★大和郡山城跡心礎
1)大和郡山城跡半裁心礎(AB) ○「石造物郡山城址転用材調査概要」南村俊編、郡山城史跡・柳澤文庫保存会、1975 より
大和郡山城石垣に半裁された心礎(同じ心礎が半裁され2ヶ所に分散)が転用される。
心礎は径1.75m、高60cmで、柱座(径1m、
高0.7cm)を持ち、中心に径36cm、深30cmの円錐形の舎利孔が穿たれる。 ■郡山城心礎
半裁された心礎は「郡山城地図」に示す位置にある。
一つは郡山高校前から柳澤神社に入る入口に竹林門跡の櫓石組があり、その竹林門跡から柳澤文庫に続く通路に入ったところ、本丸の東面石垣の南端近くの上部にある。
もう一つは竹林門跡の櫓の西の石組の西面の下部に組み込まれる。 いずれも心礎に近づくことは基本的に無理と思われる。
夏場には心礎の在る石組はかなり蔓草が茂り、そのために見えない可能性がある。
例えば2003/07/16撮影画像である「郡山城本丸東面石垣」の状態で探すのは容易ではない。
柳澤文庫の談:冬場には毎年石垣の草の刈込みを行うので、その時には確実に見ることができるであろうとのことである。
2)大和郡山城趾枘孔石 心礎であるのか石塔類台石か門礎であるのかは判別できない転用石も若干存在する。 ●天守前南段上枘孔石 2018/05/03撮影:
天守前南段上枘孔石1:最後方は天守台、その全面の斜め石垣は明治初頭に天守台に上がる為に積んだ石階である。 この前方の平地は天守前南段で、明治維新後に「祖霊社」が置かれた場所である。2013年〜2017年の郡山城整備事業によって、祖霊社は撤去され、今はただ枘孔石だけが残される。(写真中央に写るのが枘孔石である。)
なお、天守前南段はオレンジとグレーで色分けされているが、オレンジ部分は南段にあった付け櫓の一階床下であり、グレーの部分は付け櫓の地下部分であった。そしてこの地下部分には天守台に上がる木階が設置されていたのである。現在天守に上がる為の石階が天守台の東と南の石垣に沿って作られているが、これは明治維新後の造作であるのは前に述べた通りである。
大和郡山市>郡山城天守台展望施設整備事業について より転載
天守前南段上祖霊社:写真中央やや右に写るのが枘孔石、祖霊社は柳沢藩最後の藩主柳沢保申を祭神とする。
要するに、祖霊社は、城内にある柳沢神社(初代郡山藩主柳沢吉里の父である柳沢吉保を祭神)と同じく、分かり易い国策神社である。
天守前南段上祖霊社趾:写真中央に写るのが枘孔石、祖霊社はすでに撤去されている。
背後は天守台、東及び南に天守台に至る石階があるが、これは明治初頭に積まれたもの、天守台の前(南)に付け櫓があった。
明治27年ここに祖霊社が置かれる。付け櫓下から天守に上がる木階及び石階のルートは複雑なのでここでは割愛するが、 上記の郡山市のサイトなどを参照頂いたい。
天守前南段上枘孔石2 天守前南段上枘孔石3 天守前南段上枘孔石4
天守前南段上枘孔石5 天守前南段上枘孔石6 天守前南段上枘孔石7
この枘孔石の凡その大きさは次の通りである。長径は概算120cmほど、枘孔は円錐形、径21cmほど、深さ約15cm程度である。
●その他の枘孔石 2018/05/03撮影:
その他の枘孔石1 その他の枘孔石2
★その他の転用礎石など
同「転用材調査概要」によると、伝羅生門礎石、灯篭、石造仏塔、石仏などのほか、礎石として確実なものは花崗岩製で36基、凝灰岩製10基であり、柱座の検出不可のもの、石塔類との区別の不可のものを入れると、さらに多数の礎石が転用されているという。
以下の写真はその1部である、礎石と明確にわかるものもあるが、良く観察しないと分からないものも多い。 2018/07/07追加:
大和郡山市>郡山城天守台展望施設整備事業について より
本丸東面石垣下に全国で最大規模の転用石群がある。 全国で最大規模の転用石群
●転用礎石
2003/07/16撮影: 転用礎石1 転用礎石2 転用礎石3 転用礎石4 転用礎石5 転用礎石6
2018/05/03撮影: 転用礎石7 転用礎石8
2009/08/29追加:
郡山城すぐ北は殖槻寺跡と伝承・推定される寺院跡がる。
文献や物証がある訳ではないが、地理的な近さを考えると、この廃殖槻寺の礎石が郡山城築城に際し搬入・転用された可能性は極めて高いであろうと推測される。
→ 大和の塔跡中の殖槻寺跡を参照
2017/01/19追加:
大安寺の礎石、就中東西塔の礎石はさまざまの状況証拠からこの大和郡山城に持っていかれた可能性が極めて高い。
→ 大安寺礎石の行方(「大和大安寺」のページ中)
2018/07/07追加: ○大和郡山市>郡山城天守台展望施設整備事業について より
◇「多門院日記」天正17年(1589)6月18日条
(多門院は南都興福寺々中、天正13年秀長、郡山城に入り、天正17年はその後である。)
(多門院は近世には猿沢池東南にあり。)
多聞院日記・天正17年:背景画像はさかさ地蔵
當山山内の大小の石悉以郡山へ車にと取之・・・ 興福寺山内の礎石や石塔類などの石が車にて持ち去られた様子が良く分かる。
◇「西京代官・寺中宛 羽柴秀長書状」天正18年(1590) 羽柴秀長書状・天正18年:背景画像は本丸、石垣東面の最下部は上掲載「全国で最大規模の転用石群」である。
石材や建築資材は不足し、無政府状態となり、取り合いとなったようで、 西京 堂并寺中周り竹木石取者在 之者成敗可仕候也
との秀長書状が出されるという。
●大和郡山城址 2018/05/03撮影:
天守閣礎石1 天守閣礎石2 天守閣礎石3
さかささ地蔵
二面石仏:花崗岩製、鎌倉後期、秀長の築城時、他所から持ち込まれたものと思われる。
二面石仏表:地蔵菩薩立像(地獄に落ちた亡者の救済者)と両脇には冥界の十王を5体づつ彫り出す。
二面石仏裏:机の前に座った十王の一人である冥官と左に鬼、右に従者が刻まれる。
2006年以前作成:2018/07/07更新:ホームページ、日本の塔婆
|