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邪馬台国は何処にあったのか?

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 この時の時代背景   使節一行の目的・規模  魏の使節の乗り物は   景初2年と3年の問題 魏の使者はどのように?     博多湾上陸地点
距離の単位“里”   伊都の国の位置づけ  投馬の国の位置は? 卑弥呼の時代に近畿は?  何故、唐津ではない?   

トップペイジ:邪馬台国は何処にあったのか?

文献史学からは解けないとされた古代史最大の謎に、
              もう一度、文献から、真相に迫りました。

 Δ この新しい説では、方向・距離・水行/陸行を一切変更せず、
   魏志倭人伝の語句は、全てそのままで、邪馬台国へ到着。 
 Δ 全ての邪馬台国論が、唐津を上陸地と想定してきたことの間違いを指摘する。(何故、唐津ではない‐参照)
   ・ 唐津を末盧とした根拠は、江戸以来の文学者の誤った注釈を鵜呑みにする古事記の解釈に起因する。
   ・ 歴史研究の原則に従い、時間と空間を正しく把握し直すことにより、文学者 の注釈の誤りを正し、上陸地点を博多に変える。

 Δ この説で、邪馬台国論争は終了することになります。    
 次の課題は、日本の最初の政権である大和朝廷の創生期
       “卑弥呼が九州にいた時代に                 
              大和・畿内では 何が起きたいたのか?” 
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帆船マーク


・ 邪馬台国の位置を記す唯一の記録は、中国の正統な歴史書で、陳寿の記した三国志に含まれる東夷倭人伝。
  この倭人伝には、朝鮮の帯方郡から邪馬台国までのルートが、対馬や壱岐を含め、途中の島と国々が、方位(東西南北)と距離(里数)で明瞭に記されている。
 このルートを昔から沢山の学者達が、国々の位置と邪馬台国の位置を日本地図に当てはめ(比定)ようとして、試みてきたが、方位(東西南北)と距離及び航行するか陸を行くかを検討したが、うまく当てはめることができていない。
 逆に、多くの論者は、このルートの記述自体が、不正確、間違っているなどとして、ルートを捻じ曲げ、自説の位置に当てはめて来た。

 これが邪馬台国の謎と云われる。
解決策が見出せないため、文献からは解けないとして、遺跡・遺物から解明できるものと研究を重ねられ、考古学が解決すると期待され、数々の話題を、今も、提供し続けて来た。

短甲武装像
この魏志倭人伝に記述された通りに、地図上で当てはめることのできるルートがある。    
それは、左の図及び下の図の通り。

・ 魏の使節は、大型の帆船に乗り、帯方郡を出帆し、韓国沿岸を南下。
 一日約70~80kmの距離を航海し、夜間停泊を繰り返した
・ 7日の航海で釜山近辺に到着。

・ 海路 対馬へ (南に千里:70-80km)
・ 海路 壱岐へ (南に千里:70-80km)
・ 海路 末盧(博多)へ (千里:70-80km)

――――――――――-
・ 大型帆船で、目的地に最も近い地点まで航行し、はしけで上陸し、最短の陸路コースで目的地へ到達したものと推定。
・ 従来の唐津は上陸地点としない。( この唐津上陸が混乱・謎の元凶)




使節のルート









・ 陸路 伊都国(大宰府)へ(東南500里:35-40km)
・ 陸路 奴国(筑前町:旧夜須町)へ(東南100里:7-8km)
・ 陸路 不彌国(朝倉市:秋月付近)へ(東100里:7-8km)
・ 陸路 邪馬台国(朝倉市甘木)(南に接する)

・ 不彌国から投馬国へは水路で南へ20日間行き投馬国へ
  投馬国は沖縄又は宮崎と思われる。
  伊都国又は不彌国から、水路で南に下ることが可能だった。


・ 博多に上陸とすると、
 ルートは記述通りに邪馬台国の地に達し、その地は遺跡とも合致する。

☆ 魏志倭人伝の信頼性への疑問を生んだ[唐津上陸説]を採用しない理由や壱岐島から遠い博多湾に直接航行し、上陸することができたとする理由などを、次のような順にご紹介いたします。

 
 この時の時代背景
  魏の使節一行について:目的、所持品、規模
 魏の使節の乗り物・交通機関
 邪馬台国の朝献の使節派遣から魏の使節が来る
   までのこと(景初2年と3年の問題
魏の使者はどのように邪馬台国へ行ったのか?
 博多湾の上陸地点変更
 使われた距離の単位“里”の距離は何mか?
 伊都の国の位置づけは、記述に合致するか?
 投馬の国の位置は?
 邪馬台国:卑弥呼の時代に近畿はどう云う状態であったのか?
何故、唐津ではない? 


尚、PDFの魏誌倭人伝の検証に基づく邪馬台国の位置比定
       (魏の使節は帆船で博多湾に)も参考にご覧下さい。
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