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邪馬台国は何処にあったのか?

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 この時の時代背景   使節一行の目的・規模  魏の使節の乗り物は   景初2年と3年の問題 魏の使者はどのように?   
距離の単位“里”   伊都の国の位置づけ  投馬の国の位置は? 卑弥呼の時代に近畿は?  何故、唐津ではない? 

時代背景 :  使節の来た年代

 卑弥呼を知るためには、その卑弥呼について書かれた唯一の文献の魏志、(中国・魏の国の正史)に頼るわけですので、まず、当時の中国・魏について、基本的な情報を理解している必要があります。少し、遠回りをしますが、我慢して読んで下さい。 実は、ここに日本の古代史の謎を解く鍵がありますので。

三国 遼東 倭 の地図



 ・ AD 238年(景初2年6月) 
   卑弥呼使節(難升米)を帯方郡に送り、朝獻を求めた。
   帯方郡太守は都に使節を送り届けた。

 ・ 同年12月     
   魏の帝に面会、明帝は詔書に卑弥呼を「親魏倭王」とし、
    金印紫綬と金・錦・刀・鏡など財宝を帯方郡太守に託した。   

 ・ AD 240年 帯方郡の太守弓遵は、建中校尉梯儁を使節とし、
   邪馬台国を訪問させ、卑弥呼に会い、魏の帝の詔書・金印と財宝を授けた。






この時代は、三国志の物語の終盤。
208年に赤壁@の戦いで、10万の軍の大船団を組んだ魏が、呉の船団と諸葛孔明の戦略により大敗。
諸葛孔明を擁した劉備は蜀を取得。 呉は体制を強化。
魏は大敗の後、勢力を戻し、呉と蜀を滅ぼすために大軍を持って対峙した。 三国時代。

魏の主戦力が遠い蜀や呉に向けられていた隙間をぬって、北方では公孫氏が魏から離反・独立し、勢力を拡大していた。
魏は公孫氏に手を焼き、数度に渡り軍勢を送ったが、数万の兵を失い敗れ続けていた。
更に、魏を悩ませていたのは、公孫氏は呉と結んだこと。 
呉の海軍・大型帆船の機動力は、魏の前の海を通り、遼東半島まで、3日で移動できると豪語、実際に何回も大軍を送っていた。

南船北馬と云われ、呉が船団を持っていたことは有名ですが、実は山東半島の付け根付近の斉の国は造船・海運の最大の拠点であったことが知られています。 
因みに、赤壁の戦いでは、圧倒的に強力な船団を有していたのは、呉ではなく、魏の方だった。(運と策略で大敗したが。)
魏は、斉の国を有し、海と船に関する潜在的な能力・技術力を持っていた。

遼東半島をめぐる海上交通 卑弥呼が朝献の使節を送った頃の魏の状態を示す。

 ・ 魏の北方の地域を公孫氏が占拠し、海軍の機動力を持つ呉と結び、魏を悩ませていた。
 ・ 魏は、呉と蜀と敵対し、主戦力(30万の兵)を蜀との戦いに投入していた。
 ・ 魏は、やむなく、2線級の軍隊を、公孫氏討伐に投入するが、数万の兵を失う敗戦を重ねていた。 
 ・ 234年 蜀・諸葛孔明の死亡を機に、魏は主戦力を引き上げた。
       そして、司馬仲達将軍を公孫氏との戦いに投入した。
 ・ 魏は、公孫氏の占拠する遼東半島を、西から陸伝い攻めるだけではなく、背後の東から攻めべく、大型の軍船を建造。
 ・ 237年に朝鮮半島に海上輸送で、軍隊を送り、遼東半島に近い地域を占領、楽浪郡・帯方郡を設立。
 ・ 挟み撃ちの体制を整えた。

この時に海路で送り込んだ軍勢の数は不明だが、参考となるのは、「紀元前109年に、5万の軍勢を、海路で朝鮮に送り込み」、古朝鮮を滅亡させたこと。この人数では不十分で、戦いとしては負けたが、戦略で勝利。
このことから、軍勢は、少なくとも、数万以上と推定。

 ・ 237年景初1年    大船で軍を密かに渡海させ、楽浪郡・帯方郡を回復。
 ・ 238年景初2年6月 司馬仲達4万の兵を率いて、遼東半島の西側に到着
         同年6月 遼東半島の東・帯方郡に隣国・倭より朝献の使節到着
         同年8月 司馬仲達 公孫氏を滅ぼす

* 波乱万丈の三国志の焦点が、諸葛孔明の死をきっかけに、東へ移動し、魏は全勢力を公孫氏の撲滅に乗り出した時期が、卑弥呼の時代と云える。

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