聖 徳 太 子 建 立 四 六 院

鎌倉期以降考察された「聖徳太子建立46院」の概要
出所:「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作より

. 古今目録抄 私註抄 法空抄 重懐抄 松譽抄 備  考
大和 法隆学問寺 法隆寺 法隆寺 法隆寺 法隆寺 大和法隆寺
大和 上宮王院 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 不詳、2013/11/23追加:飛鳥上宮寺か?、下注6
大和 法起寺 法起寺 法起寺 ・・・ 法起寺 大和法起寺(池後寺、池後尼寺)
大和 ・・・ ・・・ ・・・ 法林寺 ・・・ 法輪寺(三井寺、法琳寺、法淋寺、御井寺 )か?
大和 中宮寺 中宮寺 中宮寺 中宮寺 ・・・ 大和中宮寺跡
大和 施鹿薗寺 施鹿薗寺 施鹿薗寺 施鹿林寺 施鹿寺 大和平群寺(大和平隆寺) ・・・平群寺と施鹿薗寺は別寺とする設もあり。
大和 熊凝寺 熊凝寺 熊凝寺 熊凝寺 熊凝寺 大和額安寺が後身とされる。
大和 ・・・ ・・・ 額安寺 額安寺 ・・・ 大和額安寺
大和 牛臥寺 牛臥寺 牛臥寺 牛臥寺 牛臥寺 大和信貴山を参照(信貴山か?)
大和 ・・・ 信貴山 ・・・ ・・・ ・・・ 大和信貴山
大和 ・・・ 放光寺 放光寺 放光寺 放光寺 大和の塔跡の当該項を参照、片岡王寺・片岡僧寺
大和 ・・・ 西安寺 西安寺 西安寺 西安寺 大和西安寺跡、久度寺
大和 ・・・ ・・・ 弘導寺 弘導寺 弘導寺 不詳
大和 ・・・ 長林寺 ・・・ ・・・ 長林寺 大和の塔跡の当該項を参照
大和 般若寺 般若寺 ・・・ ・・・ ・・・ 下注1(大和尼寺南廃寺)
大和 山田寺 山田寺 ・・・ ・・・ ・・・ 不詳、飛鳥山田寺と太子との関係は寡聞にして知らず。
大和 元興寺 元興寺 本元興寺 本元興寺 元興寺 大和元興寺下注1
大和 菩提寺 ・・・ 菩提寺 菩提寺 菩提寺

大和橘寺と思われる、飛鳥の塔跡の橘寺の項を参照

大和 妙安寺 妙安寺 妙安寺 妙安寺 妙安寺 不詳、下注1
大和 定林寺 定林寺 定林寺 定林寺 定林寺 飛鳥定林寺大和定林寺露盤、立部寺
大和 ・・・ 比曽寺 比曽寺 比曽寺 比曽寺 大和比曽寺
大和 當麻寺 當麻寺 禅林寺 禅林寺 當麻寺 現存三重塔:飛鳥-鎌倉の303及び304
大和 豊浦寺 豊浦寺 豊浦寺 豊浦寺 興厳寺 飛鳥の塔跡の当該項を参照
大和 坂田寺 坂田寺 金剛寺 金剛寺 金剛寺 飛鳥の塔跡の当該項を参照、坂田寺、金剛寺
大和 葛木寺 葛城寺 葛城寺 葛城寺 葛城寺 下注1
大和 ・・・ ・・・ 龍門寺 龍門寺 ・・・ 不詳、大和の塔跡の該当項(龍門寺?)参照
大和 ・・・ ・・・ 大窪寺 大窪寺 ・・・ 大和大窪廃寺心礎・大和塔垣内廃寺を参照
大和 日向寺 日向寺 日向寺 日向寺 日向寺 大和日向寺
大和 大官寺 大后寺 大后寺 大后寺 ・・・ 不詳、下注2
大和 ・・・ ・・・ 檜前寺 檜前寺 ・・・ 飛鳥の塔跡の当該項を参照
大和 妙教寺 妙教寺 妙教寺 妙教寺 妙教寺 不詳
大和 久米寺 久米寺 久米寺 ・・・ 久米寺 大和久米寺、開基来目皇子は聖徳太子弟
大和 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 春長寺 不詳
山城 ・・・ 広隆寺 広隆寺 広隆寺 広隆寺 山城の塔跡の当該項を参照 (蜂岡寺)
山城 ・・・ 六角堂 六角堂 六角堂 長宝寺 六角堂頂法寺、現存、西国三十三所第十八番札所
河内 野中寺 野中寺 野中寺 野中寺 野中寺 河内野中寺、中の太子
河内 茨田寺 茨田寺 茨田寺 茨田寺 茨田寺 不詳
河内 太平寺 太平寺 太平寺 太平寺 太平寺 太平寺跡は知識寺跡と重なり合うというのが定説である。太平寺跡は今の柏原市太平寺に太平寺廃寺として存在し、それは知識寺跡とほぼ断定される。
 → 河内太平寺/知識寺跡(太平寺廃寺)
河内 御廟寺 御廟寺 ・・・ 転法輪寺 転法寺 河内叡福寺
摂津 四天王寺 四天王寺 天王寺 四天王寺 四天王寺 摂津四天王寺
摂津 百済寺 百済寺 ・・・ ・・・ ・・・ 摂津堂ヶ芝廃寺か?
近江 金剛寺 金剛寺 ・・・ ・・・ ・・・ 不詳、飛鳥の塔跡の大和坂田寺の項を参照
近江 ・・・ 石塔寺 願成寺 願成寺 石成寺 下注3
「太子伝玉林抄」:「近江国蒲生郡、或云、阿育王寺、或云、願成寺」
近江 ・・・ 蒲生寺 蒲生寺 蒲生寺 蒲生寺 旧蒲生町に蒲生寺の地名がある。?
蒲生町蒲生堂:蒲生堂廃寺址・7世紀後期の瓦を出土。
近江 ・・・ 阿弥陀寺 阿弥陀寺 阿弥陀寺 ・・・ 不詳
近江 観音寺 観音寺 観音寺 観音寺 観音寺 芦浦観音寺 であろう。芦浦観音寺は聖徳太子建立と伝える。近世には叡山末として琵琶湖の水運権を得て、付近を支配する。
近江 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 長命寺 現存三重塔:室町〜桃山期の当該項目(343)
近江 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 石馬寺 現存、今なお中世天台の繁栄の跡を多く残す。
近江 散 寺 繖 寺 繖 寺 繖 寺 繖 寺 繖山観音正寺か、桑実寺のページを参照
近江 味摩寺 味摩寺 味摩寺 味摩之寺 味摩寺 不詳、敏満寺はみまじとも発音?されるようである。下注4
「太子伝玉林抄」:「後云、弥満寺」
近江 勝善寺 勝善寺 勝善寺 勝善寺 勝善寺 不詳
近江 ・・・ ・・・ 般若寺 般若寺 般若寺 不詳
近江 武作寺 武作寺 武作寺 武作寺 武作寺 下注5:長光寺
「太子伝玉林抄」:「或云長光寺、武河綱修造之」
近江 瓦 寺 瓦 寺 瓦 寺 瓦 寺 瓦 寺 現存、今なお山腹に長大な参道及び多数の坊舎跡を残す。
「太子伝玉林抄」:「天王寺瓦作所也」
近江 懐 堂 ・・・ 懐 堂 懐 堂 懐 堂 不詳
「太子伝玉林抄」:「近江国馬屋原建之。妃懐妊之時寺也云々」
近江 ・・・ ・・・ 百済寺 百済寺 百済寺 近江百済寺、摂津の百濟寺を近江と誤認か?。
美濃 太子寺 太子寺 ・・・ ・・・ ・・・ 不詳
岐阜市大門町に太子山上宮寺と云う寺院があるが、関連は未確認。
伊勢 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 紫雲寺 太楽山上宮寺(津市寺町・真宗高田派):寺伝では聖徳太子行宮の址と云う、もとは律宗紫雲寺と号す。
三河 ・・・ 真福寺 ・・・ ・・・ ・・・ 現存、三河真福寺、三河北野廃寺
駿河 符神寺 符神寺 符神寺 符神寺 符神寺 不詳
信濃 阿弥陀院 阿弥陀院 ・・・ ・・・ ・・・ 不詳
出羽 四天王寺 四天王寺 四天王寺 四天王寺 四天王寺 不詳
. 39ヶ寺 48ヶ寺 46ヶ寺 46ヶ寺 46ヶ寺 .
. 古今目録抄 私註抄 法空抄 重懐抄 松譽抄 備  考


■日本書紀:「有寺46所」とあり、鎌倉時代以降46所院についての考証が重ねられてきた。
しかし、近世に至り、聖徳太子建立とする寺院は数を増し、300余りを算えるという。
要するに、際限が無くなっており、真の聖徳太子建立寺院を掌握することは不可能に近いというのが、現状であろうと思われる。

■「古今目録抄」(重文):鎌倉期・13世紀(1238-63)の成立。
法隆寺僧顕真による法隆寺の記録や聖徳太子伝の秘伝を集大成。「聖徳太子伝私記」「太子伝暦」ともいう。
14世紀成立とも云う。四天王寺本(中明撰)、法隆寺本(「聖徳太子伝私記」)があると云う。
四天王寺本:嘉禄3年(1227)四天王寺東僧坊の中明著

■「私註抄」:法隆寺俊厳の手になると云う。

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 ○下注1:葛木寺(葛城寺)、葛城尼寺、妙安寺、般若寺、片岡寺、片岡尼寺
葛木寺は、文献上、葛城尼寺、妙安寺、般若寺、片岡寺、片岡尼寺と寺名を替えながら存続したといわれる。
その比定地は各説があり、和田廃寺(飛鳥の塔跡当該項参照)、大和尼寺廃寺(南)、御所朝妻廃寺などがその候補地とされる。
・和田廃寺を葛木尼寺とする説の根拠は以下の通りで有力と思われる。
「続日本紀」光仁天皇即位前紀、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」(童謡)が収録され、葛木寺が豊浦寺の西にあったと伝えられる。
「興福寺大和国雑役免坪付帳」(延久2年)には、和田廃寺の寺域が11世紀後半まで葛木寺の田であったと記す。
一方
・尼寺南廃寺にある般若院蔵毘沙門天立像の背中墨書には「華厳山般若院片岡尼寺」があるという。
「七大寺巡礼私記」(平安期)には「片岡(尼寺廃寺周辺の地名)の地に般若寺があり、片岡寺ともいう」とある。
なお
・「増補 大日本地名辞書」吉田東伍では以下の記事があり、本元興寺=葛城寺=豊浦寺の説が展開されている。
「本元興寺址 新元興寺の西南、大安寺の東に接して建立ありし者か、木辻村の西南京終村の耕田に葛城の字存すと坊目考に見ゆ、本元興一名葛城寺又豊浦寺と曰へり、六条大路は大安寺の南路にして故径存す、其四坊にや七坊にや疑惑多し、後の考正をまつと云ふのみ。」
「補【本元輿寺】○平城坊目遺考 当寺往昔地形を考ふるに、東は中辻町辻より南岩井川に至、西は綿町辺より西へ郡山道大安寺字長池辺迄、夫より南へ岩井川迄直経乎。続日本紀曰、元正天皇霊亀二年五月辛卯、始徙建元興寺于左京六条四坊。是本元興寺なり、豊浦寺、葛城寺といひしも本元興寺の名なり。
葛城寺址 木辻村西南京終領耕田中に在りといふ。仁和三年丁未十二月晦日、本堂一宇無残払地焼亡、後再興あらざるか、肘塚水田の中に本元興寺は六条より四条まで、新元興寺は四条より三条迄。」

 下注2:醍醐廃寺
橿原市醍醐町集落はずれに土壇が残存する。付近から礎石や7世紀後半の瓦が出土する。
遺跡あるいは寺院の性格は不明なるも、大后寺(だいごじ)跡との説がある。
醍醐廃寺は大和飛鳥の塔跡中の当該項目を参照。
大后寺に関しては「小治田寺・大后寺の基礎的考」吉川真司 を参照(大和奥山廃寺中にあり。)

 下注3:願成就寺:近江八幡市小船木町
推古天皇27年、太子誓願の近江48ヶ寺建立の結願(成就)として、日牟礼山(現八幡山)に建立したと云う。
本尊十一面観音菩薩立像(重文)は太子の自刻と伝える。
天台宗、比牟礼山。日牢礼八幡宮の別当。
なを聖徳太子建立と云う「願成寺」はこの比牟礼山以外にも数ヶ寺存在するようである。

 下注4:敏満寺との関係は不明であるが、次の情報がある。
敏満寺(みまじ):「近江は、みまじの座、久しき座なり」とあるが「みまじ」は「味摩寺」で未満、弥満、見満とも書かれる。
この寺名は始めて伎楽を伝えた「味摩之(みまし)」から採るという。

 下注5:長光寺(武作寺)近江八幡市長光寺町
「源平盛衰記」巻第39 より
抑長光寺と云は武作寺の事也。昔聖徳太子、近江国蒲生郡、老蘇杜に御座けるに、太子の后高橋の妃、御産の気ありて十余日まで難産し給ければ、太子妃に語て曰、汝偏に新道をのみ信じて未仏法を不仰、胎内の小児は必聖人なるべし、汝が身は不浄也、早く精進潔斎し、清浄の衣を著して仏力を憑まば、自平産せんとのべ給。妃曰、妾君を仰事日月星宿に相同じ、不可違正命、我産賀して如在ならば、君と仏法に合力して、伽藍を興隆し群生を可済度、但仏法真あらば、威力を示給へと誓給ふ時、老蘇宮の西南の方より、金色の光照し来て、后の口中に入ければ、王子平産あり。異香殿中に匂て栴檀沈水の如くなり。妃瑞相に驚、武川綱に仰て光の源をみせらる。命を承つて尋行て是を見れば、西南に去事三十余町を阻て、一山の麓に方三尺の石あり、青黄赤白紫の五色にて、眼を合するに目まぎれせり。傍に八尺余の香薫の木あり、匂人間に類なし。此由妃に奏すれば、妃又太子に奏せらる。太子宣て曰、石は補陀洛山にしては宝石と名、或は金剛石と云。大唐には瑪瑙と名たり。木は是白檀なり、天竺には栴檀と云。海中に入ては沈香共号せり。何れも人物に不可用、早く以白檀仏を造、彼石の上に安置せよ、彼所は転妙法輪の跡、仏法長久の砌也と。妃大に随喜して、武に仰て彼木石の上にして、仮初に三間の堂を造覆給けり。武が作れる寺なれば、武作寺と云けるを、法興元世二十一年、 (壬子)二月十八日、太子と妃と相共に、彼寺に御幸して、手自地を引柱を列ね、金堂法堂鐘楼僧堂を建闊、太子自彼以白檀后高橋妃の等身に千手の像を造て宝石の上に安置し、法華、維摩、勝鬘等の三部の大乗を籠られつゝ、武作寺を改て長光寺と定らる。異光遠より照来て、妃口中に入しかば是を寺号とし給へり。来詣参入之類、花散し合掌之輩、普現には千幸万福に楽て、当には補陀洛山に生んと誓ひ給へる寺也けり。 ・・・・
元亀の兵乱で焼失、宝暦年中(1751-63)に玄広木食が再興する。

2013/11/23追加:
 ○下注6:上宮寺(仏生山上宮皇院上宮寺)
「続明日香村史 上巻」2006年 より
 明日香村大字上居に所在する。境内の北斜面で奈良前期の瓦片が出土と伝える。寺伝ではここを太子の上宮地と伝える。
しかし、なにぶん狭隘な地であり、寺院の存在を考えることはできない。ただ境内には鎌倉期の様式を持つ宝篋印塔や層塔があり、古代から中世にかけて何等かの伽藍があったことは考えられる。
 ※現在、上宮寺は無住、浄土宗。
 

「聖徳太子の寺を歩く(太子ゆかりの三十三ヶ寺めぐり)」JTBキャンブックス、林豊、2001 より
上記「聖徳太子建立46院」に数えられない寺院(蘇我氏関係開基寺院は除く)を下記に転載

播磨鶴林寺 聖徳太子開基とする 播磨鶴林寺
河内道明寺 聖徳太子開基とする 摂津河内和泉の塔跡の当該項を参照
河内大聖勝軍寺 聖徳太子開基とする、本尊聖徳太子16歳像、下の太子 明治以降の多宝塔の当該項を参照(731)
近江西教寺 聖徳太子開基とする、現在天台宗真盛派総本山 京都岡崎法勝寺の法灯を継ぐ。
播磨斑鳩寺 聖徳太子開基とする 室町〜桃山期の三重塔の当該項を参照(341)
大和達磨寺 聖徳太子開基とする、片岡山と号する 現存(臨済宗南禅寺派)
摂津中山寺 聖徳太子開基とする、西国33所24番札所 明治以降の多宝塔の当該項を参照(776)
大和長福寺 聖徳太子開基、生駒市俵口 本堂は弘長2年(1362)建立・重文
大和成福寺 斑鳩宮別荘葦垣宮のあった場所、法隆寺南 近年に廃寺、ほぼ堂宇は崩壊。
大和大福寺 聖徳太子開基、広陵町的場 弘安7年(1284)天河弁財天勧請・・・
山城神童寺 聖徳太子開基、役行者が蔵王堂を経営 蔵王堂(本堂)は重文、応永13年(1406)再興
山城乙訓寺 聖徳太子開基、弘仁2年(811)弘法大師別当に補任 現在は小堂宇が現存
出土瓦は悉く7世紀後半を溯り難いもので、聖徳太子開基は頷ぜえない。元禄9年の乙訓寺縁起、山城名跡志、都名所図会等の江戸期の地誌以上に太子伝承は認められないので、太子開基は近世の物語であろう。
山城法観寺 聖徳太子が五重塔を建立と伝える。 山城法観寺
「法観寺舎利塔詩并序」:「八坂有寺、曰法観、前有霊塔、考図記、則七百年前、用明皇帝儲八耳之剏建也」とある。これは聖徳太子建立との伝承が推古朝から700年後(16世紀)の「考図記」で、初めて語られたと思われる。
近江蓮華寺 聖徳太子開基、当初は法隆寺と号する。
弘安7年(1284)一向俊聖再興、北条仲時一族郎党の墓所。近世は時宗一向派本山、現在は浄土宗。
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備後浄土寺 聖徳太子開基 現存多宝塔(平安-南北朝期)の当該項(618)
伊予法安寺 聖徳太子開基 四国の塔跡の該当項参照
伊予香園寺 聖徳太子開基、四国88所61番札所 .



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