邪馬台国は何処にあったのか?
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魏国使節の邪馬台国訪問の目的・役割・所持品・人数・規模などを考えてみることで、その一行の背景と基本的な考え方を理解し、使者のルートを推定する基礎とする。
・ 240年 建中校尉の梯儁が、帯方郡太守の弓遵に命じられ、邪馬台国へ使節の長として行くことになった。
朝献に来た使者に持ち帰らすことをせずに、あえて、使節を出したことには、魏王の重要な意図あってのことと推測される。
・ 貴重な金印紫綬と詔書を持参し、魏の国王の代理として行き、女王に与えるという名誉役割である。
しかも、異例と云われるほどの多くの貴重な宝物を、間違いなく届けなければならない。
さて、この役割を与えられた使節はどのような事を配慮し、海の向こうの遠い地に向かったのか、それを実務的に、使節の一員になったつもりで考え、検討してみる。
・ 勿論、邪馬台国の朝献の使者達からも情報収集。
・ 人員数・荷物量:
魏王の代理としての体面を保つ人員数は、数人と云うことはありえず、数十人以上、荷物は、大量の貴重な王の贈答品の外、使節数十人分の携帯品、 警護の武装兵とその装備一式など 合計人員は数百名と推定。
・ 安全に・確実に到着できるか?
魏の領土内でも戦乱直後で、まだ、公孫氏・呉の残党が残る可能性があり、途中の韓国は、魏の完全傘下には入っておらず、安全とは云えない。 従って、十分な武装と兵員を擁する必要がある。
・ 交通手段とルートは?
海を渡るから船が必須。船は勿論、魏の船。最も安全な大型帆船で、武装兵力を搭載できるものが選択される。
・ 季節は、初夏
冬・春は、この地域の航行に向かない。秋には台風が来る。
従って、5-6月に行き、8月上旬までに帰途へ
・ ルートは、戦乱収束直後の陸地を避け、海上ルートを選択。
十分な海図も無く、海面下の岩礁など見えない危険を避けるため、夜間は避け、日中のみ航行。
途中の上陸地点や最終目的地への上陸のためには、勿論、上陸用小舟を用意
重い貨物の陸上輸送には、困難が多いため、陸の輸送区間は最短にすることが常識。
従って、可能な限り最終目的地の近くまで航行する。
・ 水先案内は、朝献使者の船員を同乗させる
・ 先発隊を出し、倭の邪馬台国へ連絡し、倭国側に受け入れ態勢を準備させる
* 魏の皇帝の命を受け、代理で行くのだから、最低限、この位のことは、考慮したはず。
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