伊 賀 浄 瑠 璃 寺 ・ 伊 賀 開 化 寺 ・  長 谷 川 邸 三 重 塔

伊賀浄瑠璃寺 ・ 伊賀開化寺 ・ 長谷川邸三重塔

本ページは「長谷川邸三重塔 変転の記録」吉田実、史迹と美術、70(3).2000.03 より 多くを得る。

兵庫長谷川邸三重塔が伊賀浄瑠璃寺三重塔を移築した開化寺塔であることを調査・報告したのは中西亨氏であった。
その後、表記論文「長谷川邸三重塔 変転の記録」で詳細がほぼ明らかになる。

伊賀浄瑠璃寺三重塔

伊賀浄瑠璃寺三重塔は元文4年(1739)に建立と伝える。
浄瑠璃寺は飛来山蔵坊と号し、真言宗であったという。
その浄瑠璃寺は正徳6年(1716)平井山長福寺が改号したものという。
その長福寺は平井天神宮(平井神社)の僧坊(別当)であったと云う。
 薬師堂あり、本尊薬師彩色像は正保年中和州より来ると伝える。
浄瑠璃寺は慶応4年神仏分離の処置により、平井天神宮から分離、その後、還俗したのかあるいは他の事情があったのかは不明であるが、明治2年廃寺になったという。
当時、平井天神宮は浄瑠璃寺跡南方50mにあったという。
現平井神社は後述の水害後、東方約340mの微高地に移転再建され、現存する。

浄瑠璃寺跡(現日蓮宗法運寺):
現在、廃寺となった浄瑠璃寺跡には日蓮宗妙啓山法運寺が建つ。(他から移転とされる。) → 伊賀の日蓮宗諸寺

2000/05/13撮影:
 法運寺本堂
2002/10/13撮影:
左の写真、向かって左が法運寺、墓地を挟み右は開化寺(三重塔がある)。
現在の法運寺の位置に浄瑠璃寺があったという。
 法運寺全景:左図拡大図

開化寺の草創

嘉永7年(1854)伊賀上野地震で地殻変動があり、当地(小田村)は水害に苦しめられるようになる。
明治3年の大水害では壊滅的打撃を受けたという。
被災した西小田原村森田山称念寺と東小田村疾追山福寿院は共に知恩院末であることもあって
明治8年合寺願いを出し、明治11年福寿院跡に仮本堂が成り、浄土宗森田山開化寺が開創されたと云う。
   開化寺全容:下図拡大図 :2002/10/13撮影:
  

神仏分離で平井天神別当浄瑠璃寺は廃寺となるが、堂塔は破壊を免れると推定される。
伊賀上野の明治初頭の政治社会状況は不明であるが、天神宮の社地には仏教色の濃厚な堂塔がなく、またおそらく神社と一体化した寺院でもなかったと推定され、このことが、単に別当の廃止あるいは社僧の還俗(あったとすれば)という処置だけにとどまり、堂塔の破壊には至らなかった原因であろうと思われる。

廃寺の三重塔は移転した平井神社の境内に曳屋工法(解体して移転するのではなく)で移転を試みたが、難渋し、結局開化寺に収めることにしたとの「言い伝え」がある。
もっとも、明治初頭の社会状況では神社境内に仏塔などを移転できる状況ではなかったであろうし、また仮に移転を試みたとしても、 移転する距離が長く、もともと開化寺に移転もしくは開化寺が塔(門も引き取ったという記載もある)を引き取るということであったのが真相 ではないだろうかと思われる。
それゆえ浄瑠璃寺から開化寺への移転時期は合寺の成立から開化寺開創の間と考えるのが妥当と思われる。

2021/03/16追加:
浄土宗法然上人伊賀聖跡巡り>第6番森田山開化寺に動画がアップされている。
その動画を要約したものが、本記事である。
 開化寺概要:
開化寺は西小田村の称念寺と東小田村の福寿院が合寺して発足した新し寺院である。
当寺のある小田町は、安政の大地震により地盤沈下し、以後、河川氾濫の水害に悩まされるようになる。
避水移村事業(明治5年・小田村が高台に移る)により西小田村の称念寺(慶長元年/1596開基)、東小田村の福寿院の二ヶ寺を合寺し、福寿院跡に開化寺(明治11年開基)が誕生した。寺名の由来は、明治文明開化からといわれる。
境内には、登録有形文化財(H25年12月登録)の三重塔、観音堂、山門がある。
 開化寺三重塔:
三重塔は、日本最小といわれ、京都奥谷組の創始者、当寺檀家である奥谷熊ノ輔氏が最初に手がけた建築物という。
大正2年の建立、平成9年半解体修理。
もともと、三重塔は小田村の平井天神の別当浄瑠璃寺が廃寺となった際に移築されたがその後売却、大正2年に現在の三重塔が再建されるという。
塔は境内南西に、東面して建つ。木造、本瓦葺で、総高11m。
初重は繁垂木(平行垂木)で中備蟇股、山城八坂塔を模し、二重は扇垂木で同蓑束、攝津四天王寺を模し、三重は雲形造(板軒)であり、大和法隆寺を模す。
 伊賀開化寺
 伊賀開化寺三重塔11     伊賀開化寺三重塔12     伊賀開化寺三重塔13     伊賀開化寺三重塔14
 開化寺三重塔初重       開化寺三重塔二重1      開化寺三重塔二重2      開化寺三重塔三重
 開化寺初代塔模型:
本堂裏堂に初代三重塔模型を安置する。
木目込み人形師・筒井景春作。
初代塔が売却となり、景春は初代塔をスケッチし、30年に渡り模型を作成する。しかし、模型は8割ほどできて、景春の死により未完となる。
その後、未完の模型は未完部分が補充され、完形となる。
塔身の黒い部分は欅材であり、景春の作である。屋根など白い部分は檜材であり、景春死後に完成させた部分である。
景春は明治2年(1870)〜昭和31年(1956)。
 初代開化寺三重塔模型1     初代開化寺三重塔模型2     初代開化寺三重塔模型3
 初代開化寺三重塔模型4     初代開化寺三重塔模型5     初代開化寺三重塔模型6
 観音堂:
観音堂は明治22年に上野天満宮(上野天神社・現菅原神社)の庚申堂を開化寺に移したものという。

旧浄瑠璃寺三重塔

「長谷川邸三重塔 変転の記録」 より転載
 旧浄瑠璃寺三重塔:左図拡大図
撮影時期は明治44年頃という。
また、写真説明は「浄瑠璃寺から移された昔の三重塔」とある。

明治44年の撮影ということ、および写真の状態は悪いが、少々傷んでいるような箇所も見えることから、現在は宝塚市長谷川邸にある三重塔が開化寺にある時の写真ということになるのであろうか。

開化寺(旧浄瑠璃寺)三重塔の移転(売却)

大正2年年開化寺塔は神戸本山久原房之助邸に移転。(2万円で売却し、7千円の予算で開化寺は塔新築する。)
塔は松材で虫食いがひどく修理に苦慮したのが売却の原因とされる。

残された資料から判断して、塔の売却と新塔建立は同時企画であり、解体移転と新塔建立は奥谷組(設計稲垣啓二氏)との間で同時契約されたと思われる。

契約時期は明治44年であり、そのとき塔は既に解体が終り、新塔設計のため部材の採寸・作図が行われ、大正2年に搬出されたものと推定される。


本山久原邸三重塔

久原房之助:明治37年本山に3万坪の地所購入。明治40年邸内に広壮な邸宅を建設。
母堂(敬虔な真宗信徒)のため持仏堂も併設、大正2年、この邸内に三重塔を移築。
 なお久原氏の叔父は藤田伝三郎と思われる。
房之助はこの邸宅に昭和3年頃まで住居と云う。
 敷地内には果樹園、病院、発電所等が建てられ、子供の為に小さな本物の機関車を走行させる。
 また、住吉川上流から本業の技術を生かし邸内まで隧道を掘り、冷房用の冷風を引き込むと云う。

「甲南学園の80年」付録「写真で見る甲南学園の80年」10p より

「長谷川邸三重塔 変転の記録」 より転載
原画は大正5年撮影。
 本山久原邸三重塔:左図拡大図
写真左中央に久原邸時代の三重塔が写る。
写真右の山下が甲南大学、その上方・山の中腹が二楽荘と思われる。

芦屋市立美術博物館公報誌「なりひら36号」に久原邸の塔が写った邸宅写真の掲載がある。
但し、この写真は上に掲載の「写真で見る甲南学園の80年」の塔部分の拡大という。(同一写真、従って原画は大正5年撮影)
 本山久原邸三重塔2:「長谷川邸三重塔 変転の記録」 より
「なりひら36号」の発行意図は次のようなものであろう。
 「なりひら36号」には「二楽荘と大谷探検隊」というおそらく企画展と思われる予告記事がある。
その中の写真の一つに、大正5年撮影とされる「久原邸本館から北方向を眺望した写真」の掲載がある。
この写真の掲載意図はかって在りし二楽荘の周辺の姿を示すということだろうと推定されるが、その写真に塔が写る。
ちなみに、JR神戸線が摂津本山から住吉に到着する直前に住吉川を渡るが、その住吉川東岸・JR線に接した北側にマンション「オーキッドコートアネックス」の建築群がある。ここが久原邸跡と推定される。 現在では久原邸は跡形もない。

昭和13年阪神大水害で、邸の東半分が土石流で埋没。
昭和14年久原房之助は第8代立憲政友会総裁に就任。母堂は大正15年他界。
本拠は東京に移り、また時局もあり、(橋本画伯への譲渡の経緯はよく分からないが)
邸宅の復興・三重塔の管理も手が回らなく、誰かの斡旋で橋本画伯に譲渡したのではないだろうかと推測される。


宝塚長谷川邸三重塔

画伯橋本関雪:昭和11年宝塚に4000坪の敷地を購入。アトリエ利用目的で回遊式庭園を設計、茶室・栗御殿などを建築し、約130点の石造美術品を蒐集する。
三重塔移建も昭和11年の数年後のことであったと推測される。
橋本画伯は昭和20年急逝。
同年京都西陣の長谷川市三氏が売買取得。昭和26年不動恒産(株)に売買譲渡。正三氏は昭和31年逝去。
子息昭六氏が邸内に居住。後近隣に住居を構え、不動恒産(株)顧問を勤める。
昭和46年中国縦貫道の用地として千坪を譲渡、譲渡地にあった塔は、移転保証工事として、西方22mに解体・移築。
平成7年阪神大震災があり、長谷川邸の三重塔を除く建物・石造美術品の大部は倒壊大破する。
平成4年から、春秋の長谷川邸公開は中止される。

長谷川邸三重塔

「長谷川邸三重塔 変転の記録」 より転載
 昭和50年長谷川邸三重塔:下図拡大図
 昭和50年長谷川邸三重塔2

「仏塔集成」濱島正士、中央公論術美術出版、平成13年(2001) より転載
 長谷川邸三重塔:撮影時期不明であるが、2001年以前のもの

「日本の塔総観 近畿地方編、増補改訂版」 より転載
昭和42年撮影
 昭和42年長谷川邸三重塔1

「日本塔総鑑」 より転載
昭和42年撮影
 昭和42年長谷川邸三重塔2
 長谷川邸三重塔内部

2002/3/23撮影:長谷川邸三重塔


 旧開化寺三重塔1
   同      2
   同      3:左拡大図
   同      4
   同      5
   同      6

2017/01/28撮影:長谷川邸三重塔

 長谷川邸三重塔11
 長谷川邸三重塔12:左図拡大図
 長谷川邸三重塔13
 長谷川邸三重塔14
 長谷川邸三重塔15
 長谷川邸三重塔16
 長谷川邸三重塔17
 長谷川邸三重塔18
 長谷川邸三重塔19
 長谷川邸三重塔20
 長谷川邸三重塔21
 長谷川邸三重塔22
 長谷川邸三重塔23
 長谷川邸三重塔24
次の三重塔25〜28は3重目の細部である。次の開化寺三重塔の項で「三重の軒はニ段の雲型彫刻の板垂木を用い、斗栱も派手な雲型彫刻の板および竜彫刻の板で組み上げる形式を採る。」と述べるが、浄瑠璃寺塔も同じ手法を採ることが分かる。
 長谷川邸三重塔25
 長谷川邸三重塔26
 長谷川邸三重塔27
 長谷川邸三重塔28
 長谷川邸三重塔29
 長谷川邸三重塔30:相輪
 長谷川邸門前
 長谷川邸正門:確か茅葺の屋根であったと思うが、屋根は崩落した状態である。


再興開化寺三重塔

2002/10/21追加:
初重はおおむね和様の手法で、斗栱は三手先、軒は二重繁垂木、中央間に蟇股を置く。
ニ重は扇垂木を用い、中央間に間斗束をおく。三重の軒はニ段の雲型彫刻の板垂木を用い、斗栱も派手な雲型彫刻の板および竜彫刻の板で組み上げる形式を採る。初重の軸部が極端に高く、ニ三重の軸部は低く構成される。

「長谷川邸三重塔 変転の記録」 より転載
 開化寺三重塔立断面図:左図拡大図
株式会社奥谷組所蔵:青焼図面を復元
2000/05/13撮影画像
 開化寺三重塔1
 開化寺三重塔2
 開化寺三重塔3
 開化寺三重塔4

2002/10/13撮影画像
 伊賀開化寺三重塔1
   同        2
   同        3
   同        4
   同        5
   同        6
   同        7
   同        8
   同        9
   同       10
   同       11
 

新造塔は大正2年完工。
新造三重塔に関しての仕様書・図面などは開化寺に良く残されていると云う。
概要は以下のとおり。(詳細は「長谷川邸三重塔 変転の記録」に纏められている。)

塔高 塔幅 中間 脇間 総間 柱間寸法 1枝(寸)
塔身;24.8尺(7.514m) 初重 12枝 10枝 32枝 6.56寸 2.05
相輪;10.4尺(3.151m) 二重 10枝 9枝 28枝 5.74寸 2.05
総高;35.3尺(10.665m) 三重 8枝 8枝 24枝 4.92寸 2.05

平成8−9年:露盤雨漏、心礎腐食のため、半解体修理。奥谷組施工。

奥谷組:最近の仏塔工事
 下総東海寺三重塔:昭和47年
 土佐安楽寺多宝塔:昭和48年
 高尾神護寺多宝塔修理:昭和48年
 下総仏母寺宝塔:昭和52年<宝塔のページ中にあり>
 近江徳源院三重塔修理:昭和52年
 山城金胎寺多宝塔修理;昭和54年
 常陸護国寺三重塔:昭和54年<明治以降の三重塔中431>
 摂津神呪寺多宝塔:昭和55年<明治以降の多宝塔中739>
 武蔵円乗院多宝塔;昭和56年<明治以降の多宝塔中742>


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