八 幡 宇 佐 宮 ・ 宇 佐 神 宮 寺 (弥 勒 寺)

宇佐宮・八幡宇佐宮・宇佐神宮寺(宇佐弥勒寺)

参考文献:
「八幡信仰事典」(中野幡能編、戎光詳出版、2002年刊)
「八幡宮の建築 」(土田充義、(財)九州大学出版会、1992)
「勝山町史 上巻」勝山町史編纂委員会、勝山町(福岡県)、2006/03
「八幡神とは何か」(飯沼賢司、角川選書、2004)
「八幡神と神仏習合」達日出典、講談社現代新書、2007

八幡宇佐宮・神宮寺

「八幡信仰事典」:
 八幡宇佐宮の現在の祭神は誉田別命・比売大神・息長帯比売命であるが、元来は八幡神である。
もっとも八幡神の性格あるいはその成立過程も不明な点が多いとされるが、八幡神および当宮の成立は大和朝廷の九州(隼人)制圧と深く関係していたことは確かであろうといわれる。
それゆえ地方にありながら、というよりはこの地方は、大和朝廷と隼人あるいは異国との接点である辺境の地であった故に、朝廷と深い関わりを持つに至ったといえる。
 (例えば東大寺大仏建立および和気清麻呂の関係する道鏡事件<山城足立寺>での神託などは大和朝廷との深い政治的関わりを象徴するものであろう。)
また当宮は最も早期の時期に属する神仏習合が進展したことでも知られる。(八幡神は仏に帰依し八幡大菩薩と称号される)
おそらく、このことはこの地には早くから仏教が導入され、修行僧が跋扈していたことが関係するのであろうと思われる。(虚空蔵寺等)
 その後、大和西大寺行教によって八幡神は上京し、山崎離宮八幡および石清水八幡宮が成立する。(あるいは
河内誉田八幡宮成立)
さらに後世には清和源氏の氏神(鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請)となり、「武」の神として全国に広く勧進され、各地に八幡宮の成立を見る。

○「八幡宮の建築 」より:
 神宮寺の成立に関
しては、中央では以下の様に記録される。
「続日本紀」:天平13年(741)、八幡神宮に秘錦冠一頭を奉る。金字最勝王経。法華経各一部。・・・三重塔一画を造らしむ。・・・
 (「続日本紀」の文武天皇2年(698)、気比神宮(寺)の記事は不確実と考えられる。)
「家伝(武麻呂伝)」では霊亀元年(715)越前神宮寺が創建されたと記載する。
宇佐神宮寺では天平10年(738)金堂・講堂を創建、天平13年には西三重塔、東三重塔を創建したとされる。(「永弘文書1」)それ故、「続日本紀」天平13年記事は 八幡宇佐神宮寺と考えられる。
 ※「八幡宮の建築 」で土田氏は宇佐に於いて最も早く神宮寺が成立したという見解を採る。

参考:
明治の神仏分離(廃仏毀釈)を凌ぎ、現在も塔婆を残す八幡宮は以下がある。
 陸奥日吉八幡宮三重塔<但し 八幡社というより山王権現が本姿>、陸奥阿久津八幡宮三重塔丹波柏原八幡宮三重塔
 播磨六条八幡宮三重塔周防花岡八幡宮多宝塔
神仏分離前までの八幡宮は、八幡大菩薩を祀る社殿があり、その社殿は一山本堂と同様な位置付けであり、神宮寺をはじめとする多くの社僧が管理する一山多院の形態をとる佛教寺院というのが実態だったのである。
上記の今に塔婆を残す八幡社と同様、現在は仏塔などを残さないが、八幡宇佐宮、柞原八幡宮筥崎八幡宮石清水八幡宮鶴岡八幡宮

河内誉田八幡宮紀伊広八幡紀伊野上八幡などの在り方も実態は寺院であったことが知られる。
また以上のような著名な八幡宮以外の無名な中小の八幡社であっても、その多くに神宮寺(宮寺・本地堂など)が付設されたことが知られる。そしてこれ等はほぼ全て明治の神仏判然令によって破壊されたのである。
 つまり、明治の神仏分離という「蛮行」によって強行された改竄や、その「蛮行」の成れの果ての「国家神道」に毒された今の多くの八幡社の姿はむしろ「歪な姿」であることを知るべきなのである。

宇佐神宮寺(弥勒寺)伽藍「八幡宮の建築」 より

「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」(承和11年・844)
神亀2年(725)、宇佐八幡宮創建及び弥勒足禅院創建。
この弥勒足禅院は菱形宮の東(約2kmの足林<日足>)に造立されたと推定される。
この地には奈良期の瓦が出土するという。
天平9年大御神の発願で、弥勒足禅院は宮の西に移され、弥勒寺となるという。天平15年三重塔一基を建立。
天平宝字7年弥勒寺金堂東に妙法堂(後の四王堂となる)建立。
また縁起によると、養老4年(720)の隼人征伐での霊を慰める放生会が始まり、これが神宮寺の成立とも考えられる。
あるいは法鏡寺(大神氏氏寺)と虚空蔵寺(宇佐氏氏寺)とが統合されて弥勒寺が成立したとの説もある。
いずれにしろ
天平10年弥勒寺に金堂・講堂が創建される。
創建時の金堂規模は三間四面堂(5間×4間)で、建久3年(1192)の再興で五間四面堂(7間×4間)に拡張されたとされる。(昭和29−35年の発掘調査で、金堂は7間×4間であり、東西の1間は後の拡張であることが判明する。)

金堂の礎石発掘図(大分県文化財報告書第7集)
初期弥勒寺伽藍(大分県文化財報告書第7集)

初期弥勒寺伽藍推定図(発掘調査と文献による推定)
  :左図拡大図
講堂の礎石発掘図(大分県文化財報告書第7集)

弥勒寺伽藍(社頭指図);宇佐神宮蔵<応永年中>
同上社頭指図写し


その後、承和5年(838)、永承6年(1051)、承暦元年(1077)、元暦元年(1184)に焼失の記録がある。
建久3年(1192)金堂炎上、そもそも四面に堂塔あり。東に経蔵、南に東三重塔・西三重塔、西に鐘楼、北に講堂ありと記される。

文永年間(1264−75)、建久3年の焼失金堂が再興。
 ※建保2年(1215)文書では金堂五間四面で再興と記される。
延慶2年(1309)弥勒寺灰燼に帰す。元徳年間にほぼ再興される。再興金堂は五間四面を踏襲。
大永3年(1523)弥勒寺焼失、翌及び翌々年には半分は再興。
天正4年(1576)諸堂塔が焼失。
慶長年間細川忠興による造営。

東三重塔・西三重塔
天平13年三重塔一画を創建。(続日本紀)
天平15年東三重塔及び西三重塔建立の託宣があり、塔を建立。(宇佐宮年中行事案)
仁和2年(886)東塔焼失。
永承6年(1051)西塔焼失。
現暦元年(1184)、延慶2年(1309)、天正4年(1576)塔焼失。
寛永5年(1628)の「宇佐之社内宮殿塔不建の目録」:
 一東三重塔 三間四面九尺間
 一西三重塔 右同

とあり、天正4年の焼失以降、再興は成されなかったとされ、その規模は、東西の三重塔とも「三間四面9尺間」であったと記録される。

東三重塔の発掘結果:基壇38尺半<天平尺>巾2尺の雨落溝を廻らす。塔の平面は18尺四方。
西三重塔は発掘できなかったと云う。

2008/07/30追加:
○「八幡神と神仏習合」達日出典、講談社現代新書、2007 より
 宇佐弥勒寺伽藍配置図:第2回調査報告書 より

2011/02/13追加:
○「弥勒寺」大分県立風土記の丘歴史民俗資料館、平成元年
 宇佐神宮寺東塔跡実測図: 左の実測図から以下と推測できる。
塔北脇柱礎石4個及び東脇柱礎2ないし3個(東北隅礎石は重複)の礎石抜取穴・根石が確認され、さらに南及び東の雨落溝石敷・基壇区画石列、西側基壇区画石列が発掘される。
以上の東塔遺構に重複して、後世の経蔵遺構(礎石抜取穴がほぼ完存)が発掘される。また経蔵遺構の中心には輪蔵礎石(「輪蔵付経蔵心礎」)が残存する。
経蔵は元徳元年(1329)頃建立される。塔基壇一辺は11.95m、基壇化粧は乱石積、溝幅は約57cm。塔一辺は5.45m。
○「宇佐地区遺跡群発掘調査概報」宇佐市教委、平成2年
 宇佐神宮寺西塔跡実測図: 左の実測図から以下と推測できる。
塔南脇柱礎石4個及び西脇柱礎2個(南西隅の礎石は重複)の礎石抜取穴・根石が確認され、合わせて南辺、西辺、東辺の基壇区画石列も確認されたものと思われる。
基壇一辺12.0m、塔初重一辺5.60m、溝幅約40cm深さ約15cm。塔一辺は5.60m。

2012/05/19撮影:
◎弥勒寺跡現況:

 宇佐弥勒寺跡:左図拡大図、講堂から南を撮影、中央土壇は金堂跡、その奥の左土壇は東三重塔跡、右土壇は西三重塔跡土壇
 東西塔跡土壇:左は東塔、右は西塔跡土壇

 東塔跡土壇1     東塔跡土壇2     東塔跡土壇3:中央は輪蔵礎石
 東塔跡経蔵礎石1     東塔跡経蔵礎石2

 西塔跡土壇1     西塔跡土壇2     西塔跡土壇3

 弥勒寺金堂跡1   弥勒寺金堂跡2   弥勒寺金堂跡3   弥勒寺金堂跡4
 弥勒寺講堂跡1   弥勒寺講堂跡2   弥勒寺講堂跡3

2012/05/19撮影:
◎弥勒寺伽藍図
 弥勒寺伽藍図1:極楽寺境内に設置の案内板を撮影、坊舎の配置が示される。
  弥勒寺坊舎は神亀2年宮迫に小坂坊、盛坊、中坊、北大門前道に沿って東側の南より会所坊(後に建立)、永泉院、増先坊、宝蔵坊、
  西側南より喜多院(天長年中建立) 中明院、宝光院であった、当初は八ヶ坊舎はあり、小坂坊(法蓮法統の坊)が別当、御前、検校であった。
  天長6年(829)喜多院が創建され、以降喜多院が弥勒寺を支配する。
 弥勒寺伽藍図2:弥勒寺跡に設置の案内板を撮影したもの。

宇佐宮境内模型(大分県立歴史博物館蔵):「八幡信仰事典」 より

宇佐神宮寺境内模型
宇佐神宮境内模型:左図拡大図
(大分県立歴史博物館蔵)を改変した図である。

「応永の古図」に基づく模型と思われる。
古図の描く応永頃には全部の塔婆が同時には存在してはいなかったと推定されるが、
宇佐宮には五重塔1基・大塔1基・三重塔1基、弥勒寺に三重塔3基・多宝塔3基の造立を見たと考えられる。


応永の古図では以下のように概観される。
宇佐宮上宮:小倉山上にある。一神殿・ニ神殿・三神殿(南面)が並ぶ。
回廊が囲み回廊には南中楼門が開き、その南に国司屋・南大門がある。
小倉山南方宮迫には院坊が並ぶ。
西側に真乗坊・永興寺・永勝院、東側に石垣坊・大乗院・安門坊などがある。
宇佐宮下宮:上宮西に下宮がある。神殿3殿・講演堂・回廊に御炊殿・厨屋が付属し、東には御鵜羽殿・御湯殿・御輿殿・御幣殿・経蔵と聞求堂がある。
上宮北方に上宮および下宮のそれぞれの仮宮がある。
仮宮には各々の宮と同一規模の建物がある。
・・・・・

仏堂関係の興亡については 以下のように概観される。
宇佐三昧堂(内大弐堂):寛治年間(1087-94)に太宰権帥藤原伊房が造営(小椋山南麓)。
池之内大弐堂:康和年間(1096-1104)に太宰権帥大江匡房が造営。
一切経蔵:応徳年間(1084-87)に太宰権帥藤原資仲が造営。
馬場塔(多宝塔):保安4年(1123)に太宰権帥藤原実長が造営。
祈皇寺:天養年間(1144-45)の高陽院の御願で建立。
延慶2年(1309)宇佐宮寺・坊舎在家が灰燼に帰す。
応永25年(1418)〜永享3年(1431)大内盛見による本格的大造営が行われる。
長享3年(1489)放火により万蔵坊より出火、大内氏が復興。
大永3年(1523)弥勒寺・上宮が焼失、仁王門・金堂・大弐堂・文殊堂・楼門・高御倉・若宮・幣殿・御輿屋・護摩堂・御湯殿・北辰殿・南中楼門・南大門・西大門・東大門・北中門・講演堂・三殿が焼失。
翌年から大内義隆によって造営。
天正9年(1581)大友軍によって焼討ち。
慶長10年から寛永4年(1627)に細川氏による造営・修復が実施される。
現存する社殿等はいずれもその後の江戸期の再興になる。
家光によって1000石の朱印領が確定。
朱印領は神職領のほか社僧として、心乗坊・喜多坊・万徳坊・安門坊・有徳坊・万蔵坊・千蔵坊・浄光坊・石垣坊・永勝坊・西院・祈皇寺・小阪坊・下桐井坊・盛坊・宝光坊・中明院・喜多院・増光坊・宝蔵坊・永泉院・御許山の会所坊・座主坊・成就坊・石垣坊・谷之坊・東之坊・西之坊・椙洞院に配分される。

弥勒寺:「八幡信仰事典」 より
神亀2年(725)の創建とされ、天平10年(738)に現在地に移されたとする。
南大門・中門・金堂・講堂が一直線に配置され、中門の南に東西三重塔が建立された。(東大寺式)
講堂背後は西大門から東大門に至る参道が通り、その北に常行堂・食堂・政所屋や多宝塔(平安中期建立)などが建立された。
なお応永の復旧では東西三重塔は復旧されず、東大門北の三重塔(千歳松ノ三重塔)が造営されたと云う。
北大門に続く参道両脇には喜多院(藤原道長の願による)ほか多くの院坊が存在する。

 ※以下が弥勒寺北伽藍
村上天皇代(946-967):本三昧堂建立。
後一条天皇代(1016-36):新三昧堂・西常行堂・西宝塔建立。
後朱雀天皇代(1036-45):西三重塔・東宝塔建立。
後冷泉院の代(1045-68):連台寺建立。
寛弘年間(1004-12):喜多院・法華堂・常行堂などが建立されたという。
講堂は寛弘6年(1009)再建、長元元年(1028)倒壊、永承6年(1051)焼失、天喜元年(1053)造営。
承暦4年(1080)白河天皇が新宝塔院を建立。
永保元年(1082)弥勒寺堂塔供養。天永元年(1110)大講堂供養。
建久3年(1192)金堂焼亡、宝治元年(1247)-文永5年(1247)金堂再興。建仁元年(1202)大講堂供養。
延慶2年(1309)大講堂・左右廻廊・寺庫・ニ階鐘楼・ニ階経蔵・伽藍堂・同拝殿・東大門・金堂・四王堂・御願新三昧所・西常行堂・本三昧堂・連台寺・岩屋寺・喜多院・法華堂・常行堂・湯屋・呉橋などが焼失。
主要堂宇は順次復興するが、大内氏の応永の造営で本格的に復興する。

2022/04/08追加:
○サイト「大分県立歴史博物館」>「旅するれきはく」 より
宇佐八幡宮伽藍模型
宇佐宮境内のかつての様相を再現した模型で、応永古図に基ずく。
 宇佐宮弥勒寺伽藍模型1
 宇佐宮弥勒寺伽藍模型2:左図拡大図
 宇佐宮弥勒寺伽藍模型3

2024/07/20追加:
○宇佐神宮境内>大分県立歴史博物館(復元模型) より
 應永の古図に基づくものであろうが、概ね平安期の宇佐宮・神宮寺の様子であろう。
 宇佐弥勒寺伽藍模型24:上図より高精細画像
模型上方が南、塔婆は東三重塔・西三重塔、東宝塔・西宝塔、境内東に千歳松ノ三重塔、新宝塔、三重塔、五重塔、大塔の9基が表されている。

宇佐宮古図(応永古図・宇佐神宮蔵):

「八幡信仰事典」 より転載(但し、多少改変)
 宇佐神宮古図(応永古図・宇佐神宮蔵)
 宇佐神宮古図の弥勒寺部分図<宇佐神宮寺・弥勒寺伽藍>
   ・・・但し、この図は「宇佐神宮古図」を改変したものである。


 延慶2年(1309)の大火で宇佐は焼亡する。
 永享3年(1431)大内(盛見)氏による「応永の造営」がなされる。
  ※当図はこの造営時の図とされる。
 但し、応永の造営では金堂前の東西の三重塔は再興されず。(三重塔跡に輪蔵(宝形造)が造営される。)
 また、この造営で、「千歳松ノ三重塔」が建立されると云う。  (千歳松ノ三重塔は東大門の北に位置する。)

2009/12/06追加:「宇佐宮古図(応永の古図)」

2009/12/06追加:
「宇佐八幡宮と宇佐」小倉正五(シンポジウム 三大八幡宮-その町と歴史-資料集」2009 所収)
 より転載・・・・絵図は多少改変。

 宇佐神宮古図2:左図拡大図・・・・・文字入れ有り。

弥勒寺東三重塔、弥勒寺西三重塔、西宝塔(多宝塔)、東宝塔(多宝塔)、新宝塔(多宝塔)、
千歳松ノ三重塔、三重塔、五重塔、大塔の姿が描かれる。

2012/05/19撮影:
 宇佐宮古図(応永の古図)3:弥勒寺跡案内板を撮影

2022/04/08追加:
○サイト「大分県立歴史博物館」>「旅するれきはく」 より
宇佐八幡宮応永古図(重文)
宇佐八幡宮に伝来する最古の絵図である。
応永年中(1394〜1428)大内盛見(もりはる)の宇佐宮再興にあたって作成されたと云う。

 宇佐八幡宮応永古図・全図:左図拡大図
 応永古図:宇佐本殿・三重塔
 応永古図:弥勒寺・同周辺
 応永古図:大塔ほか


弥勒寺北伽藍
○「八幡宮の建築」 より

初期宇佐神宮寺(弥勒寺)伽藍の北に隣接して、平安期に天台宗および中央の影響を受けて弥勒寺北伽藍が造営される。

宇佐神宮寺(弥勒寺)北には天台系の堂塔が造営される。
即ち、西宝塔(多宝塔)、東宝塔(多宝塔)、新宝塔(多宝塔)が造営。
 (千歳松ノ三重塔も造営される。)

弥勒寺北伽藍(社頭指図):宇佐神宮蔵<応永年中>
同上社頭指図写し:左図拡大図

  宇佐神宮寺(弥勒寺)北東には
        大塔、五重塔が造営される。

弥勒寺北東伽藍(社頭指図);宇佐神宮蔵<応永年中
同上社頭指図写し:右図拡大図
大塔社頭指図:宇佐神宮蔵<応永年中

右図左下隅の東大門は上図右下隅にある。
 ※大塔等は上図の東北に造営される。

 

弘仁5年(814)最澄は宇佐八幡宮参詣、千手観音・大般若経2部1200巻、法華経1000部8000巻を奉納。
弘仁6年最澄は大安寺塔中院を経て、上野縁野寺・下野大慈寺に赴き、宝塔を建立し法華経1000部8000巻を塔下に置く。
弘仁9年最澄は六所宝塔建立の祈願を立てる。
六所宝塔:
 安東:上野:宝塔院:在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存 上野緑野寺跡
 安南:豊前:宝塔院:在豊前国宇佐郡(宇佐神宮寺)→筥崎神宮寺宝塔に変更 筥崎神宮寺
 安西:筑前:宝塔院:在筑前国:(竈門山)太宰府市内山、近年本谷礎石群が発掘され、この遺構が宝塔跡とほぼ断定される。竈門山
 安北:下野;宝塔院:在下野国都賀郡(大慈寺) 下野大慈寺塔跡
 安中:山城:宝塔院:在比叡山西塔院 比叡山
 安総:近江:宝塔院:在比叡山東塔院 比叡山
近江・山城・上野・下野の4箇所には既に存在し、さらに承平3年(933)筑前竈門山宝塔が完成、未完成の宝塔は宇佐弥勒寺のみとなる。
ところが弥勒寺では法華経の一部を焼き、このため新たに1000巻を写経し筥崎神宮寺に宝塔が建立されることとなる。
 (筥崎神宮寺宝塔完成は承平5年起工、承平7年完成と云う。)
 ※「八幡神とは何か」:古代律令国家においては、大和・山城・近江が中央部であるならば、 蝦夷に対しては毛野国が、
  新羅に対しては筑紫が、隼人に対しては豊国が国家の境界であった。つまり、当時の護国とは大和・山城・近江の畿内を中心にした国家を
  護ることで、その境界とは毛野国・筑紫・豊国であるというような概念であったであろうとする。
  それ故、鎮護国家あるいは護国の八幡神はその境界に登場し、そして祀られるということになるのである。
  この六所宝塔の設置はその目的に於いて、八幡神祭祀の目的と重なるものであろう。
2011/03/13追加:
結局、安南宝塔院は宇佐郡(宇佐神宮寺)に建立されたのかどうかは良く分からない。六所宝塔は結局は建立されなかったのであろうか。
 →平成21年安南宝塔記念碑が建立される。→当ページの最下段 ●「安南宝塔」記念碑・顕彰碑の建立 を参照。

弥勒寺北伽藍の興亡:
※以下のように天台密教の影響の基に伽藍は建立された。

村上天皇代(946−67)本三昧堂建立。(規模・位置不明)
寛弘年中(1004−12)法華堂、常行堂建立。喜多院建立。
後一条天皇代(1016−36)新三昧堂、西常行堂、西宝塔創建。
 ※西宝塔は平面3間の大規模多宝塔
後朱雀天皇代(1036−45)西三重塔、東宝塔創建。(西三重塔は初期弥勒寺伽藍とは別の北伽藍塔)
 ※東宝塔は平面3間の大規模多宝塔
永保元年(1081)後白河天皇御願の新宝塔創建。
 ※東宝塔の北東に位置、東西宝塔と比べ多少小規模と推定。方3間多宝塔。
康和4年(1102)大弐堂(池中の法華三昧堂・前大宰権帥大江匡房願)創建御願。
 ※大塔については不詳。大鳥居東に位置する。方5間の大塔。
  但し応永指図(応永30年)によれば、入側柱は方3間に並び。これから類推して、天台系の方形大塔であったと
  推定される。(真言系大塔は内側柱は円形に並ぶ。)

寛永5年宇佐宮絵図(永青文庫蔵)○「八幡信仰事典」 より

「日本荘園絵図聚影 五下 西日本二・補遺」東京大学史料編纂所/編纂、東京大学出版会、2001 より転載
 寛永5年宇佐宮絵図0:2013/01/21追加
 永青文庫蔵、寛永5年2月、紙本着色、175×187cm

 寛永5年宇佐宮絵図(永青文庫蔵)
 寛永5年宇佐宮絵図の弥勒寺部分図
   ・・・この図は「宇佐宮絵図」を改変したものである。


細川(忠興)氏による慶長・元和の復興頃の絵図とされる。
新規造営54棟、修理19棟とされる。
ただしこの復興における弥勒寺関係の造営は祇園社・鳥居・西大門・祝堂・呉橋の5件、修理は仮講堂・仮金堂・鐘楼の僅か3件に留まり、塔婆が再興された様子はない。
この図も上記の応永の古図も「宇佐曼荼羅」的な要素を含む絵図であろう。


「宇佐之社内宮殿堂塔不建分目録」(寛永5年):「八幡宮の建築」 より
  ※以下のような堂塔と寸法の記載がある。

社内之分
1.上宮南大楼門、1.同国司屋、1.同東大門、1.同北大門、1.同西大門、1.同経蔵
1.楼門、1.下宮廻廊、1・同鶴羽屋、1.同求聞持所、1.同附家、1・同土器屋
1.内之大弐堂、1.直相殿、1.同門
1.三重塔 3間4面9尺間
1.大塔(旧多宝) 5間4面9尺間、1.東宮3宇
1.五重塔 3間4面6尺5寸間
1.馬場之庁、1.大尾蓮台寺、1.御馬所
弥勒寺之分
1.大講堂、1.金堂
1.東宝塔 3間4面9尺間
1.西宝塔 右同
1.東三重塔 右同
1.西三重塔 右同
1.新宝塔 右同
1.三重塔 3間4面8尺間
1.経蔵、1.輪蔵、1.経蔵、1.鐘楼、1.東大門、1.長僧坊、1.常行堂
1.南楼門、1.南大楼門、1.北大門、1.北中門、1.四王堂、1.庁之屋
1.廻廊、1.政所屋、1.神功皇后御墓所、1.応神天皇御墓所、1.護摩堂、1.地主伽藍、1.同拝殿、1.北之廻廊

豊前国宇佐宮絵図(到津家蔵)「八幡信仰事典」 より

豊前国宇佐宮絵図(到津家蔵)
   ・・・この図は「豊前国宇佐宮絵図」を改変したもので、弥勒寺の部分図である。
2002/9/25追加:弥勒寺伽藍概要図

※到津家は大宮司であった。享保8年に上宮炎上・享保15年に造営に着手。その頃の絵図とされる。
ただしこの「指図」の通りには、造営・再興は成就せず。

その後の弥勒寺
承和5年(838)の大火を初め多くの災害でも堂宇はその都度復興され続けたが、
嘉永年中(1846-54)で金堂・講堂が暴風雨で倒壊し、その後は復興が進まず、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となる。
往時の寺域は西大門と東大門間で約 150m、南北で約225mとされる。
講堂:桁行9間梁間4間で現在は礎石が現存する。
金堂:当初は桁行5間梁間4間であったが、鎌倉期に桁行7間梁間4間に拡張される。現状礎石が残る。
東西三重塔:一辺5.4mほどの小型塔であったとされる。
東塔跡は応永の造営で経蔵が建立され、経蔵の礎石が残る。
西塔跡は相撲場となっていたが、1998年の発掘調査で経蔵(東塔跡)および西塔の遺構の一部が発見されると云う。
西塔の一辺は約5mとされる。


2022/04/08追加:
宇佐八幡宮本殿
いわゆる八幡造であるが、その特徴は次の2点である。
1)八幡3神(八幡大菩薩/応神天皇/ほむたわけ・神功皇后/おきながたらしひめ・比賣大神)祭祀のため、三棟の本殿が建てられる。
2)3棟の本殿は切妻・平入の三間社流造で、身舎を二棟前後に並べて接続した形で、側面からは前後に二つの切妻が連なる形式である。前方の切妻造が外院(外殿・前殿)、後方の切妻造は内院(内殿・後殿)とよばれ、これは神の昼の御座と夜の御座だろうと云われる。
宇佐の祭神と創始については「八幡宇佐宮託宣集」に、第1殿は応神天皇で欣明32年(571)、第2殿は比賣神、天平年中(729-749)、第3殿は神宮皇后、弘仁年中(810-824)とある。しかし、応神信仰以前に原始八幡神の信仰があり、すでにこの時に仏教との習合があったとされ、その後原始八幡神と宇佐神との融合、さらに応神信仰との融合があったとされる。
創始のころからあった仏教的要素は社殿の造営とは別に神宮寺(弥勒寺)として収斂され、壮大な伽藍が建立される。
○「宇佐宮オフィシャルサイト」 より
 宇佐八幡宮本殿11:八幡造の特徴がよく表れている。
○「おおいたデジタルアーカイブス」 より
 宇佐八幡宮本殿12
○「大分県立歴史博物館サイト」 より
 宇佐八幡宮本殿13     宇佐八幡宮本殿14
○サイト「大分県立歴史博物館」>「旅するれきはく」 より
 宇佐八幡宮本殿16     宇佐八幡宮本殿17     宇佐八幡宮本殿18     宇佐八幡宮本殿19     宇佐八幡宮本殿20
 宇佐八幡宮本殿21     宇佐八幡宮本殿22     宇佐八幡宮本殿23     宇佐八幡宮本殿24
2022/07/19追加:
○「八幡市制35周年シンポジウム 八幡宮本殿の歴史と建築」平成25年 より
 宇佐八幡宮社殿配置

2012/05/19撮影:
◎宇佐宮現況
 宇佐宮呉橋1     宇佐宮呉橋2     宇佐宮呉橋3
 上宮南楼門1     上宮南楼門2     上宮南楼門3
 上宮一の御殿1    上宮一の御殿2    上宮二の御殿1    上宮二の御殿2    上宮三の御殿1    上宮三の御殿2
 上宮西大門1     上宮西大門2     上宮西大門3
 上宮南大門      上宮西中門      上宮北辰社
 宇佐宮若宮
 宇佐宮下宮1     宇佐宮下宮2     宇佐宮高倉     宇佐宮祇園社

上宮本殿3棟は国宝、第一殿は万延元年(1860)、第二殿は安政6年(1859)、第三殿は文久元年(1861)建立。
本殿は向かって左から、第1殿(誉田別)、第2殿(比賣神)、第3殿(大帯姫)と並ぶ。 それぞれは前殿・後殿の2つの切妻屋根を持つ。
若宮は重文、呉橋、上宮南楼門、上宮西大門、高倉、北辰社は県文(建築年代は何れも不明)

2012/05/19撮影:
◎弥勒寺諸仏・堂宇
金堂本尊薬師如来坐像などは大善寺に、講堂本尊弥勒菩薩・大貳堂本尊阿弥陀如来坐像は極楽寺に遷座・現存する。
◆宇佐大善寺
 
金堂本尊薬師如来坐像:重文、鎌倉期。丈六仏(高さ3.15m)。弥勒寺金堂本尊。
脇侍には日光・月光菩薩を配し、さらにその左右に不動明王・愛染明王を配す。日光・月光菩薩、不動・愛染も弥勒寺から遷すとの情報もあるので、これら4躯も弥勒寺の故仏であろう。慶応3年神仏分離の際、当寺が買い求めると伝える。
 大善寺薬師堂:この堂に弥勒寺金堂本尊薬師如来坐像を祀る。但しこの堂自体は弥勒寺とは無関係と思われる。
神宮寺観音堂:明治4年宇佐宮神宮寺(観音堂の元位置は良く分からない)から移建と云う。但し平成3年頃復元新築と云う。その折、正面桁と彫刻は当時(江戸期)の部材を使用すると云う。
 神宮寺観音堂1     神宮寺観音堂2     神宮寺観音堂3     神宮寺観音堂4
大善寺は呉橋から寄藻川上流150mほどにある。曹洞宗。
 宇佐大善寺全景
◆宇佐極楽寺
 講堂本尊弥勒菩薩坐像:丈六仏、県文。 弥勒寺講堂本尊。
 極楽寺弥勒堂:この堂に弥勒菩薩坐像を祀る。
 ※大弐堂本尊阿弥陀如来立像:鎌倉期と推定。明治の神仏分離で大弐堂は破壊、本尊は近くの松に吊るされていたと伝える。なお大弐堂跡には現在絵馬堂が建つと云う。
 大弐堂弥陀三尊円額模刻:円額も極楽寺へ遷されると云う。
 ※奥氏漆島門:現在極楽寺山門となる。元は宇佐宮神官である奥氏漆島並継の屋敷の表門と云う。
   →※印写真3点は他のサイトからの転載
 極楽寺:真宗本願寺派、宇佐宮昭和の大造営(昭和8〜昭和17年、国家神道もしくは天皇教の狂気によるものであろう)で宇佐宮境内(明治の神仏分離後も初沢池付近にあったと云う)から現在地へ移転と云う。
◆参考:大楽寺:元弘3年(1333)宇佐宮大宮司到津公連によって、創建と伝える。
以下の重文7躯を有する。
木造弥勒菩薩坐像及両脇侍像(平安後期)、木造四天王像4躯

2013/07/09追加:
○宇佐八幡宮弥勒寺仁王門
◇仁王門古写真
呉橋は弥勒寺仁王門に至る橋であった。つまり呉橋を渡った先すぐに弥勒寺仁王門があった。
この仁王門は明治の神仏分離にも無事であったが、昭和13年取壊されると云う。
 宇佐八幡宮旧仁王門:「明治維新神仏分離資料」より転載: 東から撮影、仁王門通路の向こうに移るのは呉橋である。
  なおこの門は弥勒寺伽藍の西大門に該当する。
◇ページ:「宇佐神宮今昔」 :仁王門が写る絵葉書の掲載がある。(転載)
 西参道鉄鳥居1      西参道鉄鳥居2:何れも西から撮影、呉橋の奥に仁王門が写る。

八幡神とは何か

「八幡神とは何か」飯沼賢司、角川選書、2004 より
八幡の成立とその展開については次のとおりである。
 
【境界の神・国家神】
古代、豊国は大和朝廷の軍事最前線であり、隼人と対峙する境界の国であった。
(さらには西北には大和と対立する筑紫、さらに日本海を隔てては朝鮮(新羅)があった。)
以上のような政治・軍事情勢の中で、八幡神は出現したものと考えられ、まさに八幡神は隼人征服の過程で出現した軍神と考えられる。またこの戦闘では多くの殺戮が行われたものと推測される。
そうだとすると、八幡神の「八幡」とは、唐の軍制の象徴である「八幡・四鉾」の八幡(軍隊の八流の幡・はた)に由来するであろうという説が妥当性を持つ。
 即ち、八幡神は、単純に共同体の祀る神や氏神ではなくて、国家政策の中で出現したものと考えられる。
養老3〜4年(719-20)、隼人の反乱があり、その鎮圧の後、
神亀2年(725)、小倉山に社殿が造営される。ここに八幡神が成立したものと推測される。
この社殿は山に背を向けているのではなくて(山岳信仰ではなくて)、南の隼人に向かって造営される。対隼人神というべきであろう。
 【佛教との邂逅】
この頃、豊国では法蓮が活躍していた。この法蓮に対して、破格の賞賛と待遇が与えられた記事がある。(続日本紀)
 (破格の封戸の寄進と宇佐の君の称号が授与される。)
これは、対隼人戦での佛教的医療行為に対する国家の褒賞と考えられる。
法蓮は国家による大量殺戮に対して「放生」などの佛教敵方策で「禍」を防止する策を採ったものと推測される。また当 時の佛教は山林修行を主体とする「禅」の一面も強かったと考えられ、法蓮の集団も山林修行を積み、虚空蔵寺を本拠にしながら、宇佐には弥勒禅院を建て、佛教的医療に当ったものと考えられる。(法蓮は宇佐弥勒寺初代別当、宇佐の 「放生会」は法蓮が始めたと伝える。)
 【八幡比売神】
また、一方では朝鮮(新羅)との緊張が高まり、神亀年中には政治・軍事的見地から香椎宮(仲哀天皇・神功皇后祭祀)が創建されるなどの出来事もあり、宇佐にも対新羅の境界神としての八幡比売神が出現したと考えられる。
要するに宇佐八幡宮は隼人に対する境界神・軍神(八幡神)であると同時に新羅に対する境界神・軍神(八幡比売神)の役割も付与されとものと思われる。
 【宇佐神宮寺の成立】
天平7年(735)天然痘が大流行し、中央でも大宰府管内でも多くの死者を出す。
天平9年、法蓮の弥勒足禅院を八幡宮境内に移す決定がなされる。
これは新羅の脅威と天然痘の恐怖とに対抗するため、軍神としての力と仏の救い(放生)を一体化させる意図が働いたものと解釈される。かくして宇佐神宮寺弥勒寺が成立する。
 【行基と法蓮】
八幡神の入京に繫がってゆく背景には以下のような政治状況があった。
行基と法蓮とは一見何のつながりもなく、ましてや中央の盧遮那大仏と八幡神の脈絡は一見全く無いとも思われるが、
行基は畿内、法蓮は鎮西を拠点としていたが、飛鳥寺道昭の影響(新約の仏典・禅の修行)を受けていたと思われる。
一方佛教を基底に据えた国造りを目指した聖武天皇は、天平12年(740)河内知識寺の盧遮那仏を拝顔、「知識」(権力者や富者による押し付けあるいは権力者・富者自身のための仏の功徳ではなくて、民衆の喜捨によって民衆自身が仏の功徳を受けるような信仰のあり方)という行基的な佛教のあり方に目覚めつつあった。
 (例えば、天平13年山城橋泉院にて行基と終日清談という。)
かくして、大仏造立は聖武天皇の発願で、一大知識を結ぶことで遂行された。
本来、天武以来の朝廷佛教は天皇の為の鎮護国家の佛教であり、行基の民衆への作善のための佛教とは相容れないものであったが、行基は聖武の変化を見て取り、大仏造立に協力を する。
聖武天皇の大仏造立の事業は「法都」紫香楽宮で開始されたが、このような聖武の「凡夫の菩薩」の国家構想は政敵(藤原仲麻呂・光明皇后)の反撃を招く。
(紫香楽宮周辺での度重なる怪火・放火は政敵のものとされ、紫香楽宮での造立は断念する。)
 ※紫香楽宮については近江国分寺を参照
 【八幡神の入京】
   ・・・・・・この項は直下の【聖武の理想と暗闘/聖武の娘・孝謙天皇(称徳天皇)と僧道鏡/国家神としての八幡大菩薩】
        の項で記載した内容と重複する。
天平勝宝元年(749)大仏開眼、宇佐八幡神は平城京に入京する。
この八幡神入京は、聖武天皇が理想とする佛教国家建設の最終段階(大仏開眼)で、既に逝去していた行基に替わるものとして、入京させ、大仏を守護する神 (国家神)とする意図であったと考えられる。
その後、聖武天皇は逝去。
天平勝宝7年、藤原仲麻呂派は、「厭魅(呪詛)」したとして、宇佐主神・禰宜・大和薬師寺行信などが配流される。
八幡神は封戸を返上し、四国宇和嶺に去ると云う。(八幡神の配流と考えられる。)
その後、十数年八幡神の動向は不明(記録に現れない)となる。


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聖武天皇の治世と大仏建立については、
 東大寺>平城京での大仏建立(初期東大寺)
 東大寺>東大寺の創建
   を参照
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【聖武の理想と暗闘/聖武の娘・孝謙天皇(称徳天皇)と僧道鏡/国家神としての八幡大菩薩】
  ※この項は背景色が「薄水色」の枠に記述する。

 ※聖武天皇の盧舎那仏建立のあらましは後日別ページ(大和東大寺・近江第一次国分寺跡)に掲載予定。

【聖武天皇の理想と暗闘/聖武と八幡神】
 まず、為政者にとって奈良初期の仏教の役割とは何であったのであろうか。
それは一言でいえば、朝廷が仏教に期待したものは天武以来の国家護持であり、天皇に奉仕する仏教であったと云える。
つまり、当時、民衆の中に入り込み民衆を救うのが仏法の役割であると考える行基の仏教とは対極にあったといえる。
故に行基は朝廷から弾圧されたのである。
 当時、朝廷は仏教を国家護持に奉仕するものと規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していたとされる。
行基は、その禁を破って行基集団を形成し、畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を広め、その上に困窮者の救済や社会事業をも展開していった。
行基は橋6所、道1所、池15所、溝7所、樋3所、舩息2所、堀4所、布施屋9所、道場や寺院を49院を建立・造営・整備したといわれる。(「行基年譜」)
  →行基菩薩開基49ヶ院
 以上のように、権力者にとっての仏教は国家護持の役割が期待されたものであったが、聖武天皇は、今までの権力者にない仏教の把え方をしていたようである。この意味では聖武は”異形の天皇”であったようである。
   ※聖武は、武力(壬申の乱)による皇統簒奪を行った天武系の天皇である。文武天皇の第一皇子、母は藤原不比等の娘・宮子。

 天平15年(743)聖武天皇は近江紫香楽宮で大仏建立の詔を発す。
詔では大仏建立の趣旨を次のようにいう。
 即ち、仏法は国家のためだけにあるのではない。衆生の救済(衆生済度)こそが仏法の役割・使命である。
そうであるならば、民衆の中にある知識(民衆が一人一人の財や労力を提供し、仏の功徳に与ろうとする組織)を動員して、大仏を建立することこそが民衆の皆が同じく利益を受け、民衆が菩提の境地に達する道であると確信する。
以上のような意味で朕は大仏建立を発願する、と。
  →この項末尾の補足資料1:大仏建立の詔:「続日本紀」原文及び口語訳を掲載。

 加えていうなれば、聖武が衆生済度・知識の動員の考えに至った契機は河内大縣の知識寺にあるという。
天平12年(740)聖武は「河内大縣の知識寺」に立ち寄り、廬舎那仏を拝する。
  ※このことは天平勝宝元年(749)の詔で述べられている。
知識寺という寺院で強調すべきは、知識寺は特定の氏族が建立した寺院ではなく、多くの人々の財や労力で作り上げられた寺院であったということである。
聖武が知識寺にて盧舎那仏を拝したという行為によって、聖武は知識寺にて仏教の在り方について多くを学んだに違いない。
 聖武が仏教の役割を民衆の救済に求めたことにより、行基と聖武の接点ができる。
聖武は知識という力で大仏建立を果たそうとし、知識の結集こそが真の仏教という自覚にいたったからである。
行基は大仏建立の先頭に立つ。これは聖武が行基を取り込んだというより、行基がこれまでの鎮護国家の仏教を変えさせたというべきであろう。
以上のような意味で、聖武が大仏建立で目指したのは全ての人民が上下なく菩薩の大願に参加できる「菩薩国家」であったといえよう。
さらに、翌年天平13年、聖武は「山城泉橋院」に逗留していた行基を訪ね、終日清談する。
 聖武十八年天平十三年辛己三月掩留山城国
 泉橋院、十七日申時、天皇行幸給、奉拝大僧正矣。拝訖給、御座終日並談説給。・・・・(「行基年譜」)
  ※おそらく、聖武は行基から多くのことを教わったのであろうと推定される。

 しかしながら、聖武の理想は順調に進むように見えたが、現実はそのようにならなかった。
以下は骨子だけを記す。
 聖武は恭仁・紫香楽・難波と次々と都を遷す。
紫香楽は法都であり、恭仁と難波は政治都市を企図したものであったが、裏には聖武に対立する政治勢力があった。
聖武は藤原氏を嫌っていたのであろう。その対立する勢力とは光明皇后(藤原不比等娘)と平城京の藤原氏(中心は仲麻呂)であった。
紫香楽宮では周囲の山々で不審火が相次ぐ。
 この対立の結果、聖武は藤原氏を中心とする対立勢力に抗しきれず、平城京へ帰ることを余儀なくされ、さらに側近の僧玄ムは観世音寺に左遷され、玄ムは間もなく逝去する。
さらに、聖武の理解者であった元正上皇(父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇)が崩御、天平21年(749)行基も寂し、聖武は娘安倍内親王に譲位、孝謙天皇が即位する。

 しかし以上のような逆境に至るも、聖武は理想主義者であり、その異様さは”異形の天皇”といわれる後醍醐に匹敵する。
聖武は容易に政敵に屈しなかったのである。
 紫香楽で頓挫した聖武の大仏造立事業は光明皇后と藤原仲麻呂の主導で、紫香楽宮ではなく平城京の東大寺で進行する。
ただ、大仏造立事業は進展するも、顧みるに、現実世界は、聖武の理想とはかけ離れ、まだまだ仏教の功徳から縁遠い人々で溢れている。
聖武にとって、これを打開するには全ての神々の仏教への帰依が必要であると判断するに至ったのであろう。
聖武の政治の思想は誰もが仏教に深く帰依し、仏の道を目指す菩薩j国家の建設であることは既に述べたとおりである。(「大仏建立の詔」)
 聖武はそこで、八幡神の入京といういわば奇策を企図する。
その前段として、聖武は次の策を打つ。
天平20年(748)造東大寺司を設置、大仏造立の主導権の奪還を狙う。
同年、八幡大神の祝部大神宅女と大神社女に外従五位下が授けられる。
翌天平21年行基から菩薩戒を受ける。(その後行基寂)
同年、側近左大臣従一位橘諸兄に正一位を、大納言従二位藤原豊成に右大臣、などなどの位を授ける。
同年、聖武は退位。
同年、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺と法隆寺以下の諸寺に墾田などの施入を実施、仏法による万民の法悦を願う願文を発する。
この勅書には左大臣橘諸兄、右大臣藤原豊成、大僧都行信の連署があり、聖武の理想を体したものである。
 ※行信は行基の弟子と云われ、僧綱所の長官、法隆寺僧であり、聖武が聖・俗のトップを束ねた形となる。
 繰り返すが、聖武の願いは、多くの人々が造仏の功徳に浴し、「凡夫の菩薩」の道を歩み始めることであり、それが聖武の理想である。
しかし、現実には仏教の功徳とは無縁の人々が世に溢れているのが現実である。
 聖武は、このような仏法とは無縁の人々を菩薩の道に導くのは、日本の全ての神々の仏教への帰依が必要であるとの判断に至ったのであろう。
聖武は、全ての神々の仏教への帰依が必要との認識から、八幡神の入京という奇策を企図する。

天平勝寶元年(749)11月1日、禰宜大神杜女と主神(かんつかさ)大神田麻呂に大神朝臣の姓を授与、19日、八幡大神は託宣して、禰宜と主神は辺境の発生の地・西方の辺境の守護の地・放生会により疫病から国家を守護した地から、平城京に向かう。
同年12月27日、八幡神禰宜大神杜女は輿に載り、東大寺に入り、杜女が大仏を礼拝する。
 ところで、文武百官を率いた孝謙天皇・聖武上皇・光明皇太后が行幸している東大寺へ辺境の神官が輿に載り大仏を礼拝するという有り得ない行動は何を意味するのか。
 八幡神の女禰宜は託宣を司る役割であり、神がかる、神の憑依するシャーマンである。
この当時の宇佐では、神体(現在神体は薦枕という)は存在せず、杜女自体が八幡神の依り憑いた憑坐(よりまし)であり、杜女が東大寺の大仏を拝するとは神が大仏を拝したことに他ならない意味を持つ。
この時、杜女は「禰宜尼大神朝臣杜女」「尼杜女」と呼称されている。さらに杜女の入京の前には僧侶40口を招き、悔過が行われ、杜女(八幡神)の通過した国々では殺生禁断が命ぜられ、従者の給仕には酒や宍(肉)は用いられなかった。
つまり、禰宜を尼といい、神前読経、殺生禁断などは神仏習合の行事に他ならない。日本で一番早く仏教と遭遇し、仏教的医療行為である放生会を実施し鎮護国家を実現しつつあった八幡神は日本の天神・地神を仏教の道に導く神として、神々の頂点ぶに立ったということを意味するのである。
 以上が天平勝寶元年の八幡神禰宜杜女の入京の意味である。

 かくして、聖武の理想とする菩薩国家は順調に進展するように見えるも、その裏では、光明皇后・仲麻呂などの反対勢力は皇后宮を拡充した紫微中台(しびちゅうだい)という新しい組織を作り始める。
天平感寶元年(749)紫微中台の長官(紫微令)には大納言正三位藤原仲麻呂が任命され、それ以外にも反聖武派の面々の任命が発令され、聖武とその反対勢力との確執が露骨となる。その他の人事については割愛。
 藤原仲麻呂などの動きに対し、聖武は
天平勝寶2年(750)八幡大神及び八幡比賣神に封戸・位田などを賜う。
同年、聖武は藤原乙麻呂(仲麻呂の弟)をおそらく引き込む意図で、従三位に叙し、太宰帥に任ずる。
翌年、聖武は病臥する。
天平勝寶4年(752)東大寺盧舎那大仏の開眼供養、これは盛大なイベントであったが、この時「続日本紀」には聖武上皇・孝謙天皇の行幸があったとするが、光明皇后の臨席の記録は見られない。(東大寺の記録には皇后の臨席の記録はあるという。)要するに、聖武の存在が揺らいでいるということであろう。
 この頃、仲麻呂らの攻勢が強まる。国内の神々を従え盧舎那大仏に礼拝した八幡神は排除される。
即ち、
天平勝寶6年(754)薬師寺行信及び八幡大神の主神多(田)麻呂・禰宜大神杜女が「厭魅(えんみ)=呪詛」の罪で配流される。
行信は聖武により大僧都に任ぜられ、僧綱所のトップであって、聖武の仏教政策を推進した人物であるが、下野薬師寺に配される。
 大神杜女は八幡神が憑依した禰宜であり、多麻呂は大神杜女の入京の時の立役者であるが、両名とも位階は剥奪、杜女は日向に、多麻呂は多禰島に流される。彼らが怨念を抱いた人物とは光明皇太后・藤原仲麻呂以外にあり得ない。
天平勝寶7年(755)八幡大神託宣して封戸や位田を返上する。また「八幡宇佐宮御託宣集」には大神杜女と大神多麻呂の罪によって、社殿が汚されたとして、八幡神は宇佐の地を離れ四国宇和嶺に去り、十数年帰還せずとある。
 封戸や位田を返上するとは如何なる意味か、禰宜杜女が配流されるとは、神自らの罪と認識されていて、宇和嶺への遷座は八幡神の配流と考えられる。ここに、遂に八幡大神は罪を得て、追放されたのである。
天平勝寶8年(756)聖武の腹心であった左大臣正一位橘諸兄は官位を辞し、引退する。
同年、聖武逝去する。聖武は佐保山陵に葬られる。
葬儀は完全に仏式であったという。聖武の菩薩国家の夢は潰えたといえる。
  ※この項末尾の参考資料2:佐保山陵
   聖武山陵及び(「寝園看侍」の寺・眉間寺、多聞城については「大和眉間寺」を参照。
  ※橘諸兄については、遺跡の評価は不安定であるが、→山城井手寺跡(圓提寺/井堤寺)がある。


【聖武の娘・孝謙天皇(称徳天皇)と僧道鏡】
 天平勝寶9年(757)天武側近であった橘諸兄が逝去。
同年、聖武上皇の違勅で立太子した皇太子道祖王(ふなどおう/天武の孫)が僅か9ヶ月で廃される。
 ※道祖王は次に述べる【橘奈良麻呂の乱】に連座し、拷問死する。
道祖王廃太子の後、群臣に立太子のことが諮問されるも、大納言藤原仲麻呂は大炊王(天武の子である舎人親王の子)を孝謙の皇太子とする。
大炊王は仲麻呂の長子真従(早世し既に故人)の未亡人である粟田諸姉を妻に迎えていた人物で、あからさまな仲麻呂の傀儡である。
 ※大炊王は天平寶字2年(758)孝謙天皇から譲位され、践祚する。いわゆる淡路廃帝である。
天平寶字8年(764)恵美押勝の乱が発生、廃帝はこれに加担しなかったものの、孝謙上皇により廃位を命ぜられ、淡路国に流される。
淡路配流後、廃帝は逃亡を図るが捕捉され、その翌日に崩御する。公式には病死と云うも、これは暗殺と云われる。
敵対した称徳天皇の意向により天皇と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれる。漢風諡号「淳仁天皇」は明治時代になって贈られたものでしかない。
   ※この項末尾の参考資料3:淳仁天皇淡路陵
 以上の例でも分かるように、仲麻呂は既に朝廷権力を完全に掌握していたが、それでも反仲麻呂の勢力が蠕動する。
それは、仲麻呂を追い落とすクーデター計画であり、故左大臣橘諸兄の長子奈良麻呂・大伴古麻呂らの勢力であった。
ただ、仲麻呂はこれらの動きを察知していたと云われ、橘奈良麻呂・大伴古麻呂らを左遷する。
同年7月、クーデター計画が密告で露顕する。【橘奈良麻呂の乱】と云われる事件である。
密告を受け、廃太子道祖王の自宅が包囲され、奈良麻呂以下の関係者が次々と捕縛される。
まず、小野東人、答本忠節らを拷問にかけ、東人らは謀反を自白する。その内容から、橘奈良麻呂、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味と判明する。彼らも捕縛され、獄に移され、杖で全身を打つ拷問が行われる。
道祖王、黄文王、古麻呂、東人、犢養、角足は同日、拷問により絶命する。首謀者である奈良麻呂の動向が『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと推測される。
死に至らなかった安宿王は佐渡島、大伴古慈悲は土佐国に配流、他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼるという。
 この乱(変)は以上の結末であったが、これにより聖武派と目される勢力は一掃されることとなる。
【橘奈良麻呂の乱】の処分が終り、孝謙天皇は元号を「天平寶字」と改元し、藤原仲麻呂の傀儡である淡路廃帝が即位する。
ここに仲麻呂の専制政治がスタートする。仲麻呂は右大臣に昇格、朝廷の官名を唐風に改易する。同時に仲麻呂一家には藤原恵美姓を賜り、仲麻呂は恵美押勝と名乗る。
 この頃、八幡大神は宇佐の託宣集では宇和に遷座したことになっているが、前にも述べたようにこれは八幡神の配流とも考えられ、宇佐には比賣神のみ鎮座していたのであろう。おそらく小倉山の社殿も破却されていた可能性が高く、仲麻呂は聖武に関係するものは徹底的に排除したのであろう。

 朝廷は、夫聖武の理想を認めることが出来なかった光明皇后の権力を上手く利用した恵美押勝によって掌握される。
押勝には、誰も敵することはできないような体制になったと思われる。
天平寶字4年(760)孝謙の母光明皇太后が逝去。
【孝謙と道鏡の邂逅】
翌年、近江保良宮にて孝謙は看病禅師道鏡と出会う。
天平寶字6年(762)孝謙上皇と淡路廃帝とが仲違いし、上皇は法華寺に入り、廃帝は中宮院に入る。孝謙は国家の大事・賞罰は自ら行うと宣言し、決裂は決定的となる、
翌年、少僧都慈訓を解任、道鏡を少僧都に任ず。慈訓は興福寺別當で仲麻呂政権の仏教政策を担う中心であった。
天平寶字8年(764)孝謙勢力と廃帝・仲麻呂勢力の間で中院院の鈴・印の争奪を期に【恵美押勝の乱】が惹起する。
押勝は近江に走るも、戰に敗れ斬首され、首は京に送られる。
 ※乱の戦緒では押勝が優勢と思われたが、主将が相次いで射殺され、近江・越前に逃れる。
 冷遇されていた吉備真備は追討を命ぜられ、越前より北近江(湖西)に進出した押勝を攻め、
 敗れた押勝の一家・一族は皆殺しとなる。歴史的な転落劇と云われる。
左遷されていた太宰員外師藤原豊成を右大臣に復任させる。
孝謙は宣命を発し、道鏡を大臣禅師とする。
「朕は出家の身であるが政を行わざるを得ない、経典にもあるように国王が王位についているときには菩薩戒を受けよとある、出家が政を行うことに支障があるだろうか、無いとすれば帝が出家している間には、道鏡禅師の願いではないが、出家している大臣があっても良いと思慮する」と。
 孝謙の父聖武は全ての人々(衆生)が仏に帰依する菩薩国家を目指した。その娘である孝謙の眼には太政官の大臣と僧綱所の大僧都が一体となり政を行う政体を目の当たりにしていた。だとすれば、孝謙の政体はまさに父聖武の政体の発展したものと云えるのではないか。
同年、八幡神は八幡神官と大僧都行信の厭魅事件によって神々の頂点から転落し、流罪同様となっていたが、その八幡神に封戸が奉られ、右大臣藤原豊成は先に下された勅書・官符などを焼却せよとの勅令を出す。
これは孝謙が父聖武の政治姿勢の復活を宣言したものに他ならない。
 孝謙は続けて、放鷹司を廃止、放生司を設置し、仲麻呂の乱の時の殺生の報いに備える手を打つ。
次に中宮宮を囲み、帝を廃帝とし淡路国に幽閉する。
翌年、天平神護元年(765)孝謙は重祚し、称徳天皇となる。
ここに出家した上皇が出家のまま皇位に就くという前代未聞の政治体制となる。
続けて、淡路廃帝が殺害され、道鏡が太政大臣禅師に進む。
 称徳天皇は践祚大嘗祭にて、「朕は仏の弟子として、通常の大嘗祭とは違う祭とする、第一に三宝(佛・法・僧)に仕え、第二に天社・国社を祀り、第三に天下万民を愍み慈しむ覚悟で再び天皇として天下を統治する」と宣言する。
まさに、神仏習合の政治の宣言であった。
天平神護2年(766)右大臣藤原豊成逝去、後任に藤原永手を右大臣に任命、八幡比賣神に封戸を返還する。
さらに伊勢大神の寺に丈六の仏像を造立する。
続けて称徳は、道鏡に法王の位を授け、多くの大法師を任用し、右大臣永手を左大臣、吉備真備を右大臣に任じ、出家天皇・法王道鏡を中心にして太政官に僧俗を混在させる政体を強化していった。まさに仏教政治の理想を現実化したものであった。

なお、孝謙(称徳)天皇が発願して建立した寺院は西大寺と西隆尼寺がある。
孝謙(称徳)は父聖武の東大寺・法華滅罪寺を目指したのであろうか。何れも官寺・官寺に準ずる扱いを受ける。
  →大和西大寺大和西隆寺跡

 ※勿論、宗教が権力と一体化することの怖さ・狂暴さは戦前の日本の歴史が証明しているところであるが、この事は今は問わない。
 ※道鏡は我々のような凡夫ではなく優秀な高邁な僧であったのであろうが、本当に野心や権力欲がなかったのか、女帝と道鏡の関係性の危うさについても今は問わない。
 ※聖武や称徳帝の思考や行動が本当に仏典に則するものだったかどうかについても、今は判断を留保する。
ただ、知識寺で取得したといわれる聖武の知見や「大仏建立の詔」などの文意だけから判断すれば、聖武は民衆の救済を目指していたものと判断できるとも云ってよいと思う。
 しかし聖武は、その高邁な理念とはおよそかけ離れた骨肉の争いと云わざるを得ない冷酷な権力闘争に明け暮れた上に、大仏建立という国家事業は底辺の民衆の搾取なしには成り立ちえないという批判などがあることは十分受け止めとめなければならない。
 ※以上のような前提はあるが、聖武の実像は藤原氏との暗闘を戦い抜き、その在位中は藤原氏を剛腕で曲りなりにもねじ伏せた「古代帝王」であり、帝王であった故に独善であり、民衆を抑圧・支配した権力者であったのは間違いないと思われる。
しかしながら、帝王でありながら、否、帝王であるがゆえに、仏教の教えでもって民衆の救済(衆生済度)を目指した帝王でもあったとも思われる。
勿論、大仏建立の詔に示された「智識を動員しての大仏建立=菩薩国家の建立」が聖武の思想の全部とは云わないが、少なくとも古代帝王には珍しい”異形の天皇”であったと評価できるのではと思われる。
 聖武は専制君主である厳然たる「古代帝王」であり、しかるに仏教徒※でもあった矛盾に満ちた天皇であると総括できるのでないかと思う。
 ※仏教徒という言い方は違和感があるであろうが、確かに聖武はヤマト朝廷を継承した帝王・天皇ではあるが、大嘗祭ではまず第一に読経をし、66ヶ国に鎮護国家の国分僧寺・尼寺を建立し、最後は仏式で葬られた(「続日本紀」)ような事跡をもってして、仏教徒といってよいのではないか。皇室行事が強引に神道と称するエセの様式に改変されたのは、高々明治維新のどさくさに紛れてであり、古来からの様式とはほぼ無関係と知るべしであろう。


【道鏡事件の経緯】
 神護景雲3年(769)初夏、大宰府の主神中臣習阿曽麻呂(かんづなかとみのすげのあそまる)を通じて宇佐八幡宮より、「道鏡をして皇位に即かしめば、天下泰平ならむ」との神託がもたらされた。
称徳天皇は和気清麻呂を玉座の下に召して「昨夜の夢に八幡神の使者来り、八幡大神の託宣を聞くために法均尼を送るべしと語る、そこで清麻呂お前が代りに大神の託宣を聞くべし」と命ずる。(「続日本紀」)
法均尼は女帝の近習で信頼の篤い女官であり、清麻呂はその弟である。天皇・道鏡の期待に応えてくれるはずであった。
 しかし、清麻呂は日本は「開闢以来君臣定りぬ。臣を以て君とすは未だあらず、天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は早に掃ひ除くべし」との神託を持ち帰り、天皇・道鏡の怒りを買う。
清麻呂は、最終的には大隅に流され、法均尼は還俗のうえ、備後に配流される。
 貴族たちの道鏡に対する反目を察知した称徳は文武百官に対し、長文の詔を発す。
その要旨は4点あり、それは次の通りである。
 1.元正天皇(天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女で独身で最初に皇位に就く、母は元明天皇、聖武天皇の伯母)の詔を引用し、聖武の子・安倍皇太子(孝謙・重祚して称徳)を支えるよう説諭する。
 2.父・聖武の詔を引用し、聖武と同じように安倍皇太子を支えることを訴求した上で、聖武からの引き継いだ天皇としての心構えを説く。それは政治の要諦は一番に三宝を隆盛にすることで、具体的には仏・仏法・僧を第一という教えであり、二番目は皇位は天の意思であり、天意でない皇太子を替えるのは天皇の裁量であるとし、道鏡の皇位への道を妨げることに強い警告を発する。
 3.皇位の資格とは何か、それは諸聖・天神・地祇の御霊が許さなければならず、「最勝王経」の王法正論品を引き、説諭する。
 4.五位以上の官人に対し、紫綬の帯を与え、朝廷の結束を訴える
  というものであった。
 ここから、道鏡を皇位にという称徳の夢は清麻呂らの行動で潰えたが、なをその夢を捨てていない称徳の強い意思が読み取れる。
その後、称徳は河内由義宮(道鏡の出身地)に行幸し、ここを西京とすることを宣言する。
 しかし、神護景雲4年(770)称徳天皇は病を得て、あっけなく崩御。
道鏡は法王の地位を剥奪、下野薬師寺に実質配流、和気清麻呂は召喚され、政界に復帰する。
 以上が道鏡事件のあらましである。

 ※和気清麻呂については→山城足立寺跡(山城西山廃寺)と云う寺跡があるが、これについては少々怪しい由来ではある。

世上というか皇国史観のはしりというか、「平安期より道鏡は女帝を籠絡し、皇位を望んだ大悪人国賊」とされ、「清麻呂は皇室を護った大忠臣」として、京都護王神社などで大善神として祀られている。都合よく歴史を解釈して、自己正当化を図るのが権力の常套手段というべきであろう。

 さて、孝謙と道鏡との下世話な関係は「続日本紀」にはないが、「日本霊異記」に取り上げられている。
日本霊異記は薬師寺法相僧景戒の作で、成立が平安初期であるから、道鏡の事件とは僅か20年前後に成立したものでほぼ同時代の作と云ってよい。
 <又宝宇の八年十月に、大炊(おほひ)の天皇(すめらみこと)、皇后(おほみおや)の為に賊(う)たれ、天皇の位を輟(や)めて、淡路国に退き逼迫(せま)りたまふ。並(また)仲丸等と又氏々の人とを、倶(とも)に殺死(ころ)しつ。彼(そ)の先に天の下挙(こぞ)りて歌詠(うた)ひしは、此の親皇(おほきみ)の殄滅(ほろ)びたまふ表相なりけり。
   ※淡路廃帝は殺害されたと云っている。
 <又、同じ大后の坐(ま)しましし時に、天の下の国挙(こぞ)りて歌詠(うた)ひて言ひしく、
  法師等を裙着(もは)きたりと軽侮(あなづ)れど、そが中に腰帯薦槌(こしおびこもづち)懸(さが)れるぞ。弥(いや)発(た)つ時々、畏(かしこ)き卿(きみ)や。
又咏(うた)ひて言ひしく、
  我が黒みそひ股に宿(ね)給へ、人と成るまで。
是(か)くの如く歌咏(うた)ひつ。帝姫阿倍の天皇の御世の天平神護の元年の歳(とし)の乙巳(きのとみ)に次(やど)れる年の始に、弓削(ゆげ)の氏の僧道鏡法師、皇后と同じ枕に交通(とつぎ)し、天の下の政(まつりごと)を相(たす)け摂(と)りて、天の下を治む。彼の咏歌(うた)は、是れ道鏡法師が皇后と同じ枕に交通(とつぎ)し、天の下の政を摂りし表答なりけり。>
  ※称徳天皇と僧道鏡とは同衾し、交通(とつぎ)/まぐわひ/ したとある。おそらく、称徳と道鏡は男女関係にあったのは間違いないであろう。 男帝は何人との女性とも交通(とつぎ)するのが普通である時代であり、女帝が、ましてや未婚の女帝が男性と交通(とつぎ)しても不思議はないだろう。

【道鏡事件の真相】
 繰り返すが、これまでの一般常識というより「天皇は至上の存在」というバイアスのかかった見方では、道鏡は罹患した天皇を看病することによって、天皇の心をとらえ、道鏡に夢中になった天皇が僧・道鏡を大臣に任命し聖俗一体の政治形態ができあがったというものである。
 勿論、公式の歴史書「続日本紀」には道鏡と天皇の肉体関係は書かれていないが、ほぼ同時代といっていい「日本霊異記」には情交があったと書いてある。交通(とつぎ)があったと考えざるを得ない。
 しかし、男女の関係にあったかどうかは別として、女帝は本当に道鏡に籠絡されたのであろうか。
 それは、否であろう。
上に縷々述べてきたように、女帝が天意によって道鏡を天皇に、つまり菩薩皇帝の地位に就けようと考えていたことは間違いない。
八幡神の「道鏡を天皇に」との託宣により、その真偽の確認に和気清麻呂が宇佐へ派遣される。清麻呂は天皇の意思に忠実であるのかこれまでの天皇制を終わらせるのかの重大な使命を負ったと云える。
 この時、八幡神の託宣を告げるシャーマン(霊媒者)は禰宜・辛島輿曾女(賣)/よそめ/であった。
既に聖武天皇治世の時の主神多(田)麻呂・禰宜大神杜女は「厭魅(えんみ)=呪詛」の罪で失脚し、輿曾女がその任にあった。
 ここで問わなければならないのは、輿曾女は本当に清麻呂が持ち帰った「無道の人を排除せよ、日嗣(皇太子)は皇籍を以ってせよ」の託宣を出したのであろうかということであろう。
 和気清麻呂は、事件の終わった宝亀4年(773)豊前国司としていた大宰府管轄下にある対馬・壱岐の亀卜師を呼び寄せ、辛島輿曾女の託宣の真偽を占わせている。結果は辛島輿曾女と宇佐池守は「三火不合」で偽託宣を出したと判定される。
しかし、辛島輿曾女は清麻呂に抵抗し、翌月には大神田麻呂を大宮司、宇佐池守を少宮司、辛島輿曾女を禰宜とする託宣が出たとする。(「石清水文書」)
つまり、辛島輿曾女の託宣を偽としたことから、清麻呂の伝えた託宣は辛島輿曾女の出した託宣とは違うという結論になる。おそらく辛島輿曾女は「道鏡を皇位へ」という託宣であった可能性が高い。なぜなら、そうでなければ、清麻呂が辛島輿曾女を宇佐から放逐しようとした理由が説明できない。
 宇佐の八幡神は天平勝寶元年(749)入京し、盧舎那大仏を拝する。この入京の意味は八幡神が全国の「天神・地祇」を率いて大仏建立の事業を後押しし、これは八幡神が国中の神々を神仏習合の世界へ誘う役割を担ったあるいは担わされたということを意味する。聖武天皇の菩薩国家実現の推進の一端を担ったということである。
 その後、藤原仲麻呂の権力掌握で八幡神はその姿を抹消されるが、仲麻呂を殺害した称徳天皇によって八幡神は復活する。
 このことを前提とすれば、宇佐八幡の託宣は聖俗一体・神仏習合の国家を称徳天皇と道鏡の意図に合致した託宣が出されなければならない。しかし、清麻呂はそのような託宣ではなく、否定する託宣を持ち帰る。姉広虫はいかに称徳の側近だとしても、貴族としての基盤を失わさせかねない称徳の意図に合致する託宣を持ち帰る訳にはいかなかったのだろう。
 清麻呂は女帝を怒らせ、左遷される。
そして、道鏡の帝位への道は称徳の死によって、閉ざされる。
もし、称徳の死がなかったら、日本の天皇制は称徳で断絶していたかも知れない。そう考えると称徳の死は必然でなければならなかった。
確たる証拠はないが、称徳は殺された可能性は十分にあるだろう。
そして「日本霊異記」にあるように、道鏡は天皇と情交し、天皇を籠絡し、皇位に登ろうとした悪人であるとの伝説を作りあげ、称徳天皇によって天皇制が否定され、その終焉を迎えた可能性があった事実を覆い隠したのであろう。おそらくその黒幕は藤原氏であろう。

 ※託宣とは一体何なのか。
それは、神の意思と偽り、権力者・支配者の意思を宣言したものにすぎない。
権力者・支配者は神に位階を授け、封戸を与え、奴婢も下付する。
権力者・支配者にとって、神であってもそれは政体の一組織でしかない。
当然、神と雖も権力者・支配者に忖度し、相互の共栄を図るのが世の常であろう。
特に国事に関する八幡神の託宣という場合、それは時の権力者の意思の表明と考えて大過はない。

 ※聖武の娘・孝謙天皇(重祚して称徳天皇):
戦前には触れてはいけないタブーの天皇であったという。
女帝であり、道鏡との不義密通が公然であり、即位した大炊(淡路廃帝・明治3年淳仁と諡される)を弑し、重祚し、さらに道鏡にたぶらかされた天皇・・などが危険な天皇という評価だったのだろう。
 第一に、皇太子道祖王を廃し(拷問死)、橘奈良麻呂の乱(クーデター)を粛清、大炊(淡路廃帝・淳仁)を廃位し殺害(殺害であろうとされる)、藤原仲麻呂の乱を武力制圧し皆殺しするなどの主として天智系に軸足を置く藤原氏との権力闘争を乗り切り、今の感覚ではおよそ女帝とは思えぬ剛腕・非情な武闘派を思わせる古代帝王であった。
 第二に、重祚した称徳は父・聖武の理想とした菩薩国家を目指すという評価もあるが、その思想があったのかは、よく分らない。
確かに、道鏡との共同で、僧俗の混在した政治体制で政を行ったのは事実であるが、この事がただちに「菩薩国家」を目指したということにはならないだろう。
 第三に、女帝は未婚であり、つまり孝謙の後には皇位継承の見通しが立たないという状況であり、女帝が道鏡に皇位を譲る願望があったのは種々の詔の趨勢をみる限り確かであろう。女帝が道鏡に譲位するとはヤマト朝廷の皇統が断絶し、別の帝王が新しい王朝を始めるということに等しいことを意味する。天武天皇が武力で天智帝の朝廷を簒奪するのとは全く違うことなのである。女帝はこの事を理解せず、私的な感情で道鏡に譲位するということに走ったのであろうか。
 確たる証拠はないが、ヤマト朝廷を断絶させかねない称徳の意思を感じとった藤原氏によって、称徳女帝は殺害されたのではないかという説が妙に現実実を帯びてくる。かくして、称徳の没後、天武系は絶え、没後に践祚した天智系の桓武天皇や藤原氏により、平城京から長岡京・平安京へと遷都される流れは、称徳帝が殺害された傍証であるのかも知れない。
 なお、称徳女帝の後、女帝は江戸初期に即位した第109代明正天皇まで絶えてないことを付言して置く。


【八幡大菩薩の出現】
 称徳天皇の死後、即位したのは天智系の皇統である白壁王(光仁天皇)であり、聖武−称徳朝の仏法護持の八幡神は光仁にとって好ましい存在ではなかった。しかも称徳女帝の妹・井上皇后と他戸(おさべ)皇太子を廃して、皇太子の地位についた桓武天皇は聖武−称徳朝のものには嫌悪感があったのは間違いない。
 それにも関わらず、桓武朝初期に八幡神は順調に発展する。
天應元年(781)桓武即位、八幡神は「大自在王大菩薩」と称するという。
延暦2年(783)「護国霊験威力神通大自在王大菩薩」と称することを託宣する。
その他多くの官符などに「八幡大菩薩」とあり、八幡神は大菩薩と称することが一般化する。
天應から延暦にかけて、宇佐では旧宮の改造、神体の遷座、封戸が完全に回復され、聖武の時代に得たものが完全に復活する。
 では桓武にとって危険な神であるはずの八幡神はなぜ桓武の治世下で復活したのか。それは桓武は八幡神を抹殺することを懼れていたのである。
称徳天皇は宇佐の八幡神を天意と捉え、父聖武の意思と重ね合わせていた。
後には八幡大菩薩は應神天皇霊となるが、この当時は「太上天皇御霊」と見られ、それは聖武太上天皇霊とみられていた可能性が高い。
 さらに八幡大菩薩は既に宝亀8年(777)に出家した(沙門となる)という記録が託宣集に見られる。
出家した日は5月19日で、この日付は聖武の完全は仏式での葬儀の日でもあった。
八幡神の出家は八幡神入京の時に約束されていたが、聖武の治世下でも、称徳のそれでも実現しなかった。それは称徳・道鏡の政治体制を否定した光仁天皇の時にやっと実現する。
 これには八幡神の怨霊神としての性格を加味しなければならない。
聖武の菩薩国家の実現は娘称徳天皇に引き継がれ道鏡政権の時その極に達するも、藤原氏を中心とする強い反対で頓挫し、その後は光仁の治世となる。光仁は聖武の皇女井上内親王を皇后とし、それが即位の要因であった。
ところが、宝亀3年(772)皇后井上内親王とその所生の皇太子他戸皇太子を難波内親王(光仁の姉)への厭魅の罪で廃し、幽閉する。
宝亀6年両名は幽閉先で変死する。これは道鏡事件にも係わった藤川百川らが関与したと云われ、聖武の子孫は完全に抹殺される。
 宝亀5年から7年にかけて、光仁即位に動いた藤原蔵下麻呂・藤原良継が没し、光仁と山部皇太子(桓武)も病気となる。
同じ頃、西大寺西塔に落雷、夏には大風、全国での蝗の害、原因不明の落石、などなどが頻発する。
これらは井上皇后の怨霊の仕業と見做された。
八幡大菩薩の出家はこの頃の宝亀8年(777)の5月19日であった。
 光仁と山部皇太子は一連の災害や近臣の死や病気を井上皇后の怨霊と認識しただけではなく、八幡神と重なりあった聖武の怨霊も感じたのでろう。しかし、聖武や井上皇后を公然と祀ることはできなかった。
おそらく、国家神である出家させることによって、怒れる八幡神・聖武の皇統の霊を鎮めることを考えたのであろう。
 その後、宇佐の八幡宮に大菩薩の称号を贈り、封戸を完全に回復させる処置を採る。

 ※聖武・孝謙(称徳)から光仁さらに桓武の流から想像されるのは、桓武は平城京から山城に遷都するが、その理由は聖武・孝謙(称徳)か遁れる為と想像できるが、これについての検証は後日を俟つ。

 ※井上(いのえ又いがみ)内親王:聖武天皇第一皇女。伊勢内宮の斎王に卜定される。
帰京して、白壁王(光仁天皇)の妃となる。
その後、宝亀元年(770)光仁天皇が即位、立后され、翌年には他戸親王(井上内親王実子)が立太子される。
宝亀3年(772)光仁天皇を呪詛の嫌疑で皇后を廃され、同年他戸親王も皇太子を廃され、翌4年山部親王(桓武天皇)が立太子される。
宝亀5年から、廃井上皇后の怨霊が暴れ、鎮魂のため、山陵は陵墓として改築され、皇后と追号される。
後に井上皇后陵は奈良県五條市御山町に築かれ、宇智陵がその山陵という。
さらに慰霊のために大和霊安寺(廃寺)が建立され、その隣には御霊社(御霊大明神)も創祀される。
また、京都の上御霊神社(山城上出雲寺中にあり)、奈良元興寺鎮守御霊社にも井上皇后は怨霊として祀られる。
  →大和霊安寺、御霊大明神<大和霊安寺中>
  →元興寺御霊社
  →京都上御霊社<山城上出雲寺中>

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参考資料1:聖武天皇大仏建立の詔

●作者:賀茂史女:大仏造立の詔 意訳
 ○賀茂史女(かものふひとのむすめ) より転載
  勿論「続日本紀」の原文は漢文である。

続日本紀
天平十五年 冬十月十五日
 ※紫香楽宮にて、天璽国押開豊桜彦天皇の詔される

 朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継ぎ、その志は広く人民を救うことにあると、努めて人々を慈しんできた。
思いやりと情け深い恩恵は、朕が天皇として国土の果てまで受けるよう計れるが、いまこの国を見るに、み仏の法恩においては、天下のもの一切が浴しているとは思われない。
 朕は真実、仏法僧(三宝)の威光と霊力に頼って、天地ともに安泰となり、万代までの幸せを願う事業を行って、草、木、動物、生きとし生けるもの悉く栄えんことを望むものである。
 そこで、この天平十五年、天を十二年で一周する木星が癸未に宿る十月十五日を以て、朕は人々を導く仏道の修行者(菩薩)として、盧舎那仏の金銅像一体をお造りする大願を発する。
 国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏堂を建築し、仏法をあまねく宇宙にひろめ、これを朕の発願による仏道修行事業(智識)としたい。
 この事業が成就したならば、朕も衆生も、皆同じように仏の功徳を蒙り、ともに仏道の悟りの境地へと至ることができよう。
天下の富は天皇である朕のもとへと集約される。
天下に号令する権威は天皇である朕に在る。
 けれども、天皇としての富と権力によって、この尊像を造っては、成就への道は平らかだろうが、大願は果たされまい。
また徒に民に労苦を強いてはこの事業の神聖な意義は失われよう。
あるいはこの事業そのものが憎しみを産み罪を作り出すことがあってはならない。
従って、この事業に参加する者は心からの至誠を持って大きな幸いを招くよう廬舎那仏を敬い、自らの意思で造立に従事するように。
 もし更に、一枝の草や一握りの土であっても捧げて、造立の助けたらんことを願う者があれば、その望み通りに受け入れよう。
国司や郡司は造立の名の元に公民の暮らしに立ち入ったり、強いて物を供出させてはならない。
遠近を問わず国中にこの詔を布告して、朕が意を知らしめよ。

●「続日本紀」原文
 ○「東大寺」黒田f義、関西急行鉄道、昭和16年 より転載
  続日本紀 

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参考資料2:佐保山陵

「奈良県遺跡地図」では、治定された範囲内に1基の古墳(05B-0041)が存在するも、規模、概要とも不明という。陵墓の故に調査ができないということであろう。
「続日本紀」では佐保山で火葬され、そこに埋葬されたとある。
「東大寺要録」では、山陵造営後、東大寺は山陵守をおいて祭司に当たり、その後、陵の前に眉間寺が創建される。
推測するに、眉間寺は仏教に帰依し出家した聖武の菩提寺の役割(「寝園看侍」)の意味で建立されたのであろう。
しかし、永禄年間(1558〜1570)松永久秀が佐保山一帯に多聞城を築き、山陵も眉間寺も城内に組み入れられる。
その後、天正2年(1574)多聞城は織田信長により廃城となる。
眉間寺のあった北側に聖武天皇陵があったと思われるも、多聞城の築造及び廃城などで山陵は多分破壊されたと考えるべきであろう。
 未見であるが、幕末(1855)頃の絵図に眉間寺から山陵に上る道には嘉永7年(1854)の聖武1100年忌に建てられたという石灯籠と鳥居が立ち、墳丘には柵が巡り、一見して横穴式石室のような石材が描かれている。
 ※文久2年(1862)眉間寺は撤去、一帯は修陵という名の破壊がさらに行われたようで、佐保山陵はさらに蹂躙され、聖武の怨霊は周辺に彷徨っているものと思われる。

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参考資料3::淡路廃帝淡路陵

南あわじ市賀集にある。
 但し、情報を探るも、考古學的知見もなく、この淡路陵が墳墓かどうかは分からないというしかない。
 淡路廃帝(大炊王)は天武天皇の皇子・舎人親王の第7子。天平宝字2年(758)孝謙天皇から譲位され即位、天平宝字8年(764)恵美押勝の乱が発生、押勝は殺害され、淡路廃帝は乱に加担してはいないものの、孝謙上皇に廃帝とされ、淡路島に配流される。翌年逃亡するも、捕捉され、殺害される。近隣には母・当麻夫人の墓もある。
 当初、聖武天皇の皇太子は、聖武天皇の遺言によって新田部親王の子の道祖王が立太子したが、天平勝宝9年(757)に孝謙天皇によって道祖王は廃され、光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(恵美押勝)の強い推挙により大炊王が立太子する。
 大炊王は仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻とし、また仲麻呂の私邸に住居する。
さらに、舎人親王の母である新田部皇女は天智天皇の娘であり、天智・天武の両天皇の血筋を引くことも仲麻呂に推された要因であったという。
明治3年、明治天皇から、弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇(九条廃帝・承久の廃帝)と共に「淳仁天皇」と諡号を賜られる。
明治6年、同様に配流先で歿した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀された。

 【薦枕の成立と託宣の凋落
宇佐八幡宮の神体【御験(みしるし】は「薦枕」(こものまくら)である。
薦は豊前大貞(現中津市大貞)にある三角池に自生する真薦を刈り、これを束ねて枕に仕立てた。
しかし、最初から八幡神は薦枕に宿った訳では無く、御許山に降りたり、辛島乙目(からしまおとめ/女性シャーマン)に降りたりしながら、和銅年中(708-15)に宇佐の宇佐川(現在の駅館川)のほとりに定住する。
薦枕については「託宣集」(霊巻5)では次のように云う。
 ※「託宣集」:正和2年(1313)宇佐八幡宮学頭神吽が編纂した八幡神の由緒である。
これについては大貞の三角池を内宮とし薦神社を外宮とする薦神社のサイトの由緒から引用をする。
即ち
八幡神が歴史の表舞台に出ることとなったのは、養老4年(720)の隼人の反乱と、それに対しての豊前国にからの出兵であった。
元正天皇の養老3年(719)大隅・日向の両国の隼人たちが反乱を企んでいることが朝廷に届く。
翌養老4年(720)朝廷は宇佐宮にて八幡神に祈祷したところ「我行きて降伏すべし」神託がある。
 【元正天皇五年、養老三年(719)。大隅・日向両国の隼人等、襲い来り、日本国を打ち傾けんと擬る間、同四年(720)、公家当宮に祈り申さる時に、神託く。
 我行きて降伏すべしてへり。】
朝廷の祈祷は、豊前国から和銅7年(714)3月に隼人を教化のため、200戸の人々を隼人に移住していたことも背景にあると考えられている。
その神託を受け、将軍の宇努首男人(うぬのおびとおひと)が八幡神を奉じて、隼人征伐に向かうことになる。
一方、神官の大神諸男(おおがもろお)は、軍勢の奉じる御神体を載のせる神輿の準備を進める。しかし、八幡神の依代となる御神体(御験)をどのようにするのかに思い悩む。神慮を探る中で、八幡大菩薩がかつて修行地とされる宝池(三角池)に至り、祈りを捧ささげる。
 (三角池の神秘に打たれた)大神諸男は、誠を籠て行幸の御験を教え給たまわんと祈りを捧ささげる。
そして初秋の初午の日に、宝池(三角池)に霊波が満ち、煙波は渚となり岸辺に寄り、波が沸き返り沸き返りする中で、雲中から宣のる声が響く。
 【「我昔、此薦を枕と為し、百王守護の誓を発おこしき。百王守護とは、凶賊しきを降伏すべきなりてへり」】
この神託を賜った大神諸男は、宝池(三角池)の真薦を刈り、御枕を作るための別屋を造り七日参籠し、一心に気を収めて御枕を作り上げる。
それを受けた将軍の宇努首男人(うぬのおびとおひと)は、御枕を御神体とし、禰宜の辛嶋波豆米(からしまのよずめ)を御杖人(みつえびと)として戦場へ赴たのである。
以上が薦神社の由緒であり、宇佐八幡宮の神体【御験】である「薦枕」の神託である。
この話からすると、薦枕は養老年中の隼人の反乱の際に、移動用の御験として造られたものであるということになる。
 →山城久世郡佐古の野神では、暗闇の神事が行われる。この神事の主役は「真薦の粽」で、その粽は佐古若宮八幡に供えられるという。

だが、薦枕は以上のような話で登場したのであろうか。
天平勝宝元年(749)突如八幡神が入京し、東大寺を拝む際に紫色の乗輿が仕立てられ、そこには禰宜大神杜女(おおかみのもりめ)が乗っていた。
この出来事が意味することは、奈良期には、杜女が憑坐(よりまし)であり、決して託宣集でいう薦枕ではなかったということである。
では、薦枕が宇佐八幡宮の神体【御験】になったのは何時であろうか。
(当面は、以下略とする。)

 【孝謙上皇と道鏡
聖武天皇の理想を受け継ぐ聖武天皇娘・孝謙上皇は恵美押勝(藤原仲麻呂)・淳仁天皇と対立し、恵美押勝(の乱)を排除、淳仁天皇は淡路に幽閉(後に殺害)、孝謙上皇は重祚(称徳天皇)し、僧道鏡を重用(太政大臣)し、父聖武天皇の菩薩国家を目指す。
天平神護2年(766)宇佐八幡比売神に封戸を返還する。
 ※一度抹殺された八幡神を復活させる意味がある。
称徳天皇と道鏡と和気清麻呂:皇国史観に代表される通説のように、果たして八幡神は和気清麻呂に「道鏡排除」の託宣を出したのかどうか、 これは疑問であろう。
むしろ「道鏡を天皇にすべき」との託宣を出したと考えるほうが自然であろうと考察する。
この顛末は称徳天皇の崩御で結末となる。(神護慶雲4年・770)
 【八幡神の出家(八幡大菩薩)】
称徳天皇の後、皇位は光仁天皇・桓武天皇と天智天皇系(聖武天皇系ではない)で引継がれる。
(称徳天皇妹井上皇后<光仁天皇皇后>とその子他戸皇子を廃し、桓武天皇が即位。)
天応元年(781)桓武天皇即位、八幡神は「大自在王大菩薩」を称する。
あるいは、延暦2年(783)「護国霊験威力神通大自在大菩薩」を称する。
宇佐では新社殿が造営され、封戸も完全に返還され、八幡神は「配流」の見から完全に復活し、「大菩薩」となる。
なぜ聖武系でない桓武天皇の時、八幡神は抹殺されずに、完全に復活したのか?。
おそらく、八幡神に「太上天皇御霊」=「聖武天皇御霊」を重複させ、聖武天皇系の抹殺によって生じたと考えられる様々な不吉な出来事を封じ込めるために、八幡神を「出家」させ、 御霊を封じこめる意図があったと考えられる。
 【神功皇后霊の合祀】
弘仁14年(823)八幡神及び比売大神の2殿であった宇佐宮に第3殿が造営され、大帯姫(気息足姫、神功皇后)が登場する。
この造営が意味することは、当時国内に醸成されつつあった反新羅の感情に対応するため、出家した故に「戦う軍神」としての意味が希薄化した八幡神に再び「軍神」としての役割 を補完する意味で、対新羅神としての「大帯姫」が祭祀されたと思われる。
 「平安初頭、大菩薩として、・・修行の世界に入った八幡神は、国家神として復活はしたが、「軍神」としての・・力を喪失し、・・・・護国の神としての役割を果たすことはできない(なくなった)。ここに登場したのが、・・神功皇后霊であり、この霊の登場によって、八幡神は応神天皇霊と認識され・・・再び軍神としての側面を復活させることができた・・・・」
   参照:「河内誉田八幡宮
 【若宮と筥崎宮】
延喜21年(921)若宮一御子が八幡大菩薩の代理として以下の主旨の託宣を行うと云う。(太宰少弐真材に対する託宣)
「八幡大菩薩にとっては3ツの不具合がある。よって筥崎松原に移坐したい。筥崎新宮を造営せよ。社殿の建て方は新羅に向かって建てよ。礎面に「異国降伏」の柱を建てよ。神宮寺を建て、釈迦・弥勒・観音を安置せよ。」と。
若宮を通じて、修行中の八幡菩薩は新羅に対しての軍神としての顔を復活させたと考えられる。
さらに承平7年(937)天台六所宝塔のうち未完であった宇佐弥勒寺宝塔に代えて、箱崎神宮寺に宝塔建立が決定される。
筥崎宮はこの時代対新羅の境界に位置するものとなったと解釈される。
 【修行する八幡大菩薩と人(仁)聞菩薩】
菩薩となった八幡神はやがて修行の道に入る。修行中の八幡大菩薩は人聞菩薩として現れる。
人聞菩薩は宇佐の南の御許山から国東の六郷山の峯々で法蓮・華厳・覚満・体能などの弥勒寺僧侶を従えて修行したと考えられる。
 ○2012/05/16撮影:御許山遠望:宇佐宮上宮から遠望、一番奥の山が御許山である。
法蓮:初代弥勒寺別当、華厳:2代弥勒寺別当・郡瀬法鏡寺住、覚満:3代弥勒寺別当、豊後高田森の薬恩寺(ヤコージ)遺跡は覚満開基の薬王寺と言われる。
この頃より弥勒寺伽藍は整備され、諸国国分寺・大宰府観世音寺・下野薬師寺とともに鎮護国家の寺院とされて行く。
 【石清水八幡宮の成立】
貞観2年(880)入唐僧・大安寺行教、宇佐八幡宮から八幡大菩薩を男山に勧請し、石清水八幡宮が成立した。
男山は山城と摂津の国境であり都の鬼門にあたる。当初は藤原北家の思惑で、王城守護の役割で勧請されたとも思われる。
その後の石清水は兵乱・天変地異の度に奉幣がなされ、次第に王城守護から鎮護国家の神へと役割を変えていく経過を辿る。
 【宇佐八幡宮と石清水八幡宮の統合】
天長6年(829)始めて講師が置かれ 光慧が補せられ 喜多院を建立する。
長保元年(999) 元命が講師に補任、その後約60年にわたりその職にあった。
長和3年(1014)元命は石清水八幡宮少別当、同年、権別当に補任、治安3年(1023)開山行教上人の流れを汲む定清に替わり、岩清水八幡宮別当に就任する。これには藤原氏(とりわけ道長の宗教構想が後押ししたと思われる。
道長の宗教構想とは摂関政治に相応しい宗教秩序を造るというもので、朝廷の影響化にあった宇佐・大宰府を摂関家の影響化に置くというものであったと思われる。
 ※以後講師は正安2年(1300)まで、元命から22代通清まで続き、ほとんど石清水宮より補せられる。
 【弥勒寺の中世伽藍の建立】
寛弘年中(1004−12)摂関家により法華堂、常行堂建立。喜多院建立。
後一条天皇代(1016−36)新三昧堂、西常行堂、西宝塔創建。
後朱雀天皇代(1036−45)西三重塔、東宝塔創建。
後冷泉代(1045-68)蓮台寺建立。
永保元年(1081)後白河天皇御願の新宝塔創建。
 ※この頃の伽藍の様子は以下の通り。・・・・「八幡信仰史の研究」中野 幡能
小倉山(宇佐八幡宮)東方・日足に弥勒足禅院と勝恩寺が建立され、天平10年(738)両寺が八幡宮西方境内地に移る。
同13年15年に東西三重塔が建立され薬師寺様式伽藍成立した。この初期伽藍も存続していたと思われる。
弥勒寺初期の坊舎:神亀2年小坂坊、盛坊、中坊(いずれも宮迫)、北大門前道東側南より会所坊(中世建立)、永泉院 増先坊、宝蔵坊、西側南より喜多院(天長 年中建立)、 中明院、宝光院があり、小坂坊( 法蓮法統)が別当、検校を務める。
延喜19年(919)霊山寺(御許山)南に正覚寺を建立(国司惟房建立)白山社を勧請。
大江匡房、霊山寺に筑前原田荘を寄進、仁平元年(1151)梵鐘を鋳造、同寺山僧は「人聞菩薩朝記」を著す。
永延元年(987)三昧堂建立(場所不明)、寛治5年(1091)前大宰権師藤原伊房、小椋山南麓に三昧堂を建て豊後勾別符を寄進。康和3年(1101)大江匡房、 菱形池 中島に三昧堂を建立、豊前虫生別符と肥前高来別符を寄進。
承暦4年(1080)白河天皇、新宝塔院を寄進。
嘉承元年(1106)大江匡房、豊後国浦部十五荘を塔院領とする。(元来弥勒寺根本寺領であった)
天養年中(1145〜45)祈皇寺、鉾立宮西側に建立、のち西側の盛坊に近い所に移転。
保安4年(1123) 大宰大弐藤原長実、多宝塔を建立。
 【石清水東宝塔院】
治安4年(1024)筥崎塔院(六所天台宝塔の一)が弥勒寺喜多院の別院となる。
石清水別当元命、石清水の宝塔院を建立。弥勒寺新宝塔院(白河天皇御願)を西宝塔院と称するため、石清水宝塔院は東宝塔院と云う。
永保年中(1081-84)次期石清水八幡宮別当頼清が竈門山神宮寺・大山寺別当となる。
 ※弥勒寺の寺領・・・・「八幡信仰史の研究」中野幡能
古くからの豊後国前浦部十五荘に加え、平安期には多くの荘園が寄進された。弥勒喜多院領が大分を占めるが、豊前55ヶ所、豊後19ヶ所、筑前14ヶ所、筑後 6ヶ所、肥前4ヶ所、肥後4ヶ所、日向3ヶ所、大隅3ヶ所、薩摩4ヶ所を数えると云う。
また九州5所の末宮(筑前大分宮・肥前千栗八幡宮・豊前香春社・筑前宇美宮・隠岐?八幡宮)を支配し、末寺として豊前6ヶ寺、豊後4ヶ寺、筑前大円寺、肥後蓮花寺、薩摩 肥前 大隅各1ヶ寺があった。
2010/10/02追加:宇佐八幡五所別宮;
 筑前大分宮(福岡県飯塚市大分)・肥前千栗宮(佐賀県三養基郡みやき町)・肥後藤崎宮(熊本県熊本市井川淵町)・薩摩新田宮(鹿児島県川内市宮内町)・大隅正八幡(現在は鹿児島神宮などと 称する、鹿児島県霧島市隼人町内)

中世には弥勒寺領は次第に侵食され、豊臣秀吉の没収で皆無になる。
慶長20年(1615)620石の配当は、小坂坊5石6斗6升、喜多院・中明院・宝光坊各5石2斗9升、増光坊・宝蔵坊各3石2斗2升、永泉坊3石2斗1升、陰陽師2石7斗1升、下桐井坊2石4斗5升と云う。

2007/08/12追加:
○「奈良における八幡信仰」堀池春峰 (「日本古美術全集3 薬師寺と唐招提寺」座右宝刊行会、集英社、昭和54年所収) より
 ◇八幡神の性格及び伝播について以下のように論述がある。

八幡神の起源については諸説があり、今もって明らかでない。
朝鮮からの渡来神説、欽明32年(571)八幡神は宇佐郡廏峰の菱形(潟)池の辺に鍛冶翁として出現、鉱山神・鍛治神として崇敬されるという説、護国鎮兵の神とする説、八幡とは八流の幡という説明を否定し、ヤキハタ(焼畑)がヤハタに変化したという開拓神という説、不動明王の信仰より発生したという説などがある。勿論、八幡大神を応神天皇、比売神を神功皇后とする神格観は後世に付加されたものである。

天平12年太宰少弐藤原広嗣が大宰府にて反乱す。朝廷では八幡神の戦勝を祈願す。宇佐八幡と朝廷はこれを契機に親密な関係となる。
天平15年、八幡神は盧遮那大仏造顕にあたり、積極的な神助を託宣する。
天平勝宝元年(749)八幡大神は託宣し、宇佐から平城宮に出発、大仏造顕を寿ぐ。朝廷は最高の礼を以て遇し、ここに八幡宮は伊勢を凌ぐ大社となる。要するに八幡神は国家の護国神の地位を確立する。
さらに八幡神は本地垂迹の思想から菩薩として崇敬もされ、護国神としての性格以外に、広く民衆の苦悩を救済す仏(八幡大菩薩)ともされる。
東大寺八幡の創建は天平勝宝元年、大仏を拝した後、大仏殿東南に社殿を設け祭祀し、鎮守とすることに始まる。
 ※現在地(法華堂南・千手院丘上)へは嘉禎3年(1237)造東大寺太勧進行勇上人によって移建される。
貞観2年(860)紀氏大安寺僧行教、山城男山に八幡神を勧請(石清水八幡宮)、平安京鎮護の神とする。
寛平年中(889-898)大和薬師寺別当栄紹が、薬師寺鎮守として休岡八幡宮を勧請する。
これは行教が男山に勧請の途次、この丘で休息したという故事に因むと云う。
大安寺八幡もこの前後に勧請されたと考えられる。
男山勧請に当っては、宇佐からまず大安寺に移座し、それから石清水の勧請したという説と石清水八幡宮から大安寺南に大安寺八幡を勧請した説があり、大安寺・護国寺の論争もあったと云う。いずれにしろ、石清水八幡勧請の前後に大安寺八幡も勧請されたと考えられる。
鎌倉中期、叡尊によって、西大寺に八幡が勧請される。
(弘安8年西大寺八幡の神体を安置と伝える。:「学正記」)
なお西大寺叡尊の所業について、元寇の役での石清水八幡宮での仁王会が著名とされる。

2008/07/30追加:
○「八幡神と神仏習合」達日出典、講談社現代新書、2007
 ◇「八幡という神の成立」で以下を示す。P.98-

宇佐における「原初信仰」として「宇佐氏」を中心に御許山の神体山信仰が行われていたと推測される。
 ○2012/05/16撮影:御許山遠望:宇佐宮上宮から遠望、一番奥の山が御許山である。
一方、北部九州では渡来人の来着がしばしばあり、中でも新羅系(秦系)渡来人は香春に新羅国神を祀る。(5世紀初頭か)
彼等はその後東進を続け「辛国」を形成し、新羅神(香春神)を祀った。この神は道教と仏教が融合したものであった。
彼等の東進は終に秦系辛嶋氏が宇佐郡駅館川西岸に到達し「宇佐郡辛国」として定着した。(五世紀末か)
辛嶋氏は宇佐氏の神体山信仰を取り込み「宇佐郡辛国宇豆高島」(稲積山)に新羅神を降臨させた。
6世紀後半には宇佐氏が没落し、駅館川東岸に大神氏が入住し、新羅神に応神霊を付与し、ここに「八幡神」が成立した。

八幡神はまず馬城嶺(御許山)に顕現し(敏達朝)、やがて鷹居の地に創祀され(崇峻朝)、これは大神・辛嶋氏の合同祭祀であった。
「八幡宇佐宮御託宣集」巻3及び巻5:「辛国の城に、始めて八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」は以上を端的に現す。

2013/10/18追加:
○「勝山町史 上巻」勝山町史編纂委員会、勝山町(福岡県)、2006/03 より
第一節八幡信仰と修験道
一八幡信仰と宇佐
◇八幡の由来:
 「八幡」の語源は、通常「ハチマン」と呼ばれているが、『日本霊異記』によると「ヤハタ」と言うのが本来の呼び名であるという。
(中略)
文献上に見える八幡は、『続日本紀』天平9年(737)夏4月乙巳朔条に
 遣使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡<はちまん>二社及香椎宮。奉幣以告新羅无禮之。
とあり、八幡という名は『古事記』、『日本書紀』等には記載されていない。以後、中央政権(平城京)との急速な接近により、文献上の記録も増加し、脚光を浴びることとなる。
 ・弘仁六年(815)『東大寺要録』四中に、大神朝臣清麿の解状が記されており、八幡神を「大菩薩」といい、応神天皇を「御霊」としている。
 ・承和十一年(844)『石清水文書』二(宇佐八幡神宮弥勒寺建立縁起)があり、1009年ごろ八幡宮の禰宜をしていた辛島勝によって作成されたといわれる。

「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」の一部内容は以下のとおりである。
 欽明天皇の時代に、神は宇佐郡の辛国宇豆高島<からくにのうつのたかしま>に天降り、大和などを遍歴したあと、馬城嶺に初めて現れたという。しかし、神はなお遍歴して、酒井泉社<さかいいずみせのやしろ>(宇佐市辛島)、宇佐河(駅館川)の渡りの社(瀬社)、鷹居社へと移る。この時神は、鷹となって心荒く、人々を多く殺害したので、辛島勝乙日(乙目<おつめ>カ)が、崇峻天皇三年(590)から三年間、その心をやわらげるため祭った。天智天皇時代に小山田社(宇佐市小向野)へ移り、神亀二年(725)正月27日には、辛島勝波豆米への託宣に基づき、今日の社地へ移座したという。
『東大寺要録』も最後の所は、今日の菱形小椋山社に移ったことが記されている。いずれにしても欽明天皇時(六世紀後半ごろ)に八幡神は現れ、鷹となって人々に荒ぶる神となり、神亀2年には現在の南宇佐の地に落ち着いたと思われる。
八幡神が宇佐に入った経緯については、辛島氏の進出と言われている。八幡神が入る以前、宇佐地方には土俗的な農業信仰があり、海氏や宇佐氏豪族などが馬城峯の巨石を神体とする祖神社が祀られていた。そこに朝鮮半島から辛島氏祭祀集団が進出してきたといわれる。
◇宇佐の神々:
 宇佐氏の成立は、記紀によると宇佐国に「宇佐津彦・宇佐津姫」の兄弟神がいて、兄である宇佐津彦を神武天皇が宇佐国造(宇佐国造宇佐津彦命)に任じたことが記されており、その祖神を『国造本紀』は「タカミムスビノカミ」としている。また、『延喜式』では、
 ・八幡神(大菩薩・応神天皇霊)
 ・比売神(神武天皇の母玉依り姫霊)
 ・大帯姫(神功皇后霊)

の三神を祀っているとされている。ただし、大帯姫は『弥勒寺建立縁起』等によると、弘仁14年(823)からの祭祀であるから、もともとは八幡神と比売神の二神であったといわれる。中野幡能『八幡信仰史の研究』によれば、先に記した巨石と比売神は深い関係にあり、『日本書紀』垂仁天皇2年によると、豊後国国前郡の比売語曽社女神は、白い神石から化身したという。
 その後、宇佐氏については『続日本紀』養老5年(721)6月3日条に、法蓮の三等以上の親に「宇佐君姓」を賜った記事が見える他には、宇佐氏系図に頼る他はないといわれている。宇佐氏が豊前地域で活躍した時代の五〜六世紀は、地方古代国家が成立し、豊前国田河地域もその一つで、香春岳に韓国<からくに>神(香春神)が祀られた。この神は、辛国息長大目<からくにおきながおおめ>命といい、新羅の神様で亀ト・鍛冶・採掘など大陸と深く関わりを持ったシャーマン神であったらしい。そしてこの神は後に、辛島氏による銅山シャーマン信仰と宇佐信仰とが融合し、八幡信仰の初形態が整ったといわれている。八幡神の出誕に関する伝説は、『東大寺要録』や『扶桑略記』等に記されている。
厩(馬城)峯と菱潟の池の間に鍛冶<かぬち>の扇が出現した。そこで、大神比義<おおがのひぎ>が絶穀して三年籠居し、神の顕現を祈ったところ、三歳の小児が竹葉に立って託宣し、八幡神であることを告げたという。
 注意しなければならないのは、この伝承に幾つかの留意点があることで、一つには「鍛冶」言葉で、宇佐地域には「金屋・鍛冶屋名」などの宇の他、製鉄遺構が多く発見されている。また、大神氏の道教的な呪術的な性格が認められることである。
◇八幡信仰と氏族:
 八幡神と深く関わりを持った氏族に、大神(朝臣)・辛島勝・宇佐君の三氏がいる。
大神氏は、御許山の東山麓に向野(山香町)という地名が残っており、そこを根拠地として活躍していた。大神氏は律令時代に、国東半島や別府湾と大和(難波も含む)を結ぶ海上交通路に依拠し、大和三輪山を祭祀とする大神氏(大三輪・三輪君)と深く関わりを持っていたらしく、辛島氏を抑えて八幡神を皇室関係のものへと転換させたという。その大神氏の痕跡は『正倉院文書』大宝二年(702)の「豊前国戸籍帳断簡」中に、「大神部」の名が記され、更に福岡県朝倉郡三輪町にある式内社於保奈牟智神社は「おんがさま」(大神さま)という名が伝えられている。更に、最近の発掘調査において、大野城市「牛頸窯跡群」の窯跡から須恵器に「大神君」と陰刻された人名や、佐賀県白石町の多田遺跡からは「大神部」と書かれた木簡が発見されるなど、考古学的にも資料が蓄積されつつあり、大神氏の活躍した足取りが想定される。
 辛島勝氏は宇佐郡辛島郷を根拠に活躍した。朝鮮系のシャーマン(巫女)を中心とする祭祠集団で、神との対話を重ねながら人々に融合し、時には恐れられ、祭祀を実施することが執拗に繰り返されたといわれている。この辛島郷内には前述した法鏡寺が存在し、法隆寺系瓦や川原寺系瓦を出土し、畿内と深い関わりを持っており、辛島氏の氏寺と推定されている。
 宇佐氏は前項で記したように国造家で、他の二氏に比較してなかなか目立たない存在だった。つまり、宇佐氏は祭祀に対して直接的な主体者でなかったのである。実際には養老五年(721)の法華の三等以上の親に宇佐君姓が与えられたころからが宇佐氏の始まりと見られている。中津市相原に存在する相原廃寺跡がこの宇佐君の氏寺と想定されている。
◇法蓮僧と八幡神:
 『託宣集』に見える法蓮僧は、宇佐八幡宮の神宮弥勒寺の初代別当であるといわれ、大宝3年(703)に豊前の荒野40町が与えられている。この褒章は、彼の実績に対するものか否か定かでないが、鷹居社の成立以前に、隼人政策を担う人物として宇佐の地に居住していた可能性が強く、また、法蓮は医術に精通しており、その方面での褒章ともいわれている。養老4年(720)に起きた隼人の乱の時、豊前国司宇奴男人に率いられた軍が八幡神を奉じて、宇佐の地から大隅方面へ向かったとされている。法蓮は医術に優れていたとされ、この隼人の乱において彼は軍医として活躍した可能性が高いことがあげられる。『託宣集』には「三角の池」周辺の野仲郷の地に薬草が幽深としていたと記されており、法蓮僧に関与したものであろう。令の規定では僧尼に認められた医術は、仏教に基づく呪文・湯薬・道教的呪術の行使であったという。
 こうして、八幡社は天平3年(731)に官幣社として朝廷の直接支配を受けるようになり、神宮寺とされている法鏡寺や虚空蔵寺は弥勒寺へと発展するようになる。後に八幡神は朝廷(平城京)に迎えられ、上京した巫尼大神杜女<おおみわのもりめ>は従四位下、主神司大神田麻呂は従五位下に任ぜられ大神朝臣の姓を授かったが、数年後に二人は失脚させられてしまうのである。
続いて、宇佐公池守<うさきみいけのかみ>と辛島勝与曽女<からしまかつよそめ>が任ぜられ、道鏡の支持を受け、神護景雲3年(769)道教を神託として奉じたが、これも後日追放となってしまう。宇佐八幡宮の朝廷接近は活発な託宣活動により再び復活を見せ、八幡神と仏教との神仏習合体の先駆的現象を見るようになる。

2013/10/18追加;
○「仮説の発見と検証の豊前旅行(前編)-豊前は九州王朝の第二の都の検証-」香芝市:山崎仁礼男(「古田史学会報 二十一号」1997 所収)
(1)比売神信仰圏の仮説と天皇制による九州神社の祭神すり替え強要の仮説
 宇佐神宮に向かう。祭神が応神天皇・比売神・神功皇后となっているが、拝殿を見ると左が応神、右が神功で、真ん中が比売神である。
主神は比売神ではないか。この地方の本当の神は姫島の比売許曽神社の比売神であって、応神天皇・神功皇后は天皇制により強要されたものと直感した。
ここで、天皇制による九州神社の祭神すり替え強要の仮説を立てることにする。
この地方の神社が九州王朝滅亡後に生きて行くために、天皇制と妥協して一の神、二の神、三の神として、応神をトップに立てる報告をして、その実は二の神を中心に祭ったとすると、健全な抵抗の姿とも読める。

2011/02/07追加:
八幡宇佐宮における神仏分離の処置:
◆OBS/大分放送のサイトに以下の情報があったと思われる。(非確認)
 →http://kunisakikaze.photo-web.cc/suc2-niousan/z-sonota/suc2z1h.htm
神職による「破仏乱暴ノ所業」が激しく行われる。
鐘楼・経蔵・楼門および祇園社鎮守(牛頭天王か)などが破壊される。
弥勒寺講堂本尊丈六弥勒菩薩坐像・大弐堂(※※)阿弥陀如来立像は極楽寺へ、弥勒寺金堂本尊丈六薬師如来坐像(重文)・日光月光菩薩像・不動明王像・愛染明王像・仁王像(※)は大善寺へ、また一切経は西光寺へ売却される。、
明治2年3月には、心乗坊・喜多坊・安門坊・永勝院など社僧21名が復飾・還俗する。
 ※現在、仁王像は宇佐宮宝物館にあると思われる。
 ※※大弐堂は破棄され、現在は絵馬堂が建つと云う。

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2011/03/13追加:
●「安南宝塔」記念碑・顕彰碑の建立
サイト:高城石材の「安南宝塔記念碑・顕彰碑」のページに建立の告知がある。
 宇佐安南宝塔記念碑
宇佐神宮にて 天台宗最澄開宗1200年記念事業「安南宝塔」記念碑・顕彰碑の設計、施工を高城石材が行う。
平成21年11月17日、宇佐神宮に天台宗の開祖最澄の願いで建立されたと伝えられる「安南宝塔」の記念碑・顕彰碑の除幕と開眼法要が営まれる。「安南宝塔」とは、最澄が唐へ渡る際に宇佐神宮にて無事を祈願し、帰国後、報謝のために建立を発願したものとされ、境内の弥勒寺に建てられたと伝えられる。 事業費700万円。
現在、境内に痕跡は残ってはいないが、・・・記念碑は国東塔と同型の如法経塔(高さ3m、来待石製)であり、顕彰碑は宝塔の由来を記す(高さ2.6m 青御影石製)。参道横の記念公園内に設置する。
 →竈門山(宝満山)の「天台ジャーナル 第81号 2009/12/01発行」 の項を参照。


参考:当サイトに収録する八幡大菩薩
柞原八幡宮筥崎八幡宮石清水八幡宮鶴岡八幡宮河内誉田八幡宮紀伊広八幡紀伊野上八幡
陸奥弘前八幡宮陸奥日吉八幡<但し八幡社というより山王権現が本姿>、陸奥阿久津八幡丹波柏原八幡播磨六条八幡
周防花岡八幡宮 など


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