邪馬台国は何処にあったのか?
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卑弥呼を知るためには、その卑弥呼について書かれた唯一の文献の魏志、(中国・魏の国の正史)に頼るわけですので、まず、当時の中国・魏について、基本的な情報を理解している必要があります。少し、遠回りをしますが、我慢して読んで下さい。 実は、ここに日本の古代史の謎を解く鍵がありますので。
・ AD 238年(景初2年6月)
卑弥呼使節(難升米)を帯方郡に送り、朝獻を求めた。
帯方郡太守は都に使節を送り届けた。
・ 同年12月
魏の帝に面会、明帝は詔書に卑弥呼を「親魏倭王」とし、
金印紫綬と金・錦・刀・鏡など財宝を帯方郡太守に託した。
・ AD 240年 帯方郡の太守弓遵は、建中校尉梯儁を使節とし、
邪馬台国を訪問させ、卑弥呼に会い、魏の帝の詔書・金印と財宝を授けた。
卑弥呼が朝献の使節を送った頃の魏の状態を示す。
・ 魏の北方の地域を公孫氏が占拠し、海軍の機動力を持つ呉と結び、魏を悩ませていた。
・ 魏は、呉と蜀と敵対し、主戦力(30万の兵)を蜀との戦いに投入していた。
・ 魏は、やむなく、2線級の軍隊を、公孫氏討伐に投入するが、数万の兵を失う敗戦を重ねていた。
・ 234年 蜀・諸葛孔明の死亡を機に、魏は主戦力を引き上げた。
そして、司馬仲達将軍を公孫氏との戦いに投入した。
・ 魏は、公孫氏の占拠する遼東半島を、西から陸伝い攻めるだけではなく、背後の東から攻めべく、大型の軍船を建造。
・ 237年に朝鮮半島に海上輸送で、軍隊を送り、遼東半島に近い地域を占領、楽浪郡・帯方郡を設立。
・ 挟み撃ちの体制を整えた。
この時に海路で送り込んだ軍勢の数は不明だが、参考となるのは、「紀元前109年に、5万の軍勢を、海路で朝鮮に送り込み」、古朝鮮を滅亡させたこと。この人数では不十分で、戦いとしては負けたが、戦略で勝利。
このことから、軍勢は、少なくとも、数万以上と推定。
・ 237年景初1年
大船で軍を密かに渡海させ、楽浪郡・帯方郡を回復。
・ 238年景初2年6月 司馬仲達4万の兵を率いて、遼東半島の西側に到着
同年6月 遼東半島の東・帯方郡に隣国・倭より朝献の使節到着
同年8月 司馬仲達 公孫氏を滅ぼす
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