阿 波 太 竜 寺 三 重 塔 ・ 伊 予 興 願 寺 三 重 塔

附:阿波太竜寺多宝塔

阿波太龍寺三重塔跡

かって三重塔が本堂右手の平坦地に存在した。

阿波名所圖會」に見る太竜寺三重塔

 太竜寺部分図(三重塔)

三重塔が描かれる。
この三重塔は昭和28年〜32年にかけて、伊予興願寺に譲渡、移建される。

三重塔は貞亨元年(1684)建立(棟札)と云い、老朽化のため荒廃していたが、伊予興願寺の住職が同窓で親友とのよしみで、興願寺に譲渡(昭和28年解体〜34年移築復元)される。
現在塔婆は伊予の地で美しく修復され健在である。

太竜寺三重塔跡・太竜寺相輪橖

現在跡地には二重基壇のような基壇と、その上に相輪橖が建られる。
相輪橖は文化13年(1816)藩主蜂須賀斉昌三回忌追善供養の為に縁者が造立するとの銘がある。

 阿波太龍寺三重塔跡1
   同          2(左図拡大図)
   同          3
   同          4

2005/04/09追加
「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933)より:
 太竜寺本堂:出版年から判断して、昭和初頭の本堂写真と思われ る。
本堂を東から撮影したものであるが、太竜寺にあった頃の三重塔初重の一部、匂欄、基壇の様子などが写る。
 太竜寺三重塔:昭和初頭のものと思われる。本堂側から、塔の西面を撮影したものと思われる。
記事:
「延暦年中に空海が開創したと伝える。堂宇に金堂、大師堂、求聞持堂、中興堂、六角経堂、護摩堂、多宝塔、三重塔、仁王門、鐘楼、庫裏、書院、方丈などを具ふ。子院として、悉地院、愛染院、成就院、寿生院、光明院、明星院、能満院を擁す。」

なお当寺には江戸末期の多宝塔も現存する。(本ページの末尾に掲載)

2013/08/15追加:
○「四国遍礼霊場記」(原本は元禄2年「内閣文庫本」寂本原著7巻7冊、東京国立博物館本/元禄2年刊の複製) より

大龍寺圖:左図拡大図

本堂の左に宝塔(三重塔)が描かれる。本堂の右に判然とはしないが「多宝塔」様な塔が描かれるもこれは全く由緒不明である。

記事:・・・・・本堂の本尊は虚空蔵菩薩、左は鎮守社、宝塔、鐘楼、経蔵が並び、少々高い所に大師堂がある。護摩壇のほかに寺院が構えられていた。けれども天正16年(1588)火災で堂宇を焼失する。・・・・・

2013/08/09追加:
○「四国遍路道中雑誌」松浦武四郎(「松浦武四郎紀行集. 中」1975 所収)
 ※「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」よりでは、「四国遍路道中雑誌」弘化元年(1844)上梓、天保7年(1836)武四郎19歳の頃に四国を巡ると思われる。
○大龍寺真景

大龍寺真景:左図拡大図

記事:・・・50丁を上て「地蔵堂」并て「制札」有。上て「仁王門」・・56歩にして「荒神社」中門を入て方丈、庫裏、臺所・・・小門を入て「宝庫」・・并て「鐘楼」石階を上り納経所、茶堂、茶店あり、傍らに「窟三尊」石階少し上りて「多寳塔」(※多寳塔と記すが、絵図では三重塔を描く)并て地蔵堂」并び「十王堂」上に「大師堂」并て「中興開山堂」・・此上に小社有。「多聞天」下に「龍神社」并て「弁天社」并て「大龍寺」・・・また堂の傍らよりうしろのかた「そう輪塔」・・・・弥山に至る。

※記事では多宝塔と記すも、絵図では三重塔に描かれる。
※絵図に文化13年(1816)銘の相輪橖が描かれる。その位置は本堂向かって右の丘上に描かれる。三重塔の撤去後に、現在の三重塔跡のに移されたものと思われる。


伊予興願寺三重塔

昭和34年興願寺に移築

2001/12/27撮影:
貞亨元年(1684)太竜寺塔として建立(棟札)。
塔は本寺の東の保育園の運動場中に立ち、園の中に溶け込む。
元は阿波太竜寺塔婆で、老朽化のため荒廃する。
住職が同窓で親友である縁で、太竜寺から譲渡(昭和28年解体〜34年移築復元)。
本尊金剛界大日如来。初重は唐様扇垂木、二重三重は和様二軒繁垂木を用いる。

 伊予興願寺三重塔1
   同        2(左図拡大図)
   同        3
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   同        7
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   同       11
   同       12

2015/11/08撮影:
○伊予興願寺現況

 伊予興願寺三重塔21
 伊予興願寺三重塔22
 伊予興願寺三重塔23:左図拡大図
 伊予興願寺三重塔24
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 伊予興願寺三重塔28
 伊予興願寺三重塔29
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 伊予興願寺三重塔32
 伊予興願寺三重塔33
 伊予興願寺三重塔34
 伊予興願寺三重塔35
 伊予興願寺三重塔36
 伊予興願寺三重塔37
 伊予興願寺三重塔相輪

興願寺は摩尼山と号する。本尊延命地蔵菩薩。
天正13年(1585)兵火により焼失、それ以前の由来は不詳。
承応2年(1653)土佐の快順上人が中興という。以前は讃岐観音寺の萩原寺末寺であったが、万延元年(1860)嵯峨大覚寺直末となる。
 伊予興願寺仁王門:享和元年(1801)建立     伊予興願寺本堂
 伊予興願寺大師堂:昭和60年まで本堂/地蔵堂であったという。江戸中期の建物。右の堂妻入の堂宇は観音堂か。おそらく近年に造替される。
 伊予興願寺庫裡
その他、鐘楼、宝形造堂(名称不詳)、手水舎などがある。


阿波太竜寺多宝塔

太竜寺には幕末期の多宝塔も存在する。阿波太竜寺境内図

多宝塔は本堂のすぐ裏右手奥の高所にあり、文久3年(1863)の落慶とされる。
極めて近世風な印象であるが、一辺6.3mを越える大型塔である。
本尊は五大虚空蔵とする。
当寺は舎心山と号する。四国88所21番札所。延暦年間、桓武天皇の勅命により、弘法大師が開基したという。大師19歳の時、太龍ヶ獄に登り、南舎心獄で求聞特法を修したとされる。(「三教指帰」)
標高618mの太龍寺山のほぼ頂上に位置する。中世には歴代天皇の信仰を集め、近世には阿波藩主の保護で伽藍を維持する。
現在は絶景のロープウエイがあり、容易に参拝可能であるが、かっては相当な難所であったという。
阿波太龍寺多宝塔1
  同        2
  同        3(左図拡大図)
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8


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