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邪馬台国は何処にあったのか?

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 この時の時代背景   使節一行の目的・規模  魏の使節の乗り物は   景初2年と3年の問題 魏の使者はどのように?    上陸地点変更 
距離の単位“里”   伊都の国の位置づけ  投馬の国の位置は? 卑弥呼の時代に近畿は?  何故、唐津ではない?   

博多湾内の上陸地点(変更)

九州上陸地点を現在の博多港に付近から博多湾の西側に変更する。

訂正の理由は、上陸地点の記述の「好捕魚鰒水無深淺皆解没取之」(魚・貝を良く捕捉し、水深の深い浅いに関わらず、皆が水に潜り、これらを獲る)の記述から思い浮かぶ光景は、近くの浜も前後左右に見える浜や崖の何処でも、漁民が水に潜り、魚や貝を採っているもので、一方に見える浜だけで、漁民が働いて入る風景とは違いが感じられる。博多湾の中で、前後左右に浜や陸地のある場所は、西側の筑前五ヶ浦廻船の基地となった地域。 唐泊(からどまり)、宮浦(みやのうら)、今津(いまづ) 、浜崎(はまさき)、残島(のこのしま)(能古)の5つの浦で囲まれる辺り。
その海から浜に上陸し、南の方向・現在の大宰府の方へ行ける所が上陸点となる。次の地図に記す地点と推定する。

もう一つの理由は、上陸点から伊都の国と推定する大宰府までの距離。500里(約35km)。上陸したのち、直線では無い、曲がった道を通り、凡そ35kmなることを考えると、博多駅付近の住吉神社近辺に上陸したとすると、距離が短か過ぎる。

住吉神社付近には、鎌倉時代からの記録に元ずくと云う絵図から見ると、上陸に尤も適した場所と思われるが、卑弥呼の時代西暦238年から、200年ほど後と推定される神功皇后の新羅遠征の時に使用されていない。湾の東側の香椎宮近辺の香椎の津から出航している。その時点では、住吉神社近辺は、港湾として、的確ではなかったのかも知れない。
博多湾の地理的条件を調べて行くと、特殊な条件がそこにあったことが判る。それは、砂が原因。 、


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使節のルート  博多湾の東側には砂州が発達し、志賀島まで繋がっており、現代では、車で志賀島までそのまま行ける。 この砂州の広がりは、興味深く、驚きといえるところ。
 玄界灘を吹き抜ける北風が、砂を打ち上げ、吹き上げることで、砂州が形成される。 同じ様な条件で砂が堆積している処に、鳥取砂丘がある。

 博多湾に吹き上げられ堆積する砂が、博多湾内の船舶の航行と港・津の形成に大きな影響を与えている。博多湾の西側にある糸島半島は、島であったものがこの砂で繋がったもの、5000年前の縄文海進の時は、離れていたか、一部の箇所で繋がっていただけだったものが、砂の堆積で現在のような半島としてしっかりとした陸になっている。江戸時代には千石船が到来していた今津も現在では浅瀬になり、小船の往来も限られる状態になっている。これも、“砂”の影響である。
 卑弥呼の時代に尤も近い、状態が記される仲達天皇・神功皇后の時代には、博多湾の東部、湾の奥近い香椎が、主要な港として使われていた。その後、博多の主要な港として使われた所は、現代の博多港に近い、住吉神社(博多駅の東南近く)付近に博多港があり使われた。江戸時代には、筑前五ケ浦と呼ばれる今津湾周辺が大いに使われたとのこと。

 現在の博多航路は大型船の航行のために浚渫し水深を深く保つ作業を継続し、港としての機能を保っている。 卑弥呼の時代(紀元238年頃)に、博多湾の砂の状態が、今までの私の調査では不明だが、博多駅近く・住吉神社近くは、若しかすると、港とするには、条件の悪い、小船で荷揚げするにも、ズブズブと足をとられるような遠浅の湿地帯だったのかも知れない。
 現在の地形から見ると、香椎の辺りも同じ様な場所に思えるが、神功皇后が使っていた実績からすると、中型帆船までは航行可能な港の条件を満たしていたものと推測する。

 魏の使者を載せて来た大形帆船の場合、適切は港は、十分な深さがあり、小船でしっかりとした浜辺に上陸し、荷揚げできる箇所と考えられる。 しかも、大形帆船は、使節一行が邪馬台国へ行き、戻るまでの期間(1ヶ月程)に雨風の被害を避けられる、風を避け易い地形が望まれる。 このような条件を考えると、香椎・住吉神社近くは適切でなく、能古島で囲まれる今津湾が最適な場所と考える。

尚、魏の帆船:ジャンクの構造は平底で、砂地の浅い海へ適応性は高く、例え干潮時に底が海底に着ても、それだけで転覆することは無いが、高い波浪や風を受けると危険が生じるので、浅い海、港は避けるとのが賢明。

 

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