【3】但馬妙見三重塔・寛文の移転(移建)
2004/12/12版

はじめに

日光院の概要については
「但馬妙見、日光院の概畧」日光院51世・森田祐親(「但馬妙見・観光八鹿と其の附近」昭和29(32?)年刊 所収)
の中で、当時の住職自らの論述がある。

それは以下の書き出しで始まる。
「往古は当院を石原山帝釈寺日光院と称したが現今では山号を改め寺号を撤して妙見山日光院という。
蓋し石原山とは現寺域に対する総称で所謂妙見山は皆之れ日光院の旧境内である。」
この部分には、近世及び近代の歴史が色濃く凝縮され、ほぼ全てを語るような文面である。
 ※寺号を撤して云々については、「【4-1】帝釈寺(日光院)神仏分離資料」のページを参照。

論述の最初に縁起及び歴史などについての解説がある、これについては
日光院ホームページ」の「但馬妙見信仰の歴史」の「但馬妙見 日光院縁起」に掲載 する。

 詳細は上記に譲るとして、要約すると
創建は敏達天皇の頃、日光慶重石原の地に1宇を建立したことに始まる。
第4世重明が、この地に妙見大菩薩の降臨するのを感見し、妙見堂及び妙見の本地薬師如来を祀る薬師堂を建立した。
多くの古文書に見られるように、その後中世には隆盛を極め、西国筋の妙見信仰の総本家となる。
永禄(1560)元亀(1570)の兵乱で妙見本殿、薬師本堂のみを残し10坊は灰燼に帰し、寺領は没収される。
寛永9年(1632)帝釈寺快遍は妙見菩薩を奉持して、山上奥の院に登り、日光院を山上に移す。
山下石原には成就院を残す。
慶安元年(1648)妙見社30石の朱印を受く。


※なお、「日光院縁起」については次の論述に全文の掲載があります。

 「但馬妙見社について」 八鹿町教育委員会・谷本進  のP.69-71「但馬国養父郡石原山縁起」
  (「名草神社三重塔と出雲大社」兵庫県八鹿町ふるさとシリーズ10、八鹿町教育委員会、1997、所収)
  「但馬国養父郡石原山縁起」は近世初頭に成立したと考えられると云う。

妙見三重塔の寛文の移転(移建)

「但馬妙見、日光院の概畧」では続いて、妙見三重塔の移転について触れられる。
曰く
「三重塔はこの快遍時代に出雲大社より移転建立されたこと大社所蔵寛文御造営日記に載する通りである。」
と述べ、「日記」(原文のまま)の関係箇所の転載がある。

この論考での、杵築大社(出雲大社)「寛文御造営日記」の関係箇所の転載は以下の通りである。
 (但し、「日記」そのものが膨大な量のため、部分的な抜粋になる。)

「寛文3年(1663)12月17日
岡田半右衛門と宮内市之丞面談、両国造家より御祝儀樽肴持参、村上方入札物語承り候
大社御本社の木材諸国に無之由、伊勢に大木3本、熊野山に11本有之候・・山出し難成・・、秋田山たんさくにても無之・・・、
松柱に仕より外無之と申す所に雲州・・の竹内三郎兵衛と申す者・・但馬国妙見山に杉の木有之の由承及旨・・・
10月15日竹内三郎兵エ、北川杢右エ門、両人を但州へ遣被申候。
12月3日妙見山へ参着、此山は真言宗1寺日光院朱印の地百石、寺領在の由、杉の大木山壱里半四方、其外寺山の分、五里四方有之由、八端杉と申して18抱半有之神木、七曜の杉と申して難及言語大木有之候則大社の間尺に相応の杉12本買取申べく約束仕候木10本を金子180両値段仕唯今前金20両日光院へ相渡申候
惣別此山の木枝葉にても取申事神の祟りつよくて昔より取不申故何此大木にて候然れども大社の御木材に被成候事妙見神も冥加に御叶候と日光院被申10本の外2本相添被申候
右の段々岡田半右エ門殿竹内三郎兵衛物語承り書付申候末代にも御木材より出可申越と一入社家の大悦と申事に候」

→大社造営の木材の入手が難渋していたところ、妙見山に適材を発見した経緯、用材は日光院から譲渡を受けることなども記録される。

「寛文4年4月7日
去年材木代金約束之通180両住持渡候へば日光院申候には、添存候得共此材木大社へ進上申儀は住持自用に仕覚悟に而無之候塔を一宇建立之願而御座候然は大社三重塔不入候而破却被成申幸之儀に候間当山へ被下候へ左少に候共今度材木之代直様進上可申旨被申候」

「寛文4年5月7日
但馬国妙見山より岡田善兵衛殿飛脚半右エ門殿へ到着大社大木材不残本伐仕由・・・善兵エ殿其外之衆へ 心入之通日光院被申候様は今度大材木進上候代金子を以て二重之塔造立可仕覚悟に御座候承り候へば大社に三重之塔並びに輪蔵破却被成候由左様候はば幸之事に候間取崩妙見に立申度旨善兵衛へ議被申通書中参候」

→日光院では塔建立の願いがあり、材木代金はそれに充当する考えであること。また、大社三重塔が破却予定・不要であるならば、日光院へ下さるように、叶うならば、材木は進上する考えなどが記され る。

「寛文4年5月12日
善兵衛追状に杵築三重塔之事両国造殿社家中御造営奉行衆迄妙見山へ可被下旨、日光院隠居老僧73歳先以大悦(
注・・・・寺伝によれば隠居とは快遍のこと
 なお、日付は「寛文4年5月12日」とあるが、平成9年(1997)の「八鹿町ふるさとシリーズ第10集 名草神社三重塔と出雲大社」第2章で活字化された「日記」では「寛文年閏5月14日」の条にある。

→大社では三重塔譲渡の決定がされ、当時の日光院隠居(快遍)が大悦したなどが記される。

「寛文4年10月24日
柱材木無事海路より到着の旨上官佐草宮内、長谷川右兵衛両人の名以て妙見山日光院へ通知す
附記文にて
三重塔来春に到て其御地へ御引可有之旨申入候」

「寛文5年正月23日
但州妙見より塔こわしのため日光院代僧法住坊、並に八鹿村西村新右エ門、大工与三エ門来る
27日
三重塔今日迄に崩済申候此塔は大永7年<1527>尼子経久建立也」

→寛文5年には塔移転の段取りが進んだ様子が記される。
 

ここで、他にも「妙見三重塔の寛文の移転」に関する論考があり、以下に抜粋する。

「出雲大社と妙見山三重塔」斉藤至(「大社の史話 第77号」大社史話会、1989、所収)  より
当論考には「矢田豊雄の思い出」という副題が付けられ、矢田豊雄(氏は出雲大社考証課長)が「昭和28年」に「日光院森田祐親師」に宛てた書簡の全文が掲載され る。
その書簡の内容は「佐草家所有「寛文御造営日記」を浄写したもの」であったことが紹介される。
「書簡」と「但馬妙見、日光院の概畧」の前後関係から
「但馬妙見、日光院の概畧」の寛文御造営日記の転載はこの書簡によるものとも推定されますが、
この書簡の持つ意味は大社三重塔が日光院へ譲渡されたことを証明する第一級資料が存在することを知らしめたことにあるのであろう。
 いずれにしろ、大社三重塔の日光院譲渡の経緯を生き生きと活写した「日記」の存在で、妙見三重塔の由緒・歴史が
揺ぎ無いものとなり、あらゆる「曖昧な歴史の著述」は木っ端微塵となるのであろう。
 ちなみに、曖昧な歴史の著述とは、例えば「日光院」を何の断りもなく突然「名草神社」と言い換えて、例えば「大社から名草神社に譲渡された云々」という著述を指す。
なお「但馬妙見、日光院の概畧」には転載されていない「日記」の部分が、この論考にあるので、以下に追加する。

「寛文4年9月19日
但馬よりの材木値段太守様より御尋ねあり金子230両但御戸板は妙見山の住持日光院寄進の旨奉行より上申す」


寛永社圖

「出雲大社と妙見山三重塔」斉藤至
 より転載

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参考:慶長年中の杵築大社絵図1  慶長年中の杵築大社絵図2

「出雲大社にあった三重塔の由来記」出雲大社権宮司・平岡松彦(「大社の史話 第39号」大社史話会、1981、所収)
この論考がおそらく、妙見三重塔の由緒を確かな文献で確認した鏑矢であろうと考えられる。(推定)

既述の「但馬妙見、日光院の概畧」に掲載の無い「日記」の部分が、当論考にもあるので、以下に転載。
「寛文5年正月27日
三重塔今日迄に崩済申候此塔は大永7年<1527>尼子経久建立也(中略)柱は皆朱塗也(後略)」

「寛文5年4月21日
法住坊、西村新右エ門よりの連状
塔之儀豊岡より妙見山迄人夫3500人而持着申之由、9月中に立仕舞可申之申云々(後略)」

「寛文御造営日記」の三重塔譲渡に関する記載の意味すること

以上のように、杵築大社(出雲大社)から日光院への三重塔譲渡についての概要が「日記」に記録される。
以下にも、上記にない「日記」の若干の記録を若干転載・追加する。
以下の追加転載も含めて、
近世(中世を含めて)に「杵築大社と交渉した但馬妙見側に実体として存在していたのは、誰か」という観点から見ると、大社 の交渉相手の実体とは「日光院」であったということはいうまもないことであろう。

「日記」の記載は当然のことながら、日々日々起こったことの記載であり、それ故、大社造営材木入手の交渉、また取壊予定の三重塔受譲などの事項が記録され、近世初頭に実体として存在したのは「日光院」であったことを余すところなく 示す。

日光院は但馬妙見の実体として確かに存在したこと。
大社三重塔は但馬妙見日光院に譲渡されたこと。
「寛文御造営日記」は、現実に現在も現地に厳然と建つ三重塔と同様、以上を証明する第1級の資料であろう。

妙見三重塔に関するその他の論及文献

「名草神社の沿革」、名草神社宮司・井上憲一、昭和31年(「但馬妙見・観光八鹿と其の附近」昭和31年刊 所収)では
国宝三重塔の項で、以下のように述べる。
「社伝によると・・・・尼子経久の命で出雲大社境内において大永5年に起工し大永8年に竣工したが後故あって名草神社に寄進したと伝えられる。・・・・」
再三指摘する通り、この表現は「事実に反する」表現である。
 何も知らない人物の表現であれば、「正確ではないですよ」で済まされますが、但馬妙見の歴史を知らないとは思えない人物が書いたとしたら、それは「何か意図がある」「例えば歴史的事実を知らない振りを し」「結果として歴史を捻じ曲げる」ようなことになるのであろう。
何度も繰り返すが、上記の「日記」で明らかなように、「日記」には、名草神社など「ただの一度」も出てこないのが事実である。
 (「日記」には、大社三重塔を「日光院」に寄進した経緯が記録される。)

それ故、上記の井上氏の記述は、少なくとも、「・・故あって日光院に寄進し、現在では、これまた故(*)あって、明治維新で捏造された名草神社の所有となっている云々」などの表現 に訂正されて然るべきであろう。
(*)故とは、明確に言えば、官によって、帝釈寺(日光院)の建物一切が簒奪され、名草神社とされたということである。

また「社伝によると」とありますが、そのような「社伝」があるとは未だ寡聞にして聞いたことがない。
不審なことと思われる。

なお別件であるが、妙見社本殿の棟札の最後には、「造営奉行井上左内」との記載があると云う。(未見)
「造営奉行井上左内」とは(現社家)という谷本論文の表現もある。
 (これは、「但馬妙見社について」谷本進 p.67 での見解である。)
以上から推測すれば、現宮司の祖先は何らかの妙見社とは繋がりがあったものと思わる。
なお「但馬史 5」では、「明治9年7月13日元楯縫神社祠掌であった井上賢次郎(雪江)を名草神社祠掌に任」じたとする。

「八鹿町史 上巻」(P.501−503)

妙見三重塔に関しては、「但馬妙見、日光院の概畧」を根拠にしていると思われる記載がある。

「出雲大社の三重塔」大社史話会会長・斉藤至、平成7年 (「島根半島歴史散歩−大社編−」大社史話会、平成10年所収)
には以下のように述べられる。 
 鍔淵寺文書には大永6年(1526)6月尼子経久は出雲大社三重塔を攝津の宮大工に発注、二年後大永8年に兵庫の港から海路長門を廻り出雲小土地の港に到着(6月15日)、出雲大社三重塔が建立される。落慶導師は鍔淵寺竹本坊法印栄伝であった。
寛文4年10月24日 解体した三重塔の部材を小土地の港から搬出し、宇竜港を経て、但馬の香住に回航された。
攝津から瀬戸・日本海を経由し出雲大社へ、140年後さらに、日本海伝いに但馬に回送される。
(実に数奇な運命というべきか。)

「名草神社三重塔と出雲大社」
 

「名草神社三重塔と出雲大社」兵庫県八鹿町ふるさとシリーズ10、
                       八鹿町教育委員会、1997

構成は以下の通り

口絵、ご挨拶
第1章 名草神社三重塔の由来
 第1節 名草神社三重塔と出雲大社寛文御造営、
            但馬史研究会会員・山田宗之
 第2節 出雲大社の寛文造替について、
            島根県大社町史編集委員・山崎祐ニ
 第3節 名草神社三重塔を解体して、
            元名草神社三重塔設計監理事務所所長・工藤満
 第4節 但馬妙見社について、八鹿町教育委員会・谷本進
第2章 佐草自清「御造営日記」
 解説 佐草家と佐草家文書について、山崎祐ニ
 ・大社御造営日記一(寛文元年8月より寛文3年12月まで)
            佐草自清記録の写
 ・御造営日記(寛文4年1月より5月5日まで)佐草自清
 ・御造営日記(寛文4年5月6日より6月11日まで)佐草自清
 ・御造営日記(寛文5年7月15日より8月26日まで)佐草自清 
第3章 資料編
 第1節 三重塔関係資料
 第2節 名草神社三重塔保存修理工事報告書 抜粋
おわりに


※「寛文御造営日記」は出雲大社上官を務めた家柄である佐草家に伝えられた膨大な文書の一部で、
今般「名草神社三重塔と出雲大社」の刊行にあたり、活字化された貴重な資料である。
「日記」は佐草自清(千家慶勝嫡孫で正保元年<1644>佐草家に婿養子に入り元禄8年<1695>没)の自書による。

「寛文御造営日記」に現れる妙見三重塔関係の記事の追加転載

「名草神社三重塔と出雲大社」第2章 佐草自清「御造営日記」から

今般上記図書の刊行により、標記期間の「御造営日記」の記録が、容易に手にとりことができるようになる。

この「日記」から以下の2点を知ることができる。
一つは、中世から近世の間の時期の神仏分離の様相ということと、もう一つは妙見三重塔を巡る歴史ということである。
前者は後日の機会に譲るとして、後者に関して、上記の「但馬妙見、日光院の概畧」に収録されていない妙見三重塔関連の興味深い記事を抜粋:転載する。
(「但馬妙見、日光院の概畧」 が著された当時は、この「日記」が誰にでも容易に閲覧できる状況ではなかったと思われ、それゆえ、収録されなかった部分があることは仕方無かったことと思われ る。)

寛文4年5月12日
善兵衛追状に杵築三重塔之事両国造殿社家中御造営奉行衆迄妙見山へ可被下旨、日光院隠居老僧73歳先以大悦(注:以上は上出)、妙見に昔より塔在之候処ニ80年前炎上仕、礎のみ残り申候故、何と仕塔建立可申と20年来心に懸ケ申候、太守公あハれ被下候へかしと被申候、老僧長命仕塔被下建立の吉事も承候はんかと、別て悦被申候旨申来ル、此状も右の状ノ奥ニ継松江ヘ半右殿より被遣候」
 なお、日付は「寛文4年5月12日」とあるが、平成9年(1997)の「八鹿町ふるさとシリーズ第10集 名草神社三重塔と出雲大社」第2章で活字化された「日記」では「寛文年閏5月14日」の条にある。

→興味深いのは、妙見山(帝釈寺)に塔があり、それは80年前(寛文4年<1664>から丁度80年前は天正12年になる。)に炎上したこと及び礎が残っていたとされることで ある。
塔の焼失は天正年間前後と思われ、寺伝でいう羽柴秀吉の兵火での焼失の可能性が高いと推測される。
但し、現状では、塔のあった位置は主要伽藍のあった現日光院のある石原の地なのか、現在妙見三重塔がある妙見社の地なのかは明確ではないが、当時、本堂をはじめとする主要伽藍が石原の地にあったならば、当時の有力寺院の伽藍配置の一般的な在り方から判断して、塔も石原の地にあったとするのが自然と思われ る。
 ※当時の大寺院は広大な寺域の境界に大門を構え、そこから続く長い参道の奥に一山本堂・塔・主要堂宇などの中心伽藍を建立し、参道及び中心伽藍周辺に多くの坊舎を構えるというのが一般的であった 。

「寛文4年閏5月19日
大和や七郎兵衛宇屋忠兵衛山根善右衛門神光寺諸旦那ニ被頼由ニ付、佐草取次を以塔の本尊の儀何どぞ申請神光寺本尊素仕度旨申ニ付、半右殿へ佐草申候ハ塔ヲ但州へ被遣に付三人の者共罷出候、太守様より他国被遣儀近申上かね候へ共、塔ノ本尊釈迦文殊普賢幸禅宗ノ本尊ニて御座候有可成儀ニ御座候ハバ、神光寺へ申請度と諸旦那申候、塔の本尊宗旨ニより替り申候、妙見山ノ日光院ハ真言宗の由、然ば大日などニても可有之御座候ハん哉、又ハ妙見ニ右ノ塔ノ本尊残有之をすへ被申候ハん哉、其も炎上ノ時焼失候ハバ昔より妙見山ノ塔ニハ本尊は大日と成共薬師と成共在之例も御座候て、釈迦ヲ本尊ニ不入事も可在之候旨、長谷佐草より善兵衛殿迄右の候通内談申懸、日光院と御談合候て被下様ニとの儀、如何可仕哉と申候へば、半右殿被仰候ハ塔本尊ヲ被遣候からハ道具そろへ候てこそ、本尊留置度などと候へば如何と御申候へ共、右候通色々申ニ付しからば内状遣し候へと御申候次ニ半右殿被仰候ハ杵築大日堂ノ本尊も両家より寺へ被遣之由、鰐淵寺ちなミ在之大日ニ候へば致遠慮兎角ヲ不申由、松本坊被申と御申候、佐草申候ハ爰元の大日先日破却ニ付両家より松林寺ニ預ケ置被申候、鰐淵寺へちなみ在之由少も左様ニて御座有間敷と存候、神宮寺抱ニて堂ノ棟札ニも鰐淵寺事少も無之通申上候」

「寛文4年閏5月24日
但州へ明日飛脚被遣候儀、半之介殿より佐草長谷へ申来、就夫塔の本尊爰元神光寺諸旦那共望中間、可成事ニ候ハバ、妙見山院主へ御断被成被遣候へと、岡田善兵衛殿へ佐草長谷より状遣ス、町旦那山根彦右衛門状に大和屋七郎兵衛宇屋忠兵衛加判仕遣申し候、此状共半之介殿頼遣候」

「寛文6年6月22日
塔の本尊の事佐草方へ書状ニ善兵衛殿より申来趣、塔の本尊の事山根大和や宇屋より申来候、何とも成不申候、私事ニ候へば神光寺御ためゆえ色々才覚仕候ヘ共不成候、其様子ハ爰元の塔ハ昔多宝塔ニて本尊虚空ニ候、如何ニも今ニ御座候
此の度被下候ハ三重塔ニて本尊釈迦ノ筈ニ候、特ニ内ニ法花経絵ニ書ねはんも御座候由ニ候、其ニ虚空蔵ハ本尊ニ不成候、是非塔の本尊御所望候ハバ御留置可被成候、此方ニて新仏ニ釈迦可申付と被申候、此ノ一言ニて私可申様も無之候、御尤と申候、もはや重て私申事不成候間左様御心得可被成候才覚仕、(後略)」
「爰元三重塔の儀太守様へ村松内膳殿被為得御意候へば早々遣し候へと被仰出御座候て、両国造家社家中迄大悦不遇之段御察可被成候申様も可為御同意存候、於末代も当社御材木御用ノよし伝ニも可罷成と一人両国造祝着被申候為ニ、塔の本尊釈迦の儀近比申兼候へ共、当地神光寺本尊ニ申請度と諸旦那共所存ニ御座候、然共太守様より妙見へ遣し候へと御意の上は兎角難申候、就夫妙見山古より塔の本尊定り御座候哉、塔の本尊は宗旨ニより替り申様ニ承及候間、其元院主へ様子御尋被成本尊釈迦なりても不苦儀ニ御座候ハバ御もらい被成候て神光寺へ被遣可被下候、諸旦那共本望ニ可奉存候、此段御同姓半右衛門殿へも御物語申候、如此認長谷右兵エ連ニて遣し申候、妙見山院主本尊被申分か様可在之と兼て推量中たる事ニ候」

→塔本尊を巡る議論、塔本尊の譲渡に関する交渉過程が述べられる。
結果は神光寺に塔本尊は譲渡されず、日光院に譲渡されたようである。
「日本の塔総覧」では「内部は四天柱があって後に来迎壁があり、両側には匂欄を付す。神仏分離後本尊は除かれている。」
とある。
但し、経緯は不明であるが、明治維新の神仏分離の仏像取払いの時には、塔本尊は大社から譲られた三尊ではなくて、虚空蔵菩薩であったと云う。
塔本尊虚空蔵菩薩は明治の神仏分離の折、信徒などの手で、山下の現日光院に遷座したものと思われる。
 ※「但馬妙見、日光院の概畧」日光院51世・森田祐親 の 建造物寺仏の項、安置主仏像中に
   虚空蔵菩薩が上げられ、この虚空蔵菩薩がかっての塔本尊であったと思われる。

「名草神社三重塔と出雲大社」所収論文について

「名草神社三重塔と出雲大社寛文御造営」 但馬史研究会会員・山田宗之
 当論文の主旨は、論文表題「名草神社三重塔と出雲大社寛文御造営」のとおり、名草神社三重塔と出雲大社寛文御造営について考察したもので、名草神社の「創建」についての論文ではない。
しかし、名草神社の「創建」についての論文でないだけに、逆に、短い表現で、凝縮されて、名草神社・妙見社・帝釈寺(日光院)の関係が表現される。
つまり、どういう認識なのかが端的に表される論文である。

「名草神社は中世から近世には妙見宮といって、肥後八代妙見・下総相馬妙見とならんで但馬妙見として日本三大妙見の一つに数えられています。」<P.3>

明らかな誤認識か、それとも但馬史研究会会員たる著者が誤認識などするはずがないとすると「歴史の捏造」と思われる。
つまり、名草神社が中世以前も、中世・近世にも、存在したかどうかは証明されてはいない。
(確実な資料は皆無であり、存在したとは思われない。名草神社の存在が確実に確認できるのは明治維新の後である。)
 以上であるならば、「名草神社は中世から近世には妙見宮といって云々」などとは、ありえないこととであろう。
はっきりしているのは、妙見社とは日光院のことであり、決して「名草神社」などでは無いのである。

「名草神社の境内には、江戸時代に妙見社の別当寺として石原山帝釈寺日光院がありました。
明治初年に妙見村から石原村に移転し、現在の妙見山日光院に至っています。」<P.3>

帝釈寺が別当であったかどうかは、「【1】 「名草神社」の創建(出自)について」のページで述べたとおりで、
帝釈寺は妙見社の別当という関係ではなくて、妙見社そのものが帝釈寺であったというべきであろう。
また、明治初年に・・・移転・・云々の表現があるが、
但馬歴史研究会会員たる著者が明治維新の神仏分離の実相を、まさか知らないという訳はないと思われるから、
「帝釈寺が石原村に移転し云々」の表現は、正直に申上げて、著しく「不正確」で、結果としては神仏分離の実相を「隠蔽する」意図があると見做されても仕方がない であろう。

さて、当論文の主旨であるが、以下のように要約される。
中世には大社と天台宗鍔淵寺との関係が深まり、鍔淵寺は「別当」に相当する地位になっていった。
尼子経久の永正(1504-21)の造営では佛教色が強まり、大日堂・三重塔・輪蔵が建立された。
三重塔は大永8年(1528)に竣工し、釈迦・文殊・普賢の三尊が安置され、外には彫刻が施され丹青の漆が塗られていた。
四方の檀の障子(?)には涅槃像が描かれていた。
慶長の絵図では経堂や経誦所などが建立されていた。
寛永15年(1638)松平直政(松平秀康三男)が入府、国造家千家尊光の思惑と直政の思惑が一致し、結果的には本願職は停止(廃止)され、いよいよ寛文の造替の実現となる。
寛文の造替とは佛教関係からいえば、佛教色を廃すという方針であった。
・・・等々、この間の事情が当論考で詳しく論じられる。
また妙見三重塔移転ついての詳細が「寛文御造営日記」に基づき語られる。
大いに参考になる。

第2節 出雲大社の寛文造替について、島根県大社町史編集委員・山崎祐ニ

「寛文御造営日記」に基づき、寛文の造営の背景・経緯などが平易に記述される。
明治維新以前の神仏分離の実際例が示され、参考になる。

第4節 但馬妙見社について、八鹿町教育委員会・谷本進

この論考については、「妙見三重塔・寛文の移転」というテーマには、直接の関係はない。
しかし、帝釈寺日光院妙見社と延喜式神名帳の名草神社と明治創建の名草神社との関係については典型的な「俗説」で述べられる。
これについては【4-4】「名草神社」を巡る「俗説」批判を参照。

懐橘談:松江藩儒官黒澤弘忠、承応2年(1654)・・・「続々群書類従」に所収という。

「社に西に輪蔵あり。三重の塔あり。大日堂は胎蔵界。本尊は行基菩薩の作なりなどほこる。鐘楼に上りて鐘の名はいかにやと見れば、承和9年伯州某寺といえり付たり・・・・・
明星客院といへる抄門は先国主佐々木尼子伊予守源経久か祈祷師なりしか、両部習合之神道を経久に勧め、多胡悉休を奉行として大永4年大日堂を建立して、同4月28日に供養を遂畢。大永7年6月に三重塔成風の功畢て、多賀新左衛門尉監之天文6年6月9日輪蔵建立して、摂津国兵庫より一切経を買下し是を納むる。目賀多与四郎監之永正7年当社造営の時、伯州より九乳を買取て寄附之。皆尼子経久か建立なり。我もとより仏神氷炭之差別不知にはあら子とも国主の旨背き難き故とそ。」

最 後 に

「名草神社三重塔と出雲大社」第三章資料編より

○三重塔宝珠刻銘
「寛文五乙巳年 / 五月吉日初 / 同九月吉日九輪上
 雲州島根郡松江住 / 棟梁 喜多川太郎兵衛尉 / 同棟梁松江住 浜田吉之丞尉 / 
 但州九鹿棟梁 池内与三左衛門尉 /
  か子や / 北村太兵衛 / 同 達富宗左衛門 / 同 安枝源五兵衛
 大奉行 / 西村新右衛門 / 渡辺亀之助
  法王房 / 明雲房 / 亮照房 / 甫識房 / 教音房  /  鍛冶仁右衛門」

かくして、寛文5年9月には九輪が上り、三重塔は帝釈寺(日光院)塔として、その姿を現すこととなる。

参考資料

但東町文化財調査中世文書資料中に大田文の紹介があ る。

◆ 但馬大田文(写) ◆として以下の解説がある。
 大田文は鎌倉時代を中心に国ごとに作成され、一国内の各所領ごとの名称、田積、所有関係などを記載した文書といわれる。
但馬大田文を注進したのは、但馬守護職四代太田政頼であるが、正本は現存しておらず、
宝徳四年(1452)但馬国美含郡帝釈寺の僧侶尊阿が写本を作り、後に朝来郡枚田村神淵寺の所有となってから次々に写本がつくられ る。本資料は寛延四年(1747)11月に出石の儒官桜井氏が門弟に写させた写本をさらに書き写したものである。