古代を語る会(旧邪馬台国について語る会)
第57回 古代を語る会 2024年11月30日(土)に開催します。
「古代を語る会」のご案内
日時 : 2023年11月30日(土) 13時開場 13時15分開始 16時30分終了
テーマ : 「倭日向三代・倭国大乱」
・ 須佐之男命の乱暴・狼藉を越えて、天孫族と高天原の栄華があった。
その後、困難な状況から天孫降臨が行われた。
その場所と時期を推定すると、そこには、そのままの状況が、考古資料として残存した。
日向三代の楽しそうな繁栄のあとは、出雲の国譲りの話につづく筈だが、九州の考古資料には、大きな戦争の痕跡が存在する。
魏志倭人伝には記される倭国大乱、しかし、記紀には大戦争は無い。
そして実際に残る大量の戦死者・大量の青銅製武器の埋納。
文献と考古資料を対比・組み合わせると初めて本当の古代史が見えてきます。
会費 参加費用 : ¥1,000.- オリジナル資料を配布しています。
申し込みと問い合わせ先 : 電話 048-677-8594 丸地 又は
E-mail : sabmaruchi @ gmail.com
(迷惑メール防止のため@の前後に空白が入っています。空白を除いてメール下さい。)
会場 :さいたま市民会館おおみや(レイボックホール)6階 集会室 8
住所:さいたま市大宮区大門2-118
JRなど大宮駅の東口 徒歩5分
次々回予定:2025年2月1日 集会室x
動画(ユーチューブ)
新しい動画:2021年1月に予定していた講演の動画「邪馬台国論」
1. 前半 「魏の使者の目的・上陸地点」 : https://youtu.be/uMoKpuf3xu0
2. 後半 「邪馬台国の所在地」 : https://youtu.be/_7LARkjfhuI
講演資料PDF(一部修正版)
徐福論: 以前に九州の協力先に依頼しアップしていた動画に不具合があることが判りました。
ほぼ同じ動画がアップされましたので、そちらをご覧ください。
①『徐福論』 資料:徐福論pdfへのリンク
・ 前半: https://youtu.be/FIZOI5hcfj0
・ 後半: https://youtu.be/rkIc2yk5sGs
丸地が話す動画:(日本古代史ネットワークでの講演・勉強会ではなしたもの)
1-1 古代史研究の方法論 資料:古代史研究の方法論.pdf へのリンク
動画: https://youtu.be/9dWRh9ZzJdY
1-2 記紀神話を歴史として読む: 資料:記紀神話を歴史として読む.pdf へのリンク
動画・前半 https://youtu.be/TUE2Tg-E9nY
動画・後半 https://youtu.be/A-mh1ib7nfU
1-3 日本人の起源 資料:日本人の起源.pdf へのリンク
動画・前半 https://youtu.be/yK1KUBxKBkY
動画・後半 https://youtu.be/uk0n81-Jh-0
1-4 弥生時代から古墳時代 資料:弥生時代から古墳時代.pdf へのリンク
動画 https://youtu.be/FK-lhCRY0X4
1-5 邪馬台国論(邪馬台国の捜し方) 資料:邪馬台国の探し仕方.pdf へのリンク
動画 https://youtu.be/9zrKtZlKdGU
-------------------------------------
古代を語る会 について
この“古代を語る会”は、県活市民講師塾交流会主催の公開講座「邪馬台国について話そう!」を継承して、隔月ペースで、開催中です。
開催日 : 隔月 金曜日 (会場申し込みの都合で、決まった週にはなっていません、ご了承下さい)
通常の講師は、在野古代史研究家(アマチア)の丸地三郎です。
時折:参加者の中から、又は、外部からお願いすることもあります。
次のようなことに興味のある方々が参加しています。
・ 邪馬台国
・ 卑弥呼の時代にその外の地域では何が起きていたのか?
・ 古事記・日本書紀に記される神話の時代
・ 徐福
・ 日本人と日本語の起源
・ 宝貝と琉球・沖縄
『夢とロマンのある古代史』ですが、事実に基づいた本物の歴史を求め、
調べて、記述し、語ります。
是非、皆様のご参加をお待ち申し上げます。
図表や地図、写真などを多用し、プロジェクター画面を使った判り易い説明を心掛けます。
和やかな雰囲の中で、参加者の質問に応えた活発な意見交換が行われています。
ここ数年の「古代を語る会」のテーマと実施した内容の紹介
2018年は、『一貫した古代のイメージを築く試み』を開始し、『弥生時代の俯瞰図』を作成中です。
2019年も、この挑戦をつづけます。
2020年は、出来上がってきた『弥生時代の俯瞰図』を基に邪馬台国論を説き直します。
2023年、弥生時代の俯瞰図Ver.7 まで更新
-
- 「俯瞰図作成」の基準となるデータ・資料は、
- 古事記・日本書記に記されている、出雲の国譲り・神武東征・大和朝廷成立
- 魏志倭人伝・邪馬台国等の一連の歴史上の事件
- 古地質学・古気象学・考古学など
- 弥生時代の俯瞰図の作成
- まず、弥生時代の「後半の事象」について検討し、天孫族と出雲族の争いと依って立つ基盤を明らかにした。
- そこから、弥生開始時代に戻り、渡来した弥生人の成り立ちと渡来の時期を明らかにした。
- 弥生時代の開始時期が、一気に500年も遡るとする説が出現し、歴史界に混乱をもたらしているが、その基本的な科学的な誤りを指摘し、500年遡らないことを論証した。
- その上で、2種類・2時期の渡来人の双方の由来と成り立ちを紹介
- 次いで、弥生初期・前期から中期・後期に渡る「弥生の戦争遺跡」を解明、
- 天孫族と出雲族の戦いと協調の歴史を明らかにし、
- 前述の「後半の事象」に繋がることをしました。
- 弥生時代の俯瞰図の概要が完成した処で、
- 卑弥呼・邪馬台国と「天孫族・出雲族」との関連性を明らかにする。
- 魏志倭人伝に記された「卑弥呼・邪馬台国」の記述の詳細と弥生俯瞰図との関連を示す。
- 日本人の起源・弥生渡来人の起源を整理し、一貫した記述を示します。
- 以下、語られた内容を一連のものとして示します。
- 弥生時代の終わりは
- 大和朝廷の成立期 その後、古墳建造が始まり、古墳時代に入る
- 出雲の国譲りの時期検討 ----- 邪馬台国①
- 神武東征の検討 ----- 邪馬台国②
- 国譲りと神武東征の主要登場人物の検討 -- 邪馬台国③
- 弥生時代の始まりは「水田稲作の開始」 ---- 邪馬台国⑤
- 水田稲作は、稲の品種が異なる二回の渡来。
- 初回の渡来時期が、弥生時代の開始時期。
- 炭素14年代解析による開始時期の500年程切り上げる説の検証
- 試料の取り扱いには注意し、海洋リザーバ現象の出る臨海遺跡は排除するとの記載があるが、正しいか検証。
- 取り扱った試料の出土した遺跡(板付・雀居・菜畑・梅白など)は、
- 現在の地図では、海岸線から十分遠い。
- 古地質学の示す古代の地図では、何れも海に面した遺跡。
- 排除されるべき、海洋リザーバ現象が出る試料を使った解析結果は、排除されるべきもの。
- 初回の渡来者のもたらした稲の品種と支石墓からルーツを探る。
- 最初に北九州玄界灘沿岸で始まった水田稲作の稲の品種は、韓国の松菊里・固城遺跡のもの、そして、中国・長江の河口の南側の崧澤・銭山漾と、同一品種であること、その地域の支石墓の形態が、中国・長江の河口地域の石棚・支石墓と、そして、韓国南部の支石墓と類似することから、中国春秋時代の呉が滅亡した時に、その遺民が朝鮮半島を経由して、持ち込んだものと見る。 ただし、水田稲作や風習を持ち込んだ主体は、呉の遺民ではなく、日本の先住民。
- 時期は、紀元前473年以降になる。
- 第二次の渡来民 -----邪馬台国⑥
- 稲の品種が初回と異なるものになり、その品種が日本全土に拡散。 本格的弥生時代の開始となる。
- 弥生時代から古墳時代に人口が急増しているが、その急増に対応する多く弥生人の到来が、話題となってきた。
- 現代人に連らなる二重構造といわれる人口構成になり、且つ、弥生末・古墳時代の人口数になるためには、何人位の集団が渡来し、どのように人口増大をしていったのか、モデルを新たに作り、シミュレーションを行った。
- 先住民と渡来人の自然人口増加率を設定し、弥生の村への嫁とり・人口流入を算定、戦闘での人口減を加味してシミュレーションを実施した。複数の条件を課してみると、渡来人の比率の高い地域、逆に先住民の比率の高い地域が現れることが判明。 全体としては、1万人が渡来することで、その後の人口構成になりうることが判った。
- 日本語が、先住民の言葉(アイヌ語に近いもの)から弥生人の言葉へ置き換わったことも、上記のシミュレーションの結果と一致する。
- 1万人単位の大移住の記録・痕跡は、史記にある徐福の渡海しかない。
- 通貨としての宝貝を養殖した沖縄に在住した倭人との関係を考慮する。中国本土側で、宝貝を中国古代王朝へ提供してきた倭人=徐福が、日本に関する十分な知識をもった上で、秦の始皇帝の暴政を回避する目的で、渡来したものと推定する。 沖縄と中国本土を往復する航海から築いた技術を駆使して建造した大型帆船を数十隻が、渡来に供されたものと見る。
- 渡来人の戦い・水田の全国展開 ------邪馬台国⑦
- 初回の渡来した民と海洋交易を行っていた縄文人のグループが、北九州の玄界灘沿岸の平野に水田耕作を行い次々に耕作地を増やしていた。
- そこに、大挙して第2次弥生渡来民が到来した。 玄界灘沿岸の平野とその周辺では、軋轢が発生したものと見られる。 そして、初回渡来グループの遺跡とその近辺に、戦争遺跡が見事に、分布する。
- 勝者は2次渡来民側で、墓制が替わり、イネの品種が変わる。
- 2次渡来民の水田稲作は、極めて短期間に、青森まで広がる。
- 青森の水田耕作は、BC200年頃に日本海側の海水温が縄文時代より高く、気温も高かった為に可能だったと考えられる。その後、海水温が低下し、水田は消滅した。
- 弥生時代の「王の戦い」 ------邪馬台国⑧
- 第2次渡来民(倭人)は、武器と兵士(職業軍人)の応援を頼み、『初回の渡来民+縄文人のグループ』との戦いに勝つことができた。
- 戦いの終了後、北九州の玄界灘沿岸地域に、倭人達が、改めて殖民し、開拓を進めた。しかし、元の渡来グループと、その後で召集された武力を持った職業軍人のグループでは、相容れない部分があり、徐々に軋轢が生じた。
- 福岡県の「早良地区(平野)、福岡平野及び糸島・平原地区の遺跡の動向と王墓の時系列的な動きとは異なる発展が遠賀川流域に見られる。二つの王権のグループが生じたことになる。
- この二つのグループの軋轢と争いが、天照大神と須佐之男命の「誓約(うけい)」、天岩戸事件、須佐之男命の出雲への追放などの神話になった。
- 各々の神話の事件と、各地区の動向・王墓の変遷、地域の発展・衰退などが一致し、時期も一致する。
- 次回⑨では、この弥生の戦争を整理し直し、一連の戦いと神話を対比して、語る予定です。
- 弥生の戦争と神話 ------邪馬台国⑨
- 弥生時代の始まりからその終焉までの、考古学の成果を整理
- 主要6地区の発展と衰退を一覧表にまとめ
- 弥生の戦争遺跡を時代と地区ごとに整理しまとめ
- 各地域の発展・衰退に戦争を交えて、考古学の沈黙史料からストーリーを検討する
- 記紀の日本神話を始まりから神武東征までを、系図と事件から整理
- 天の岩戸事件 →天孫降臨→出雲の国譲り→神武東征の順になることを確認
- 個々の事件を、考古学の沈黙史料から検討したストーリーに合致するか検討
- 北九州とその周辺を中心として、弥生時代の始まりから終焉までを、記紀神話に沿ったストーリーに展開
- 弥生時代の俯瞰図が更新される。
- 別途、邪馬台国の卑弥呼の墓の候補地を地図上で示した。
-
- 出雲の国譲り:出雲の国について ------邪馬台国⑩
- 出雲の国譲りとそれに続く神武東征が、弥生時代の終焉期の一大事件
- 国譲りと東征で戦い取ったはずの出雲の国の実態を明らかにした。 出雲の特徴的な銅鐸・青銅武器文化の埋葬と出雲系の神社の分布から出雲の国の広がりを確認。中国地方・四国・近畿・北陸・中部・関東甲信越・東北までの巨大な支配地域が確認できた。
- 北陸・中部から東側の地域に対する支配地拡大の動きを分析し、大国主の命の2次にわたる進出を解明。
- 大国主の2次の進出の拠点となった北陸とその基盤を築いた勾玉・管玉の生産・流通ルートを解析。 そのルート開発のカギを握った糸魚川の姫:奴奈川姫とその息子の建御名方神のストーリーを展開し、物言わぬ考古学遺物とは違う、発言史料:文献・伝承を基にした、歴史物語を提示した。
- 大国主の2次進出を、結果的に、大きく支援した天孫使者達と、天孫族の印:「天羽々矢一隻・歩靫」とその効果と理由を、国津神側の伝承から推理した。
- 大国主命の築いた出雲王国:大和・畿内では ------邪馬台国⑪
- 出雲の国の範囲の拡大状況は、青銅器の変遷とその型式ごとの分布図から推測できる
- 出雲から瀬戸内海へそして四国へ。日本海を東へ越の国へ。瀬戸内から大阪・畿内へ。滋賀から中京地区・東海地区へ広がる。
- 戦場に近い(北九州に近い)エリアには、武器型の祭器が、戦乱から離れた畿内・中京地区・東海には銅鐸が分布する。
- 銅鐸の分布は、後期になるほど畿内とその東に厚く分布する。
- 古事記を読むと、大国主が大和へ移住しようとした話があり、大物主=事代主と三輪山の話が記紀の両方に記されており、三輪山の祭神は大物主。
- 銅鐸分布の中心地=大和に出雲王国のもう一つの中心地が置かれていたと推測する。
- 三輪山を仰ぎ見る場所に築造された箸墓古墳は、事代主の墓と推定する。
- 神武天皇以下3代の天皇の皇后は、事代主の娘・孫娘で、大和朝廷開始時には、絶大な権力を有したと推測でき、考古学者が云う「箸墓は初代の大和の大王の墓」と見る見解にも、通じる。
- 神武東征の詳細を見ると、大和に居た勢力は決して、敗北し、消滅した訳ではない。初代天皇の妃を出し、大和朝廷を支えたことが読み取れる。
- ---------------------------------------------------------------------------------------
- 第28回 「秋田美人は何処から来たのか?」 では、白人の血(DNA)が入っている秋田美人の起源を辿っった。
- 秋田から東北地方にも広がっているこの白人の遺伝子を、現代から江戸時代初期、弥生時代、そして日本への渡来までを、可能性を求めて、祖先を辿った。
- 古代史の出来事が、現代人にまで影響を与えて事例の紹介にもなったはず。
- 諸説あるが、色の白い遺伝子は、日本海経由で、秋田に入った訳ではない。
- 徳川家康の命で、秋田を所領とした佐竹一族が、その遺伝子を共なって、茨城近隣から移動したもの。
- その茨城付近には、鹿島・香取両神宮に祀られる人々が、北九州から、神話の時代:神武東征直前に到来したことに由来。
- その人々は、シルクロード由来のガラス製品:トンボ玉を携えてきたようで、弥生の墳墓からその貴重な玉が出土している。
- 弥生渡来民は、何時、どこから来たのか?
- 中国の秦の時代の末期に、倭人が中国から渡来したもの。
- その時代の秦の軍隊は,主に3つの部隊から構成されていた。
- 一つは、中国西方の秦の旧地域から秦人部隊。もう一つは、その地域の更に西の地域から色目人部隊。
- これはシルクロードから来た白人が含まれる部隊。最後の一つは、蜀人(中国西南部の四川省の人)の部隊。
- 渡来した倭人達の中に、この色目人の血を引く人が混じって、トンボ玉を持って、、渡来したものと推定した。
- 第32回 「邪馬台国の探し方」では、新しい視点を紹介しました。
- 従来、距離・方位から旅程を辿って邪馬台国を探しましたが、300年間の労苦にも関わらず、全て不成功でした。
- 視点を変えなければ、成功はおぼつきません。 要件を見直して、整理してみました。
- 魏志倭人伝と違った内容を説く中国正史の倭人伝・倭国伝の信ぴょう性
- 邪馬台国vs邪馬一国論争の決着方法
- 魏の公式使節が、倭国から受けた待遇
- 魏の使者が使った船舶の考察
- 「女王国へ行かず、女王に面会しなかった」説
- 運輸・旅程の常識
- 古代の地図
- 人口推定
- AB二か所で同一物件を発見。何と理解すべきか? A→B、B→A それ以外の可能性は無いのか?
- 追加のテーマとして卑弥呼の墓の候補を紹介。
- 祇園山古墳
- 築造時期・規模・サイズ・殉葬者の数など倭人伝記載の条件に合致
- 鬼道を良くする女王が、死後も狗奴国の侵略を防ぐために置いた墓
- 古墳は、女王の居住地より南に離れている
- 筑後川・筑後平野・有明海が眺望可能な高台にある
- 卑弥呼の墓の本命と見る
- 第33回の追加テーマとして、西北弥生人DNAの謎を紹介し、説明
- 九州の西北弥生人は、その地に住んでいた西北縄文人の子孫で、その西北縄文人の居住した範囲は、縄文晩期には、九州の北半分(7-8割)の地域に広がっていた。
- その地域の文化は、従来の縄文に無い特性を持っていた。
- その従来にない特性とは、米作(焼き畑か)穀物の栽培、黒色の摩研土器。
- この従来の縄文人にない特性を持った人々は、南方の習俗を持ち込んでおり、沖縄から渡来してきた海洋性の民族と見られる。
- この人々が、朝鮮半島にあった水田稲作を日本に取り込んで、最初の水田稲作明となった。
- 沖縄の海洋性民族は、縄文人のDNAを持つと共に、弥生渡来人のDNAを持つ民族。
- 第34回は、考古学者小田静夫氏を招聘し、日本人の起源をは話して頂きました。
- 『黒潮圏の考古学』の観点から、スンダ大陸から南方ルートで、沖縄を経て日本に来たことが示されました。
- 沖縄の人々は、1万4千年前に、丸のみ型石斧を持ち、九州へ渡来し、東北の縄文土器とは別個の縄文土器を遺した。(残念ながら1万2千年前の火山爆発で、消滅)
- 「宝貝と沖縄」の話を丸地から紹介
- 中国古代の貨幣であった宝貝の産地・輸出地は沖縄であったことが判明したこと。
- 宝貝養殖を行ったのは、縄文人ではなく、中国本土から来た人々であったこと。
- DNAのタイプは縄文人のものでは無く、弥生渡来人と同じタイプ。
- 日本語と同祖の琉球語を話す。
- 約7000年前(中国の�夏の時代より前))から、中国長江文明に関連する文物が沖縄から日本に渡来する。
- 渡来したものは、熱帯ジャポニカ米、穀類、耳飾り、弥生式土器(変化して爪型文土器)、
- 第35回は、大国主命の築いた出雲王国:大和・畿内では銅鐸・青銅製武器型祭器・高地性集落などからその広大な勢力範囲を推定。
- 古事記・日本書紀から大物主が事代主であること判り、主に銅鐸を祭器とした事代主の主な勢力範囲は、近畿圏と判る。
- 纏向の大型建物は事代主に関わるもので、箸墓古墳は、事代主が祀られたものと推定する。
- 第36回は、邪馬台国論に入り、三国時代の戦乱を背景にした魏の外交情勢を明らかにして、戦略を前提にした積極的な思慮深い外交戦略を明らかにした。
- 公孫氏を撲滅するための周到な外交戦略と武力行使が一体となった見事な明帝・司馬懿仲達の戦略を説き、卑弥呼の使者の訪問時期を景初2年であることを示した。
- 明らかになった魏の外交戦略は、倭(卑弥呼)の使者への答礼の使節団の規模・目的・行動を検討する為の前提条件となった。
- 第37回は、コロナ禍で、何回も延期となった神澤秀明氏のDNAからみた日本列島人の成立を語り、解析が進む弥生人のDNA解析に拠って、縄文人と弥生人の混血の特徴を説明した。
- DNAの解析は明快な事実を示すが、その解釈は、様々な要素が入ることが、印象的だった。
- 第38回は、魏の外交戦略の一環として送りこまれた魏の使節団について語られた。
- 過去に中国が外国へ送った使節団の規模を検討し、倭国へ派遣された魏の使節団の規模を500人以上の大規模なものと推定。
- 魏の使節団の交通機関を、三国時代の戦争で数万の兵員の輸送に使われた大型帆船と同レベルのものと推定。
- 魏と倭国(卑弥呼の邪馬台国)との親密な外交関係から、魏の使節団は、邪馬台国の助言と協力により、安全で適切な航路と陸路を選択したものと推定。
- 第39回は、大型帆船で、多人数で来た魏の使節団が九州へ上陸した地点を、従来説と比較検討し、博多湾とした。
- 従来の唐津上陸説は、古事記・日本書紀の解釈から不適切であることを示した。
- 博多湾上陸とすると、旅程から単純に邪馬台国の位置が推定され、卑弥呼の墓とその根拠が示された。
- 旅程検討上ネックとなっていた投馬国を、魏と呉の外交戦略を検討し、沖縄の貿易・交易の実績を考慮した結果、沖縄であるとした。
- 上記には、三国志と後漢書の相違点や、倭人に関するより詳細な記述から、沖縄の倭人の交易を認めることができ、解明に結びついた。
- 第40回は、倭国乱と邪馬台国の所在地解明の証拠を固める為に、倭国乱が、何処で、誰と誰が争ったものかという大問題の解明に挑戦した。
- 主に九州に遺る戦傷遺跡、青銅器の埋納と副葬の意義、埋納した地域と副葬した地域の分布などと、古事記・日本書紀の「争い」の記述を、照らし合わせた。
- 戦争遺跡の埋葬された兵士の解釈と埋納の意味合いについて、従来の考古学者の解釈は納得が行かない。新しい解釈が必要。
- 甕棺などに埋葬されたのは、戦争に負けた側の兵士では無いこと。勝った側の兵士。
- 負けた側の兵士は、戦場に打ち捨てられ、酸性土壌の日本では、骨も残らない。
- 埋納は、戦争に負けた側の祭器が人目の付かない場所へ埋められたもの。
- 呪って埋めた。土中に保存し、使うと時に掘り出す。 などの説は、納得が行かない。
- 青銅製武器を副葬したのは天孫族で、埋納した青銅器を使って居たのは出雲族と判定。
- 北九州地域は、勝った側と負けた側が居たことが判る。又、同一地域の争奪戦があったことも判明。
- 北九州・瀬戸内海・畿内・日本海側の戦傷遺跡を古事記・日本書紀と比較すると対応することが判明。
- 北九州でも、天孫族と出雲族の戦いが有ったと見られる。その最後の戦いが「倭国乱」と推定される。
- 第41回は、 前回の話題と質疑応答を受け、出雲族の出自について検討した。
- 出雲族の支配地域を確認し直し、出雲族の特徴を試みた。
- 言語は、出雲地方から東北にかけて特徴のある方言があるが、基本的な言語に変わりが無い。
- 米作の品種は、他の地域と変わらない。DNAも外の地域と差異が認められない。
- 連弩に関わる鏃(三角翼鏃)の出土は、北九州の戦場と出雲方の地域で出土する。
- 連弩に関わることから、史記の徐福の記述によると、一度徐福は中国に戻り、始皇帝と面会し、連弩と兵を得て再度東の海へ出航。
- この状況から、徐福と同族の陳氏の血を引く、田斉で有名な田氏一族が連弩を持ち、日本へ到来し、西北九州縄文人との戦いに参加したと考える。
- その田斉の一族が出雲一族であったと推定した。
第1回 |
出雲国譲りと神武東遷 |
2014年 |
4月25日(金) |
第2回 |
箸墓古墳・前方後円墳 |
|
6月20日(金) |
第3回 |
魏の使節は大形帆船に乗って |
|
8月22日(金) |
第4回 |
邪馬台国ディスカッション回 |
|
10月24日 (金) |
第5回 |
日本語を話す日本人の起源 |
2015年 |
1月23日(金) |
第6回 |
神話時代の九州から関東・東北 |
|
3月27日(金) |
第7回 |
魏志倭人伝を読み直す・神話時代の絶対年代 |
|
5月22日(金) |
第8回 |
弥生渡来人:徐福 その1 |
|
7月24日(金) |
第9回 |
弥生渡来人:徐福 その2 |
|
9月25日(金) |
第10回 |
弥生渡来人:徐福 その3 |
|
11月21日(土) |
第11回 |
渡来人が来てから卑弥呼の時代まで |
2016年 |
1月15日(金) |
第12回 |
魏志倭人伝と邪馬台国 |
|
3月18日(金) |
第13回 |
あらためて「日本人の起源」 |
|
5月20日(金) |
第14回 |
ディスカッション会 |
|
7月22日(金) |
第15回 |
弥生時代の始まりについて |
|
9月 9日(金) |
第16回 |
出雲国譲りと神武東征~大和朝廷成立 |
|
11月25日(金) |
第17回 |
神武即位の年代と邪馬台国 |
2017年 |
1月27日(金) |
第18回 |
出雲国譲りの直前に起きたこと |
|
3月17日 (金) |
第19回 |
宝貝と沖縄の歴史① |
|
5月26日(金) |
第20回 |
宝貝と沖縄の歴史② |
|
7月28日(金) |
第21回 |
宝貝と沖縄の歴史③ |
|
9月29日(金) |
第22回 |
邪馬台国① 出雲の国譲り |
|
11月24日(金) |
第23回 |
邪馬台国② 神武東征 |
2018年 |
1月19日(金) |
第24回 |
邪馬台国③ 大和朝廷の成立期 |
|
3月30日(金) |
第25回 |
邪馬台国④ 古代史の俯瞰図1 |
|
5月25日(金) |
第26回 |
邪馬台国⑤ 弥生時代を俯瞰する |
|
7月27日(金) |
第27回 |
邪馬台国⑥ 二次・弥生渡来人 |
|
9月21日(金) |
第28回 |
秋田美人は何処から来たのか? |
|
11月16日(金) |
第29回 |
邪馬台国⑦ 渡来人の戦い・水田の全国展開 |
2019年 |
1月18日(金) |
第30回 |
邪馬台国⑧ 弥生時代の「王の戦い」 |
|
3月15日(金) |
第31回 |
邪馬台国⑨ 弥生の戦争と神話 |
|
5月17日(金) |
第32回 |
邪馬台国の探し方 距離・方位以外の留意点・要件 |
|
7月19日(金) |
第33回 |
邪馬台国⑩ 大国主の命の築いた王国:出雲の実態 |
|
9月13日(金) |
第34回 |
日本人の起源 考古学者小田静夫氏を招聘し聞く |
|
11月22日 (金) |
第35回 |
邪馬台国論⑪ 大国主の築いた出雲王国:大和・畿内では |
2020年 |
1月24日(金) |
|
『DNAからみた日本列島人の成立
ー縄文と渡来系集団の混血はどのように進んだか』
|
|
3月27日(金)
延期 |
第36回 |
邪馬台国 B1 魏志倭人伝の理解① 魏の外交 |
|
7月31日(金) |
第37回 |
『DNAからみた日本列島人の成立
ー縄文と渡来系集団の混血はどのように進んだか』
|
|
9月25日(金) |
第38回 |
邪馬台国 B2 魏志倭人伝の魏の使者は |
|
11月13日(金) |
第39回 |
邪馬台国 B3 魏の使節の上陸地点 |
2021年 |
9月17日(金) |
第40回 |
邪馬台国 B4 倭国乱と邪馬台国所在地 |
|
11月26日(金) |
第41回 |
邪馬台国 B5 倭人と天孫族・出雲族の出自 |
2022年 |
3月25日(金) |
第42回 |
タミル語と日本語 |
|
5月20日(金) |
第43回 |
長江文明 |
|
7月22日(金) |
第44回 |
日本語のルーツ:西遼河説 |
|
9月24日(土) |
第45回 |
日本語と日本人の起源:集約版 |
|
11月25日(金) |
第46回 |
課題・テーマの相互関係 沖縄人は何故、琉球祖語を |
2023年 |
1月27日(金) |
第47回 |
課題・テーマの相互関係II 邪馬台国と神話の対応 |
|
3月24日(金) |
第48回 |
課題・テーマの相互関係III 高い文化レベルの渡来人 |
|
5月27日(土) |
第49回 |
課題・テーマの相互関係IV 朝鮮半島と日本の古代史 |
|
7月28日(金) |
第50回 |
課題・テーマの相互関係V 弥生時代の開始時期 |
|
9月15日(金) |
第51回 |
邪馬台国シリーズ①魏の使者は大型帆船で博多湾へ |
|
11月10日(金) |
第52回 |
邪馬台国シリーズ②魏の外交情勢を考え倭人伝を読む |
2024年 |
1月26日(金) |
第53回 |
邪馬台国シリーズ③魏志倭人伝に記された倭国・倭人 |
|
3月22日(金) |
講演・ディスカッションの姿勢
専門用語や判り難い古語は、普通の言葉に置き換えて話します。
講師と参加者が一緒に考え、謎や混迷した説を解いて行きます。
根拠となる事実は、信頼の置ける資料や論文に基づきます。
科学的・論理的な、問題解決を目指しています。
判明した事実をつなぎ、歴史とします。 既存の説にとらわれないものとします。
言葉や文字の列挙ではなく、図や写真や表に表現することで、理解しやすく、正確な解析が行えると考えて、実行しています。
又、図や写真や表により、参加者からの疑問・質問や、問題点の指摘がし易くなり、参加者と一緒に、古代史の問題の解決が図れると信じます。
邪馬台国の位置の解明の場合、科学的な、論理的な、問題解決として目指す方向
江戸時代から解明できない謎は、原点に戻ることにより、解決される。
解明の鍵は、『魏志倭人伝が、曖昧で、不正確なのか? それとも、正確なのか? 』 ここにあると考えます。
1. 魏志倭人伝の正確な理解のため、時代背景を明解にする。
①魏と呉の外交戦略と軍船を使った戦争を知る
②魏と公孫氏の戦いを、地図と時間軸を整理し、正確に知る
③魏が倭=邪馬台国へ使者を出した目的を知る
④魏の使者の交通手段を知る
2. 魏の使者の九州上陸地点の見直し
①通説の唐津上陸の根拠と問題点を知る
②通説の根拠の“正しさ”、“間違い”を確認
3. 地理の見直し
①1800年前の北九州の海岸線を復元する
②それに従って、上陸地、陸行の行程を探る
「原点に戻り、歴史学のセイオリー通りに検証する」と、自ずと問題は解決する、と考えています。
46asahi-yomiuri