大 和 久 米 寺 多 宝 塔 ・ 塔 跡

大和久米寺多宝塔・塔跡

久米寺多宝塔 【重文】

現存多宝塔は江戸初期建立と推定される。
総高は約14m、一辺3.78m。
概ね和様であるが、下重の柱の粽や木鼻など唐様が少し混ざる。
内部は四天柱の後2本があり、来迎壁を設け、その前は須弥壇とし、金剛界大日如来坐像を安置する。そして、内部は極彩色で真言8祖・四天王などを描く。
また現存多宝塔は万治2年(1659)仁和寺五智山から、東塔跡に移建と伝える。
 ※境内にある古い説明板には嘉永年中の移建としている。そのような記録あるいは伝承があるのだろうが、寛政3年(1791)刊の「大和名所圖會 」には(下に掲載のように)「・・・今の多宝塔は、近頃京師仁和寺の塔をここに移すといふ。・・・」とあるので、嘉永年中の移建は成立しないであろう。また、「西国三十三所名所圖會」にも、多宝塔が描かれるが、こちらの刊行は嘉永6年(1853)である。

昭和62年(1987)解体修理がなされる。その際北側に移建される。
修理以前は巨大な大塔跡の礎石の四天柱礎上に建っていたが、礎石の北に移築される。
塔そのものも軒の支柱も取り払われ、面目を一新する。
2014/07/25追加:
「聖地大和:集印帖添附」聖地大和写真刊行会、昭和15年 より
 昭和15年頃久米寺多宝塔
2010/02/21追加:毎日新聞写真
 昭和33年久米寺多宝塔1     昭和33年久米寺多宝塔2
2008/01/22追加:「日本の塔総覧 上」より転載
 昭和40年久米寺多宝塔:昭和40年撮影画像

東塔には元七重塔があり天慶5年(942)焼失。その後は大塔があったと云う。
東塔(大塔)は延暦年間空海が初めて大日経を感得したところとされる。

2002/4/29撮影
 大和久米寺多宝塔1(左図拡大図)
 大和久米寺多宝塔2
 大和久米寺多宝塔3
 大和久米寺多宝塔4
 大和久米寺多宝塔5
 大和久米寺多宝塔6
 大和久米寺多宝塔7
 大和久米寺多宝塔8
2000/9/20撮影

 大和久米寺多宝塔01
 大和久米寺多宝塔02
 大和久米寺塔跡礎石

2008/01/08撮影:
 大和久米寺多宝塔11    大和久米寺多宝塔12     大和久米寺多宝塔13     大和久米寺多宝塔14
 大和久米寺多宝塔15    大和久米寺多宝塔16     大和久米寺多宝塔17     大和久米寺多宝塔18
 大和久米寺多宝塔19    大和久米寺多宝塔20
2010/03/02撮影:
 大和久米寺多宝塔31     大和久米寺多宝塔32     大和久米寺多宝塔33     大和久米寺多宝塔34
 大和久米寺多宝塔35     大和久米寺多宝塔36     大和久米寺多宝塔37     大和久米寺多宝塔38
2022/05/22撮影:
 久米寺多宝塔41     久米寺多宝塔42     久米寺多宝塔43     久米寺多宝塔44     久米寺多宝塔45
 久米寺多宝塔上重46    久米寺多宝塔上重47    久米寺多宝塔上重48    久米寺多宝塔上重49
 久米寺多宝塔上重50    久米寺多宝塔上重51    久米寺多宝塔上重52
 久米寺多宝塔下重53    久米寺多宝塔下重54    久米寺多宝塔下重55
 久米寺多宝塔相輪

久米寺塔跡(心礎・礎石完存)

多宝塔の南には塔の一辺が10.7mに及ぶ塔跡及び礎石が残る。
大塔礎石は心礎を含め17個が完存し、塔平面の大きさは東大寺をはじめとする国分寺などを除けば、最大平面規模といわれる。
但し、17個の礎石平面であるので、平面3間の塔建築であったと分かる。
心礎の大きさは3.9×2.9m、上面に径93cm、深さ29.7cmの円穴がある。
まずその巨大さに圧倒される。四天柱礎・側柱礎も巨大な礎石を使用する。
○「佛教考古學論攷 四 佛塔編」 より転載。
 大和久米寺心礎実測図
2002/04/29撮影
 大和久米寺塔跡    大和久米寺心礎   
2007/01/31追加:「大和の古塔」
中央間12.8尺(3.88m)、両脇間11.3尺(3.42m)、全三間35.4尺(10.72m)、
心礎は長径1丈3尺許(3.94m)、短径9尺5寸余(2,88m)、径3尺8・9分深さ1寸内外の円穴を穿つ。
久米寺流記:或記云う、東院大塔者 天慶5年7月3日為雷火焼失畢云々。
 大和久米寺多宝塔・塔跡:伝東塔跡の四天柱礎上に多宝塔が建つ 様子が良く分かる。
2008/01/08撮影:
 大和久米寺大塔跡礎石1:背後は久米寺多宝塔
   同           2:右手は東側柱礎石列
   同           3:心礎・四天柱礎
   同           4:心礎・四天柱礎
   同           5:心礎、心礎上の四隅の 「窪み」は多宝塔設置時の四天柱穴とも推測される。
   同           6:同上
   同           7:心礎柱穴
   同           8:四天柱礎、小さい柱座及び枘孔は多宝塔設置時の側柱穴とも推測される。隣接する小礎石は多宝塔礎石か。
   同           9:同上
2010/03/02撮影:
 大和久米寺大塔跡礎石31       同           32
   同        心礎31       同        心礎32       同        心礎33
2022/05/22撮影:
 久米寺大塔跡礎石41    久米寺大塔跡礎石42    久米寺大塔跡礎石43    久米寺大塔跡礎石44
 久米寺大塔跡礎石45    久米寺大塔跡礎石46    久米寺大塔跡礎石47    久米寺大塔跡礎石48
 久米寺大塔跡礎石49    久米寺大塔跡礎石50    久米寺大塔跡礎石51
 久米寺大塔心礎41      久米寺大塔心礎42      久米寺大塔心礎43      久米寺大塔心礎44

久米寺現況
次のような伽藍を備える。
山門(仁王門)、多宝塔(重文)、本堂:寛文3年(1663年)再建、鐘楼、護摩堂、阿弥陀堂、観音堂、地蔵堂、大師堂、金比羅大権現、庫裏、合掌道場 等
2022/05/22撮影:
 久米寺仁王門     久米寺本堂1     久米寺本堂2     久米寺観音堂     久米寺地蔵堂     久米寺阿弥陀堂
 久米寺大師堂     久米寺鐘楼      久米寺護摩堂1    久米寺護摩堂2    久米寺大日如来坐像
 久米寺金比羅大権現     久米寺合掌道場1     久米寺合掌道場2

文献上の久米寺

寺は推古天皇勅願で来目皇子が建立したとされる。(「久米寺略記」「久米寺流記」)
あるいは
久米仙人の草創(久米仙人の伝説として流布)とも云われる。(「多武峯略記」)
久米寺流記では元々東西両塔があったと伝え、今残る塔跡は東塔跡と云う。
 ※現在の久米寺の院号は「東塔院」と号する。
「此塔者 多宝大塔 高八丈也・・・・・日本最初の多宝大塔也」そして弘法大師は入唐に先立ちこの塔下に大日経を獲たと伝える。
 ※弘法大師空海は久米寺の東塔において真言宗の根本経典の1つである『大日経』を感得したという。「益田池碑銘并序」(弘法大師撰文)には、「来眼精舎」として言及されており、空海とは関係があったのは確かであろう。
なお、奥山の「奥山久米寺跡」と云われ、久米寺の「奥の院」とされていたが、現在では、否定されている。

2022/06/03追加:
飛鳥厩坂寺跡と比定する説;
 久米寺出土瓦(久米寺出土瓦:帝塚山大学蔵)が南都興福寺から出土することを根拠に、久米寺は興福寺の前身である厩坂寺跡とする説がある。
 →軽寺跡・厩坂寺跡・石川精舎跡中を参照。

2022/06/26追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
26.久米寺
福山敏男によれば、久米寺の文献上の出現は「性霊集第二」に納める「大和州益田池碑銘并序」(天長2年/825撰文)に池の位置を「来眼精舎鎮其艮」と記すのが最も古い。
益田池の堤の位置と池全体の復原からすれば、「来眼精舎」は、今の久米寺の地にあたる。
但し、創建の中心伽藍は現在の久米寺の西方、久米集落の中で明治年間まで金堂などの礎石が残っていたという。(保井芳太郎)
考証の中で、福山は久米寺を久米(来目)氏の氏寺とした。
しかし、興福寺からこの久米寺と同笵の瓦が出土すつることに注目すれば、厩坂寺に擬する考えも捨てがたい。
この問題について、山崎信二は藤原京の軒瓦6646型式Cが山城大宅廃寺と同笵で、大宅廃寺からその范型を移して藤原京用の生産に用いた事を証明した。そして藤原京造瓦に関連するもう一つの寺が久米寺である。
つまり、久米寺・大宅廃寺だけが藤原京の造瓦に特殊の関係を持つ訳であるが、その背景にはこれらが大和と山城における藤原氏の氏寺であったことに求めた。方や山階寺、方や厩坂寺である。
久米寺が厩坂寺とすると、これに関しては資料がある。
「興福寺流記」に引く「宝宇記」の天智8年(669)藤原鎌足臨終に際して嫡室鏡女王が山階寺を開き、飛鳥に宮するとき高市厩坂に移造したとする。「興福寺流記」に引く「旧記」もほぼ同じことを記す。
厩坂寺創建の年代に二つの記録は年次を記さない。
「興福寺伽藍縁起」(久安2年(1145)以前)では「厩坂寺、天武天皇即位元年白鳳12癸未年。(癸未年は天武12年(683))都大和国高市郡に移る時、山階寺を改め厩坂寺と号く。」とある。
「建久御巡礼記」では山階寺の厩坂移転を天武元年(672)とするが、これでは山階寺創建から3年しか経っていず、にわかには信じがたい。
さらに、久米寺出土瓦の内の一つのセットは香芝市の尼寺廃寺北遺跡に同笵例がある。(尼寺廃寺を厩坂寺とする説もある。)
2022/11/10追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

大和名所圖會:寛政3年(1791)刊より:
  ○久米寺多宝塔(部分図)
記事:「・・・多宝塔は、養老年中に善無畏三蔵来朝し、当寺に2年住みて南天の鉄塔の半分の写しなり。・・・その後延暦14年、弘法大師夢の告を蒙りて、久米の道場東塔の下にして、かの七軸の経を得られたまふ。・・・今の多宝塔は、近頃京師仁和寺の塔をここに移すといふ。いにしへの礎石なほ遺れり。・・・」

西国三十三所名所圖會
:巻之8:霊禅山東塔院久米寺、嘉永6年(1853) より
多宝塔(本堂の向かふ、右の傍にあり。往古の大塔の礎石四面にならぶ。数十二あり。大日如来を安ず。)
  ○久米寺全図(大塔跡に多宝塔が建っている様が描画される。)  ○久米寺部分図・・・・要削除

久米仙人
伝説の話であるが、久米寺の草創は久米仙人とも云われる。
○「今昔物語集 巻11第24話 久米仙人始造久米寺語 第廿四」 より
 今昔、大和国吉野の郡龍門寺と云ふ寺有り。寺に二人の人籠り居て、仙の法を行ひけり。其の仙人の名をば一人をあづみと云ふ。一人をば久米と云ふ。然るに、あづみは前に行ひ得て、既に仙に成て、飛て空に昇にけり。
 →吉野龍門寺
後に、久米も既に仙に成て、更に昇て飛て渡る間、吉野河の辺に、若き女、衣を洗て立てり。衣を洗ふとて、女の『月巾』(肉偏に巾の文字・これで一文字)脛まで衣を掻上たるに、『月巾』(これで一文字)の白かりけるを見て、久米、心穢れて、其の女の前に落ぬ。
 ※『月巾』(肉偏に巾の文字・これで一文字)は「ハギ」と読み、ふくらはぎの意に解される。
 ※大和名所圖繪・女脛
其の後、其の女を妻として有り。其の仙の行ひたる形ち、今、龍門寺に其の形を扉に移し、北野の御文に作て出し給へり。其れ消えずして于今有り。
其の久米の仙、只人に成にけるに、馬を買ける渡し文に、「前の仙久米」とぞ書て渡しける。
 然る間、久米の仙、其の女と夫妻として有る間、天皇、其の国の高市の郡に都を造り給ふに、国の内に夫(ぶ)を催して、其の役とす。然るに、久米、其の夫に催出されぬ。余の夫共、久米を、「仙人、々々」と呼ぶ。行事官の輩有て、是を聞て問て云く、「汝等、何に依て彼れを仙人と呼ぶぞ」と。夫共、答て云く、「彼の久米は、先年龍門寺に籠て、仙の法を行て、既に仙に成て空に昇り飛び渡る間、吉)□□□□□□□□□□□□□女(底本頭注「吉ノ下一本吉野川ニノ三字アリ」)、衣を洗ひて立てりけり。其の女の褰(かか)げたる『月巾』(これで一文字)白かりけるを見下しけるに、□□□□□□□□□□□□(底本頭注「見下シケルノ下一本其ノ心穢レテ忽チ其ノ女ノトアリ」)前に落て、即ち其の女を妻として侍る也。然れば、其れに依て仙人とは呼ぶ也」。
 行事官等、是を聞て、「然て止事無かりける者にこそ有なれ。本仙の法を行て、既に仙人に成にける者也。其の行の徳、定て失給はじ。然れば、此の材木、多く自ら持運ばむよりは、仙の力を以て、空より飛しめよかし」と、戯れの言に云ひ合へるを、久米、聞て云く、「我れ、仙の法を忘れて年来に成ぬ。今は只人にて侍る身也。然許の霊験を施すべからず」と云て、心の内に思はく、「我れ、仙の法を行ひ得たりきと云へども、凡夫の愛欲に依て、女人に心を穢して、仙人に成る事こそ無からめ。年来行ひたる法也。本尊、何(いかで)か助け給ふ事無からむ」と思て、行事官等に向て云く、「然らば、若やと祈り試む」と。行事官、是を聞て、「嗚呼(をこ)の事をも云ふ奴かな」と思乍ら、「極て貴かりなむ」と答ふ。
 其の後、久米、一の静なる道場に籠り居て、身心清浄にして、食を断て、七日七夜不断に礼拝恭敬して、心を至して此の事を祈る。然る間、七日既に過ぬ。行事官等、久米が見えざる事を、且は咲ひ且は疑ふ。然るに、八日と云ふ朝に、俄に空陰り暗夜の如く也。雷鳴り雨降て、露物見えず。是を怪び思ふ間、暫許(とばかり)有て、雷止み空晴れぬ。其の時に、見れば、大中小の若干の材木、併ら南の山辺なる杣より空を飛て、都を造らるる所に来にけり。其の時に、多の行事官の輩、敬て貴びて久米を拝す。
 其の後、此の事を天皇に奏す。天皇も是を聞き給て、貴び敬て、忽に免田卅町を以て久米に施し給ひつ。久米、喜て、此の田を以て其の郡に一の伽藍を建たり。久米寺と云ふ是也。
 其の後、高野の大師(空海)、其の寺に丈六の薬師の三尊を、銅を以て鋳居へ奉り給へり。大師、其の寺にして大日経を見付て、其れを本として、「速疾に仏に成るべき教也」とて、唐へ真言習ひに渡り給ける也。
然れば、「止事無き寺也」となむ、語り伝へたるとや。

いもあらい地蔵尊
石川町に”いもあらい地蔵尊”がある。
橿原市のサイトでは”いもあらい地蔵尊”を次のように解説する。
「昔は「疱瘡(天然痘)」のことを”いも”と言う。  そして集落の入り口や峠に疱瘡(いも)が入って来ないようにとの願いからお地蔵さんを祀る。これが「いもあらい地蔵尊」である。
 このあたりは「いもあらいしば」と呼ばれ、ぞばには「いもあらい川」が流れていた。
有名な「久米仙人伝説」の中の”空を飛んでいた仙人が、川で洗い物をしていた若い女性(妹)の白いふくら脛を見て心を乱し、飛行の神通力を失ってその女性の前に墜落した”ところ、と言われている。
「疱瘡(いも)洗い」・「芋(いも)洗い」・「妹(いも)洗い」の言葉が重なるところから、「地蔵」と「伝説」が結びついたと思わrれる。
なお「いもあらい地蔵尊」は、現在の場所から50m西の国道沿いにあったが、2016年県道敷設のため現在地に移される。
 なお、石川本明寺(軽寺・厩坂寺・石川精舎中)の五輪塔はいもあらい地蔵尊境内から移したという。


2006年以前作成:2022/11/15更新:ホームページ日本の塔婆