周 防 松 崎 天 神(周防酒垂山満福寺・防府天満宮・松崎神社)

周防酒垂山満福寺・周防松崎天神・防府天満宮

酒垂山満福寺(松崎天神)の仏塔として、五重塔初重組物(残存)、三重塔(退転)、三重小塔(近年のもの)、五重塔模型(霊光院五重小塔・現存)が知られる。

周防松崎天神五重塔初層組物

文政5年(1822)10代藩主毛利斎煕は、五重塔の建立を発願し、大専坊にて釿始めの儀・地鎮供養の祈祷を修する。
計画では一辺8m弱、高さ48.1mの巨塔であったとされる。

ところが、天保の改革に伴う藩財政改革の緊縮財政政策で、天保2年(1831)工事を中止する。
天保10年(1839)工事を再開するも、その後の幕末の政情の変転で工事は進展せず、塔は未完のまま明治の廃藩に至る。
やむなく松崎天神は設計を楼閣様式重層の通夜堂に変更し、文政着工時に造作した塔の一層部組物をそのまま床下に組み入れた春風楼として、明治6年に完成させ る。

周防松崎天神春風楼1
  同         2
 同 五重塔初重組物1:左図拡大図
 同           2
 同           3

春風楼自体の建築は時代の流れで若干貧弱なのは仕方がないが、しかしそれでも周囲を圧する大建築である。
いずれにしろ「春風楼」というある種奇抜な発想のお蔭で、今に堂々たる塔の組物が伝えられ、一種不思議な光景を目のあたりにすることが出来る。
  防府天満宮塔木版

松崎天神三重塔

松崎天神三重塔
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 ◆松崎天神縁起巻6(部分);図の右上端に三重塔が見える。
紙本著色松崎天神縁起(重文・古縁起) :松崎天神蔵。全6巻。奥書:応長元年(1311)とある。
 縦は各巻とも33.6cm、全長は1巻〜5巻は13m前後、6巻のみ8.6m。
松崎天神縁起は1巻〜5巻は北野本と同一内容で、第6巻は松崎天神開創の由来を述べる。
延喜3年(903)道真が太宰府で没した時、周防勝間の海上に光明が示現し、酒垂山に瑞雲が立ち込める。
これは道真が太宰府への配流の時、この地に立ち寄った故と思い、周防国司が松ケ崎の社を建立したとする。
なおこの古縁起とは別に、永正年中(1504〜21)大内義興が奉納した新縁起(古縁起の模本・土佐光起の画)もあると云う。
 ※応長元年(1311)には社頭・回廊東に三重塔があったとされる。

この塔は元徳2年(1330)焼失。応永8年(1401)大内盛見が三重塔を奉納。大永6年(1526)焼失し、以降再興されずと云う。

天神宮塔勧進帳軸
 天神宮塔勧進帳軸(勧進帳を巻きつけた軸)が現存する。松崎天神蔵。
長さ43.5cm、軸頭・柄ともに檜製、軸頭の四面に「天神宮塔」「勧進帳」「正元元年(1259)」「十月 日」の文字を青貝で嵌め込む。
 ※上掲の「松崎天神縁起」・・・応長元年(1311)の奥書・・・には三重塔があり、この三重塔の建立のための勧進であったと思われる。

「木片勧進」
2006/12/27追加:2011/06/14改定:
「木片勧進」によれば、「古三重塔彫物」が「草の舎」<松浦武四郎が部材を勧進し建立した>の部材として転用されると記録される。
  ※周防松崎神社(防府天満宮)古三重塔彫物【63番】
   但し、「一畳敷」のどの部材に転用したのかは「木片勧進」に記載がなく、「用途不明」とする外はない。
   ところで、この古三重塔は「毛利家建築に係る 」とあるが、三重塔に拘れば、中世の大内家建立塔婆の存在が知られるが、
   その大内家建立塔で大永6年(1526)焼失三重塔の部材が残りこれが用いられたと解釈できるであろう。
   それとも毛利家建築に拘れば、毛利家建立の五重塔初重が未完成として現存するので、五重塔の部材が用いられたとも解釈できる。
   どちらとも決め難いが、何れにしても、松崎天神塔婆の部材が転用されたことには変りはない。
    木片勧進・草の舎(一畳敷)」(第63番)を参照

松崎天神(防府天満宮)概要

明治の神仏分離以前は酒垂山満福寺と号す。
表参道西側に天満宮草創と同時に草創された別當大専坊、西林坊、東林坊、蜜蔵坊、会所坊、東側に執行(造営・営繕を管掌)円楽坊、東覚坊、乗林坊、千蔵坊の9社坊があった。
 松崎天神別当大専坊跡
しかし、これら社坊は明治維新の神仏分離で取り壊される。 
 なお「社号」は「天満宮」「松崎天満宮」と称していたが、明治6年の臣下を祀る神社の宮号禁止により松崎神社(地名による)とする。
昭和28年防府天満宮と改称。

周防松崎天神本地観音堂:満福寺と号すると思われる。
天神本地観音堂:本尊十一面観音菩薩。
堂は俊乗坊重源の創建と云われる。
周防松崎天神本殿(拝殿?):本殿(拝殿?)そのものの外形式は仏堂そのものの様相を呈する。
そのほか鎌倉期の銅鐘、別當大専坊本尊毘盧舎那仏坐像等があると云う。
 金銅宝塔 承安2年(1172年)銘     梵鐘 文応2年(1261年)銘


周防松崎天神三重小塔

建立時期不詳。建築というより、模型の印象です。(紅梅の塔と称する小塔、木造。高さ約3mほどか)
なおこの三重塔は摂津網敷天満宮の三重塔とほぼ同型・同一規模のものと思われる。
 周防松崎天神三重小塔1
   同           2

周防松崎天神五重塔雛型(周防霊光院五重小塔)

高さ229.5cm、一辺36.8cm。
現在は岩間山(地蔵院)にあり、霊光院と扁額のかかる鞘堂に安置される。総高約2.8m。欅造。
防府天満宮が五重塔建築を計画、文政5年(1822)建立許可。
大工松屋嘉右衛門に建立が命ぜられ、松屋嘉右衛門は塔建立に先立ち、塔の20分の一の模型を製作。
とこらが天保改革で藩の財政改革も図られ、この塔の建立は中止される。
嘉右衛門は山口常栄寺諦州和尚にこの模型を贈り、諦州和尚の隠居所である霊光院に伝えられたと云う。

霊光院は地蔵院の南方凡そ700mにあったが、近年伽藍維持が難しくなり、地蔵院に移転し 再興されると云う。山口市文。近年修理が行われたと思われる。

松崎天神五重塔雛形1 :左図拡大図
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5

参考:上掲 防府天満宮塔木版

※名田島霊光院:大悲山と号す。
永禄年中(1558〜70)毛利隆元菩提所として安芸に創建。
宝永年中(1704〜11)に山口常栄寺境内に移転、嘉永6年(1853)11月、この地に移転。
明治3年廃寺となる。
昭和23年住僧澤根秀運が復興し真言宗となる。
平成3年、五重小塔は岩屋山地蔵院屋敷地に移転する。
※名田島地蔵院
寺伝では、宝暦6年(1756)仏堂を建て、臨済宗山口常栄寺末の長安寺を勧請した。その後無住となる。
明治元年住僧桂真梁が、防府多々良国分寺塔中の地蔵院を引寺して再建する。
地蔵院寺伝では、地蔵院は天平19年(747)行基が建立、応永24年(1417)火災焼亡、その後毛利重就が再興する。


2008/02/27作成:2011/06/14更新:ホームページ日本の塔婆