・ 唐津が上陸地点でない理由は、魏志倭人伝の記述に合わないから。
- 里数が合わない。
- 末盧国から東南へ500里へ行けない。(山岳地帯で通れない:困難)
- 山岳地帯を越えて到着した地点を伊都の国としても、
伊都国の役割(貿易・外交・軍事の拠点)を果たせない。
・ 次の地点に移動できないため、方向・距離・水陸の記述がデタラメとする説の根本原因になった。
- 唐津が末盧国と比定された理由は、江戸時代の研究者が、魏志倭人伝の地名を、発音の類似性をもとに、日本の古典に出てくる地名に当てはめる作業の中で発生した。
古事記に“神功皇后”が鮎を釣った場所として、末羅県と云う地名が出てくる。一方で、同様の鮎を釣る話が日本書紀にもあり、松浦県と記載されている。
そこで、松浦=末羅=末盧として、倭人伝の末盧は松浦県の唐津であるとし、魏志倭人伝に記される魏の使節の上陸した所:末盧の国を松浦の唐津とする説が、一般に広く信じられてきた。
この説に疑義があるので、まず、記紀の両方の記述を注意して読んでみることにする。
古事記の記述
その懐妊みたまふが産まれまさむとしき。すなわち御腹を鎮めたまはむとして、石を取りて御裳に纒かして、筑紫の国に渡りまして、その御子は生れましつ。故、その御子の生れましし地を号けて宇美と謂ふ。またその御裳に纒かしたまひし石は、筑紫国の伊斗(いと)村にあり。また筑紫の末羅県の玉島里にいたりまして、その河の辺に御食したまひし時、4月の上旬に当たりき。ここにその河中の磯に坐して、御裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にしてその河の年魚を釣りたまひき。その河の名を小河と謂ふ。またその磯の名を勝門比売と謂ふ。
懐妊中の子が生れようとする時に、お腹を鎮めるため石を着物に巻き、(韓国から)筑紫の国に渡ったのちに、その御子は生れた。その生まれた地を、名つけて宇美と云う。着物に巻いた石は筑紫の伊斗村にある。筑紫の末羅県の玉島の里に来て、その川辺で食事をした時に、4月の上旬の頃、その川の磯に座って、着物の裾の糸を抜いて飯粒を餌に、鮎を釣った。その川の名を小河と云い、その磯を勝門比売と云う。
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日本書紀の記述
夏の四月の壬寅の朔甲辰に、北、火前国の松浦県に至りて、玉嶋里の小河の側に進食す。
是に、皇后、針を鉤を為り、粒を取りて、餌にして、裳の縷を抽取りて、川の中の石の上に登りて、鉤を投げて祈ひて曰はく、「朕、西、財の国を求めむと欲す。若し事を成すこと有らば、河の魚鉤喰へ」とのたまふ。因りて竿を挙げて、及ち細鱗魚を獲つ。「希見しき物なり」とのたまふ。希見、此を梅豆邏志と云ふ。故、時人、其の処を号けて、梅豆邏国と云ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり。
夏・4月1日、北にある、肥前の国の松浦郡に来て、玉嶋里の小川のほとりで食事をする。この時、神功皇后は、針を曲げて、米粒を餌にして、着物から糸をとって、川の中の石の上にのり、針を投げて、祈り言った。「私は西にある宝の国を求めたいとおもう。若し、是が成功するならば、川の魚よ、針を喰え!」 竿を挙げると、鮎が掛かっていた。この時、皇后は、「珍しいことだ」と云った。このことから、この土地を「めずらの国」と云う。今、松浦と云うのは、これが、訛ったものだ。
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- 日本書紀と古事記のこのショート・ストーリーの違いについて、留意点。
- 背景の違い
古事記→新羅侵攻の後。
九州に戻ってきて、懐妊していた御子を産み、産後の肥立ちも良く、
ほっとした一時期の寓話となっている。
日本書紀→新羅侵攻の前。
戦争参加者を募っている時の話で、このパフォーマンスにより、賛同者を募り、
戦いを煽る場面となっている。
- 場所の違い
古事記 →筑紫の末羅県の玉島里
日本書紀→肥前の松浦県 の玉嶋里
玉島(嶋)里が共通しているが、筑紫と肥前(火前)の違うが、そこが問題!
- 文学者の「古事記」注釈例 - 代表的な例として岩波書店 日本古典文学大系1 古事記祝詞から
- 「筑紫の末羅縣」-注釈 : 紀伝に「末羅は、肥前国なるに、肥国と云わずして、筑紫と云る。此筑紫は西海九国の総称と見れば、事もなけれど、なお然には非じ。肥前の城は、もとは筑前国の内にて、肥前に属たるは、やや後かとおぼしきことあるなり。和名抄に、肥前国松浦(万豆良)郡とあり。」と述べている。
- 紀伝は本居宣長著の古事記伝のことで、その紀伝には、末羅は肥前の国であるのに、肥前国と云わないで筑紫と書いている。「筑紫」は九州の総称と見れば良いのだが、判然としない。肥前の城はもともと筑紫の国の中にあり、肥前に属したのは、やや後のことである。和名抄には肥前国松浦(万豆良)郡とある。
- この様に、末羅縣を頭から肥前であると決め付けて注釈を入れている。
- 河中の「磯」に座して、‐注釈 : 岩石のごつごつした所。書記には石上とある。
- その外の言葉に対しても、古事記の注釈が、日本書紀の話と全く同じだと解釈した注釈があり、別の出版社から出ている古事記の注釈を見ても、同様。 江戸時代の本居宣長の古事記伝以来、訂正されること無く、同様の注釈が行われてきた。古事記の現代語版などでは、最初から肥前の国と記される例もある。
・ 香椎宮(かしいぐう): 当初、九州に来て、仲哀天皇が、神功皇后と、拠点とした所。
香椎湾に近く、海上交通の便が良いところ。
- 仲哀天皇が、熊襲討伐を試みて、手傷を負い、死に至った
- 神功皇后は、仲哀天皇の死後、吉備の臣の祖の鴨別を派遣して、熊襲討伐に成功。
・ 松峡宮(まつおのみや): 神功皇后が羽白熊鷲を討伐する。
討伐した土地の名を安心の意味で「安」とした。
(安→夜須)
香椎宮から松峡宮(旧筑紫国・夜須郡・栗田村)に移る。
・ 山門県(やまと):神功皇后は、山門県に移動し、土蜘蛛・田油津媛(たぶらつひめ)を討伐。
・ 火前(肥前)国の松浦県:神功皇后が親征し、新羅征服の兵を募る。
玉嶋里で、鮎釣りのパフォーマンスを行い、兵を募る。
・ 大三輪社:新羅征服の船舶と兵員を集めたが、十分集まらず、大三輪社に刀矛を奉納し、兵を募る。
・ 新羅に出兵
・ 香椎湾: 神功皇后は、新羅から香椎湾に戻る
・ 宇美 : 神功皇后は、御子を産む
・ 末羅国・伊斗村: 出産を鎮めるために腹に巻いていた石の残る処。
宇美から伊斗村(伊都の国)と想定する(上記の)処へは、山間の平坦な道が開かれている。
・ 末羅国・玉島里:産後のひだちも良く、のどかな鮎釣りでホットひと息。
出産後間もない時期のため、出産した宇美又は松峡宮から近い処に玉島里があったと考えられる。
・ 神功皇后が玉島の里で鮎を釣る話は、記紀の両方に載っているが、その場面と意味する所は全く違う。
違いがあるが、そのエピソードの前後の事件や記述から見ても、両方とも、整合性があり、物語として十分な完成されている。
各々の場所に、ストーリーの存在の根拠がある。
- 日本書紀:九州内遠征中で、明確に肥前の国・松浦県と明示。
その場所を現代に示すものとして、玉嶋神社があり、その参拝の栞中の「祭神と由緒」にもエピソードの記載あり。
- 古事記 :香椎湾から上陸し、南下した周囲を低い山で囲まれた静かな土地「宇美」で出産。
(松峡宮に戻る途中で出産?)
「宇美」を囲む山の南方向から東へ抜ける平坦な道を抜けると「大宰府」方面に出る。
そこは、魏志倭人伝の伊都の国と、目される処。
臨月の腹を鎮めた「石」があると記述される、筑紫の国の伊斗村である。
出産後は、本来の松峡宮に移り、母子の健全な体調を整え、育てたものと推定。
産後はじめての外出の話と考えると、そこから、遠くない場所で、食事を取り河遊びをした。
従って、宇美又は松峡宮に近い、処に、末盧の国の玉島の里があったはず。
尚、日本書紀にも、石は伊覩(いと)県にあるとの記述があり、古事記の伊斗(いと)村に対応する。
結論:
記紀の記述の違いを地図情報を加味して読み直すと、双方のストーリーには明らかな違いがあり、別の話。
従って、肥前の松浦の県と筑紫の末盧の国は、違う。
末盧国の候補は、唐津と筑紫の二つになる
従来の多くの説が、末盧の国を唯一唐津としたことは、実は、根拠のないことだったことになる。
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