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技法問題
ヘルムート・カイザー著
田澤による試訳-引用・転載は禁止




 Hellmuth Kaiser "Probleme der Technik" Internationale Zeitschrift fur Psychoanalyse 20 (1930): 490-522.


これは試訳です。引用や転載やコピー頒布などは堅く禁止します。著作権・翻訳権を所有しておりませんので、頁のメタタグにnoindexを入れて、ネット上の検索に反映されないようにしています。お読みになる方は、各自の責任において個人的にご利用ください。

 

 

1.はじめに

 

 精神分析を実践するうちに、私は、自分が使用する技法に特異な抵抗を示す一群の患者に対して、特に注意を払うようになった。治療を開始して間もない頃であれば、それぞれの患者が差し出す手の焼ける問題は、疑いようもなく人によって異なるように見えた。けれども、分析が進捗すればするほど、あるいは少なくとも面接回数が重なるにつれて、そうした手の焼ける問題のさまざまな局面のあいだにある、目に見える違いは減じていった。それで私は、自分の分析的努力を実りのないものにしてしまう抵抗の核心部分は、どんな事例でも実質的に変わらないのだという確信をもつに至った。患者はそれぞれがまったく異なる仕方で振る舞い、神経症がその生活を妨げている程度もさまざまであった(何とはなしの所見であることだけは確かである)。はっきりそれと分かる違いが各自にあるにもかかわらず、私は、分析のなかで彼らが発展させる抵抗によって、自分のなかにいつも同種の感情事態(Gefühlslage)が惹き起こされることに気がついた。分析がはかどる経験をはじめてしたのは、こうした患者の一人について、その抵抗の根本にあるのは、言ってみれば病的欲求に加勢する反抗的態度(trotzhafte Haltung)のようなものであると解釈しようとした後のことである。ほどなくして、他ならぬこの解釈が、こうした一群に含められるその他の患者においても、その抵抗を取り払うための役に立つことに気がついたのである。

 このようなことを経験したおかげで、二つの異なる課題に集中するものであるが、一連の研究に従事することになった。まず私は、「反抗的キャラクター(trotzhaften Charakters; defiant character)」という概念を明確化し、この性格構造に共通する特徴を正確に記述し、それが形成されるに至った起源をできるかぎり理論的に理解し、その他のキャラクターのタイプから識別するように努めた。もうひとつの課題は、完治とまでは行かなくとも、その他の患者に対しては程度の差こそあれ少なからぬ改善をもたらすというのに、そうしたタイプの分析技法の影響が彼らにはほとんど及ばないのはどうしてなのか、それについて究明することであった。私の探求は、分析技法に関わるもっとも一般的な理論的基礎から始まったのであるが、「挑発的キャラクター」の分析的トリートメントを行う際の原則がいくつか定式化されるに至り、その諸原則を実践に応用する研究を行っている。

 この件について私が達した結論は、数ヶ月前に脱稿した『挑発的キャラクター(Der trotzhafte Charakter; The Defiant Character)』と題された論文に記載しているのだが、まだ公刊するには至っていない。本論が目的とするのは、「挑発的キャラクター」と、そのタイプのキャラクターに典型的な抵抗について研究した結果もたらされた、技法論について検討することである。このような特殊なキャラクター形成というコンテクストを離れてもなお、分析技法の発展にとって今日的な意義があると思われる。

まず分析技法について一般的なことがらを述べることから始め、このような患者を治療することで積んだ経験から特に有益であると分かったところに限られるが、「挑発的キャラクター」に特有のメカニズムについて言及するつもりである。

 

/技法に関わる基本的問題

 分析家のあいだで認められているのは、成功事例において、患者の回復が以下のようにしてもたらされるということである。つまり、程度の差はあるが、複雑なメカニズムの作用を介して早期幼児期から患者の自我によって追い払われていた上に、前意識的なシステムによって準備されるはずの放出したり修正したりするための道から遠のいていた本能的衝動(Triebimpulse)が、行き場のない閉塞した状態から解放されるということ。その結果として、全体的なパーソナリティの形成にそうした本能的衝動の参与することが可能となり、健康な個人の特徴である、表出の手段が手に入るということである。

このような抑圧された衝動は解放されるのだが、われわれは、分析的トリートメントにおいて、その具体的な相関物を観察することには慣れている。以下の議論のために、この現象のことを「本能の純粋突破(a genuine breakthrough of instinct)」と呼ぶつもりである。読者が自分自身の観察と照らし合わせることができるように、以下に説明する。

 患者は動揺した声のトーンで、たいてい妙に震えた声のトーンで話す。とても刺激された状態にある。痙攣性の収縮、つまり不安感や嫌悪感や恥辱感を表わすこわばった姿勢が瞬間的に姿をみせて、リラックスした状態に割り込むことしきりなのだけれども、それにもかかわらず筋肉組織は弛緩している。患者は、早口に慌てて話したかと思うと、今度は口ごもって言いよどんでしまう。発声の仕方、声のトーン、声の調子を変えること、表情、身振り、それに言葉遣いや文法は、そこに居合わせる者に自然な(natural)印象を与える。自発的な感じ(impression of spontaneity)で、その振る舞いには、正常な人が強い情動によって心を動かされたときと同じような仕方で確信が帯びている。話される内容は、自分の内部に発生しつつある衝動に関連していて、それは分析家について触れたものであると同時に、自分の幼児期の対象について触れたものでもある。本能突破の最初の段階では、まだ幼児期の対象が分析家の人柄(person)と融合している。突破が続くにつれて、幼児期の対象は分析家から分離するようになり、明確に識別される、幼児期に存在していたパーソナリティとして姿を現わす。患者の発話は、現在時制と過去時制のあいだを振り子のように振れ、過去の対象(previous object)と融合したままの分析家に話をすること(addressing)と、想起したこと(recollections)について物語ること(relating)とのあいだを、行ったり来たりする。

 突破に続いて、患者はリラックスし、消耗し、多大な安堵を感じる。このような状態は、分析中にフルコースで突破が続く場合には特に言えることである。その結果として患者が、安堵した、幸福な雰囲気に包まれるのはよくあることである。

 本能の純粋突破に対する分析家の感情反応は、激しい雷雨や、大波や、火山の爆発といった、自然の諸力が猛威を振るうところを目撃することによって触発されるものと類似している。それを目の当たりにしたものは、うろたえる。このような純粋突破が残す印象は強烈なものであるから、この現象の純粋性が疑われることは滅多にない。分析家は(ある種の抵抗を表わしている)偽物の突破(bogus breakthrough)を本物と勘違いするようなことが最初のうちはよくあるのかもしれないが、たいていはそれについて懐疑の念を抱き、早かれ遅かれ自分が欺かれていたことに気がつくことであろう。

 こうした本能突破が、それに先だってすでに本能の解放(liberation of instincts)を終えているかどうかの目安にすぎないのか、あるいは本能の解放は現にこの現象が発生しているときに起こるものなのか、われわれはそれについて確かなことは言えない。しかしながら、患者が真の治癒へと向けて進展する変化を示すとすれば、それはこのような現象が生じた後でのみ観察されるように思われる。分析家であれば、この点についてもたいてい賛同してくれるものと思う。

 技法に関わる基本的問題、つまりどのようにすれば、どんな手段を用いれば、抑圧された本能を解放することができるのかという問題は、したがってこのような本能突破を達成することができる手段を見出すという問題と一致するように思われる。この問題に対するもっとも一般的な回答には、フロイトによるものがある。すなわち、こういうことである。抑圧された衝動そのものは、意識に侵入する傾向がある。そのような侵入を妨げるのは、幼児期に確立し、それ以降著しく発達した防衛機制である。分析家はこうした防衛機制の作用をいわゆる抵抗のうちに体験するのだが、もしも分析それ自体によって新たな防衛が患者に必要になるのであれば、分析のあいだその強さも量も増大するであろう。となれば、抑圧された衝動の解放は抵抗を克服することによって達成されねばならない、ということになる。

 今度は、技法上の基本的問題をこのように立てることができる。つまり、患者の抵抗に打ち克ち、それを取り除くにはどうすればよいのか、である。この問いに対するフロイトの回答は簡潔なものであり、彼の技法論に含まれている、それとは異なる問題を扱った多数の論文に記載されていることよりも大雑把に説明されている。奇妙なことに、この問題に対する彼の解決法には、およそ20年前に出版されてから、改変も、補足も、説明も加えられていない。もっとも重要で、核心的な一節がこれである。

 

「そして最後に、今日の組織的な技法が形作られたのである。今日では、分析医はある特定の契機や問題に焦点を合わせることをやめ、被分析者のその時その時の精神の表層を研究し、解釈技術の実施に対して現われる抵抗を認識して、それを患者に自覚させるために逆にこの解釈技術そのものを活用することによって満足している。そこで、ひとつの新しい種類の仕事が生まれる。すなわち、分析医は患者が知らないでいる抵抗を発見する。そしてまずこの抵抗が克服されてしまうと、しばしば患者は、なんら努力することなく、忘れられていた状況や関連を話すようになるというわけである。」(訳書p.49)

 

「抵抗の克服はいかにすべきかということ、これは周知のように、分析医が被分析者の全然知らないでいる抵抗を発見してそれを話して聞かせるということ(解釈の投与)から開始すべきである。・・・・われわれは今や患者に知られるにいたった抵抗をさらに熟知させるために、その抵抗を徹底操作し、抵抗に逆らって精神分析の基本規則による操作(自由連想法)を続けながらそれを克服するためには、患者に時を与えなければならない。」(訳書p.57)

 

 これらのフロイトの陳述には、技法についてのわれわれの基本的疑問に対する、心底納得のいく回答を見出すことはできない。しかしそれは、あまりにも内容が乏しいからというわけではない。反対に、フロイトの陳述は非常に内容豊富である。内容豊富であればこそ、そこで取り上げられている理論や、観察結果や、提案や、問題を十分に発展させるには、さらに何冊か必要になるはずである。この意味で言えば、上記のフロイトの陳述は『性欲論三篇』と類似している。つまり、大部分の精神分析学の文献というものは、そこに凝縮したかたちで提示されている基本概念を明示的に詳述したものと見なすことができると言えるかもしれない、という点においてである。

 本論の範疇を超えたことだが、どう考えてもその実践上の意義が甚大であるにもかかわらず、どうしてこのようにして技術的治療的諸問題の精緻化があまり展開していないのか、多くの理論的な疑問に対しては入念に考えが練られているというのに、どうしてそれほどまで粗末なものにとどまっているのか、これが興味深い問いであることは確かである。

 フロイトの論述は、唯一絶対の解釈が受け入れられるほど精緻なものではないし、分かりやすく示されているわけでもない。この根拠にすることができる事実がひとつある。それは、自分の方法はフロイトの基本原則を用いたものであり、みなそうすべきであると各自が口を揃えて言う一方で、実際にはそれぞれの分析家が、非常に異なる方法を用いているということである。

 フロイトの陳述に関わるひとつの解釈であるが、他に先立って論じておきたいことがある。というのは、それが特別なカテゴリーに分類されるからである。つまり、フロイトの意図は単に患者の抵抗を克服すべきであると助言することにあり、規則や固定化された方法などとんでもないことである(すべてのことは個々の分析家の直観に委ねられるべきである)という単純な理由があって、どうすればよいのかという点については何も言っていないのだとする解釈である。ルーサンで開催された国際会議で最近ライクが行った講演は、ほぼこのような見解である。このような見解では、技法論がさらに発展することを無用なものにせずにはおかないであろう。というのは、このように解釈することがフロイトの見解を正当に評価しているとしても(私にはそう思われない)、それから、たとえこのような見解が間違っていないとしても、抵抗は溶解したり転覆したりすることが可能であるように体制化されているはずであると、どうすればそのように考えることができるのか、という疑問はまだ晴れていないのである。さらにまた疑問がある。このプロセスにおいて、直観はどのような特別な役割を担っているのであろうか?そして、何を根拠にすれば、直観的に理解したことのすべてを患者に話さないように、経験の浅い初心者に対して曲がりなりにも忠告することができるのであろうか?こうした疑問に対して答えられないままであるならば、技法論を確立するのは無理なことであるという見解では、科学的な基礎があるのだと主張することは到底望めないのである。

 

/抵抗の解決法

 具体的な理論に歩を進める前に、はっきりとした立場を示さないまま、ここで基本的な問いを立てるつもりである。患者の抵抗は、どのようにすれば取り除くことが、克服することが、解決することができるのであろうか?このような問いを立てるということは、抵抗のあり方について具体的に心当たりがあることを意味している。というのも、対戦相手のことを徹底的に研究してからでなければ、その弱点を知るなど到底望めないからである。抵抗について問いを立てるとすれば、悩みの種が即座に湧いてくる。抵抗は、計り知れないほど豊富な形式と、性質と、種類を露呈するのである。抵抗の解決について一般的に言えるであろうことに基づいて、そこに共通分母を見出そうとしても、望み薄であるように思われる。

 そこで、はるかに慎ましやかなところから出発することを提案する。抵抗の解決に関わる、ひとつの具体例について検討してみよう。できるかぎり有益でためになる単一事例を選択し、そこで何が起こっているのか、的確に理解するよう努めるつもりである。その患者は、姉の夫である義兄が旅行しており、患者の住む街で一時間ほど乗り継ぎの時間があるので今朝会うつもりでいたのだと、分析中にちょっと怒った感じで報告する。患者は鉄道の停車場で彼と会うことになっていたのだが、約束を果たすことができなかった。患者は義兄のことをとても慕っていたので、非常に残念に思った。どうしてこんなことになったのか尋ねると、患者は自分には落ち度がなかったのだが結果として遅刻してしまったのだと答える。路面電車に乗るために家を出ようとしたまさにそのとき、電話のベルが鳴ったのである。分析家は「なるほど、電話に出る人が他に誰もいなかったのですね?」と尋ねる。患者はちょっと躊躇してから「ええと、いました。時間的にギリギリだったというわけではなくて、長電話になってしまっただけです」と述べる。分析家は「その電話はとても重要な要件だったのですか?」と尋ねる。患者は「いいえ、あまり」と答え、ちょっと口ごもって「でも、相手が話をやめようとしなかったんです。それで私としては、途中で電話を切るような無礼なことはできなかったんです」と述べる。このようにして話しているうちに患者の声は少しかすれた感じになっていき、もっとイライラした声のトーンで先を続ける。「それで、通りに出たちょうどそのときに、路面電車が発車してしまったんです」。「それで?」。「ええと、その足で出勤しました」。「けれども、タクシーを拾うことはできなかったのですか?」。患者は低い声で「今朝は、そんなこと思いつかなかったんです」と答える。分析家は「どうしてそんなに怒った声なのですか?」と尋ねる。「何ですって。どうしてイライラさせるようなことを言うのですか?だからクソッタレと会えなかったんです。それがどうしたんですか?」。こう答えた直後に、患者は分析家のほうを振り向く。その表情はリラックスしていて、口にはしなくとも、自分に何が起こっていたのかいま分かったのだということを、患者のこの一瞥は物語っている。

 とてもありふれた場面であることに違いないが、ここに抵抗を解決するための手がかりがあるのだと強く主張したい。抑圧された衝動は義兄に対する敵意である。患者がそれを抑圧したのは、もちろん自分でも気づいていない姉への近親姦的固着によって生じているからである。患者の住んでいる街に義兄が立ち寄るということ、それから鉄道の停車場で患者に会いたいという求めがあったということ、そうしたことによって、この衝動は再燃した。衝動に対する防衛は、不十分なものであった。衝動が意識へと侵入することはなかったとはいえ、それは、待ち合わせの約束を妨げた一連の錯誤行為として姿を現わしたのである。その衝動は、面接の冒頭における、患者の怒りに満ちた雰囲気のうちにも見えるものであった。禁じられた衝動がそのとき意識に到達するのを妨げていたのは、一体どんな機序によるのであろうか?その大部分が、遅刻したからといって咎めを受けることはないという患者の信念(conviction)に秘められていることは、いまさら言うまでもないように思われる。この信念は、より適切に言えば前意識的思考ということになるのかもしれないが、本人による吟味を受けることがほとんどまったくない、複数の思考の支えを得て維持されていた。そのひとつは、たとえば「途中で電話を切るのは無礼なことであろう。無礼に振舞うなど考えられないことであり、断じてそうしてはならない」である。この知的に優れた患者がこうした思考に注意を払っていたとすれば、抑圧された衝動が意識的なものに転じることを妨げている「信念」を、もはや維持するわけにはいかなかったことであろう。分析家がしたことは、適切なやり方で患者の注意をその信念の根底にある不全思考(faulty thinking)に向け、そうすることで患者の知性がその思考に対して間違っている(faulty)と認識することを可能にし、ひいては自分が遅刻したのは外的状況のせいにすぎないという信念を破壊することであった。思考の不全性がはっきり見えるようになるわけであるが、このプロセスがさらに進行するにつれて、禁じられていた多くの衝動がよりいっそう表面化する。衝動に備わっている敵意に満ちた性格に患者が気づき始めるまさにそのとき、新たな防衛法が企てられ、自分が敵意を向けている対象が曖昧になるようにあれこれ思案することに終始してしまう。分析家に対するものであるとされているが、その苛立ちを即座に刺激することが可能なのは、患者が分析家の問いをチクリと棘のあるものと受け取るからである。言い換えると、転移を介した防衛が試みられるものの、悲しいかな、時すでに遅し、である。その唇からうっかり漏れたことであるが、義兄に対する患者の悪態は、戦いに敗れ、もはやそれ以上防衛を維持することができないことの裏づけとなるのである。

 患者の防衛を構成している力動的要素は、不全思考のうちには含まれていない。そうではなくて、それが、自分自身の攻撃性に関わる考えと、自分の自我が被るダメージに関わる考えが連結することによって動き出す、そうした自己愛リビドーに含まれていることは強調しておかねばならない(この点については立ち戻るつもりである)。患者の知性が損なわれていなかったとすれば、それは、現実検討が不完全であることを物語る不全思考を論駁していたはずである。ということはつまり、知性の損傷は、自己愛リビドーによって引き起こされるのである。

 この簡単な筋書きをできるかぎり具体的に説明するために、それを展開して描写するのだが、以下のように、患者の精神に発生する現象をもっとも深い層から開始して、図式的に一覧する。

 

攻撃衝動-自我が損傷を被るのではないかという考え(おそらく去勢不安)

自己愛リビドーの発動-衝動を触発する刺激の抑圧(義兄が間もなくやってくるという予告)

 衝動の活性化-侵入から来る症状(錯誤行為)-自己愛リビドーによる自己観察の損傷(錯誤行為の合理化)

 

 局所論的観点から言えば、最後の二つの現象は前意識の領域で起こる。それらに先行するすべての現象は、無意識の領域で起こる。

 抵抗を解決する治療的介入は、どのようにして効力を及ぼすのであろうか?すでに指摘したことだが、分析家が目的とするのは、患者の自己観察を妨げる錯誤思考(erroneous thoughts)に対してその注意を向けることである。この説明は、局所論的な視点から適切に状況を取り上げたものである。しかし、力動的な理解をもたらすものではない。実際のところ、それはまったく努力を必要としないかのようである。ひとたび自分の注意が錯誤思考に向けられるとすぐに、分析家がさらに骨を折ることもなくその正体が暴かれて、患者はそれを拒絶しているかのようである。しかし、この文章に書かれていることを読み返すと、そこには力動的要素が抜け落ちていることにすぐさま気がつく。その他の点ではとても知的な患者であるというのに、彼に錯誤思考があって、それに対して不適切な注意を向けているとは、そうしたことは制止力(inhibiting force)を踏まえてのみ説明することができる。この力、つまり自己愛リビドー(もっと具体的に言うと、一定量の自己愛リビドー)についてはすでに言及している。患者の注意をその錯誤思考に向けることができるのは、このような、注意を制止するリビドーの力が乗り越えられる場合にかぎられている。言い換えると、この具体的事例においては、その発生源が間近にあるような対抗勢力(counterforce)が必要なのである。われわれの患者が分析家とある程度の接触を保っているのは、はっきりとしたことである。患者は分析家の問いに答えるわけであるし、理解されたがっているものである。自分が合理化していることに患者の注意が払われるよう、その自己愛リビドーに対抗して歯止めをかける力とは、転移性の愛着(transference attachment)、もっと正確に言えば、分析家への気遣いや分別のある愛着(tender, reasonable attachment)に他ならない。

 実際には、患者の注意をわれわれがそうしたいと思うところに向けることが、いつも可能であるというわけではない。別の患者であれば、遅刻したことについて問われたとすれば、「急にどうしたんですか?いつもは聞かないじゃないですか」とそっけなく答え、精神分析に対して軽蔑的な発言を続けるのかもしれない。例証では、日常会話で使われるような、問いによって会話を先導する技法が多用されているのだけれども、分析家が、細心の注意を払った一定のスキルとともにそうしていることも明らかである。分析家は、患者の損なわれていない知性よりもむしろ損なわれている知性を考慮に入れながら、問いを投げかけて一歩一歩進んでいる。彼の声のトーンは、詮索的なものでも、皮肉なものでもない。

 今度は、この具体例において生起した出来事の系列について、さらにエネルギー論の立場あるいは(もっと馴染みのある言葉で言えば)経済論の立場と関連づけて問いを続けると一体どのような理解に至るのか、詳しく述べておく必要がある。これまでわれわれは力動的なものについて検討してきたものの、エネルギーの変容については検討していなかった。確実に言えるのはこういうことである。義兄に対する敵意に満ちた衝動がせき止められていたのだが、それは錯誤行為に通じているこれまでの狭いチャンネルに向かうよりも、放出される可能性のほうが高い。このような放出は、もはや分析場面での、義兄に対する言語的な攻撃にとどまるものではない。患者が属している文化的水準の範囲にとどまるのだが、感情が入り込むことを許されていた意識の領域がこれまで以上の広がりを見せたと、必然的にそう感じることであろう(たとえば、可能性として考えられる行動は、義兄に対する謝罪を綴った、礼儀正しくはあるが無愛想な手紙である)

 防衛を惹起するにもかかわらず転移関係の力には勝てない、そうした自己愛リビドーには何が起こっているのであろうか?自分が統治する領土から特定の行動野が締め出されていたわけであるが、この分析場面で、全体の力が動作を停止したのだ(demobilized)と考える必要はまったくない。それどころか、抑圧されていた衝動の一部が分析によって解放されたので、その結果として、衝動の核心である、エディプス状況に端を発するところの父親に向けた太古的な死の願望が、意識のなかに氾濫してしまう危険性が増大するのである。このようなことが起こるのを未然に防ぐには、逆備給(counter-cathexis)を増加させることがどうしても必要である。たとえば、自己愛リビドーは、今度は義兄に対する敵意を外見上は普通に見えるかたちで合理化していることに気づくために利用することができるし、注意の方向づけを慎重に操縦することによって、こうした新たな情報が自分の知性に届かないよう身を守るために利用することもできる。分析家は、新たな抵抗が突然姿を現わすものと想定しておかねばならないが、今度こそは神経症の核心に一歩近づいている。提示した実例において、抵抗を解決する何らかの効力が分析家の行為にあるとすれば、それは現存する転移関係の助けを借りて、こうした(われわれが抵抗-思考[resistance-thoughts]と呼ぶ)思考に、つまり、いったん患者は気がつくことができたのだが、自分が合理化していてそれが不合理であることに患者の注意が払われたことであると、われわれは理解している。

 

/すでに説明した方法による以外に抵抗にアプローチすることは可能なのか?

 提示した実例が抵抗の解決を実地説明し(単一の抵抗にすぎないことは確かであるが)、このようにして解決されることを理解するための基礎資料を提供するものであることは、賛同していただけるものと思う。しかしながら、ここから一歩先に進んで、この実例における分析家の行為は彼がなし得る唯一の介入法であったのか、と問わねばならない。

 そうでなかったことは、確かなことである。たとえ分析家の役目が、自分の抵抗-思考について患者が自覚を持つようにする特別な課題にあるのだという狭い意味に策定されたとしても、そのためには多様な方法が用いられるであろう。さらに、用いられる方法には分析家の個人的な特徴が現われることを見込まなければならない。つまり、この要因には、自由裁量の余地がなくてはならないのである。たとえば、攻撃性を表出する自分に特有の仕方が、敵を窮地に追い込むことを狙って執拗に質問することであるような分析家を思い浮かべることができる。この場合、質問することが、切れ味の鋭い、根掘り葉掘り聞くようなものになりがちで、分析というワークを損ねる原因になることが自分でも直観的に分かっているので、このような分析家は、提示した実例で用いられた手法(tactic)を使うことなどできないはずである。しかしながら、このような分析家であっても、起こった出来事のすべてを描写して、義兄と会えなかったことについて彼(患者)が不平不満をぶちまける仕方につじつまの合わないところがあることに患者の注意を向けるという同等の効力があるやり方で、同じ目標に到達するのかもしれない。「遅刻したことについては、まったく悪意がなかったのですね?」という分析家のちょっとした問いを患者が理解したとすれば、考えようによっては、それだけで患者の抵抗-思考を破壊するに十分であったろうか。

 しばらくのあいだ実例から離れるが、抵抗-思考の破壊は、分析家の言葉ではなく、その行為や態度によって生起することがよくあると、付け加えることができるのかもしれない。たとえば、患者の抵抗-思考が、性的空想を口にすれば分析家は自分を軽蔑するだろうというものであるとすれば(そのため分析状況からは締め出されている)、性的な話題に対して分析家が温和で気さくな態度を示すだけで、この抵抗-思考は受け入れがたいものになるに事足りるであろう。

 しかしながら、もっと重要な疑問がある。一般的な疑問であるが、それは、自分の抵抗-思考に患者がみずから異議を唱えるように導くこと以外の方法によっても抵抗の解決は生じるのであろうか、というものである。このような方法のひとつは、抑圧されている衝動について、直接か、それとはなしに、患者に知らせることであるように思われる。提示した実例で言えば、どう見てもあなたは義兄に対して敵意を抱いていますと、時機を見て患者に話すということである。

 そのようにして告げ知らせることが患者に対してどのような影響を及ぼすのか、このことを示すには、提示した実例の基礎資料だけでは不十分である。このような解釈を投与すれば、実例の分析家が収めたものと同じくらいの成功を収めるのであろうが、いかなる分析家であれ、このことを例証するような分析場面の事例におそらく馴染むようになるであろう。こうした直接的な方法が、提示した実例でも成功するのだとすれば、どうしてうまくいくのであろうかという疑問がわいてくる。

 真っ先に思い浮かぶのは、こういうことである。もしも誰かが私の部屋に、見慣れない物を知らぬ間に置いたとしたら、何日ものあいだ私はそれに気がつかないであろう。だが、間もなくして「しかじかの物を見なかったか思い返してください」と言われたとすれば、私はたいてい「そういえば、そこにそのようなものがあったことを何となく覚えている」と言うであろう。同じように、あれこれのタイプの衝動を自分自身の内部に見出せるような期待観念(anticipatory idea)を与えられて、それを進んで受け入れるように強く求められた場合にかぎって、患者は、自分の抑圧されている衝動を意識するようになると説明できるのかもしれない。ところが、この説明では、厳しい吟味を持ちこたえることができない。抑圧された衝動は、意識体系(system Cs)のなかに存在するのでも、前意識体系(system Pcs)のなかに存在するのでもない。患者が捜している対象とぴったりな期待観念を与えたとしても、患者に衝動を見つけ出すチャンスがないのは、間違った部屋を探し回っている人に忘れ物を取り戻すチャンスがないことと同じである。つまり患者には、自分の無意識を覗き込むことができないのである。

 もしも仮想上の例証において、患者に対して「あなたは義兄に対して敵意を抱いている」と話した結果として、問題になっている衝動が生き生きと意識にのぼるとすれば、明らかに違った説明が必要になってくるはずである。好ましい条件下でこのように言えば、自分の抵抗-思考について患者がじっくり検討することを呼び込むのに十分なのである。このようにして検討することが引き起こされるとすれば、それは、義兄に対して敵意を抱いているのだと告げ知らせることによって、以前の不適切な合理化よりも強い確信に満ちた、自分の誤りについての説明が、患者のもの(his possession)に転換する場合である。もしもこの説明に誤りがなければ、抵抗-思考の無効化が生じることによってもそうなのだが、抑圧されている衝動について告げ知らせるという別の方法によって抵抗は破壊されるのである。この方法は、患者の注意をその抵抗-思考に向けるための独特な技術的手法を使うという、ただそれだけのことである。

 しかし、患者に対して抑圧されている衝動について告げ知らせることの効力にまつわる問題は、これまでの議論によって解決したというよりも、むしろ提起されたにとどまる。議論をさらに進めることもできるのであるが、それよりも、われわれは具体的な実例によって与えられた制約を越えなくてはならないし、われわれの立場をさらに一般的なものとして述べなければならない。そのために、ここで主張する見解は無防備な立場におかれるのであるが、それについて説明し明確に示すために、よりいっそう幅の広い基礎を整備する。

 

/抵抗の構造

 ここでは、抵抗の解消を例示したささやかな実例は一般的に妥当するものであると強く主張することによって、検討下にある一連の問題を拡大適用することが目論まれる。言いかえると、すべての抵抗は提示した実例と基本的に共通する構造を備えているということだけでなく、例解した実例と同じ方法を(原則として同じ状況下で)用いることによって、抵抗の解決は原理上可能であるということも主張される。もっとはっきり言えば、あらゆる抵抗には不全思考ないし(現実と食い違う)思考行為(act of thinking)が含みこまれているということ、力動的側面からみると、抵抗には、患者の成人としての自我(adult ego)が営む批判的注意の範囲外にこうした思考を締め出したままにする、一定量の自己愛リビドーが供給されるということ、それから、抵抗の解決を可能にするのは、分析家が患者の注意を抵抗-思考に払わせる方法以外にはないということが、強く主張される。患者に動機付けを与える原動力(motivating force)は、分析家を気遣う愛着から生じる。患者の興味が回復することにあるとしても、そのこと自体が役に立つわけではないのである。

 このようなことを口にすると、ほぼ同じ頻度で、二種類の返答が寄せられがちである(ひとつは、そんなことは取るに足りないというものである。もうひとつは、目の玉が飛び出るほど大胆というものである)。取るに足りないという非難は、実際のところ私の主張が、たとえばp.387の二つの引用に記されているフロイトの基本的な考えをいくつか取り上げて、それをほんのちょっとだけはっきりと示したにすぎない、という事実に基づいているようである。(この点については、本論の最後でさらに検討するつもりである) もうひとつの非難は、もしも私の主張が一貫して論理的に考えられているのだとすれば、それは技法に関して、従わざるを得ない一定の結論や方向づけをもたらすという事実と関連しているのかもしれない。分析家たちは、さまざまな程度の信念をもって、その結論に署名して同意を示さなければならないのである。

 しかしながら、特殊な事例に応用できる考え方であるとしても、それがより一般的に応用可能であるのか、ないのか、そうしたことを吟味によって確定するのが、通常認められている手続きであると考えられる。しかし、吟味する前に、一般化を指向する主張に対する手ごわい反論と、まずは直面しなければならない。

 この反論、あるいは非難と言ったほうがよいかもしれないが、それは次のように表現することができるであろう。「たんに知識を伝達すること(transmission of knowledge)には精神分析学的な意味での治療効果がないということは、フロイトが20年以上前に非常に説得力のあるかたちで、すでに立証している考えそのものである!だからこそ彼は、抵抗に備わっている力動的な性質について繰り返し強調していたのである。現在ではフロイトの追随者を自認する者は、抵抗は過誤に基づいていて、その過誤を是正することが治癒をもたらすのだという意見を打ち出している。精神分析以前の考え方に逆行しているに違いない!クリスチャン・サイエンスの教義に近づいていると言ってもいいくらいである!」

 しかし、このような非難は、実際に主張されていることを間違いなく聞き漏らしている。自分の抵抗に関わる知識であるのか、忘却されている幼児期の体験に関わる知識であるのかを問わず、神経症者はそうした知識が増えることによって治癒するのだと言っているのではないし、そう考えているわけでもないのである。むしろ、神経症者が治癒することは、リビドー経済の変化にかかっていると考えている。これは、抵抗の解決を経由してのみ生じ得ることである。言い換えると、抵抗の解決は、洞察を与えることによってのみ達成されるのである(すでに述べたように、意見をコミュニケートすることと必ずしも同じことではない)。ここでも力動的な立場から検討する必要があり、意図された経済論的な変化を生み出すために作業課題を抜かりなくやり遂げることについて、さらに明白になるよう検討を加えるつもりである。概略してきた手続きが知性偏重も甚だしいとされるのであれば、それについては何の反論もできない。しかし、だからといって、功を奏するものと見込んで、神経症の病因や無意識の内容に関わる知識を患者に与える手続きと、混同されてはならないのである。

 本論の主旨が正当であることを証明するのは非常に意義深いことなのだが、思い描くように十分実現できるのかといえば、その見込みはほとんどない。抵抗の形式はとても幅が広いので、限られた紙数のなかであらゆるタイプの抵抗を扱うことはできないのである。とりわけ、抵抗という現象(防衛と呼んでも構わないであろう)は、予想以上に複雑なものである。十分に理解するには、現在のところ駆使できる、自我心理学の知識を超えたものが必要になるはずである。目指すところは、われわれの主張には、誤りのないことを吟味し、理論的かつ実践的に有用であることを検証するだけの価値があるのだと、読者を納得させることだけである。

 

/転移抵抗

 当面のテーマを発展させるのに欠くことのできない手続きとして、いわゆる転移抵抗(transference-resistance)が、提示した実例の転移抵抗に類似したものとして概念的に説明可能であること、さらに、それを解決するには同様の技法原則が応用できることを、論証するつもりである。

転移抵抗が存在しているとわれわれが言うのは、患者が分析家に対して、抑圧されている幼児期の衝動を、相手がその衝動の対象になるような仕方で向ける場合である。ところが、このようにして説明するのはあまり正確ではないし、論理的でもない。幼児期の衝動というのは、本能が実現しようとして狙いを定める目的に関しても、その対象に関しても、きちんと決定づけられている。つまり、このようにして決定づけられていることが、そうした衝動が抑圧されたままになっている事実と、分かちがたく関連し合っているのである。たとえば、その衝動が父親のペニスを食いちぎることであるとしても、そこで問題になっている父親は、患者が成長してきたまさにその一発達段階に登場する父親なのである(たとえば、三歳のときの)。この本能的願望は、分析による抑圧の解除によって解放されるまで(すべての特徴をとどめて)手つかずのままである。抑圧されている願望は、実際には発達のある時点で極めて強く体験され、それと同時に抑圧されたものである。この願望は、転移に紛れ込むときでさえ、あるいは分析家に転移されるようになるときでさえ、すべてが元来の特徴を保持している。抑圧された願望が転移のなかに顕在化しているとわれわれが述べるとき、それが意味しているのは、振る舞いと抑圧された衝動の発生的な結びつきがはっきりと見て取れるような仕方で、患者が分析家に対して振舞っているということである(ここでの振舞いは、発話や態度はもとより、特異な振る舞いも含めるような、広義の意味で理解している)。具体例に戻って、患者が突然に分析家のことを「X先生」ではなく「Xさん」と呼び始めた場合について考えてみよう。このような現象を抵抗と呼ぶのは誤りであるが、それにもかかわらず、ある程度抵抗が克服されないかぎり姿を現わすことはない。もちろん、抑圧された衝動そのものが意識に分け入ることはないのだが、それは、抵抗がもたらす影響によるものである。

 転移行動(transference-action)という現象は、たいてい一種独特の性格を帯びている。しかし、こうした独特の性格について検討する前に、このように述べることが臨床体験に基づいていることを付言しておかねばならない。われわれが自我心理学について理解していることと矛盾するものではないのだが、自我心理学は、純粋に演繹的な手法によって導き出される命題を許容するほど、十分な展開を示しているわけではないのである。

 独特な性格のひとつは、その特異な形式である。つまり、この実例のなかで転移行動として考えているのは、分析家に向けて話しかけるモードの変化に気がついていない場合か、あるいはモードが変化したことについて合理化しながら釈明する場合である(たとえば、「さん」という呼びかけの言葉は、非ブルジョア的な人生観と相容れないと彼は言うかもしれない)

 いずれの場合においても(他の実例においてそれに相当する現象も同様である)、そこで起こっているのは、自分の自我違和的な振る舞いを患者の意識的自我が直視することを遮断する(あるいは防ぐ)出来事である。もちろん、自我が防御状態になる前に転移行動が生起すると考えるのは、間違いであろう。むしろ転移行動は、自我を防御する手段が稼動中であるときにのみ可能なのである。われわれは、このようにして自我を防御する手段を合理化と呼びたい。ここで仮想的な実例として提示した事例では、この命名を、最初のほうの転移行動の暗視化(scotomization)の場合に当てはめるのは少し無理がある。しかし、この転移行動の暗視化は、不合理な行動に自我が気づかないようにするものと理解されるので、簡潔な表現を心がけるのであれば容認できるものである。

 抵抗は合理化を伴ってのみ顕在化すると述べることによって、転移行動そのものは抵抗ではないという主張を、ここで仕上げることができる。この場合もやはり、力動的な要因は多量の自己愛リビドーにあるのだが、それによって、合理化しているというそのことから患者の注意が背けられ、自我が防御されるのである。

 ここでも、抵抗は、分析家が患者の注意をその合理化に向けることによって解決される。転移行動が暗視化されているのであれば、患者は他ならぬこの行動を即座にやめて、結局は抑圧された同一の衝動から生じる他のモードの行動を少したってから始めるだけか、あるいは狭義の合理化つまりすでに述べた抵抗-思考を形成するかの、いずれかであろう。前者の場合、何も新しいものは提示されない。後者の場合、分析家は、抵抗が消失するように、こうした抵抗-思考についてじっくりと考えるよう適切なやり方で患者を促さねばならない(分析家は患者がそうしていることの証拠を、言葉や、態度や、行為を介して示すかもしれない)。非常に稀なことであるが、本能の純粋突破が、転移行動の解体を受けてそれに続く場合もあるかもしれない。通常であれば、より情動に満ち、抑圧された感情により接近したものであるが、新たな転移行動が現われる。抵抗-思考が解体する程度は(それに、そもそも解体が生じるのかは)、一部分は分析家の技術的なスキルに(これについては後で詳述するつもりである)、一部分は分析家に向ける患者の愛着の強さや、その適切性に依存している。

 しかしながら、上記の説明は意図的に単純化したものであるから、少し詳しく説明する必要がある。暗視化や、展開していく抵抗-思考とは異なるものであるが、転移行動を伴った、自我を防御するその他の手段が存在している。往々にしてあるのは、自分の転移行動に気がつくものの、どういうわけか抵抗することができない、自分の本性とは異質な衝動強迫(compulsion)のせいにして、それが自分のものであるとは認めないことである。ところが詳細に検討してみると、すでに述べた合理化の第二分類に、この現象が収まることが分かる。患者は、どうしてそんなことをしてしまうのか自分でも分からない、しかし不可抗力で動かされてしまうのだと口にするのだが、その申し立ては、類似する強迫神経症者の責任放棄声明(disclaimers)とちょうど同じくらい、誤ったものである。注意深く吟味してみると、いつも分かるのは、否応なくせざるを得ないのだという意識の背後に、抗いがたい衝動強迫にひれ伏す見たところ宿命論的な服従によって覆われ、そのため知性による批判から防衛された、よく発達した合理化が隠されていることである(この点についてこれ以上深めるとすれば、強迫神経症者のトリートメントについて考察することになる。しかし、それは本論の主題から少し離れてしまうので、稿を改めて論じるのがよいであろう)

 

/性格抵抗

 性格抵抗(character-resistances)を取り上げる前に(転移抵抗とほとんど同じ線で利用する)、この用語に付与されている意味について述べておくべきことがある。念頭においているのは、性格分析に関するとても重要な著書の中で、ライヒがそう呼んでいるのと同じ現象である。(この著書の内容については、現在の目的に必要な範囲で本論の最後で検討するつもりである。私のアプローチは、ライヒのそれとは若干異なっている)

 いかなる患者の分析であれ性格は抵抗として姿を現わすという点について、私はライヒに全面的に同意する。次のライヒの主張に対しても、その通りであると思う。つまり、性格とは、ひとつの全体を形成して、一方では本能的欲動の突破に抗し、他方では感情の突破に対する外界の敵意に満ちた反応に抗するような防御を下支えするところの、自我の永続的な反応モードの体系(system of permanent modes of reaction of the ego)である、というものである。しかしながら、私は、心理学的な意味合いで十分に納得のいくゲシュタルトを形成するには、性格ないし性格抵抗という概念のもとに集約される行動上の現象は、自愛(feeling for the self)ないし自尊感情(self-esteem)の優位性を中心としてそれを取り囲む構造体や組織のうちで、もっともよく概念化されるものと考えている。神経症的なリビドーの発達や太古的(幼児的)スタイルへの補償的退行によって、人間の自己知覚が歪曲されればされるほど、その性格は奇妙で、風変わりで、ねじれたものとして現われ、分析状況におけるその行動は、性格抵抗の様相を帯びるようになるのである。

 没人格的(impersonal)で、感情的な活力を欠いているという点で、性格抵抗は、転移抵抗から現象的に区別することができる。性格抵抗が解決されていない患者に攻撃されたとしても、何とも言えない一風変わった感覚なのだが、分析家にしてみると自分の心に響く感じがしない。つまり、印象としては、抑え込まれていた衝動であるとかヴェールで覆い隠されていた衝動が表出するに至ったという感じではなく、目に見えない標的(invisible target)に向けて攻撃しているかのような感じなのである。ある性格抵抗における内容と酷似している攻撃的非難が、転移抵抗を構成するひとつの要素として現われたとすれば、分析家は、患者が本気で口にしているのは父親のことであると分かっているのに(それから、患者が攻撃的に振る舞っていることを、言葉で示すことができたとしても)、自分が現実の攻撃対象であるかのようにはるかに強く感じるのである。数多くの、単一ではあるが相互連関のうちにある諸機能(features)がひとつのシステムとして形成されているのが、いわば性格の鎧(character-armor)なわけであるが、それは、個々の要素が発生的に展開したであろう歴史性を帯びているだけでなはない。自尊感情を調節する何らかのスタイルがその中心域に発現するのだが、そうした(妄想症者の幻覚妄想システムと比べても遜色ない)思考システムのようなものを組織することも行うのである。

 「挑発的性格」は、前意識的なイデオロギーの形態によって区別される。それは、以下のように表現されようか。いつまでも患者を傷つけたり、ののしったりする屈辱的な汚点があるのだが、それを消し去るか、補償することに、すべてのことが左右されてしまう。この汚点ないし傷跡は、不断に道徳律を遵守することによってのみ中和することができる。遵守すると言っても、そのためにはどんなものでも犠牲にして、ただひたすら杓子定規であったり、頑固一徹であったりする。道徳律を厳守すれば何か報われるのかもしれないし、たとえ一時的なものであるとしても罪の贖いすら成就するのかもしれない。道徳律をひとつひとつ遵守すれば、それ自体で部分的な救済が可能になる。道徳律を遵守することによって、生を謳歌することができなくなり、苦悩が生み出されるのだが、道徳律や空想上の法贈与者のレベルでは、道徳的な優越性は増すことになる。未知の事柄(その大部分は、漠然としていて、名づけられておらず、没人格的なままである)に対しては、ある種の権利が主張される。道徳的な落ち着きを即座に転覆させる価値は、クレームをつけることにあるのであって、それを実行に移すことにあるのではない。さまざまな独特の性格が附与されるのだが、そのようなものが、個別の患者における、基本的スキーマ(ちょっと戯画化されているかもしれない)である。トリートメントにやってきた最初の時点では、患者は、この思考システムについてほとんど何も分かっていない。それは、意識の領域へは、省略された言葉、断片化した説明を介して示される。最初のうちは、まったくもって取るに足りないつまらないことのように思われるのだが、患者が実際にあった出来事について口にする場合にかぎって姿を現わす。患者が「私も他の人と一緒に誘われました」と口にしたとすれば、その「~も、一緒に」は、「いかにも私は忌々しいやつらの仲間だということです」を暗に示している。あるいは、「テニスはするかですって?いいえ、まったく問題外です」と口にしたとすれば、その「まったく問題外です」は、「それは法に反している。自分にふさわしくないことを求めてそれを受け入れるなど厚かましいことである。そんなことをしたとたんに、最も恐ろしい仕方でばちが当たって、いつまでも続く自制への報いがなくなってしまう」を意味している。

 患者は、このような性格の鎧を身にまとって分析にやってくる。あるいはまた、症状が現われているときにやってきて、このように性格の鎧を素早く再構築する。いずれの場合も、抵抗はこうした性格の鎧から発生するのだが、それは、自己を正当化しようとする懸命な努力に九分九厘没入していて、分析家との接触やコミュニケーションに応じようとする関心が患者にまったくないこととして現われる。分析は、その人の生活全般と同じで、道徳律に対する患者の忠誠をあらわにし、このような忠誠によっては物事がうまくいくこともなければ報われることもないのだと分かる、例によって例のごとき機会にすぎないのである。ここで、性格抵抗は突き詰めると転移を基盤にしていると言わねばならない。患者は、幼い頃の体験や構えを、分析状況を含めた周囲世界全体に転移するのである。それにもかかわらず、転移抵抗と性格抵抗を論理的に独立した概念として使用するのは、性格抵抗の際立った特徴が、ずばり一風変わった感情の乏しさであるのに対して、転移抵抗という概念が、感情の転移にとても密接に関連しているからである。性格抵抗が顕現したとしても、それは検閲が許可する範囲内で、放出せよとイドの衝動が試みているということではない。むしろそれは、危険に晒された自己感(feeling of self)を支える自己愛傾向を表している。

 ここで、上記の転移抵抗と性格抵抗の類似点をあげることができる。転移抵抗は転移行動(transference-action)によって明るみにもたらされる。性格抵抗においてそれに対応する現象は、自己感や自尊感情を調節する太古的形式の要求するところに屈服するのだが、不自然な感情を伴わない行動と、p.399で引用した、患者のアクチュアルな言葉のようなものの、両方である。前意識的なイデオロギーや(挑発的キャラクターの特徴としてすでに述べた)、それが患者の言葉の真の意味であるとわれわれが思い切って解釈したことによって、性格抵抗に特有の行動としたものが正しいものと判断される一方で、転移行動はどうかというと、合理化によって下支えされている。転移行動に対する合理化が患者にとって透けて見えるようになり、そうしていることの価値が低くなるときに転移行動が消失するまさにそのように、前意識的なイデオロギーを取り囲む抵抗思考に患者の批判的注意が接近可能になるレベルまで、性格抵抗はゆっくりと姿を消し去っていく。このプロセスは、転移抵抗を解決する際に用いるのと基本的に同じ手段を駆使して分析家が発動し、もたらすものであるが、性格抵抗の場合、分析家に対する患者の愛着は、あまり望ましい類のものではない。

 

/抵抗の解決(つづき)

 抵抗を解決する際に抑圧されている衝動を患者に示す方法の有効性について、ここでさらに検討することが必要である。精神分析の実践に馴染みのない人にしてみると、繰り返しこの問題に立ち返ることが奇妙に思われるかもしれない。これまで本論で述べてきたことはみな、われわれは抵抗を解決する有用な(加えて理論的に申し分のない)方法を、前意識的な抵抗-思考を意識的なものにする手段を、すでに所有していると示唆するものである。なおその上に、技法に関するフロイトの論文(すでに引用した)が公刊されてから、分析技法に関するほとんどすべての研究は、最初に抵抗を分析することなく深い解釈を与えるべきではないという忠告を繰り返している。しかし、精神分析の専門家であるかぎり、この問題に立ち返る必要のあることがすぐに分かるであろう。実を言えば、ほとんどの臨床事例において、抑圧されている衝動(および、それが属する幼児期の状況)は、それに抗する患者の防衛としての抵抗-思考よりも早い段階で、もっと簡単に見分けることができる(こうしたことが、精神分析療法の歴史的発展に由来するのか、精神分析の特質そのものによって生じるのか、そんなことは問わない)。たとえば、分析家は、自分に向けられる患者の態度が攻撃衝動によって決まることに気づくようになるであろうが、それは、自分がそうしていることを患者が自覚しないままでいられるのはどうしてなのか理解するよりも、ずっと早いであろう。一例をあげると、分析家は、自分に対して向けられる目に見える患者の態度が、極端に穏やかで、従順であることを何週間も観察するのだが、それだけでなく、あらゆる隙間から漏れ聞こえてくる無意識的な敵意にも気がつくのである。こう考えてみよう。つじつまの合わない表現であることが分かり、そこに患者の注意を向けるように分析家はできるかぎりのことをしたのだが、なかなかうまくいかない。それでもなお彼(分析家)は、邪心のない従順という見せかけの背後に敵意が身を潜めていることは、前後不覚の人でさえ見分けがつくはずであると信じ切ったままである。患者にとって行きすぎた解釈をしてはならないという原則を肝に銘じているとしても、分析家は、おそらく患者に対して、「いいですか!あなたは、ああ言ったり、こう言ったりしています。あなたは、かくかくしかじかの仕方で振舞っています。あなたの親しげな振る舞いの背後に厚いヴェールで隠されているのですが、そうした攻撃衝動から生じるのではないとすれば、これは何を意味するのでしょうか?」と言ったほうがよいという気になるであろう。私自身の経験から言えるのは、分析家は確かにそうしたい気持ちになるということである。それに実際のところ私は、自分は適切な解釈をしているのだという信念を持ちながら、このような誘惑に屈したことが何度もある。こうした経験を忘れてはならない。以下に続く考え方の意義を、適切に評価するためにも。

 上述の分析家の行為が理論的に正当なものであると評価されるのは、自分自身の抵抗-思考に対して患者の注意を促す効力が、解釈に備わっている場合だけである。経験から言えるのは、このようなことが起こるのは非常に稀だということである。それ以外の場合においてはすべて、解釈を与えることが理論と相いれないだけでなく(理論とは相反するということしか言えないのかもしれない)、意図した効果を生み出さないということにもなるのである(すなわち本能の突破が生じないということ)

 このような見解が承認されたとしても、以下のようなことが主張される可能性も十分ある。つまり、精神分析は難しい技術(art)なのであるとか、トリートメントの過程で発生するありとあらゆる問題に対処することができるものと分析家に期待すべきではないとか、このような場合には、その後のある時点で治療的な成功に至ることを目的として、分析家は、完全に征服することができるわけではない状況から潔く抜け出すことしかしないであろうとか、そうしたことである。このように考えるのはもっともなことであり、寛大であり、望ましい常識から着想を得ているように思われる。しかし、誤った前提に基づいているので、断固として異議を申し立てられるべきである。内容解釈の手続き(防衛の背後に無意識的願望が隠されていると患者に伝える方法)は、二つの場合を除いてすべて有害である。ひとつはすでに述べた。つまり、偶然の一致で、その手続きが的確な手続きと同じ効果を持つような稀な場合である。もうひとつは、患者がどんな感情も示さずに解釈を拒絶する場合である(この場合、分析状況は変化しないままであり、分析家は同じ問題と直面し続けることになる)。それ以外の場合はみな、解釈が駄目になってしまう。つまり、与えられた解釈はもっともなことであると患者が考えるようなすべての場合(感情を欠いたままであるか、情動を露わにするかは問われない)、それから、ある程度の感情を伴いながら、解釈に対して患者が反論する場合でさえそうである。こうした場合には、分析家の行為によって、患者の内部に特殊な抵抗が例外なく惹起される。その抵抗は、克服することができないわけではないのかもしれないが、最初の抵抗よりも解決するのが困難である(加えて、解決するにはさらに時間がかかる)

 この現象は、次に示す実例が明らかにしてくれるように、挑発的キャラクターの場合に特に印象的である。かつて私はこのタイプの患者を経験したことがあるのだが、その性格-抵抗はほぐれて、私に対して攻撃衝動を転移することができるほどであった。患者の合理化を破壊するのに長くかかったのだが、その後で私は、「私に対する自分の振る舞い方に目を向けてください」という趣旨のことを述べ、この患者は攻撃的であるという圧倒的な印象を私に与えたその挑発的な行為について、彼に説明した。患者は、私に対して腹を立てていることを独特の仕方で隠そうとしているのだけれども、その感情には触れずに、私が言っていることをすべて理解することができるものか尋ねてみた。すると、自分の感情をことごとく秘匿しようとすることに特徴のある患者が、このときばかりは驚いている。目を見開いて、見るからに青くなったのである。しわがれた、震えるような声で、彼は「はい、そうみたいです。何て恐ろしいことなんだ!」と言った。うまくいったので、私はとても満足した。彼は、翌日までには落ち着きを取り戻している。面接の、とあるところで、私に対して感じていた激しい怒りについて、彼は落ち着いた態度で触れている。そのときは、私もまだ満足感を抱いていた。私にしてみると、この転移-抵抗は完全に解決されたように思われたのだが、その後しばらくして、自分に都合のいいようにすっかり思い違いをしていたことに気がついたのは言うには及ばない。あらわとなった患者の動揺は(真の突破が起こった場合にそうなるような)激しい怒りではなく、実は不安と防衛であったのだ。彼がその後落ち着いたのは、感情の解放とともに転移の一部が解決されたからではなく、新しい、さらに有効な防衛が構築されるようになったからなのである。この防衛は、一歩間違えば次のように合理化されていたのかもしれない。すなわち「カッとしたけど、真に受けてもらっては困ります。どのみち、こうした気持ちは、精神分析だから吐き出せるんです。精神分析ならではであって、まったく取るに足りないことです。日常生活(精神分析の外部)では、私はいつも礼儀正しい人間でして、たちの悪い衝動などありません」である。この防衛を取り壊すのは、骨の折れる作業であった。つまり、患者が注意を払うように、思考がたどったこの系列全体を(ほぼ引用したように)段階を追って示したのである。その結果として、価値ある治療成果を伴って(つまり、転移状況から幼児期原型への移行をもたらしつつ)、すぐにそれと分かる強い怒りがどっと溢れたのは、そのときだけであった。

 内容解釈が有用(あるいは少なくとも無毒無害)であり得るのは、あまり重篤ではない神経症性疾患の場合であると考えられるのかもしれない。この点について、私の経験からはあまりはっきりとしたことが言えないのであるが、それほど重篤ではない神経症について(内容解釈が与えられて)よい治療成果が得られた場合であっても、本能の爆発は、そのトリートメントにおいて内容解釈が放棄される、自己愛の鎧(narcissistic armor)を着た重篤な挑発的キャラクターほど強烈なものではない、というのが私の印象である。衝動が姿を現わしたのは抵抗が解決したことによるのではなくて、私が示唆を与えたことによるのだという意味で、内容解釈によって惹起された感情反応は純粋なものではなかったと確信している。衝動がその刺々しい毒気を失ったのは、そこに患者の注意を払わせたからである。患者が体験したのは、本来の自然な衝動(impulse itself)ではなく、分析家が作り出した実験室的な複製(laboratory replica)にすぎない。このようなかたちで実現する治療的な成功は、転移性治癒(transference cures)であると思う。そういうこともたまにはあるのだが、結果として患者が悪くなるのではないにせよ、それは症状が転換することによって生じるのである。

 これまでの考察から、精神分析によるトリートメントの目的は、内容解釈という技法によっては達成されないということになる。それよりもむしろ内容解釈の試みは、もっぱら合理化を解決するために行われるべきであり、そうする場合にかぎってその目的と矛盾しないのである。このような理解は、時期尚早な解釈や深すぎる解釈を戒めるために、養成過程や技法講習会やスーパーヴィジョンで被訓練者に与えられる助言を、もったいぶって、厳格に言い換えただけであるように思われるかもしれない。講習会や論文の中で、いかなる抵抗も自我の側から撃破されねばならないとか、患者はまず自分が用いている防衛の手段を示され、その次に防衛が解決されねばならないとライヒが主張するとき、それが常識のレベルを超えているとは誰も思わない。こう主張するのは、理論的な急進主義としか見られないのであろうか?つまり、しかるべき抵抗が解決された後の最後のステップとして内容解釈を与えよという助言と、内容解釈は完全に放棄されるべきであるという信念とのあいだには、決定的な違いがあるということである。われわれは、二つのあいだには重大な相違点があると考えている。急進的な立場のほうを支持する発言を行ってきたのだが、縮約されてはいるものの、それと関連性のある理論的要点はすべて提示したつもりである。しかしながら、内容解釈に対抗する立場が全面的に理解されるものかどうか、その結論は、詳細かつ具体的な例証に照らして検証されねばならない。それが次節の意図である。

 

/組織的な抵抗分析の実践

 組織的な抵抗分析と、内容解釈を最後のステップとして踏む分析との理論的な相違は、わりあいに軽微であるように思われる。ところが(分析家の視点から)経験的には、そうした概念的な違いに基づいて考える場合よりも、違いが著しい。もちろんこの経験に基づく違いは、内容解釈を放棄しようと決断した途端にすっかり見て取れるようになるわけではない。

 まず初めの段階で放棄すると決断した時点では、抵抗状態が無理からぬことであると思わせるような態度をとる合理化が表面化する際に思いがけなく出くわすのだが、分析家は、そのようなとても手ごたえのある難事にゆっくりと気がつくようになるだけである。患者の現在の自我を構成しているより多くの部分が、さらにはっきりしたかたちで面接の場に委ねられるように、分析家は、自分の「ムラなく漂う注意(evenly suspended attention)」を広げる習慣をつける必要がある。無意識的な本能の諸構造と同じくらい、現在の自我の微妙な濃淡を観察することについて、学ぶべきことは多い。いずれを学ぶにせよ、実際のところ年単位のトレーニングが必要なのは、両者ともほぼ同じなのである。

 私は、あるとき二人の分析家のあいだで繰り広げられた議論を耳にしたときのことを思い出す。分析家Aには組織的な防衛分析の経験があったが、分析家Bにはなかった。Bは、女性患者の一人に対するトリートメントで見舞われている、多大な困難について述べていた。彼は、分析中に認められる感情を伴わないよそよそしい行動を含めて、患者の症状について手短に説明した。彼女がどのようにして寝椅子に横たわり、どのようにして話すのか、その身のこなしを実演し、さらにこの状況を克服するために自分が行っている様々な努力について説明した。かと思いきや、今度は患者について独り言を口にし始めた。分析状況と関連づけながら口にされる、患者の本能的発達に関する仮説は要領を得ており、そのほとんどが説得力のあるものであった。彼は諦めとともに、いちいち「でも、いまそれを彼女に言うことはできない」と付け足した。われわれは、ただ同意するだけであった。彼は患者の振る舞いについて、幼児期体験や本能的パターンの観点から、斬新でもっともらしい説明を続けるのだが、いまどうすべきなのかということに向かうような思索は、何ひとつとしてなかった。それから分析家Aがさらに尋ねたのは、分析状況での患者の振る舞いについて、特にトリートメントそのものに向けて表出された彼女の態度や、効果がないと確信しているように見えるにもかかわらず彼女がトリートメントに通い続けている理由についてであった。分析家Bは、こうした問いに対してとてもよく答え、数多くの分析場面を生き生きと描写することができた。ところが彼は、患者の意識的な態度や知的な態度など信頼できるものではなく、自分の攻撃性に対する恐れの現われにすぎないと信じている節があって、そうしたところには注意を払っていなかった。攻撃性に対する恐れの現われという考えは、まったくもって正しい。けれども、患者のうちにあるこの矛盾こそが第一の砦としての防衛になっていることは、見落とされていた。彼は、言ってみれば抵抗という防衛的な要塞(fortress)が内的に作動するありよう(inner works)を、十分なトレーニングを受けて手にした深層心理学の望遠鏡を介して間接的に観察していたのであるが、そこに直接的にアプローチすることはできなかったのである。この要塞のたとえは、組織的な抵抗分析において際立った役割を演じている問題につながるものであり、そのことを検討すれば、技法の適用についてさらに解明されるのかもしれない。問題として取り上げたいのは、直接性に関わる問題である。

 

/直接性の問題

 神経症と、突撃を受けるに違いない要塞を比較すれば、ちょうど包囲攻撃の際に、堀や防波堤や城壁や鉄条網といった防衛の多様な前線がひとつずつ制圧されねばならないように(このたとえは、私が包囲戦のことに無知であればこそなのかもしれないが)、抵抗に立ち向かうにはこうすべきだという一定の順序のあることが示されそうな気がするのかもしれない。しかし、次に提示する仮想例が示しているように、そのような順序などない。ある患者の面接が、沈黙から始まる。分析家は、まず自分が口火を切る責任を患者が負いたがっておらず、それを分析家に転嫁しようとしていることを、この沈黙が表わしているという印象を持った。分析家は、このことを患者に話す。患者は、分析家の言葉を無視するかのようにして反応する。ちょっと怒ったような口調で、彼は「それって、昨日も言いましたよね?あなたはいつも同じことを口にする。なるほど、それが精神分析の決まりなのでしょうが」と述べる。多くの徴候(そのなかでも特に患者の声のトーン)は、誰が責任を負うのかという微妙な問題を患者が回避したいと思っていること、この問題によって喚起される不安を攻撃性で覆い隠していることを示している。この攻撃性の鋭さは、段階を追って取り除かれている。というのは、冒頭の個人攻撃(「あなたはいつも同じことを口にする」)が、一般的な精神分析への批判(「なるほど、それが精神分析の決まりなのでしょうが」)に変じることで、弱められているからである。しかしながら、攻撃するというそもそもの目的は、それでもなお皮肉な触感に認めることができる。

 この時点で疑問が生じるかもしれない。分析家は、患者が「回避している」ことについて何か口にしてから、出発点(患者の沈黙)に戻るべきであろうか、あるいは患者が口にした最後の言葉にのみ焦点化すべきであろうか。もしも後者にしたがうのであれば、不都合が生じるかもしれない。つまり、患者本人が何ひとつとして把握するには至らないほどの無数の話題に、分析家がついていくことを余儀なくされるようなかたちになるのだが、またしても患者は分析家の言葉を受け流して、次から次に急転換して立ち去ってしまうのである。こうしたことが現実に起こり得るのは、経験が証明するところである。その言葉がどの程度適切なものであるのかそんなことにはお構いなしに、分析家のひとつひとつの言葉に反応して、なるほど患者は話題を変えてしまうのかもしれない。このようにしてある話題から別の話題へと飛躍することに対して、分析家が患者の注意を向けたとしても、結局はまたいつもと同じように飛躍するだけなのかもしれない。こうなると分析家は、自分の言っていることが抵抗に相当することは分かっても、自分ではどうすることもできないのだというかたちで相次ぐ患者の抵抗に対して、何ひとつ打撃を与えることができない。ところが、すぐにうまくいく見込みがないとしても、そうしたことを行うことが、常にいつでも間違っているというわけではない。第二の(直近の)抵抗現象がまったく徹底操作されていない段階で、分析家が第一の抵抗現象(沈黙)について触れることを継続する、もう一方の可能性について考えることにしよう。こちらの方法では、うまくいく見込みはさらに低くなる。最初の抵抗の現われについて分析家が言うべきことを口にすれば、患者は、それに関心を向けることであろう。だが患者がそうするのは、そのあいだの時間、最初の問題の意味が消え失せているからという、ただそれだけのことなのである。それはもはや直接的なもの(感情的に有意味なかたちでの問題点であるという意味)ではない。

 これについては、理論的には、以下のように説明できるかもしれない。抵抗が破綻するのは、患者が自分の抵抗思考を吟味することができるようになれる場合である。ところが、そのためには、患者がすでに口にしている抵抗思考の一部を取り上げて繰り返して言うだけでは、それから、抵抗の背後にさらにどんな考えが潜んでいるのか示すだけでは不十分である。こうしたことをすべて伝えたとすれば、もしかすると患者は耳を傾けるのかもしれない。けれども、そのようにして話されたことについて(こうした表現が許されるのであれば)自分が責任を負っているのだと頭で実感しているわけではないし、そのように考えるのが本当のことなのか、間違ったことなのかと、虚実に悩むような体験をするわけでもない。あまり情動的に触発されることのない討論に参加しているとして、健康な成人であれば、自分や他の討論者が発言するどんな考えでも、一般的にはじっくりと考えてみることができるし、暗に含まれている食い違いを見分けることができるものである。自分で理解できる範囲に思考の歩幅を収めるために必要なのは、それを小さくすることだけである。ところが、患者を自分の抵抗思考についてじっくり考えるようにする前提が、あまり思わしくないのである。そうした場合には、われわれが焦点を合わせたいと思っているところから患者の注意を逸らす傾向がある、一定の力(自己愛的逆備給)に対処しなければならない。すでに例示したように、このような力に対しては、すでにそこにある、分析家を気遣う患者の愛着によって反作用を及ぼすことができる。分析家が、沈黙の意味について自分(分析家)が口にしたことを、じっくりと患者に考えてほしいと思っている、という例で考えてみるとよい。もしも分析家を気遣う患者の愛着が強いものであれば、患者の急転換する皮肉なコメントに対して、分析家は「でも、あなたは問題を避けています!」と返答するだけで事足りるであろう。けれども、実情は必ずしもそうであるとは限らない。実際のところ、この例証の情報が示唆するところによると、患者は、分析家に対してこのような愛着を向けることがまだできていないのである。これは、重篤な性格抵抗がまだ突破されていない場合、確実に言えることである(たとえば挑発的キャラクターにおいて)。そのとき分析家は、自分(分析家)がそこに取り入れた一連の考えを患者のうちに起動させることができないし、患者がその真実性について判断しながらじっくり考える手助けをすることもできない。いまここで防衛的に必要なことに身を捧げる、直接の死活に関わるのであるが、むしろ分析家は、もっぱらそうした患者の抵抗思考に対処することを余儀なくされるのである。そのような事態においては、患者の直接的な抵抗の形成、あるいはいま最も注目される抵抗の形成を見逃しているような分析家の言葉には、どれもみな効果がない。そのような患者には分析家を気遣う愛着が全然ないのだと述べることは、おそらく事実に反しているであろう。というのは、そのような場合には、分析することがまったく不可能であるからである。むしろ、愛着が乏しいか、希薄であると言うべきであろう。自己愛的な転移関係は性格抵抗が姿を現わすときに必然的に随伴するのだが、そうした自己愛的な転移関係を構成している要素を、いくらかでも分析に利用することはできないものか、という疑問が生じる。だが、この疑問についてはこれ以上立ち入らないことにする。一般的には、抵抗が強くなればなるほど、分析家を気遣う愛着は弱くなるということ、それから、分析家はこのような場合、直接的なことに対してなおさら緊密に関心を向けねばならないということが言えるのかもしれない。

 分析家の注意の態勢が、直接的なことに関心を向けねばならないという要件を意識してその影響下にないかぎり、かなり重篤な事例になると、分析家はこの要件を十分に実行に移すことができない。そうすることが、分析家の注意がムラなく漂うことを妨げるように作用するのではないかと、反論を受けるのかもしれない。しかしながら、この考えの基本的な方向性は、患者から話を聴取してそこに深層心理学的な意味合いを感受すること(感受性[feeling]は、分析家の素質や、経験や、思想によって決まる)を分析家は放棄しなければならない、ということを意味しているのではない。むしろ意味しているのは、意識的に強められた注意の方向づけにとらわれないで、このような感受性を自由に働かせるべきである、ということである。理論的な考察から技法に関わる見識が演繹的に導き出されたわけであるが(直接性を要件として求めるものである)、そのひとつひとつを意識することによって分析家のムラなく漂う注意に支障が出たとしても、そのような妨害的な作用は、すぐに消えてなくなることであろう。それは、技法に影響を及ぼすようなその他のことについて考察したとしても、同じことである。

 本論の限度内で、組織的な抵抗分析の実践をくまなく描き出すのは、まったくもって不可能なことである。より詳しく、ありありと思い浮かべることができるような説明を心がけるが、不十分なものにとどまってしまうかもしれない。しかし、紙数が許すかぎり、それについて扱うことで分析のプロセスに独特な影響がたいてい及ぶのだが、よくある分析場面について検討するつもりである。検討を進めるにあたって、新たな理論は何も導入しないつもりである。

 

/間接的に話すこと

 念頭にある状況は、以下のようなものである。いくつかの抵抗はすでに解決されているものの、本能の純粋突破はちっとも生起していない。患者はいくぶんリラックスしている。論理という意味ではほとんどまとまりがないのだが、総合すると、特定の幼児期の感情や、情動と結びついている体験への、間接的な言及(allusions)として理解される一連の連想を、患者はとても快活に口にし始める。

 そのすべてが現行の精神分析の実践に見て取れるものなのだが、分析家は、考え得る三つの手続きを用いることができる。

 第一の方法(内容解釈の方法)は、以下のように進められる。分析家は、しかるべき順序で患者の様々な思いつきを再吟味し、決定的な情動内容を伴うある場面に、それらがどれだけ見事に整合するかを患者に示す。分析家は、こんなにはっきりと相互関係を見て取ることができるというのに、それが単なる偶然にすぎないとすれば悪魔が片棒を担いでいたに違いないと推論し、患者がこのような状況をかつて実際に体験したことがあるか、さもなければ空想したことがあると、それとなく示す。それに接した患者は、喜んだり、興味を持ったりするのかもしれない。患者は、自分になり代わってこのような創意を働かせてくれたことに感謝して、分析家の解釈を追認するような考えや回想を熱心に付け加えるものである。しかし、治療効果はほとんどなきに等しいであろう。

 第二の方法は暗に伝える方法(method of intimation)と呼ぶことができるであろうが、これは、第一の方法があまりにも品がない(crude)と感じているような分析家に好まれるものである。この方法は、基本的には第一の方法と同じ手続きであるが、それとは二つの点で異なっている。分析家は、解釈を言外に仄めかすように強意強調しながら、マテリアルをもっとも都合のよい順序に注意深くまとめる。分析家は、自分では何の結論も出さずに、もっぱら患者の反応を待ち受ける。そのとき起こることは、二つにひとつであろう。自分の目の前で口にされたことを患者が全然理解することができずに、すべてのことが分析家が介入する以前のままであるか、あるいは言われたことを理解して、なぞなぞを解き明かす能力を示すかである。後者の場合であれば、第一の方法が用いられるよりも、患者は随分と嬉しがる。患者には、自分の鋭い洞察力を誇りに思うだけの理由があるわけだ。しかし、この場合もやはり、治療効果はほとんど皆無である。患者は、自分の抑圧された衝動を体験したわけではない。ちょうど、似たようなことを口にする他人について同じ結論を下すようにして、そのような衝動が自分にはあったに違いないと推論するだけなのである。抵抗は、思い出せないでいることにのみ現われるのでないことが明らかとなる。それには、知的な行為や、内省的な行為もある。こうしたことは、いわゆる隠蔽記憶(screen memories)の場合にはっきりと見て取れる。そこでは、抑圧が、真の情動体験を忘却しているということに現れるだけではない。根拠のない生々しさとともに、それに代わるものを思い出すことにも現れるのである。

 第三の方法(これが効力のある唯一の方法であるというのが、本論の主張である)は、抵抗分析の方法である。この方法は、たとえば、自分の連想にまとまりがないことに患者の注意を引きつけることを基礎としてる、と言ってもよい。あるいは、たとえば、分析家に謎を解き明かしてもらうことを求めているのだと、もしくは分析家に謎をかけたいのだと、患者に示すことであると言えるのかもしれない。これに関連して、精神分析において生起する、興味深く、意外な一連の出来事については、触れておくだけの価値がある。分析家は、振る舞いのうちに見て取れる抵抗の要素(たとえば、分析家に問題を差し出したいという願望)に、患者を直面化することには成功するのかもしれない。ところが、そのとき心に思い浮かぶ、情動を帯びたマテリアルや衝動が、介入の時点で患者の連想が指し示していたものであるのかと言えば、そのようなことはあったとしても極めて稀である。後者のようなことはかなり後になってから起こり、それまでのあいだは、裏腹なマテリアルが表出されることになるのである。このような経験から思い知るのは、特定の衝動や、情動の絡む記憶からその身を防衛するために、それよりもさらに深く抑圧されている衝動が防衛的に利用されることがよくある、ということである。

 こういうことになろうか。広範囲に飛び散っている、わずかばかりの手掛かりや仄めかしを頼りにして、患者の過去から出来事(scenes)を再構成するのは、魅力的な作業である。だが、このような作業は、神経症の発達像のあらましを分析家が一方的に(privately)まとめるための役に立つという点では重要であるのかもしれないが、直接的なセラピーに活用されることはないのである。

 組織的な抵抗分析を行えば、分析家は、患者の幼児期の本能的願望を取り上げてそれについて直接的に触れる機会が訪れるのを見越しておくことができるのか、という疑問が、手つかずのままになっているのかもしれない。本能の純粋突破が生じた後で、自分が表出したものについて患者は説明を与えられなければならない、という意見はよく耳にする。しかし、このような意見は、「純粋突破」に関する誤解に発しているように思われる。

 この現象が生起する場合、患者は自分が言っていることを全面的に理解しているので、分析家にしてみると説明すべきことは何も残されていない。しかしながら、純粋突破によってもたらされるであろうあらゆる治療的な進歩を、くまなく現実のものにしようと思うのであれば、やはりすべきことがある。分析家は、抵抗について、本能の突破ないし感情の突破を引き起こした抵抗の解決について再検討し、患者とともに振り返らねばならないのである。可能であれば、さらに分析家は、ある特定の抵抗のせいである衝動や回想の現われ出ることがどのようにして妨げられていたのか、まさにそのことを患者に対して明確に示さなければならない。分析家が、その振り返りを背面に向けて広げれば広げるほど、患者がそうしていることに関して、われわれの理解はますます申し分のないものになるのである。純粋突破をもたらすためには、同じような徹底性をもって、ありとあらゆる抵抗思考をすべて解決する必要はない。抵抗という織物を紡いでいる最重要のより糸がひとたび切れると、決定的な爆発が生じるには、衝動の圧力にまかせておけばそれだけで事足りるのである。結果として言えるのは、述べたような仕方で、ほとんど努力なしに残存する抵抗が一掃される場合を除いて、抵抗の残滓が未解決のままになっていると、もろもろの抵抗は再構築され得るということである。

 自説の提示はここで終える。以下に簡潔な歴史的批評が残されているが、それは、私の自説と混同されることを回避するためである。技法に関して検討を加えたのだが、それが、未解決の多岐にわたる疑問や理論的な諸問題と関わっていること、それから、非常に断片的なものであることは分かっている。私は、検討を加えた諸問題について興味を喚起したいのであって、同意を得たいのではない。読者にもう少し説明すべきであるかもしれない。というのは、とても急進的で、徹底的ですらある技法上の手続きを擁護して、いささか強硬な態度をとってしまったからである。セラピーの目的に照らして必要な場合にかぎってのことであるが、技法上の規定がとれだけ厳格なものであっても、それは道理にかなったことである。ある方法は、それ自体としては筋が通っているとしても、手段として利用されるだけでなくそれ自体が目的にもなってしまい、儀式的に忠誠を誓うべきものになり下がってしまう危険性が、いつも存在している。技法上の抽象的な諸原則は、絶対的なものとして応用されるべきではなく、もっぱら分析家の手腕や直観に磨きをかけたり、豊かなものにしたりするために、理解されるべきである。実際の分析状況において最終的決定権を持つべきなのは、分析家の感受性(feeling)であり、臨機応変の手腕(tact)であり、直観(instinct)なのである。

 

/ライヒの分析技法論

 フロイトの論文に続いて、分析技法の理論にもっとも決定的な貢献を果たしたのは、ヴィルヘルム・ライヒであった。本論で取り上げている問題についてライヒも考察を加えているのだが、その思索がどの方位を向いているのか、それについて検討することを割愛したくはない。何故なら、技法論に関する私自身の思考の発展が、彼の考えに直接的に根ざしたものであるという、特別な理由があるからである。もともとはライヒの主催する講習会で受け継いだアイデアや忠告であったのだが、それを前進させることができたのは彼のおかげであり、深く感謝している。

 技法に関わるライヒの教えには独特の持ち味があるのだが、そのアイデアの豊かさや系統的な説明の深みについて、ここで再現するのは無理なことである。著書におけるよりも明快であり、深い感銘を与えられたのであるが、彼の講習会では二つの主題が光彩を放っていたように思われる。

 第一の主要な考え方は、以下のごとくである。神経症は、一定の構造を備えた有機体の成長である。したがって分析作業は、神経症の構造に対応する明確な秩序にしたがって、層ごとに取り組まなければならない。このことを前提として、ライヒが当然のこととして結論しているのは、分析中に患者が提示するすべてのマテリアルの中から分析家が話題を選び出すことが、とても重要なのだということである。治療的な手続きの出発点として、ある特別の層(もっと正確に言えば、ある層の代理表象)が選び出さねばならないことを決めるのは、他ならぬ神経症の本性なのだと彼は確信しているのである。

 ここで、「分析家は、どのような基準を頼りにすれば、取り組むべき正確な重点目標を選ぶことができるのであろうか?」という疑問が生じる。ライヒは、この疑問に対して、とても趣を異にする二つの回答を与えている。第一の回答は、分析家は、分析が進行するにつれて神経症構造の図式を累積的に築き上げ、この図式を活用しながら、どれが最上部の層であるのか決定するというものである。この層の代理表象から着手すべきなのである。私はここで、ライヒの示唆するところに同意できない。この提案は理論的には間違っていないが、適用することができないのである。比較的微細な神経症の構造はとても複雑なものであるから、治療的介入を開始する前に把握することはできない。それは、あらゆる患者の神経症が構造化されているとしてもそうであるし、十分な経験と天賦の才としての直観力に恵まれていて、かなり早い段階で大体の輪郭を理解することが可能であるとしてもそうなのである。私が思うに、こうした比較的微細なところが、いっそう重要なのである。したがって、理論的には有意義なアイデアではあるものの、ライヒは、それを時期尚早に臨床実践に応用してしまったのだと言いたい。

 ライヒの第二の回答は、さらに経験的なものである。分析家は、面接のなかで患者が提示した図式を、徹底的に、なおかつ細心の注意を払って吟味しなければならないし、患者がどこに最上部の層を、最新の層を、もっとも活動的な層を、ということはもっとも接近しやすい層をあらわにするのか見分けるために、自分自身の感受性を駆使しなければならない。私は、この点についてはライヒに諸手をあげて賛成する。これは、ライヒの教えの第二原則の要点であると私が考えていることに、近いと思うのである。

 重要な原理は、あらゆる抵抗は自我の側から着手しなければならないというものである。ライヒは、この原則を繰り返し力強く主張することによって、われわれに多大な貢献をなした。これ以外には、技法の応用に関わる豊富な例証を提供している。ライヒが力説するのは、患者の姿勢や、振る舞いや、話し方や、とりわけ声のトーンを密に観察することであり、そうしたことについて患者が意識的になるようにすることの重要性も説いているのだが、こうしたことが、彼の教えの重要で実践的な結論に相当するのである。

 彼の教えの本質部分は、抵抗思考という概念に中心化して論じた、本論の3節と4節に提示した理論的帰結につながるように思われる。ライヒはこの点について理論的にはこれ以上踏み込んでいないので、彼の技法論では奇妙な結論が続いている。彼の著書『性格分析』(1933)には、「患者にはまず抵抗があることを、次にその手段を、最後にそれが何に対して向けられているか指摘する」という規定がある。これは、最終的に内容解釈を行うための方向づけであるという他はない。このような手続きは論理的なものである。ただし、患者が自分自身を防衛する手段を十分に分析したにもかかわらず、抵抗の解決という点で何かやり残したことがある場合にかぎって言えることである。ライヒは、この矛盾についてそれ以上説明していないのである。

 ここで、もっとも重要なライヒの教え、第三の教えについて言及したい。性格分析は当然と言えば当然であり、彼が述べていることのほとんどすべてが、私の見解と一致しているか矛盾しないものであると、あるいは本論の理論が行き着く帰結として解釈することができると言えるのである。

 しかしながら、理論的にはどうでもよいことなのかもしれないが、実践的には重要な一点に関して、私は断固として反論しなければならない。ライヒは、経験の浅い分析家は性格分析を実践しないように忠告されるべきであると考えている。これは、医学生に対してまず切れ味の悪いメスで生身の患者の手術を実践し、切れ味のよいメスはもっと後になってから使うべきであると教えるようなものであり、私には間違っているように思われる。患者に対する気遣いはもっともなことである。しかしもっとよい助言は、初心者はより重篤ではない、より危険ではない事例に実践の範囲を制限して、スーパーヴィジョンの機会を増やすのがよい、というものであってしかるべきである。

 

ⅩⅢ/フロイトの定式化

 現代の技法原則(p.387に引用している)を注意深く検討してみると、そこには、本論のなかで提示した考えの基礎として考えられる見識が含まれていることが分かる(つまり、精神分析の主たる課題は、忘却されているか抑圧されている患者の体験をうまく言い当てたり、そうであると断定したりすることではないし、自分の意見を述べる分析家の手腕をもっぱら頼みにして、見当のつくことや下された判断を患者に対してコミュニケートすることでもない)。むしろその神髄は、患者本人が洞察に近づく方法を見出せることに基づいて、患者に変化を生み出すことである。フロイトは、患者のこのような変化を、抵抗の解決であると考えている。

 彼の説明には、この課題を達成する手段さえ書かれている。分析家は患者の抵抗を認識して、それについて患者が意識的であるように働きかけるべきなのである。

 しばらくのあいだ戦術的(tactical)と呼べるかもしれない問題を脇において、精神分析の戦略的(strategic)な問題に戻ると、われわれはここでもフロイトが方向づけを与えていることに気がつく。患者の合-法則的(lawful)な展開に追随することを余儀なくされるのであるが、患者の心の表層を何が占有しているのか継続的に観察せよという提言は、分析家の側の秩序だった手続きのことを暗に示している。言い換えると、分析家は、患者の精神の表層に見て取れる連続的変化を導きとしなければならないのであって、深層に対する自分自身の漸進的な理解を導きとしてはならないのである。

 この提言を精神分析の戦術的な手続きに翻訳すると、内容解釈は拒絶されることになる。分析中に患者が口にするありとあらゆることを「表層(surface)」という概念のもとに含めようとする人には、この結論を受け入れることができないわけであるが、表層の意味についてこのように解釈するのは非心理学的であるように思われる。たとえば、分析家をイライラさせる傾向が優勢なある患者が、感情を伴わない退屈な仕方で、4歳の頃からの体験を話す。この場合、表層に属するのは感情を伴わない退屈な態度だけであって、話される内容はそうではない。もしも患者が、分析家に対する攻撃衝動を、なんだか極度に礼儀正しい振る舞いの背後に秘匿するのであれば、表層に属するのは極度の礼儀正しさだけであって、攻撃衝動はそうではない。フロイトの説明は、表層から開始して、その次に深層に進むべきであると言っているのではない。そうではなくて、そのつど姿を現わすがままの表層の検討を進めるべきなのであって、下層が表層に現れるまでそれに触れるべきではないと言っているのである。

 しかしながら、フロイトは戦術的な手続きに関して言えば積極的な方向づけを持っているものの、分析家の振る舞いを全面的に規定するには、十分ではないように思われる。「患者にとって抵抗が意識的なものになること」という説明は、患者が自分自身を防衛していることを示すべきであることを暗示しているのだが、明らかにそれは、患者が防衛の手段について意識的になるようにすべきであるとか、患者が防衛を向けている欲動について言及することは回避すべきであるとか、そうしたことを言い表わしているのではない。私が上に示そうとしたのは、こういうことである。つまり、結果として後者の消極的な規定は、患者の直接的な心理学的表層について検討を進めよという提言を追随する、ということである。その場合、「抵抗を意識的なものにする」は、防衛の事実とその手段を患者に理解させるものとして解釈すべきである。それにもかかわらず、フロイトの説明は、いろいろなかたちで解釈されることを、われわれは認めなければならない。このフロイトの説明に欠如しているのは、抑圧されている衝動を命名する手続きと、患者の注意をうまくかわしている前意識的な抵抗のメカニズム(われわれの専門用語では抵抗思考)を患者の覚知にもたらす技法との、はっきりした区別である。「意識的なものにする」という言葉は、局所論の視点から言えば、まるで違う二つの出来事に応用することができる。つまり、無意識体系から意識体系への衝動の伝送と、成人思考の原初的な起源を意味する思考あるいは内省行為の、前意識体系から意識体系への伝送である。

 かといって、フロイトの説明の最後の一文(1914c, p.147)は、はっきりしたものであるようにも思われない。彼は、分析医の側における抵抗の覆いを取ること(uncovering of resistances)と、患者の側における「忘却された場面や結びつき」を話すことを鋭く対立させたのだが、それは、われわれの言う意味でもっともよく理解されるようである。つまり、分析家は、推測することができた、忘却され、抑圧されているマテリアルを、患者に提示してはならないというものである。しかしながら、患者の想起には「何の苦も伴わない」とフロイトが口にするとき、この説明は本能の純粋突破を含んでいないように思われる。

 これ以上、フロイトの見解を詳細に吟味して私の見解をぶつけたとしても、価値があるようには思われない。フロイトは分析技法の精密な規約を記述してはおらず、それよりもむしろ、精神分析の生き生きとした発展のために、融通の利く表現を与えたのである。私が最後の議論で示したかったのは、技法に関する自分の考えが、技法に関する提言を発展させたフロイトの方向性に反するものではないということである。

 

 

 以上、札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」でした。



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