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邪馬台国は何処にあったのか?

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景初2年と3年の問題:邪馬台国の朝献の使節派遣から魏の使節が来るまでのこと

 ・ 邪馬台国の卑弥呼が朝献の使者を送りだし、その使者が帯方郡に到着した時を、景初2年6月、と魏志倭人伝には記載されている。
   これに対して、梁書、翰苑には景初3年との記述があることから、この記述は、間違い、又は、転記ミスで、景初3年6月が正しいとする説が流布している。
   これが、景初2年/3年の問題と言われている。 又、高校の日本史の教科書には景初3年と記載されている。(入手した2社の教科書で確認)
   ここでは、倭人伝に記されている景初2年6月が正しいことを記す。

 ・ 景初3年6月説の代表的な論旨。
   1) 景初2年に朝献に行き、魏の使者が邪馬台国を訪問したのは、2年後。 
         ・ 何故、次の年ではないのか?
         ・ 古代のこととは云え、余りにも間延びしている。 不自然で、おかしい!
   2) 景初2年6月の帯方郡及び朝鮮半島は、公孫氏討伐のための戦乱の真っ只中。
      公孫氏が滅ぶのが8月で、それ以後に遼東半島・楽浪郡・帯方郡が収まったとの記述がある。
      従って、戦乱の最中の帯方郡へ、卑弥呼の使者が到着したとは考えられない。
   3) 日本書紀 巻第九 神功皇后紀の記述に景初3年に送ったとする記述がある。
         「太歳己未。魏書に云はく、明帝の景初三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。
          太守ケ夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。」
      この記述では、明帝の時の景初3年6月に、女王が使者を帯方郡まで送ったとしている。
      この日本書紀の記述と魏志倭人伝の記述を比べて、日本書紀の方が正しいと考えて居るのが、景初3年説。

 ・ 以下に個々の論旨が成り立たないことを示す。

三国 魏 遼東 帯方郡 倭の地図1) 魏の使節の訪問するまでに、2年間は長すぎる。 
   確かに、返礼の訪問までの期間が2年とは、長すぎ、間延びしおり、不自然。
   しかし、調べてみると間延びしても不思議でない事情が有ったことが判った。

     ・ 魏志と呉志の両方を使って、使節と遼東半島の状況を、時系列で明示する。
       AD 238年(景初2年6月) 卑弥呼使節(難升米)を帯方郡に送り、朝獻を求めた。
                        帯方郡太守は都に使節を送り届けた。
           同年12月        魏の帝は詔書に卑弥呼を「親魏倭王」とし、
                        金印紫綬と金・錦・刀・鏡など財宝を帯方郡太守に託した。
       AD 239年(景初3年1月) 魏の明帝が死去(魏書 明帝記による)
                 同年3月 呉は、海路、遼東半島に派兵、魏の守備隊を破る。(呉志による)
       AD 240年 帯方郡の太守弓遵は、建中校尉梯儁を使節とし、邪馬台国を訪問させた。
                       梯儁は卑弥呼に会い、魏の帝の詔書・金印と財宝を授けた。
   景初3年には、大きな事件が2件発生している。
       朝献・返礼訪問の一方の主役である魏の王:明帝が1月に突如死亡。
       遼東半島を、宿敵である呉に占領された。

   呉に占領された遼東半島を回復するために、大掛かりな撃退作戦を取ったと思われる。
   遼東半島近海の海域は、魏と呉の海戦の場となり、両軍の兵員・軍備の補給や撤退のため往来。
   この海域の通交は、危険な状態であった。

   当時の航海技術では、日本への渡海の季節は、夏に限られていたと考えられる。
   又、魏から日本へ行くには、遼東半島の近海を通る必要がある。
   従って、魏の使者が、この年:景初3年の夏の期間に、危険な海域を通り邪馬台国へ行くのは困難だった。
   
   明帝の死とその混乱に乗じた呉の遼東半島占拠を考えると、間延びしても不思議でない事情があったことが判り、
   2年間の間延びした期間を理由に、景初3年とすることはできない。

景初2年6月 2) 景初2年6月に卑弥呼の朝献使節が、帯方郡に到着し、さらに魏の京都(洛陽)まで行けたのか? 
    この検討には、左記の図参照し、戦乱の地域と時期を、ゆっくり考えて下さい。

  237年景初1年
    魏は、船で帯方郡と楽浪郡に軍を送り込み、地域を掌握
    その結果、公孫氏は、東方への退路が断たれた。
  238年6月
    司馬仲達の軍は西方に集結。
    公孫氏は、遼東半島に退避。(更に東には退避していない。)
    但し、司馬仲達の軍は、包囲が完了したが、大雨でそれ以上の進軍はできず、待機。
   238年7月
     公孫氏は、遼東半島で動けず、食料が尽き、餓死者多数。
     (遼東半島から東の朝鮮半島側へも退避できなかったことが明白)
   238年8月
     雨が止み、司馬仲達の軍は、進軍が可能となり、遼東半島にて公孫氏を打倒。

 この状況から判断すると、景初2年6月には、魏軍は、公孫氏を遼東半島に追い詰め、包囲を完了していた。
 遼東半島から200km以上離れた帯方郡では、公孫氏との戦闘は行われておらず、交通が閉ざされることは無かったと考えるのが妥当。
 呉志にも、この時に、軍船を出した記録は無い。 遼東半島近辺の海域に、魏の船舶の航行に危険性は少なかったものと推定。
 景初2年6月に倭の使者は帯方郡へ到達でき、更に都までの移動も、十分可能であった。 別に無茶なことでは無い。
 従って、景初2年には、戦乱で、女王の使節が行けなかったとの説は成り立たない。

  逆に、この時期に、帯方郡を抑える太守弓遵にとって、最も嫌な事・懸念することは、どんなことだったろうか?
  占領した韓国の地のさらに東側から、敵軍が現れて、韓国と手を結んで、魏軍の占領を排除しようとすることだったと推察される。
  もし、そうなると、挟み撃ちにしたつもりが、逆に挟み撃ちに遭うことになり、困ったことになると言える。
  事実、数年後には、韓国が反乱し、太守を殺害する事態が発生している。
  倭国:邪馬台国の朝献の使節と到来は、懸念したことの逆で、太守弓遵は喜んで、魏に味方すると云う証拠であるとして、都に報告し、使節を送り届けたと推定。
  このタイムリーな良い知らせであったことが、女王への高い位と豪華な返礼の品物の要因になったとの説は、納得が行く。


3) 日本書紀に景初3年に送ったとする記述があることを根拠にする説
   この説は、日本書紀の記述を丁寧に読めば、信憑性がないことは明白。
   魏志と呉志の両方を使って、使節と遼東半島の状況を時系列で明示した資料を、先に、示した。
   この資料を見ると、景初3年の、もう一つの大きな事情が示されている。それは、1月に明帝が急死したこと。
   それに対して、日本書紀の記述では、急死していない明帝へ景初3年6月に使者を出している。
   日本書紀の作者は、魏志倭人伝を読んで、この朝献の話を取り入れたが、景初2年6月を不審に思い、勝手に3年に変えたか、
   別の史料の梁書の景初3年を見て、記述したものと思われる。
  この根拠は、史料の原典に戻ることの大切さをないがしろにしたもので、時代が下った史料によって、前の時代の史料を誤りと断定すると云う、歴史の方法論の原則に反するもの。

以上、1)2)3)について見たように、景初2年6月説を覆す、正統な理由が無いため、魏志倭人伝の2年を正しいものと考える。

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