが、上記の「中川寺遺構図2」に以上に述べた「中道」、「東谷道」、「西谷道」、「北谷道」を加えた図が「中川寺跡遺構図3」である。
 中川寺跡遺構図3
上記の構成図3に、具体的に「中道」沿いに堂舎跡と思われる田畑を緑で区画したのが「中川寺跡遺構図4」である。
 中川寺跡遺構図4
尤も、この緑の区画は「昭和21年航空写真」だけを頼りに、ごく一部を除き、いわゆる独断と偏見で区画したもので、空想の域を出ないものである。叶うなら、現地の地勢 と照合する希望はある。
 繰り返しになるが、中川寺は南北に「中道」と「川(水源)」が通り、「中道」北部は「北谷」、南部は「南谷」を構成し、さらに「中道」の中ほどで、「東谷道」と「西谷道」が交差し、その東西の山麓を上がる谷道の南北には堂塔・堂舎が建ち、それぞれ「東谷」「西谷」を構成するような一山構成であったのではないだろうかと空想するのである。

上記「遺構図4」の推定堂塔・堂舎跡に「北1」「北2」・・などの符合を付与したのが、次の「中川寺跡遺構図5」である。
2017/02/19撮影:下の撮影写真を符合によって示す。
もとより、曖昧な部分・未確認な部分もあるが、それは後日を期す予定である。
 中川寺跡遺構図5

2017/03/25撮影:
改訂中川寺跡遺構図5・・・上記の中川寺跡遺構図5を2107/03/25の情報によって、改訂したのが下の境内図である。

 

△印は2017/02/19撮影、無印は2017/03/25撮影

大和中川寺跡北谷(想定)

 北谷については北谷としての実体があったのかどうかは不明である。
即ち、北3と北5は確実に坊舎もしくは伽藍跡であると思われるも、北1・北2・北9・北8・北7・北6は、近世か近代に、中川寺坊舎跡が耕作されたのか、それとも坊舎跡とは関係なく田圃として開墾されたにかは不明である。
ということと、その中間を流れる水路で区分されていたと考える方が合理的とも思われ、もしそうであるならば、北3・北4は西谷の別所 ともいうべき領域であり、北5は東谷の別所もしくは中川寺伽藍のあった区画あるいは北大門の門内の区画とも考えられる。

笠置街道:中川寺北方を通る、大和と山城の国境である。
 △笠置街道石橋:中川寺中道入口付近
 笠置街道石橋2     笠置街道石橋3:既に1本の石製橋梁は落下する。
 石橋附近の中川寺縦貫流路:笠置街道石橋の下を通過した流路で、この写真の流路には次の宝篋印塔部材が散乱する。
 散乱宝篋印塔部材1     散乱宝篋印塔部材2     散乱宝篋印塔部材3
 笠置街道ぬかるみ蓋:街道を横切る水路のぬかるみを避ける為に置かれた石材であるが、おそらく落下した石橋の石製橋梁(しかも2分割された)を転用したものであろう。

 中川寺北谷北1/北2-1:向かって左が北1、右が北2、何れもブッシュに覆われ現状を窺い知ることは不能。
 中川寺北谷北1/北2-2:手前が北1、その向こう側の丘の麓までが北2。
 中川寺北谷北2:北2はブッシュに覆われ足を踏み入れることは困難、写真右端に山裾を縫う道らしきものが写るが、それが本来の 北谷道であったかどうかは不明である。
 中川寺北谷北8-1
 中川寺北谷北8-2:北8はブッシュに覆われ足を踏み入れることは困難、奥に写る丘の林は北5のそれと思われる。
 I 地点/現状1
 I 地点/現状2:狭い間隔に狭い2枚の耕作地跡が並ぶのであろうか、土手の向うは水路であり、奥の斜面は北5の斜面であろう。
 I 地点/現状3:下に写るのは水路であり、対面の一段高い壇は北5附近の壇であろう。

北谷道上下連絡路及び西谷連絡路:
 平野部である北2・北7・北8と山中である北3・北4を結ぶ通路が上下連絡路であり、西谷の北に位置する北谷とを結ぶ通路が西谷連絡路である。上下連絡路の痕跡は明瞭に残る。西谷連絡路は西谷に達する部分が不明である。
J地点とは上下連絡路と西谷連絡路が交わる地点である。
 J地点/北谷道上下連絡路1:北2・北3・北7の平地と、おそらく10mを超える段差のある北3の壇との上下を連絡する通路で おそらく5m前後の落差があると思われる。写真下の平面はI 地点もしくは北7の平面である。
U字形に掘られている溝が通路であろう。隣の堤状の土手を登こともできるが、この上の通路の構造から、溝が本来の通路と思われる。本来なら石階であったと思われる程の傾斜であるも、石階の痕跡はなし。
 J地点/北谷道上下連絡路2:上記の上下連絡路1の続きであるが、急坂を上がれば、90度南に道は振れる。
 J地点/北谷道西谷連絡路1:緑線で示したのは急坂の上下連絡路で、黄線で示したのは90度南に振れ、西谷方向に向かう路である。
 J地点/北谷道西谷連絡路2:西谷方向に向かう路(黄線)の続きであるが、西谷方面に通ずると思われるも、この先、路は不明となる。
 J地点/北谷道西谷連絡路3:西谷連絡路(黄線で示す)と上下連絡路を示す。

 △中川寺北谷道1:北谷道の西入口付近      △中川寺北谷道2:北谷道途中
 △中川寺北谷北4:北4平坦面

北3のK地点:
 北谷山中にある平坦地は、K地点を除き、明瞭さを欠くが、北3のK地点は明瞭な平坦地で、しかも北谷山中で最大の広さを持つ壇である。
従って、この区画に北谷本堂があったものと推測される。あるいはK地点が西谷に属していた場合には、西谷の別所ともいうべき堂舎があったものと推定される。
 北3/K地点1:北3南東部で、右端の傾斜の部分に上下連絡路がある。
 北3/K地点2:北3東部で、右端中央が南東角。      北3/K地点3:上写真の引きである。
 北3/K地点4:北3西南角      北3/K地点5:北3東端の崖、崖下はI 地点である。      北3/K地点6: 左と同一
 北3/K地点7:北3北部
 K地点の南の部分:黄線は北谷道西谷連絡路である、上下連絡路は表示する。
 K地点の西の部分:中央は西の稜線に向かう北谷道である。

北谷北5区画:
 北谷北5の檀は平野を見下ろす高所にあり、しかも面積も屈指の広さであり、またこの区画を土塀が取り囲んでいた痕跡が残る。これらのことから北5には重要な施設があったものと推定される。
例えば、北大門と中川寺庭園、坊舎であったとすれば有力な寺中、東谷に属するならば東谷別所ともいうべき堂舎などが想定される。
 △中川寺北谷北1の東:ここに坊舎が存在したかどうかは不明である。現在は北5の入り口になる。中央に写るのが現在の里道であり、背後に一段高く写る平坦 面が北5の北側にある平坦面である。
 中川寺北谷北5入口1:右端の畦道が北5への笠置街道からの入り口である。少なくとも近代ではこの畦道が南北を通る里道の出発点になっていたと思われる。
 中川寺北谷北5入口2:北5への入口である。写真中央付近に北大門があっても不思議はないが、門跡の痕跡などは見出すことはできない。

 △中川寺北谷北5-1     中川寺北谷北5-2     中川寺北谷北5-3: 何れも北5平坦面であるが、平坦面は高く盛り上がった自然地形を削平したものと思われる。
北谷北5には2個所に土塀跡が残る。一つは北5の北辺であり、もう一カ所は北5の東辺ほぼ全部と南辺である。
土塀跡は土手状の高まりとして連続して続く。但しこの土塀は築地塀なのかあるいは土塁であったのかは不明である。瓦が撒布している様子は全くなく、築地塀だったとしても、瓦葺ではなく、板葺のような塀であったのではなかろうか。
 中川寺北谷北5北辺土塀跡1:北5の北辺の土塀跡、写真右端中央に土塀跡の切れ目があるが、ここを里道が通る。
つまり北5が坊舎跡や別所跡であればここに表(裏)門があり、伽藍跡であれば北大門があったとも考えられるが、門跡の痕跡はない。
 中川寺北谷北5北辺土塀跡2     中川寺北谷北5北辺土塀跡3     中川寺北谷北5北辺土塀跡4
 北谷北5南辺・東辺土塀跡1:南辺の土塀跡、右端下の切れ目を里道が通る。北5が坊舎跡や別所跡であればここに表(裏)門があったと思われるも、門跡の痕跡はない。
 北谷北5南辺・東辺土塀跡2:東辺の土塀跡、上方に行くに従い左に曲がる。
 北谷北5南辺・東辺土塀跡2:南辺の土塀跡、 中央右端を里道が通る。
 北谷北5南辺・東辺土塀跡4:東辺の土塀跡、この辺の土塀跡は蛇行するがその理由は分からない。
 北谷北5南辺・東辺土塀跡5:同上
 北谷北5南辺・東辺土塀跡6:東辺の土塀跡
 北谷北5南辺・東辺土塀跡7:東辺の土塀跡、終端附近
 北谷北5南辺・東辺土塀跡8:東辺の土塀跡、削平によって土塁化した自然地形の土塁に突き当り、土塁は終端となる。
 北谷北5南辺・東辺土塀跡9:東辺の土塀跡、ここでは土塀跡栗石が露出する。

 L地点/中央道(里道)
 中川寺北谷北6-1:北6平坦地、L地点より撮影。      中川寺北谷北6-2:同上

大和中川寺跡東谷(想定)

 東谷と西谷の遺構の状況から判断して、東谷の平坦地の方が西谷のそれと比べて、相対的に、新しい時代まで堂塔坊舎が営まれていたような雰囲気である。

東谷道:中道の東1及び東5の箇所から分岐し東6(本坊・成身院ではないだろうか)の山門(推定)に至る道である。
 中道と東谷道の交差地点から西10方面を望む
 △中川寺東谷道1:東谷道登り口から見上げる。左は東1入口坂道、左端が東1 平坦面、右は東5平坦面
 △中川寺東谷道2:中央は東1入口坂道、右は東谷道
 △中川寺東谷道3:左は東谷道、中央から右は東5 平坦面
 △中川寺東谷道4:左下から右上に上がる土手が東谷道、左上奥は東1 平坦面、東5入口から撮影
 △中川寺東谷道5:東谷道途中から終端を見上げる。 終端は東6の入口であり、その入口で東谷道はその使命を終える。
 △中川寺東谷道6:左上から右中央に下る土手が東谷道、東1から撮影
 中川寺東谷道7:東谷道の終端、左側に写るのが東谷道、中央には栗石が写るが土塀などがあったのであろうか、上の平坦地は東6。
 中川寺東谷道8:同上
 中川寺東谷道9:土塀跡
 中川寺東谷道10:東谷道終端附近から東谷道を見下ろす。右は東1、左は東5の平坦地。
 中川寺東谷道11:同上、東5の土塀跡は文字入れをする。
 中川寺東谷道12:東谷道終端のやや先から東谷道を見下ろす。右は東1、中央付近に東5の土塀跡が写る。
 中川寺東谷道13:東1から撮影した東谷道。
 中川寺東谷道14:同上
 中川寺東谷道15:東1と東5の間附近から終端を見上げる。
 中川寺東谷道16:同上、散乱する栗石は東山道の土止か土塀の基礎であろうか。
 中川寺東谷道17:同上、東5から撮影、左側は東1。
 中川寺東谷道18:東1と東5の間附近から東谷道を見下す。右は東1、左は東5。
  ※東谷道の終端については東6の項を参照

東1平坦地:
 「弥勒の道プロジェクト」氏はこの平坦地を成身院本堂のあった地と推定する。
2016年6月18日(土) 「中川寺成身院を学ぶ会」主催の講演会を聴講してきました。
確かに、中川寺本堂は、「弥勒の道プロジェクト」氏の推測のとおり、この平坦地にあった可能性は高いと思われる。
 ※「弥勒の道プロジェクト」氏は中川寺本堂を成身院本堂と表現しているが、意味するところは同じことである。
平坦地の規模、平坦地の遺構、平坦地の樹木の繁茂状況から新しい時代まで屋敷の存在を窺わせるなどがその理由である。
 △中川寺東谷東1-1:左から中央にかけて東1入口坂道が写る。途中に1ヶ所栗石様の石を積んだ段差があるがこれが中川寺のものかどうかは不明。右下は東谷道。
 △中川寺東谷東1-2:東1平坦地。右下が東1入口坂道を上がった地点である。
 △中川寺東谷東1-3:東1平坦地。左端中央やや下が東1入口坂道を上がった地点である。
 △中川寺東谷東1-4:東1平坦地。      △中川寺東谷東1-5:東1平坦地。
 中川寺東谷東1-6       中川寺東谷東1-7
 中川寺東谷東1-8:東1の西端、里道と流路を見下す。      中川寺東谷東1-9:同左

東5平坦地:
 △中川寺東谷東5-1:手前の法面は東谷道の法面。
 △中川寺東谷東5-2:東5平坦面。
 △中川寺東谷東5-3:東5土塀跡か。但し、近世・近代に耕作が行われ田畑の畦の可能性はある、左は東5平坦面、右は東谷道。
 中川寺東谷東5-4:東5北西角、左は東谷道      中川寺東谷東5-5:東5北西角
 中川寺東谷東5-6:左は東5の壇、右は南谷南8の壇

東谷東6:
 中川寺本坊つまり成身院跡の可能性が高いと思われる。
 この平坦地は樹木の繁茂の状態から判断して比較的新しい時代まで屋敷は存続していたと思われ、また窪地を含む平坦面は中川寺中の遺構で有数の面積を有し、かつ窪地は庭園の池跡とも推測され、さらには東谷道はこの平坦地の門跡と推定される地点まで続く。
以上の遺構の特長から、本遺構(東6)は中川寺本坊即ち成身院のあった場所と推定される。もしそうであるならば、この地は明治初頭まで成身院が存続をしていたのである。
 △中川寺東谷東6-1:東6平坦面 、但し窪地(庭園)の写真である。
 △中川寺東谷東6-2:東6平坦面、 右は窪地で庭園の池跡?であろうか。
 △中川寺東谷東6-3:池跡?の窪、平坦面が多少窪む、栗石様の石が散在することなどから庭園があり、池跡とも思われるも、確証はない。池跡としても水源の有無など疑問がある。あるいは枯山水の池跡か?。
 △中川寺東谷東6-4:東6平坦面、東谷道 終端であり、写真の石列は東6の法面上にあるものであるが、東6の土塀の栗石であろう。
 △中川寺東谷東6-5: 東谷道終端の法面上の石列(東6の土塀)と右上に土塀様遺構が写る。
 △中川寺東谷東6-6:東谷道終端上の法面上の成身院土塀の栗石であろう。
 △中川寺東谷東6-7: 成身院土塀様遺構、成身院の北を画する土塀であろう。
 中川寺東谷東6-8:東2から撮影、写真中央の左右にかけて写るのは東6(成身院跡であろう)北側土塀跡である。
 中川寺東谷東6-9:同上
 中川寺東谷東6-10:東6北側土塀跡と東6平坦地
 中川寺東谷東6-11:東6平坦地
 中川寺東谷東6-12:東6窪地、おそらく庭園の池跡であろう。この東には客殿の存在が想像される。
 中川寺東谷東6-13:東6西辺崖下、崖下は東5平坦地であろう。
 中川寺東谷東6-14:東6西辺崖下、崖下は南8平坦地であろう。
 中川寺東谷東6-15:南8附近から東6の壇を見上げる。中央に写るのが東6の壇である。
東谷東6/北側土塀跡・山門推定・山門脇土塀跡

 中川寺東谷東6-16:東谷道終端、左中央は東6の土塀跡栗石、中央やや右の下方は東谷道、その上に東6山門があったと推定される。
 中川寺東谷東6-17:東谷道終端の法面上の土塀跡栗石、左端上方の壇は東2の壇。
 中川寺東谷東6-18:中央は東谷道終端の法面上の土塀跡栗石、その右に東6(成身院跡であろう)山門を想定、奥は東6北側土塀跡。
 中川寺東谷東6-19:中央左は東谷道終端の法面上の土塀跡栗石、その右は東6(成身院跡であろう)山門を想定、奥は東6北側土塀跡。
 中川寺東谷東6-20:中央は東6(成身院跡であろう)山門を想定、右中央は東谷道終端の法面上の土塀跡栗石。
 中川寺東谷東6-21:左図拡大図
左下は東6北側土塀跡、中央右は東6山門跡が想定される、中央右端の凹面は終端の東谷道である。
 中川寺東谷東6-22:右下は東6北側土塀跡、中央は東6山門があったと思われ、その奥に東谷道が写る。

 中川寺東谷東6-23:東6北側土塀跡。
 中川寺東谷東6-24:同上

 中川寺東谷東2-1:中央の壇が東2      中川寺東谷東2-2

 中川寺東谷東3-1     中川寺東谷東3-2
 中川寺東谷東3-3:土塀跡が残るもその性格は不明。      中川寺東谷東3-4:同左

 中川寺東谷東7

東谷東8への参道と思われる道筋がある。但し東8自体の壇は明瞭なものではない。
地形から東8には寛永9年の「根本成身院書上案」にある「鎮守」がこの参道上にあったのかも知れない。
 東谷東8への参道1     東谷東8への参道2

大和中川寺跡西谷(想定)

 △中川寺西谷道1:中央付近、左から西4、西3、西2の各平坦面が写る、右端下が西谷道。
 △中川寺西谷道1-1:上記の写真に補助線を描画
 △中川寺西谷道2:左は西2、西3平坦面、右は西谷道。
 △中川寺西谷道3:西谷道途中、西2平坦面の南附近か。
 △中川寺西谷道石材1:中川寺跡には殆ど石材が見つからないが、これが中川寺のものとすれば、かなり大型の石材である。
 △中川寺西谷道石材2:上記附近にある、これも大型の石材であるが、中川寺との関係は不明である。
 △中川寺西谷道4:西側尾根の入口付近
 中川寺西谷道4:左が西谷道、右は西1平坦地、中央の土塁痕跡は西1坊舎の土塁もしくは築地塀の遺構かも知れない。
 中川寺西谷道5:尾根附近から西谷道を見下ろす。
 中川寺西谷道石材1の2

 △中川寺西谷西1-1:西1平坦面、奥は西2の高い法面
 △中川寺西谷西1-2:西1平坦面、右が北で崖となる。
 △中川寺西谷西1-3:西1平坦面、奥は西2の高い法面
 △中川寺西谷西1-4:西1平坦面の北部、崖となる。
 中川寺西谷西1-5     中川寺西谷西1-6
 中川寺西谷西1-7:何れも上方は西2坊舎
 西谷西1北下の平坦地1:さらにもう一段下にも平坦地がある。
 西谷西1北下の平坦地2:この付近もしくはもう一段下の平坦地から北谷道がスタートすると思われるも、崩落もしくはブッシュの為、道は良くわからない。

 △中川寺西谷西2-1:西2平坦面、尾根を削平したものと思われる。
 △中川寺西谷西2-2:西2平坦面、奥は西で高い崖となる。高い崖は、上記の中川寺西谷西1-3の高い法面と符合する。
 中川寺西谷西2-3:北西角
 中川寺西谷西2-4:崖下は西1坊舎

 △西谷西2と西3との間の通路:手前は西3、奥は西2平坦面
 西谷西2と西3との間の通路5     西谷西2と西3との間の通路6
 西谷西2と西3との間の通路7     西谷西2と西3との間の通路8

 △中川寺西谷西3-1:西3平坦面、西4から撮影
 △中川寺西谷西3-2:西3平坦面
 中川寺西谷西3-3:北西角      中川寺西谷西3-4:北辺
 中川寺西谷西3-5:北東角      中川寺西谷西3-6:東法面

 △西谷西3と西4との間の通路1:中央左は西3北西隅
 △西谷西3と西4との間の通路2:手前は西4、奥は西3平坦面
 △西谷西3と西4との間の通路3:南辺、手前は西4、奥は西3平坦面
 △西谷西3と西4との間の通路4:南辺、左は西4、右は西3平坦面
 西谷西3と西4との間の通路2

 △中川寺西谷西4-1:西4平坦面、手前は通路、西から撮影
 △中川寺西谷西4-2:西4平坦面、左端は通路
 △中川寺西谷西4-3:西4の西通路
 △中川寺西谷西4-4:西4平坦面、手前は北谷道、北から撮影
 中川寺西谷西4-5:北西角      中川寺西谷西4-6:北東角

 中川寺西谷西5-1     中川寺西谷西5-2     中川寺西谷西5-3
 西5の遺物/五輪塔残欠1
 西5の遺物/五輪塔残欠2
 西5の遺物/五輪塔残欠3:西6の奥の 壇にも五輪塔残欠が残存する。

 西谷西5と西6との間の通路

 △中川寺西谷西6-1:西6平坦面、北から撮影      △中川寺西谷西6-2:西6平坦面、奥の壇を望む
 △中川寺西谷西6-3:西6平坦面、2の壇・3の壇、西7から撮影      △中川寺西谷西6-4:西6平坦面、左は3の壇入口
 △中川寺西谷西6-5:西6平坦面、3の壇
 中川寺西谷西6-6:西7から撮影、上の壇は西5の壇である。

 △西6/奥の壇遺物・五輪塔残欠1
 △西6/奥の壇遺物・五輪塔残欠2:写真はいずれも同じ残欠である。また西5にも五輪塔残欠が残る。

 △中川寺西谷西7-1:西7平坦面
 △中川寺西谷西7-2:西7平坦面、右上のいくつかの平坦面は西6の平坦面
 △中川寺西谷西7-3:西7平坦面、中央が一番奥の平坦面と思われるも、この付近の詳細は精査せず、確証はない、後日を期す。
  2017/03/25確認:この平坦面は一番奥のそれであるが、中ほどと周囲などに溝が掘られ、
  おそらく近世・近代に畑作が行われたものと思われる。
 △中川寺西谷西7-4:西7平坦面、一番奥の平坦面と思われるも、確証はない。小池(小窪地)の北側と思われる。
 2017/03/25確認:一番奥のさらに奥の平坦面(西71)である。
 △中川寺西谷西7-5:西7奥の小池(小窪地)、中川寺時代のものなのか、あるいは近世・近代に灌漑用に作られたものなのか不明であるが、土手は新しいもののようであり、その下に位置する堂舎跡も耕作されたようであるので、おそらく近世か近代の溜池であろう。
 中川寺西谷西7-6:西7の奥の部分であるが、溝が掘られ、近代まで耕作されていたものと思われる。
 中川寺西谷西7-7:西8から撮影
 西谷小池(小窪地)2:小池及び小池に続く小谷筋
 西谷小池(小窪地)3:小池に続く小谷筋と小池
 谷小池(小窪地)4:小池堤防(小池土手)、土手下は西8
 中川寺西谷西71-1     中川寺西谷西71-2
 中川寺西谷西71-3:堂舎跡なのか近世・近代の開墾地かどうかは不明、しかし周囲に溝の痕跡が残り、少なくとも近代まで耕作されてものと思われる。
 G地点/荒蕪地:平坦面ではあるが緩い傾斜地であり、幾筋かの溝の痕跡があり、おそらく近世・近代の開墾地であろう。
 H地点/荒蕪地:おそらく近世・近代の開墾地と思われる、写真はH地点からD地点方向を撮影。

 △中川寺西谷西8-1:西8平坦面      △中川寺西谷西8-2:西8平坦面
 △中川寺西谷西8-3:西8平坦面の南端部:西7の南端より撮影
 中川寺西谷西8-4:西8入口付近
 中川寺西谷西8-5:西8中央付近
 中川寺西谷西8-6:西8中央付近、左の下の 壇は西9
 中川寺西谷西8-7:西9から撮影、下の 壇は西9
 中川寺西谷西8-8:西8の奥のやや手前
 中川寺西谷西8-9:西8の奥、左は小池の土手

 △中川寺西谷西9-1:西9平坦面
 △中川寺西谷西9-2:西9の東側部であるが、どのような繋がりがあるのかは良く分からない。
 中川寺西谷西9-3:写真手前は西谷道      中川寺西谷西9-4:西9の北東角、左奥の下の 壇は西10
 中川寺西谷西9-5:西9の北東角           中川寺西谷西9-6:西9の中ほど、奥の 壇は西8
 中川寺西谷西9-7:西 9の奥、西8から撮影、手前は西8

 中川寺西谷西10-1:南側はブッシュに覆われ、状況は全く分からない。
 中川寺西谷西10-2:東端は崖で崖下には小川が流れる。
 中川寺西谷西10-3:同上

A地点から西谷の南辺(南西谷・南西谷川)に至る道(南西谷道)がある。
 南西谷道分岐/A地点
 B地点/荒蕪地:おそらく近代に開拓された畑地であろう。下(写真上方)は 坊舎南10、南11附近、さらにその上方は坊舎東6の南辺であろう。
 C地点/南西谷道
 D地点/南西谷1     D地点/南西谷2:南西谷川が 浸潤し泥田の状態である。近世・近代の開拓地なのか坊舎跡なのかは分からない。
 E地点/南西谷道
 E地点/石仏1
 E地点/石仏2:小さな石仏1基がある。もともとこの付近 に祀られていたのか、別の場所から運ばれてきたのかは不明、尊名も不明。
 F地点/小平坦地1:石仏の近くに小平坦地がある。おそらくは西谷の小宇があったのであろうか。下は南西谷川。
 F地点/小平坦地2:小平坦地の崖下は南西谷川である。
 H地点/荒蕪地:傾斜地であり、おそらく近世・近代の開墾地(畑)であろう。3段ほどの段差がある。

大和中川寺跡南谷(想定)
 △中川寺南谷南2-1:南2平坦面、この平坦面は近年まで田圃であったと思われる。特に、言い伝えとか資料がある訳ではないので、中川寺堂宇跡や坊舎跡を田圃に開墾したのかどうかは分からない。しかし附近の地割などから判断して、おそらく中川寺の地割を田圃に転用したものと推測する。
 △中川寺南谷南2-2:南2平坦面      中川寺南谷南2-3:南2平坦面
 △中川寺南谷南2-4:南2平坦面の西北隅の小平坦地、北東より撮影
 △中川寺南谷南2-5:南2平坦面の西北隅の小平坦地を西より撮影、石垣が残る。これも近世・近代の田圃にした時の石垣なのか、それとも古い中川寺時代の石垣なのかは分からない。
 中川寺南谷南2-6

 △中川寺南谷南23:南2と南3との間の小平坦地である。写真左の下の壇が南2であり、右の上の壇が現在實範上人廟塔のある南3であり、このことから判断して、何らかの堂宇の跡と推定される。

 △中川寺南谷南3-1:南3平坦面、南3の北西隅の写真
 2012/02/26撮影:
  ※以下「推定成身院跡」「廟塔附近平坦地」とあるのは南谷南3の平坦地のことである。
  2012年当時、中川寺の伽藍跡がどこにあるのか全く見当もつかず、實範上人廟塔のある平坦地を仮に成身院と呼称したことによる。
  推定成身院跡: 写真上部は伝実範上人廟塔を含む伽藍平坦地があるように見える。
  (そこは熊笹が繁り、到底足を入れることはできない)
   ※本写真は南谷南3を北西から撮影。
  廟塔付近平坦地2:いずれも実範上人廟塔背後(北方)にある平坦地である。
   ※本写真は南谷南3の写真である。
  推定成身院跡下:瓦の散乱があるが、新しい瓦のようであり、中川寺に関係する瓦の可能性は低いであろう。
   ※本写真は南谷南3下を通る本道上の写真である。
  廟塔付近平坦地1
   ※本写真の位置は特定できないが、南谷南3附近の平坦面であることは確かである。
2012/02/26撮影:南谷南4
 成身院付近平坦地1:伝実範上人廟塔付近の平坦地。
  ※本写真は南谷南4の北部の部分である。
 成身院付近平坦地2:県道から伝実範上人廟塔に降る道端に2枚の田畑(現在 1枚は休耕田)がある。近代の開墾である可能性も高いが、伝実範上人廟塔に近く、坊舎跡の転用である可能性も十分考えられる。写真中央に、向かって右から道が横切るが、この道の先すぐが伝実範上人廟塔がある場所である。
  ※本写真は南谷南4の南部の部分である。

 中川寺南谷南5:中央全面に写る平地が南5である。なお、左上に写るのはB地点(荒蕪地)の崖であろう。東谷東6窪地の南方丘上から撮影。

 △中川寺南谷南7:南7平坦面、水田跡であり、現状ではズック靴では入ることはできない状態である。

 △中川寺南谷南8:南8平坦面、田畑跡と思われるも、ブッシュの為、容易には入れない。北側東谷東5の平坦面西下から撮影。
 中川寺南谷南8-1:右は南8の壇、左は東谷東5の壇
 中川寺南谷南8-2:南8の南部はブッシュに覆われ、素手では南5に到達することは困難である。また南8の西の下の里道も同様に通過は困難である。

 中川寺南谷南10:手前はB地点(荒蕪地)であり、B地点から撮影。上方は崖であり、崖下に南10及び南11の平地がある。

九体寺道
 九体寺道1:東谷東6窪地の東地点から撮影、九体寺方面を望む。
 九体寺道2:東谷東6窪地の東地点から撮影、南谷南2方面を望む。
 九体寺道3:南谷南2から登った地点から撮影、南谷南2方面を望む。


付録
大和般若寺楼門:鎌倉期、国宝
般若寺は京街道(奈良坂)を登りきった所に位置する。北に進めば京都に至り、東に進めば笠置に至る交通の要衝であり、まさに奈良への出入口であったのである。
 ※笠置に至る道(笠置街道)は、上に示したように、中川寺、九体寺(浄瑠璃寺)などを経て、笠置寺に至る道である。
本楼門は 、治承4年(1180)平重衡による南都焼き討ちの時焼失し廃寺同様であったが、鎌倉期真言律宗として再興された時の建築が奇跡的に今日まで伝えられたものという。
一間一戸楼門(入母屋造、本瓦葺、上層は3間とする)であり、和様を基調とするも、上層の組物など細部には大仏様を多用する。
一見組物は複雑に見えるが、しかし構造は特異という。
即ち、上層の出組の組物は、外部から見ると複雑な構造に見えるが、建物内部では柱が直接桁に達する単純な構造で、組物は力学上、使用されていない構造である。つまり、上層の組物は外側から釘止めまたは枘差しとした見せかけのものという。
2017/02/19撮影:
 大和般若寺楼門11     大和般若寺楼門12     大和般若寺楼門13     大和般若寺楼門14
 大和般若寺楼門15     大和般若寺楼門16     大和般若寺楼門17     大和般若寺楼門18


2006年以前作成:2017/04/02更新:ホームページ日本の塔婆