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短甲武装像

              DNAからみた日本人   

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DNAから見た日本人のルーツは?
    人間の遺伝子の研究が進み、DNAによる人種の調査・検討が可能となった。
    多くの科学者が、その特長となるDNAの部分を使って調査して、多くの貴重なデータを集め、発表している。
    科学者が中心になり、そのデータを基に、日本人のルーツの案を発表しているが、地球科学/民族学/考古学や歴史的な事実に合致していない。
    それは、データで証明できる部分と、データでは証明できない部分を、あやふやにして、断定しているため、間違いが発生している。
    本来は、科学者の発表した「データ」と「そこから云える結論」は、歴史や考古学や、この起源論では、正統なものとして受け入れべきものと考える。
    しかし、起源論に踏み込んだ科学者達の中には、正しい「データ」に「そこからは云いきれない結論」を発表しているケースが多く見られる。
    結果的に、「科学を使って嘘をつく」形になっている。 

このDNAから見た日本人では、科学者が出してくれたデータを尊重し、そこから「云えない結論」は排除し、「云える結論」だけを使うこととした。
    しかし、「云える結論」だけを使って、10万年の出アフリカ以来の人類を軌跡をたどることは到底出来ない。
    そこで、地球科学・民族学・考古学・比較言語学、そして稲作・稲の品種の研究、民族の移動などの研究成果を、総合的に、合理的に理解して、日本人のルーツを検討し、整合性のとれた案を提示します。


この章につきまして、判りやすいように書き直すつもりですが、当面は
    DANから導きだされる日本人の起源このPDF資料をご参照下さい。

    尚、最初に記述しましたPDF資料も旧版にはなりますがご覧下さい。
    DNA-日本人の起源とモンゴロイド : 旧版

   2016年9月17-19日に日本第四紀学会でポスター発表した要旨を下記に掲載します。
   この本文に該当する部分は、もうしばらく、お待ち下さい。

      日本第四紀学会2016年大会  日本第四紀学会講演要旨集から再掲載

DNAによる日本人の起源」 人文科学と統合した新解釈 
丸地三郎  Saburo MARUCHI

1.はじめに

 「日本人の二重構造モデル」が出されたが、DNAなどの科学的調査結果を踏まえた各論が、独自に異なった北方説・南方説を提唱している。
  旧石器時代を含む考古学の知見・人類学・民俗学・歴史学・言語学及び、複数種類のDNA(Y染色体・mtDNAGm遺伝子)ATLキャリアなどから「確認のとれている事実関係」との整合性が、各論共にとれていないのが現状。未だ、日本人の起源論は混沌としている。ここに、高いレベルで整合性の取れる新しい解釈を見出だし、提示する。

2.概 要

201211月の東京大学:斉藤成也氏外の記者会見でヒトゲノム解析の結果、日本人の二重構造モデルを強く支持すると発表し、アイヌと琉球人との近縁性が強いことを示した。北海道から沖縄まで広範な地域に先住民がいたことを示唆。また、4世紀以降に到来したニブフなどのオホーツク人とアイヌの遺伝子交流も示唆した。
 2014年に国立遺伝子研究所の斉藤成也氏のチームが、縄文人のヒトゲノムの解析に初めて成功、縄文人は東南アジア人と東北アジア人が分岐する前に、アジア人共通祖先から分岐したと発表。  
 以上を踏まえ、まず、先に、主要な日本先住民と弥生渡来人の2系統の民族につき、新しく解釈した日本への渡来ルートの要約を示す。

@  日本先住民

 6−7万年前に出・アフリカしたホモサピエンスがインド等の南岸を経由し、スンダ大陸に到着。5万年前にその一部が、“海路”でサフル大陸に渡り、アボリジニーの祖先となった。その後も、多くの種族がスンダ大陸に到達し、混在し、アジア人が誕生した。4万年前に、一種族がフィリピン付近から、“海路”、北上し、沖縄・九州・本州(四国を含む)から北海道まで到達。先進的な石器と広範囲に遺跡を遺す日本先住民となった。

    A  弥生渡来人

同じ4万年前にスンダ大陸から複数の種族が海岸沿いを北上。陸地化した黄海を通り、更に北上、シベリヤ大陸内部まで進攻。耐寒用衣服や寒冷地の大型動物を狩る石器を開発。2万年前の極寒期に至ると、多くは死に絶えたが、耐寒仕様の体形・体質への変化に成功した種族のみが、バイカル湖周辺で生き延びた。極寒期を過ぎ、人々は、四方へ拡散。南下した一部の種族が長江沿岸に到着。1万年前に稲作を開始した。中国の長い・過酷な戦乱の歴史の中、長江文明を担った種族の一部が2千年前に“海路”、集団で日本へ移住し、水田稲作を開始した。これが弥生渡来人。

B  弥生渡来人と先住民

当初、先住民と並存した弥生渡来人は、備蓄が可能で安定した食料-米を持ち自然人口増加率で勝り、婚姻と武力により、数百年の期間で先住民を吸収し二重構造モデルの状況に至った。


C スンダ大陸で起きたこと

多くの種族が順次到達、広い通婚範囲を持ち、女性の流動性が高かった。従って、後に各地に離散した種族のmtDNAも、殆ど同じような多様性の高いハプロタイプのパターンを持つ。
 北上が起きた4万年以后も、アボリジニー似の種族がそこに存続した。凡そ1万年前まで生息し続けたことを示す人骨が発掘されている。その後、現在の人種に入れ替ったことが、札幌医科大学の松村博文氏の研究によって報告されている。
 現在の南方系モンゴロイドを特徴づけるGm遺伝子afb1b3はマラリヤの防御に関りを持つ。日本先住民やその他の多くの種族が北上を開始した理由は、マラリヤ禍からの退避と推定する。

D  ヒマラヤ北方ルート

通説であるアジア人祖先の「ヒマラヤ北方ルート」について。バイカル湖周辺で生き延びた「北方系アジア人」は、多様なDNAY遺伝子・mtDNAとも)を持ち多くの種族を含む。この北方ルートは、氷河期の高山帯を越え、高冷地を長距離移動する生存が厳しいルートで、温暖地に暮らした初期のホモサピエンスには、防寒衣服・大型動物狩猟用石器が無く、事実上困難。上記の多様な種族が、揃って北方ルート踏破に成功することは有り得ないので、北方ルートはとらない。

3.この説の新規性

長い迂回ルートを経て来た弥生渡来人と最短コースで来た先住民の両方が、南方のスンダ大陸から渡来したことを初めて説く。この日本人の起源とルートでは、前述の「確認の取れている事実関係」との整合性が十分取れる。 以上。

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