松崎天神(酒垂山満福寺)の仏塔として三重塔は退転したが、せめてもの名残りとして、五重塔初重組物(残存)、三重小塔(近年のもの)、五重塔模型(霊光院五重小塔・現存)が知られる。
2023/02/11追加: 菅原道真は右大臣に叙任されるも、左大臣藤原時平(昌泰の変)により大宰府に左遷され、その地で薨去する。
(現地では安楽寺天満宮が創建される。) 防府は大宰府への途中寄港した地という。
道真が大宰府で薨去したその日、防府の酒垂山(天神山)の空には瑞雲が棚引きという。
これは道真の魂が光となり、雲となってこの地に帰還したと解釈され、地人たちは酒垂山に祠を建立して松崎の社と号する。
これが松崎天神の創建といい、これをもって日本で最初に創建された天神さま(天満宮)と称する。 当然、祭神は菅原道真である。
★周防松崎天神未成五重塔初層組物
2002/08/16撮影:
文政5年(1822)10代藩主毛利斎煕(なりひろ)は、五重塔の建立を発願し、大専坊にて釿始めの儀・地鎮供養の祈祷を修する。
計画では一辺8m弱、高さ48.1mの巨塔であったとされる。
ところが、天保の改革に伴う藩財政改革の緊縮財政政策で、天保2年(1831)工事を中止する。
天保10年(1839)工事を再開するも、その後の幕末の政情の変転で工事は進展せず、塔は未完のまま明治の廃藩に至る。
やむなく松崎天神は設計を楼閣様式重層の通夜堂に変更し、文政着工時に造作した塔の一層部組物をそのまま床下に組み入れた春風楼として、明治6年に完成させる。 周防松崎天神春風楼1 周防松崎天神春風楼2
未成五重塔初重組物1 未成五重塔初重組物2 未成五重塔初重組物3
春風楼自体の建築は時代の流れで若干貧弱なのは仕方がないが、しかしそれでも周囲を圧する大建築である。
いずれにしろ「春風楼」というある種奇抜な発想のお蔭で、未成となった五重塔、今に堂々たる塔の組物が伝えられ、一種不思議な光景を目のあたりにすることが出来る。
※防府天満宮塔木版:2023/02/15画像入替、文政の五重塔建立が具体化する際に、天満宮では五重塔工事に対して費用勧進の有志に五重塔完成予想図を木版刷にして配布するという。その時の木版であるが、やや絵画的ではある。
2022/11/24撮影: 松崎天神春風楼3 松崎天神春風楼4 松崎天神春風楼5 松崎天神春風楼6 松崎天神春風楼7
★松崎天神三重塔
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
◆松崎天神縁起巻6(部分);図の右上端に三重塔が見える。
紙本著色松崎天神縁起(重文・古縁起) :松崎天神蔵。全6巻。奥書:応長元年(1311)とある。
縦は各巻とも33.6cm、全長は1巻〜5巻は13m前後、6巻のみ8.6m。
松崎天神縁起は1巻〜5巻は北野本と同一内容で、第6巻は松崎天神開創の由来を述べる。
延喜3年(903)道真が太宰府で没した時、周防勝間の海上に光明が示現し、酒垂山に瑞雲が立ち込める。
これは道真が太宰府への配流の時、この地に立ち寄った故と思い、周防国司が松ケ崎の社を建立したとする。
なおこの古縁起とは別に、永正年中(1504〜21)大内義興が奉納した新縁起(古縁起の模本・土佐光起の画)もあると云う。
※応長元年(1311)には社頭・回廊東に三重塔があったとされる。
この塔は元徳2年(1330)焼失。応永8年(1401)大内盛見が三重塔を奉納。大永6年(1526)焼失し、以降再興されずと云う。
○天神宮塔勧進帳軸
天神宮塔勧進帳軸(勧進帳を巻きつけた軸)が現存する。松崎天神蔵。
長さ43.5cm、軸頭・柄ともに檜製、軸頭の四面に「天神宮塔」「勧進帳」「正元元年(1259)」「十月 日」の文字を青貝で嵌め込む。
※上掲の「松崎天神縁起」・・・応長元年(1311)の奥書・・・には三重塔があり、この三重塔の建立のための勧進であったと思われる。
○「木片勧進」
2006/12/27追加:2011/06/14改定:
「木片勧進」によれば、「古三重塔彫物」が「草の舎」<松浦武四郎が部材を勧進し建立した>の部材として転用されると記録される。
※周防松崎神社(防府天満宮)古三重塔彫物【63番】
但し、「一畳敷」のどの部材に転用したのかは「木片勧進」に記載がなく、「用途不明」とする外はない。
ところで、この古三重塔は「毛利家建築に係る 」とあるが、三重塔に拘れば、中世の大内家建立塔婆の存在が知られるが、
その大内家建立塔で大永6年(1526)焼失三重塔の部材が残りこれが用いられたと解釈できるであろう。
それとも毛利家建築に拘れば、毛利家建立の五重塔初重が未完成として現存するので、五重塔の部材が用いられたとも解釈できる。
どちらとも決め難いが、何れにしても、松崎天神塔婆の部材が転用されたことには変りはない。
※「木片勧進・草の舎(一畳敷)」(第63番)を参照
★松崎天神(防府天満宮)概要
2002/08/16撮影: 明治の神仏分離以前は酒垂山満福寺と号す。
表参道西側に天満宮草創と同時に草創された別當大専坊、西林坊、東林坊、蜜蔵坊、会所坊、東側に執行(造営・営繕を管掌)円楽坊、東覚坊、乗林坊、千蔵坊の9社坊があった。
奥之院として「天神本地観音堂」があったともいう。(不確実)
松崎天神別当大専坊跡
しかし、これら社坊は明治維新の神仏分離で取り壊される。
なお「社号」は「天満宮」「松崎天満宮」と称していたが、明治6年の臣下を祀る神社の宮号禁止により松崎神社(地名による)とする。
昭和28年防府天満宮と改称。 2022/11/24撮影: 別當大専坊跡1 別當大専坊跡2 別當大専坊跡3 執行圓楽坊:別當大専坊と同じく延喜4年(604)松崎社を創建した時に創建されたと伝える。
明治元年神仏分離令の処置で廃寺となり建物も毀損される。その後、松崎文庫、花神子調度館、暁天楼などが建設され、さらに平成3年茶室・芳松庵が造られ現在の残念な状態となる。
執行圓楽坊跡1 執行圓楽坊跡2 執行圓楽坊跡3
◇天神本地観音堂 2002/08/16撮影: 周防松崎天神本地観音堂:満福寺と号すると思われる。
天神本地観音堂:本尊十一面観音菩薩。
堂は俊乗坊重源の創建と云われる。(?) 2022/11/24撮影: 現地案内板 より 天神本地観音堂:本尊は観音菩薩で創建は松崎天神創設以来祀られる。
※本坊は真言宗満願寺(※※)とあるので、現在は満願寺がこの観音堂を管理するものと思われる。 天神本地観音堂1 天神本地観音堂2
なお、天神本地観音堂前に次の説明板が立つ。 金銅毘盧舎那仏
別當大専坊本尊という。像高77cm。朝鮮半島からの渡来佛と思われる。 金銅菩薩形立像
朝鮮半島からの渡来佛と思われる。像高64cm。
2躯とも満願寺に保管と云うから、市文化財指定を機にして、天神本地観音堂から、満願寺に遷されたのであろうと推測する。
○」本地垂迹資料便覧」 では本地仏を次のように云う。 東佐波令天満宮御本地 ※東佐波令とは酒垂山(天神山)などがある一帯の地名である。
十一面観音堂 一宇 別当 大専坊 十一面観世音 木仏
脇士 不動明王 毘沙門天 右行基菩薩ノ御作の由申伝、従往昔天満宮御本地也、 縁記等の儀不相見候事
△真言宗満願寺(※※); 創建は神亀年間(724-729)と伝える。 もとは、安芸吉田にあり、天台宗伝法山阿弥陀院満願寺と号す。
毛利元就の時、真言宗に改宗、毛利家の祈願所となる。 慶長10年(1605)関ヶ原の敗戦で毛利氏は萩に移封、伝法山満願寺も萩に移建。
※指月山東麓、萩城二の丸内に跡が残る。南に東園。北に宮崎八幡宮跡。東に道を隔てて三摩地院跡。
寺禄は幕末の「嘉永改正いろは寄萩藩分限帳」では「高四百七拾八石八斗六升七合、京都仁和寺末、御城內満願寺、內四拾石 金剛院外分知 弐拾七石五斗三地院 弐拾七石五斗一乗院」とある。
明治2年、神仏分離の処置で境内の二の丸神社・指月権現社・清滝権現社は山口藩から取り除きを命じられる。
大正元年、毛利本家が防府に移転、毛利家の祈願寺である満願寺も、末寺の霊台寺に移転する。
※大正に防府に移転した毛利本家(毛利公爵家)の邸宅は防府に設けられ、現在の毛利本邸【重文】・庭園と毛利博物館である。
なお、この時、霊台寺と松崎天神・満福密寺も合わせ、山号を霊台山寺号を満願密寺(法人名は満願寺)と改号する。
※萬福密寺の名残が現在の「天神本地観音堂」であると思われる。
2002/08/16撮影: ◇松崎天神社殿
周防松崎天神本殿(拝殿?):本殿(拝殿?)そのものの外形式は仏堂そのものの様相を呈する。
2022/11/24撮影:
周防松崎天神楼門
周防松崎天神拝殿:本殿を含め、社殿は昭和27年の焼失後の昭和38年の再建である。
周防松崎天神燈明台 周防松崎天神御神庫 周防松崎天神太鼓楼
周防松崎天神宝篋印塔:なぜかひっそりと1基残る。年代など不明、通常、基壇(反花座)・基礎・塔身・笠と積み上げるが、本塔婆は基礎の上に基壇が積まれている。
◇その他文化財 ・金銅宝塔【重文】 承安2年(1172)周防国目代・藤原季助の寄進。 2023/02/15追加: サイト:山口県の文化財 より
承安2年金銅宝塔1 承安2年金銅宝塔2 ・大日如来坐像【重文】
平安期、当社の社坊に祀られていたという。 ・梵鐘【重文】
文應2年(1261)年紀、福岡県油山の寺院にあったもので、大内氏が戦勝品として奉納。 以上のほか、さらに多くの文化財を所有する。
★周防松崎天神三重小塔
2002/08/16撮影: 建立時期不詳。建築というより、模型の印象です。(紅梅の塔と称する小塔、木造。高さ約3mほどか)
なおこの三重塔は摂津網敷天満宮の三重塔とほぼ同型・同一規模のものと思われる。
松崎天神三重小塔1 松崎天神三重小塔2
2022/11/24撮影: 松崎天神三重小塔3 松崎天神三重小塔4 松崎天神三重小塔5
★周防松崎天神五重塔雛型(周防霊光院五重小塔)
2023/02/11追加: ◇名田島地蔵院
寺伝では、宝暦6年(1756)仏堂を建て、臨済宗山口常栄寺末の長安寺を勧請した。その後無住となる。
明治元年住僧桂真梁が、防府多々良国分寺塔中の地蔵院を引寺して再建する。
地蔵院寺伝では、地蔵院は天平19年(747)行基が建立、応永24年(1417)火災焼亡、その後毛利重就が再興する。
◆五重小塔:高さ229.5cm、一辺36.8cm。
現在は岩間山地蔵院境内の霊光院にあり、霊光院と扁額のかかる鞘堂に安置される。総高約2.8m。欅造。 ※霊光院は地蔵院の南方凡そ700mの山腹にあったが、伽藍維持が難しくなり、
平成3年(1991)5月に廃・霊光院から、地蔵院境内に霊光院が遷され、五重小塔も遷される。
防府天満宮が五重塔建築を計画、文政5年(1822)建立許可。
大工松屋嘉右衛門に建立が命ぜられ、松屋嘉右衛門は塔建立に先立ち、塔の20分の一の模型を製作。
とこらが天保改革で藩の財政改革も図られ、この塔の建立は中止される。
嘉右衛門は山口常栄寺諦州和尚にこの模型を贈り、諦州和尚の隠居所である霊光院に伝えられたと云う。
五重小塔は山口市文。近年修理が行われたと思われる。
(修理の有無は未確認、平成元年調査が実施され、同2年文化財に指定されてされる。)
2023/02/15追加: ○「小塔巡拝の記(九)」吉田実(史迹と美術、61(10)、1991.12 所収) より 五重小塔は松崎天神五重塔の雛形として作成されたものと見られる。
天満宮宝物館に元正元年(1259)の天神宮塔勧進帖の1尺1寸の軸が保存されている。
防府天満宮崇敬略年表では、この塔は元徳2年(1330)社殿悉く炎上したとある。
應永8年(1401)大内盛見が三重塔を奉建したが、この塔も大永6年(1526)他の社殿とも悉く焼失し、以降再興されることはなかった。
降って文化年中(1804-18)に至り、天満宮境内に塔の建立計画が持ち上がる。
計画では塔を再建し、承安2年(1172)銘のある1尺3寸舎利塔を内部に奉安し、ついては昔のように三重塔ではなく五重塔を建立すると計画であった。
◇承安2年(1172)銘1尺3寸舎利塔 サイト:山口県の文化財 より
承安2年金銅宝塔1 承安2年金銅宝塔2
文政元年(1818)別當大専坊から毛利藩寺社方へ五重塔再建を願い出る。藩は審議の結果、許可する。
文政5年寺鎮供養及び鍬始めの儀を行う。
同年、10代藩主斉煕は資金として熊野郡室津での米の入札を許可し、その利益を塔建立の費用に充てさせるなどの便宜を与える。
塔建立の棟梁は松屋喜右衛門は塔建立に先立ち、塔の1/20の模型を作成する。
ところが、天保2年(1831)三田尻に発した百姓一揆は防長全土に広がり、資金とされていた米の入札は中止される事態となる。
天保5年から入札は再開される手筈になるも、藩では天保の改革という藩財政の立て直し政策が執られ、その為、塔建立は不急のこととしていつしか中止されて了うこととなる。
棟梁喜右衛門は残された塔雛形を帰依していた常栄寺諦州和尚に贈る。諦州和尚はその頃常栄寺を隠居し、名田島霊光院に住していたが、雛形の寄進を喜び、自らが戒を授けた53000人の戒者の位牌を造り、この小塔の台石に納めて「戒従同聚塔」と命名し、名田島霊光院に安置したのがこの五重小塔である。
五重小塔の構造:
初重内部は柱を建て須弥壇を構え、心柱は初重には下りてきていない。各重はおそらく枠型に造った周囲に組物を貼り付けた箱造りになっているものと思われる。
◇松崎天神塔木版;
天満宮では五重塔工事に対して費用勧進の有志に五重塔完成予想図を木版刷にして配布する。
但し、図柄は多分に絵画的で塔雛形とは相違している。 防府天満宮塔木版:上に掲載あり。
2002/08/16撮影: 松崎天神五重塔雛形1 松崎天神五重塔雛形2 松崎天神五重塔雛形3
松崎天神五重塔雛形4 松崎天神五重塔雛形5
2022/11/24撮影: 霊光院 五重小塔実測値:一辺は40cm(但し芯-芯間ではなく、地長押の値) 案内板の総高は280cmとある。
◇名田島霊光院:大悲山と号す。 2023/02/15加筆・修正:
永禄年中(1558〜70)常栄寺が毛利隆元菩提所として安芸吉田に創建される。
永禄11戊辰年(1568)9月23日、聖護院道増・同道澄、毛利隆元の菩提所として、高田郡吉田常栄寺内に霊光院を建立【閥閲録・常栄寺】とあるので、隆元塔所(廟所)として常栄寺に霊光院が建立される。
関ヶ原の敗戦で、毛利氏が長州萩に移封され、その時、常栄寺は大内盛見の菩提寺である山口国清寺を接収して、山口に移転する。 宝永年中(1704〜11)に山口常栄寺↓境内に移転。
※この意味が分からないが、毛利氏が萩に移封され、常栄寺は山口に遷されるが、塔所である霊光院は吉田に残り、塔所の霊光院が山口に遷されたのは宝永年中ということであろうか。 嘉永6年(1853)11月、吉敷郡名田島村向山中に移転。 明治3年廃寺となる。
昭和23年住僧澤根秀運が復興し真言宗となる。 明治維新後の廃・霊光院について、
○「小塔巡拝の記(九)」吉田実(史迹と美術、61(10)、1991.12 所収)では次のように云う。
名田島3361に所在、火の山(というより陶ヶ岳)中腹の山林中に位し、開山堂と寺務所兼集会場建物がある。
元は菅野常栄寺末であったが、明治になって常栄寺に合併され、廃寺となり、堂宇が残される。
その後再興されて、昭和27年宗教法人となる。
現在開山堂は昭和9年改築、3間×3間桟瓦葺、宝形造、正面入口ガラス引戸、1間唐破風銅板葺向拝付の木造建築である。
堂内中央の板床上123.5cmの高い台石上に五重小塔は安置される。 廃霊光院開山堂 また ○「秋穂八十八ヶ所霊場」 では次のように云う。
第82番名田島 大師堂 本尊、聖如意輪観音 現在は岩屋山地蔵院境内
霊光院の正面柱に「∴毛利隆元公菩提所」とあり、霊光院の由来をいまに伝えている。 大悲山霊光院は永禄年間(1558〜70)に毛利隆元公菩提所として芸州に創建された。
その後、宝永年間(1704〜11)に山口の常栄寺境内に遷座され、更に嘉永6年(1853)11月、この地に遷座したが 明治3年(1870)廃寺となった。これを昭和23年(1948)住僧澤根秀運が復興し真言宗寺院とした(「山口市史」)。
四国霊場の本尊は千手観音。 この札所堂内にある五重塔は、文政5年(1822)防府天満宮境内に建立する筈であった五重塔の用材で造られた20分の1の模型で、
作者が霊光院に寄進した。 天満宮の五重塔は天保の百姓一揆で実現しなかったが、その壮麗さがしのばれる。 この五重塔は、山口市指定の重要文化財である。
この札所は平成3年5月岩屋山地蔵院屋敷地に移された。 ◇関係地図
廃・霊光院など関係地図1:国土地理院地図
廃・霊光院など関係地図2:「陶ケ岳・火の山(山口市)」 より
○「山口県山口市 陶ヶ岳 [旧霊光院ルート] 全行程 2倍速 2017/04/01」 にみる廃・霊光院 解説;「山口県山口市の陶ヶ岳を旧霊光院ルートで山頂を目指しました。このルートは今は廃寺になり、岩屋山地蔵院に移された霊光院の跡地である旧霊光院から旧参道に近い場所を通り山頂を目指します。」
動画からの切り取りで画像は少々荒れている。
廃・霊光院1 廃・霊光院2 廃・霊光院3 廃・霊光院4 廃・霊光院5
廃・霊光院6:看板に「延命地蔵尊」「∴毛利隆元公菩提所」「霊光院」とある。
◇常栄寺
永禄6年(1563)毛利元就、毛利隆元の菩提を弔うために安芸吉田に常栄寺を創建する。
関ヶ原の敗戦で、毛利氏が長州萩に移封され、その時、大内盛見の菩提寺である山口国清寺を接収して常栄寺とする。
※この常栄寺寺中に霊光院が移転する。
文久3年(1863)長州藩(萩藩)は藩庁を萩から山口に移すが、その時、萩の洞春寺を山口の常栄寺に移し、 その常栄寺は隆元夫人尾崎局(妙寿大姉)の菩提寺・妙寿寺に移され、妙寿寺を常栄寺となる(改号する)。
※洞春寺は元就の菩提寺、元は安芸国吉田に創建された寺院である。
もともと、現在の常栄寺の地には大内教弘の夫人妙喜寺殿宗岡妙正大姉の菩提寺妙喜寺があった。
毛利氏が防長(萩)に移された後、妙喜寺は接収され、毛利隆元の夫人妙寿大姉の菩提寺となり、寺号を妙寿寺とする。
文久3年(1863)、毛利隆元の菩提寺・常栄寺がここに移り、寺号を常栄寺と称するに至りました。
2008/02/27作成:2023/02/15更新:ホームページ、日本の塔婆
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