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現行のロールシャッハ・テストに対する
方法論的懐疑


 ここに掲げるのは長大な論文です。数年前に脱稿したまま、パソコンに眠っていました。いま読むと自分でも違和感のある個所があります。来年あたり、手直しをして勤務校の紀要に掲載するつもりです。

 ロールシャッハ論文ですが、メタ理論に関するものなので、ネット上にオープンにしても問題はないと判断しました。事例や、具体的な解釈仮説については言及していません。

 方法論についてかなり突っ込んで議論していますから、とても難解であると思います。私はもうこのテストに対する興味を失ってしまったので、おそらくこれが最後のロテ論文になると思いますが、多くの方々の思考を動かすことができれば幸いです。また、このテストの文献紹介はこちらをご覧ください。

2011年4月29日


著者: 田澤安弘 (たざわやすひろ)
題名: 現行のロールシャッハ・テストへの方法論的懐疑

もくじ

Ⅰ.はじめに
Ⅱ.解釈に理論は無用か
Ⅲ.感覚与件論を超えて
Ⅳ.解釈はいつ始まるのか
Ⅴ.法則定立的方法と個性記述的方法
Ⅵ.情報収集モデルと治療モデル
Ⅷ.まとめと方向性
注釈
文献




Ⅰ.はじめに


 最初に、本論における私の方法論的な立場について述べておく。私が基本的に依拠するのは、野家 (1993a) の『科学の解釈学(Hermeneutics of Sciences)』という考え方である。科学の解釈学とは、「科学の二元論」や「科学の論理学」とは異なる、第三の方法論的な立場のことである。科学の論理学とは、人間科学を自然科学に還元して方法論的な一元化を目論む立場で、科学理論は一定の公理と演繹規則とからなる形式的体系であるという「公理主義」、科学理論は理論から独立した観察事実によって検証され取捨選択を経なければならないという「検証主義」、科学理論は唯一の客観的真理に向かって前進していくという「進歩主義」という特徴を持つ、論理実証主義的な科学哲学の潮流のことである。「科学の二元論」とは、精神科学と自然科学を断絶し、自然科学の量的かつ法則定立的な方法論に対して、Dilthey, W.C.L. (1900)が精神科学の方法論として提起した解釈学に端を発するものである。そして、野家の科学の解釈学とは、自然科学と人間科学を峻別したり、一方を他方に還元したりするのではなく、両者をより広いパースペクティヴの中に位置づけしなおす立場のことである。

 では、ロールシャッハ・テストの方法論に関わる歴史を、以下に要約して述べる。ロールシャッハ・テストの紆余曲折は、Ellenberger, H.F.(1954)、Exner, J.E. (1986)、村上・村上(1988)、Wood, J.M. et al. (2003)などに詳しいが、以下はそれらを参照したものである。

 Herman Rorschachは、インクブロットに対する反応の違いによって精神疾患を診断することができる可能性を見出し、その知見を1921年に『精神診断学』として公刊した。彼の研究は、Syzmond Hensが1917年に公刊した『学童、正常成人および精神病者に対して無定形のインクのしみを用いた空想テスト』に影響を受けたものだが、それとは反応解釈の着眼点が大いに異なっていることが特徴である。

 Hensは、インクブロットに対するクライエントの空想を重視していた。つまり、反応の内容的側面を分類することが重要だったのである。それに対してRorschachは、インクブロット・テストを空想力のテストとは考えずに、どのようにインクブロットの形態を解釈するのかという知覚のテストであると考えていた。つまり、色彩や形態や運動などの知覚の仕方が、クライエントの現実に対する基本的態度を反映していると考え、反応の形式的側面を重視したのである。

 またRorschachは、反応の分析を客観的に遂行するために、インクブロットのどこに(反応領域)、何を(反応内容)、どのようにして(決定因)見たのか、それらに関わる独特のコードを開発している。そして、それらの個数や百分率といったいわば統計的手法によって反応の意味を理解すると同時に、プロトコルを質的に解釈することも行っていた。心理テストに、数値の基準を定めたり信頼性や妥当性を検証したりする統計学の基礎理論が応用されるのは1930年代から1940年代になってからであるので、彼の統計的手法といってもそれは極めてシンプルなものであったことに疑いはない。けれども、後に言及する量的分析と質的解釈という方法論上の二項対立図式は、すでにRorschach自身が抱えていたのである。

 Rorschachの死後、ロールシャッハ・テストは米国に移入されることになった(注釈1)。その代表的な人物は、Samuel Beck(1937, 1944, 1945, 1952)と、Bruno Klopfer(1942, 1954, 1956, 1962, 1970)である。彼らのあいだには、ロールシャッハ・テストの方法論をめぐる論争が1930年代に繰り広げられたのであるが、それはいわば主観的解釈と客観的解釈との対立とでも呼ぶべきものであった。Beckの主張は、ロールシャッハ・テストは標準化されるべきであって、主観的で行きすぎた質的解釈は戒めねばならないというものであった。反対にKlopferの主張は、数量化を行って解釈の主観的要素を取り除くのは不毛であるというものであった。結果として両者の議論はかみ合わないまま決裂するのだが、背景的な思想としてBeckは論理実証主義を、Klopferは現象学をそれぞれ重視しており、互いの方法論的な違いが明白となっただけの不毛な議論に終わったようである。

 1940年代から1950年代にかけてロールシャッハ・テストはさらに発展していき、さまざまな流派が台頭することになった。この時代に出版された影響力のある代表的な著書は、Klopfer and Kelly (1942)の『ロールシャッハ法』、Beck(1944,1945, 1952)の『ロールシャッハのテストⅠ, Ⅱ, Ⅲ』、Rapaport, D., et al. (1945, 1946)の『診断的心理検査法Ⅰ, Ⅱ』、Schafer, R. (1954)の『ロールシャッハ法の精神分析的解釈』、Piotrowski, Z.A. (1957)の『パーセプト分析』などである。全体として、精神分析学の理論が反応解釈に取り込まれた時代であるが、Rorschach本人が懐疑的であった、反応内容の精神分析的象徴解釈を推進する著書も多数現われている。たとえば、Bochner, R., and Halpern, F. (1942)の『ロールシャッハ・テストの臨床的適用』、Lindner, R. (1950)の「ロールシャッハ・プロトコルの内容分析」、Phillips, L., and Smith, J.G. (1953)の『ロールシャッハ解釈: 高度な技法』などである。

 しかしながら、このまま躍進するはずであったロールシャッハ・テストはさまざまな批判にさらされ、1960年代にはその存在価値すら危ぶまれる危機的な段階に到達することになる。代表的な批判は、Cronbach, L.J. (1948, 1949, 1950, 1955)の一連の論文であろう。彼は行きすぎた象徴解釈や、Klopferの主観的な解釈法を批判しているだけではない。Klopferを批判して客観的な解釈を重視していたはずの、Beckのロールシャッハ・システムをも批判しているのである。この批判は論理実証主義的な科学的研究の立場からのものであるが、その内容は、ロールシャッハ・テストは心理測定法として求められる信頼性や妥当性を満たしておらず、これまでに発表された統計的研究の結果の大部分は不適切で、根拠が疑わしいというものであった。

 その後も、科学的な立場からのロールシャッハ批判が相次いだ。心理測定法としてのロールシャッハ・テストの存在価値は、まさに風前の灯となった。そして、1960年代末から1970年代半ばにかけて、科学的根拠のない従来的なロールシャッハ・テストを放棄するか、それを改変した上で使用する試みがロールシャッハ研究者の内部から現われることになる。たとえば、Zubin, J., Eron, L.D., and Schumer, F. (1965)は、妥当性に乏しいロールシャッハ・テストを、テストというよりもむしろ面接技法として実施することを推奨している。また、Goldfried, M.R., Stricker, G., and Weiner, I.B. (1971)は、テストとしての基準を満たしていないロールシャッハ指標を、臨床目的に使用しないほうがよいと述べている。そして、Aronow, E., and Reznikoff, M. (1976)は、インクブロット・テストを心理測定法として使用するのであれば、ロールシャッハ・テストを放棄して、ホルツマン・インクブロット法(Holtzman, W.H., 1961)に乗り換えるべきであると述べている。

 ところが1970年代になると、ロールシャッハ・テストは劇的な復活を遂げることになる。Exner, J.E. (1974)の『ロールシャッハ: 包括システム』が出版されたのである。この包括システムは、さまざまなロールシャッハ・システムから実証的に擁護可能な指標などを集約して作られた、新たなロールシャッハ・システムである。包括システムのおかげで、それまで衰退する一方であったロールシャッハ・テストは起死回生し、1990年代まで発展を遂げることになった。世界的に見ると、ロールシャッハ・テストはExnerの包括システムに統一され、他のロールシャッハ・システムは忘れ去られてしまったかのようである。

 しかし、歴史は繰り返すものである。Wood, J.M., et al (2003)に要約されているが、1990年代半ばから、またしても包括システムの数々の指標に対して疑問が投げかけられたのである。かつてのロールシャッハ・テストの弱点(信頼性の問題、低い妥当性、適切な基準の欠如、過剰病理化の傾向)は、包括システムにおいても改善されたわけではなかったのである。もちろん包括システムの側からも反論がなされている。Woodらはロールシャッハ・テストの終焉を謳っている。そして、ロールシャッハ・テストは、いまでも臨床で使用され続けている。

 以上、ロールシャッハ・テストの歴史について簡単に振り返った。方法論的には、論理実証主義の立場からロールシャッハ・テストそのものの存在価値に疑問を投げかける動き、それから客観的な量的分析を重視する立場と主観的な質的解釈を重視する立場との対立が、繰り返されてきたことが理解されるであろう。いずれにせよ現代のロールシャッハ・テストは、その使い手の世界では、論理実証主義の立場が一大勢力になりつつあることに疑いはない。

 しかしながら、そのような一大勢力であるExnerの包括システムでさえ、ロールシャッハ反応の量的分析のみ行うのではない。実際には、プロトコルの質的解釈も併用されるのである。包括システムだけではない。過度に主観的であるとBeckに批判されたKlopferのロールシャッハ・システムも、手続きとしては量的分析と質的解釈が併用されるのである。現存するロールシャッハ・システム間にはさまざまな相違点があろうが、それぞれのシステムに共通すると考えられるのが、解釈上のこうした質と量の二項対立ないし併用である。

 われわれには、これまで量的分析と質的解釈を無頓着に併用してきた歴史があるのだが、方法論的な意味で、そのようなことは可能なのであろうか。たとえば、Smith, B.L. (1994) は「パーソナリティ・アセスメントの経験主義的方法が、精神診断学の領域への論理実証主義 (logical positivism) の適用―それは未来の行動を予測することである―に相当する一方で、精神分析の伝統は、解釈学 (hermeneutics)、記号と象徴の科学、それから意味の産出により根ざしている」と述べている。法則定立的な量的分析手法としての経験主義的アプローチと、個性記述的な質的解釈手法としての(たとえば)精神分析的アプローチは、このように認識論的な意味で根本的に異なる背景を持っている。ロールシャッハ反応の意味を理解するに当たって、前者の科学的なアプローチは一語一義的な意味作用を要求するであろうが、後者の解釈学的なアプローチにおいてそれは不透明であり、あくまで多義性しか意味することができないのである。

 ロールシャッハ・テストを非科学的であると批判し、方法論としての解釈学と対立するのは、一定の哲学的立場としての論理実証主義である。野家 (1993a) によると、論理実証主義が展開した「統一科学運動」は方法論上の二元論を否定して、人文社会科学に対しても自然科学と同様の数学的物理学的な方法への一元化を要求した。今日、人文社会科学の自然科学化が進行し、心理学の分野で行動科学が一定の勢力を誇っているのは、その一帰結だといえるのかもしれない。それに伴って、認識論に関わる研究も哲学から科学の手に、つまり経験的心理学の手に渡り、哲学の科学化 (認識論の自然科学への包摂) が進行中である。木村 (2005) がいうように、「近年の神経科学・認知科学に定位する科学哲学は、意識的・精神的な現象のすべてを脳・神経機構の過程に還元することによって、『唯物論的』な一元論を指向している」のである。

 論理実証主義による方法論的一元化を進めるとすれば、ロールシャッハ・テストはあくまで心理測定法(psychometric test)として使用せざるを得ないであろう。つまり、量的分析しか認められないか、質的解釈を行うとしてもあくまで量的分析の枠組の中で行うのである。また、解釈学による方法論的一元化を進めるとすれば、ロールシャッハ・テストは投映法(projective technique)のようにしか使用することができないであろう。つまり、もっぱら反応内容の象徴解釈や、言語表現の精神分析的な防衛解釈を行って、量的分析を放棄するのである。

 それに対して、科学の解釈学に依拠してロールシャッハ・テストを理解するとどうなるのであろう。これが、われわれの目指すところでもある。私が依拠する野家 (1993a) の解釈学が目論むのは、「『科学的知』と『物語的知』との二項対立とヒエラルキーを無効化し、その境界線を不明瞭化するとともに、『科学的知』を多元的な『物語的知』の一形態として捉え直すこと」である。したがって、本論全体が提示しようとする統合の方向は、少なくとも量的分析を否定した質的解釈への方法論的一元化ではないし、科学の成果を否定した反科学の唱道でもない。私は、科学的知と物語的知を相対的に区別しながらも、そのあいだには明瞭な境界線を引くことができないものとして、つまり両者をひとつの連続体をなすものとして理解する。強く表現すれば、これは概念上の二項対立図式に対する破壊であり、量的分析と質的解釈の自覚的併用でもある。

 本章では、主として論理実証主義の影響が濃厚なロールシャッハ・テストの姿を浮き彫りにして、そこから派生するさまざまな問題点について議論するつもりである。そして、われわれがこれから向かうべき方向性を提示し、ロールシャッハ・テストの新次元を開拓する基礎を築くつもりである。では、科学の解釈学の視点に立って、現行のロールシャッハ・テストに対する数々の方法論的懐疑を提示していこう。


Ⅱ.解釈に理論は無用か


 Weiner, I.B. (1995) によれば、主として知覚の側面に焦点化する経験的アプローチは、「理論に基づかない (atheoretical)」アプローチといわれることがある。その一方で、主として連想の側面に焦点化する概念的アプローチは、精神分析的ないし精神力動的なパーソナリティ理論を根拠としてそれに根ざしている。ここで彼が知覚内容と表象内容を分離して、前者を論理実証主義的な、理論に基づかないアプローチに、後者を解釈学的な理論的アプローチに、それぞれ対応させていることは明白である。彼の立場は「理論的相違に根ざす不和を好まない」という一見中立的なもので、「ロールシャッハ・インクブロット法は理論を超越している」と結論している。この論文の副題は「理論よ、われわれの仲を引き裂くことなかれ (Let Not Theory Come Between Us)」というものである。

 ここでわれわれは混乱することであろう。ロールシャッハ・テストの経験的アプローチが理論に基づかないとすれば、その立場が理論的な概念的アプローチと競合するはずはないのではあるまいか。なぜなら、一方に理論があり、他方に理論がないというのであれば、そもそも理論的相違など云々することができないからである。したがって、理論的相違は、精神分析的アプローチとその他の概念的アプローチとのあいだにあるのであって、指向する理論に応じて多様な結論に導く概念的アプローチと、一義的な結論に導くような、理論に基づかないアプローチとのあいだにはないはずである。

 このようなWeinerの論旨の背景には、非理論的アプローチと理論的アプローチを隔絶する「分離主義」がある。それは、彼 (Weiner, 1994) が「RIMは、パーソナリティの機能に関わる有益な情報を、特定の理論とは関係なくそれ自体で生み出す。しかし、パーソナリティの機能に関する妥当な理論であれば、どんなものであれロールシャッハ変数の意味を説明するために役立つ諸概念を提供することができる」と述べていることに明白である。

 では、「特定の理論」なしに「それ自体で」生み出される情報とは、一体何なのであろうか。Weiner (1994) は、「ロールシャッハは、パーソナリティの機能に関わる有益な情報を生み出す。というのは、自分が知覚するものに対してしばしば個別的な特徴を付け加え、ひいては自分の欲求や態度や関心に関わる多くのことをあらわにするような、連想的状況を創出するからである」と述べ、それについて「この説明は理論的なものではない。インクブロットがどのように見えるのか、そのことを被験者が話す際に生起することを、記述しただけである」としている。

 ここで問題がはっきりと見えたことであろう。Weinerにとって、理論に基づかないアプローチとは、それ自体で生み出される情報を特定の理論なしに「記述」することを意味しているのである。そして、「ロールシャッハの知覚と連想をパーソナリティ機能の正確な記述にうまく置き移すには、特定のどんな理論的方向づけにも依拠する必要はないし、それに限定されることもない」(Weiner, 1995)という陳述からは、彼がやはり理論的アプローチよりも理論に基づかないアプローチを重視していることが理解されるであろう。

 上記のWeinerの理解からは、次のような解釈過程論が構成される。それは、感覚論的な旧来の学説に通じる感覚与件論であり、彼の論理実証主義者としての側面を浮き彫りにするものである。

 それ自体で生み出される情報を特定の理論なしに記述することは、言い換えれば、臨床家にとってすでにそこにある既存の感覚与件の単なる模像を記述しているにすぎない、ということである。さらにいえば、臨床家は現実のなかに直接的かつ客観的に含まれている情報を抽出し、あるいは外からもたらされるすでに出来上がった内容を受容して、所与の整序と分類を行っているだけということになろう。この考え方は、論理実証主義者が信奉する、感覚与件論に他ならない。村上 (1989) は、感覚与件論について、次のように要約している。すなわち「人間の認識は、まず第一段階として、感覚に万人共通の与件が与えられ、次に第二段階として、人間はそれぞれに備わった解釈体系を働かせてそれを解釈している、ということになる。この第二段階は、しばしば食い違うが、第一段階こそ、すべての知識の基礎となるべきであり、理想的にいえば、そこだけですべての判断が決まれば、知識は純粋に『客観的』になり得るのではないか」である。

 このような知覚の二段階仮説は、「その内容が質料的・感性的内実からみて何で<ある>のかということ」と、「その内容が認識の関連のなかで何を<意味する>のかという問題」(Cassirer, E., 1910) を、接木のようにして接合するものである。第一段階では、どの人も同じものを受け取ることになるが、これは「ロールシャッハ・インクブロット法には、理論の相違を超越する多大な力があり、被験者のパーソナリティ特徴について、同じような像を描き出すための熟練を可能とするのである」(Weiner, 1995) という説明に対応するであろう。第二段階では、同じ感覚与件に別様の主観的解釈が与えられるために異なった結果が生じることになるが、これは「有能なロールシャッハ実践家が、理論的方向づけの相違のせいで、被験者のパーソナリティ特徴について甚だしく異なった結論を描出するように導かれてしまうのだけれども、そうしたことを未然に防ぐような、よき議論の前提などない」(Weiner, 1995) という説明に対応するであろう。

 このように理解すると、「ロールシャッハ・インクブロット法は理論を超越しているので、理論的選好にかかわりなく、われわれは一つ屋根の下に例外なく住まうことができるのである」(Weiner, 1995) という一見すると平等な全体論は、理論に基づかない論理実証主義的なアプローチを頂点とし、それに従属する理論的アプローチ群から構成される、一種の全体主義へと意味を変えることになる。つまり、ロールシャッハ解釈の各種の形式が、特定の単一アプローチを頂点として垂直的にヒエラルキー化してしまうのである。

 感覚与件論に話を戻そう。Weinerが述べているように、あるいは感覚与件論が前提としているように、所与はたんに記述されるだけなのであろうか。答えは否である。ここでは、Cassirer (1910) がWilliam Jamesの概念である「心理学者の誤謬 (the psychologist’s fallacy)」を取り上げて、「われわれがある一定の心的事実を<表わし>、それを簡単に<伝えうる>ようにするために使用する手段が、この事実そのものに含まれている現実の要素と受け取られるのである」と説明しているような、すり替えが起こっているのである。さらにいえば、所与はたんに記述されるのではなく、一定の概念に即応して整形される。つまり記述は、概念によって論理的に先取りされているのである。これは、論理実証主義が前提とする感覚与件論に対してHanson, N.R. (1958) が提出した、「理論負荷性 (theory-ladenness)」テーゼである。臨床家は、感覚与件を通じてあるがままの世界を観察するのではないし、純粋無垢であるはずのいわゆる観察事実は、すでに理論を背負って解釈されたものである。したがって、臨床家にとって見ること (記述すること) と解釈することは実は統一的なひとつの行為なのであって、二段階に分断された別々の行為ではないのである。

 導き出される結論は、Weinerとは正反対になる。臨床家の観察内容 (知覚内容と表象内容) をクライエントのパーソナリティに関わる論理的な概念に形成するためには、何らかの理論が必要である。つまり臨床家は、それ自体は見えない視点として与えられるだけであるが、論理的に先取りされた理論なくしては記述することさえできない、ということである。それに伴って、理論に基づかないアプローチに依拠すれば誰にでも同じ感性的素材が入手可能で、理論的なアプローチがそれを異なった概念的形式のもとで捉える方法であるとする考えも無意味になる。というのは、理論に基づかないアプローチも実は何らかの理論に負荷されているはずであり、それさえも理論的なアプローチのひとつとして相対化した上で再把握されるからである。

 ここで、論理実証主義的なアプローチと解釈学的なアプローチの分離主義は崩れ、前者を頂点とした全体主義ではなく、真の意味での全体論として、われわれは一つ屋根の下に平等に住まうことができる。もちろん、この立場を徹底すると相対主義に陥るが、それについては感覚与件を出発点とするのではなく、「われわれに与えられているのはただ<ひとつ>の現実である」(Cassirer, 1910) ということを出発点とすることによって、回避されるであろう。

 次に、「いつもおのれのアプローチを理論に依拠しないものとして述べてきた」(Weiner, 1994)、Exnerの見解について検討を加える。極めて興味深い論争がKleiger, J.H. (1992a;1992b) とExner (1992) とのあいだで繰り広げられており、われわれはそこに、ロールシャッハ・テストと理論に関するExnerの明快な考え方を読み取ることが可能である。

 そこでExnerが提出した「見出されたものの合成 (composite of findings)」なる概念は、理論的なアプローチに対する「刺激的な挑戦」である(Andronikof-Sanglade, 1995)。Exner (1992) は、包括システムを構成する「見出されたものの合成は、それがどんなものであるにせよ単一のパーソナリティ理論や精神病理学理論にぴったりと適合するものではないし、それをもろもろの理論モデルと抱き合わせるような仕方で歪曲したり、無理に押し付けたりするようなことはしたくなかったのである」としている。見出されたものの合成とは、一体何なのであろうか。おそらく、見出されたものの合成とは、直接的には構造一覧表を構成する各指標のことなのであろう。そして、見出されたものとは、各指標を構成する要素的なスコアのことなのであろう。しかし、Exnerは厳密に両者を区別して使い分けているわけではないようである。

 この論文の中で、Exnerは「Kleigerが指摘するように、包括システムは非概念的なものであるとはいえないが、基本的には理論に依拠しないものである」と述べている。それに対してKleiger (1992b) は「テスト解釈に対する理論的アプローチと経験的アプローチを暗に二元化して、本題からそれるようなつまらない議論を展開している」と批判している。たしかに、Exnerの次のような陳述、つまり「理論によって、それより先に見出されたものを統合するための有益な方法がもたらされることは分かっている。しかし、データの解釈を、見出されたものの統合と混同してはならない」であるとか、「揺るぎのない見出されたものに表現されていることを利用しようとしながら、見出されたものを概念的に説明するために、多くの理論的モデルを渉猟したのである」は、混乱を招くばかりである。

 要点をおさえると、次のようになるであろう。Exnerのいう“findings”が理論に先立って見出されるとされていることや、「見出されたものに表現されていること」という表現から、やはり彼も、「名辞がいやしくも有意義であるためには、感覚与件の名前か、そのような名前の複合体か、あるいはそのような複合体の短縮形か、そのいずれかでなければならない」として、概念が感覚与件の「直接報告」に還元可能であるとみなす、論理実証主義的な「還元主義 (reductionism)」(Quine, W.O., 1953) に依拠していることは明白である。したがって結論は、Weinerに対するものと同じである。

 包括システムの「感情の調節、情報処理の効率、非論理的推論、ストレス耐性などは、その人の行動に直接的に見出される。したがってそれらは、精神分析の場合のような (エディプス・コンプレックスのような-田澤注) 観念的構成体との関連ではなく、現勢的行動との関連において測定したり規定したりすることができる」(Andronikof-Sanglade, 1995) という評価を、つまり「その人の行動に直接的に見出される」という評価を、私は与えることができない。Exnerも基本的には感覚与件論の伝統のうちにあり、彼のいう「見出されたもの」には、すでにそれを超えた規定が、つまり諸要素をある統一的集合に統合するための対応づけの概念がアプリオリに置き入れられている。彼はこの「概念」によって、アポステリオリな思惟の形象ではなくアプリオリな存在の構成要素を意味しており、知覚の受動的次元、つまりボトム・アップ的な帰納的・分析的推論過程しか考慮していないようである(注釈2)。

 いずれにせよ、受動的な知覚の過程は、トップ・ダウン的な演繹的・綜合的推論過程としての能動的な判断の過程と分離されることはない。そこに見出されるものは、実は臨床家が能動的に見出すものなのである。加えて、実際、包括システムは情報処理「理論」あるいは認知「理論」に依拠しており、さまざまな理論の連続体を仮定すれば、それは精神分析理論と程度の差しかない。もちろん、見出されたものの合成と抱き合わされる経験的な諸概念と、精神分析理論とのあいだにもたかだか程度の差があるにすぎないのである。

 結論である。論理実証主義的アプローチは理論に依拠しない帰納的・分析的アプローチであり、解釈学的アプローチは理論的な演繹的・綜合的アプローチであるという二元論は、修正する必要がある。理論を概念と呼び変えようが、原理やモデルという言葉を使おうが、いずれにせよ何らかの照合枠がないかぎり、われわれは一定の秩序の下には何も認識することができないわけであるし、さらには、何かひとつの理論に限定するように選択が強制される理由もまったくない。分析と綜合、アプリオリとアポステリオリの区別は、「連続主義 (gradualism)」(野家, 1993a) によって無効化されるのである。


Ⅲ.感覚与件論を超えて


 ロールシャッハ状況において、クライエントはどのようにインクブロットを認識しているのであろうか。このような問いに答えるのは反応過程論であり、これまでも実にさまざまな議論が展開されている(ACklin, M.W. and Wu-Holt, P., 1996;Andronikof-Sanglade, A., 1995;Exner, J.E., Armbruster, G., and Mittman, B., 1978;Exner, J.E., 1996;Gold, J.M., 1987)。

 ロールシャッハ状況に限定しないで、われわれはどのように世界を認識しているのであろうかという問いを立てるとしよう。するとそれは、哲学の世界では「認識論」や「存在論」と呼ばれる分野に他ならない。認識論とは人間の認識能力を検討する哲学の一分野であり、認識とは対象をひとつの統一体として捉えようとする意識の活動のことである。そして、存在論とは、存在するもの一般についての認識に関わる分野のことである。

 このような哲学の認識論や存在論にはさまざまな立場があるのだが、ロールシャッハ・テストの反応過程論はどうであろうか。すでにExnerの包括システムが感覚与件論に依拠していることについて述べたが、それはRorschach (1921) 以来、現在に至るまで、ロールシャッハ・テストの反応過程論に脈々と受け継がれてきたことなのである。その意味で、人間運動反応Mの理解にかぎられるが、Malmgren, H.(2000) が旧態依然とした連合主義 (associationism) からの脱却と、最新の哲学および心理学の取り入れを訴えていることは、特筆すべきであろう。以下に、私の考える代表的な反応過程論の諸説を要約して提示する。

 まず、原点であるRorschach本人である。ロールシャッハ・テストの創始者であるRorschach (1921) は「無作為的絵柄の解釈 (Deutungen) はむしろ知覚(Wahrnehmung)と統覚(Auffassung)の概念に属する」と述べ、この「形態解釈実験を知覚の検査と呼ぶことの正当性は疑いえない」と断言している。ところが、彼にとって知覚とは「現存するエングラム(記憶心像)を新しい感覚複合体に連合的に同化させること(Angleichung)」であり、統覚とは「感官知覚の複合体をそれに関連しているものと同一視すること(Identifikation)」(知覚をそのうちに包含するより広い概念)であるから、ここには感覚与件の受容+記憶、あるいは感覚与件の受容+判断なる知覚の二段階仮説が認められる。これは、いわゆる感覚与件論に他ならない。つまり、色や形といった感覚の諸要素からなる複合体(感覚与件の集合)に記憶や判断が加わることによって、はじめて対象の知覚が成立するというわけである。

 彼の感覚与件論は、師であるEugen Bleulerから受け継がれたものである。そして、Bleulerの観念連合心理学説(統合失調症における連合の弛緩)はもともとWilhelm Wundtの連想心理学ないし要素主義心理学を応用したものであった。その意味で、ロールシャッハ・テストの解釈仮説には、多少なりともWundtの影響が及んでいるはずである。

 そうした諸要素の連合なる考え方は、すでに述べた知覚にかかわる叙述に顕著に認められるし、その他には、たとえば「運動反応(B)は、形態知覚プラス運動感覚の流入によって決定される反応である」とか、「大部分のB反応においては、同化の過程ですでに形態エングラムと運動感覚的エングラムとが稲妻の如きはやさで混ざり合うという印象、つまり、見られた対象の形と運動は同時的に把握される(一次的B)という印象が強いのに対し、別な場合には、まず絵柄の形が、つづいてその運動が知覚されるように見える(二次的B)」といった運動反応にかかわる表現や、あるいは「まず第一に形を、次に色彩をも考慮に入れる形態色彩反応においては、必然的に、心的機能の異なった領域―形の解釈においてはとくに連合的要因、色彩を考慮するときには情動的要因―が合一せねばならない」という色彩反応にかかわる表現に反映されているように思われる。

 もうひとつ、Rorschachの反応過程論に見て取れる特徴は、「知覚-解釈連続体仮説」とでも呼ぶべきものである。彼は次のように述べている。すなわち「無作為の形の解釈は、感覚複合体とエングラムを同化しようとする努力(Angleichungsarbeit)が大きくて、それが心内でそういうものとして捉えられるようになる、ひとつの知覚であるということができる。このように感覚複合体とエングラムの間の不完全な相同性(unvollkommenen Gleichheit)を心内で知覚することが、解釈という性格を知覚に附与するのである(鈴木訳を一部修正した)」である。

 難解である。彼によれば、解釈と知覚の違いは「連合的要因にある」のだけれども、「知覚」とは「同化の仕事(Angleichungsarbeit)が意識されることのない同化」であり、解釈とは「同化の努力(Angleichungsarbeit)の意識化を伴う知覚」である。つまり、現存するエングラムを新しい感覚複合体に連合的に同化させる際に、それが難なく進行すれば知覚であり、不一致が意識されれば解釈になるというわけである。

 さらに、解釈と対比して知覚の例証としてあげられているのは“bestimmen”と“erkennen”という言葉である。前者は「一本の木を知覚する場合」や「知り合いの顔を再認する場合」のように「本来の知覚(eigentlichen Wahrnehmung)」が問題になっていることを示唆するもので、絵柄を「決めつける」、あるいは「他のものではないこのものとして名づける」といった意味であろう。このような人たちは「ほかの被験者が絵柄の中に何かほかのものを見たら、驚くことさえある」のだという。後者は「知能の欠陥をもった者」が絵柄を解釈するのではなく、絵柄を「具体的に知覚する」、あるいはそれらが「絵(Bilder)」だっていうことは「分かっている」のだと言い張る、といった意味であろう。

 このように、彼は解釈と知覚を区別しているのだが、その違いについて次のように要約している。すなわち「知覚と解釈の違いといっても、それは単に個人的かつ連続的な性質のものでしかなく、一般的かつ原理的な性質のものではない。それゆえ、解釈は知覚の一特殊例にすぎないのかもしれない(鈴木訳を一部修正した)」である。彼は解釈を知覚のうちに包含して、一般的かつ原理的なレベルでは両者を連続的に捉えているが、一個人の個別的な知覚においては、いわば「解釈としての知覚」と「本来の知覚」を区別しているように思われる。理論的にいって解釈と知覚が連続体上にあるかぎり、双方には程度の違いしかないはずである。しかし、なんとも歯切れの悪いこの一文から、彼が両者の違いを見て取って区別していたことが理解されるのである。

 次に、上記のような感覚与件論とは一線を画するような、ロールシャッハ史上に彗星のごとく現われた斬新な反応過程論を紹介する。

 Gibson, J.J.(1956)は、「インクブロットに対する反応は知覚作用の現われであるといわれるのだが、この語法はその言葉の常識的な意味あいと矛盾するものである。心理生理学的な、現実的な視点からいうと、ロールシャッハへの反応は知覚とは何の関係もない」として、ロールシャッハ・テストを「原物とかなり隔たりのある画像(pictures of low fidelity)を用いて遊ぶ知覚ゲーム」であると断言している。彼のように知覚研究を専門とする心理学者から見ると、ロールシャッハ・テストは知覚実験ないし知覚課題であるとは、決していえなかったのである。

 Gibson(1982)の知覚論は、入力情報を処理することによって認識が成立するという、Exnerの包括システムが依拠するようないわゆる情報処理の理論ではない。知覚は情報の抽出に基づいて直接的に成立するのだという(感覚が呼び覚まされることによるのではない)直接知覚論、あるいは「情報抽出(information pickup)」の理論である。彼のいう生態学的な事物や事象に関する、他者が介在しない「直接的な知覚(direct percepton)」とは、「物質(substances)」「面(surfaces)」「媒質(medium)」などの水準での知覚のことであるが、「このような知覚は、刺激情報≪stimulus information≫(すなわち不変項≪invarants≫)に立脚しており、刺激情報は、探索や移動を通じて抽出される」のだという。

 Gibson(1979)にとってインクブロットとは、「子ども向きのなぐり描きの集まりのようなもの」であり、「何十もの事柄についての情報を含んでいる画像」である。そして、その他の普通の画像と違っているのは、「いろいろな不変項が完全に混ぜ合わされており、そうした不変項のそれぞれが、密接に結びつきあい冗長であるにもかかわらず、互いに相異なっているという点」である。とすると、上記のような知覚論と合わせて考えると、ロールシャッハ・テストは、インクブロットに含まれている不変項ないし刺激情報を抽出する知覚ゲームだということになるのかもしれない。しかし、彼はこのような直接知覚論だけでは、ロールシャッハ・テストを理解することができないと考えていた。

 彼が直接的にロールシャッハ・テストについて論じたのは、1956年の論文(Gibson, 1956)だけである。その中で当時のさまざまな考え方、つまりロールシャッハ・テストをいわゆる「知覚」のテストと考えたり、「想像力」や「空想力」のテストと考えたり、「知覚錯誤(misperception)」(光学的誤情報の抽出とか情報の抽出失敗)を誘発するテストと考えたり、インクブロットの非構造的な刺激の体制化を課すテストと考えたり、あるいは個人の私的世界ないし主観的現実が「見る」プロセスに投影されてその対象が報告されるのだと考えたりする諸理論が批判されている。そして、みずからは「ロールシャッハ反応過程を解明するための打開策は、インクブロットが画像として反応されるものであることを前提にすることである。となれば、ロールシャッハへの反応は特殊な画像知覚なのであって、この種の知覚はそういうものとして研究することができるのである」と述べ、ロールシャッハ・テストを発展させるためには、「明示的で検証可能な視覚理論」すなわち「画像知覚にかかわる特別な理論」が必要であることを訴えた。

 ところが、彼はこの論文でロールシャッハ・テストの画像知覚に関する理論を展開したわけではない。「ブロッティングと呼ばれる一風変わった手続きでインクが塗られた紙から反射する、そうした光によって生み出される特異な光学的変化項を含めて、刺激を分析しなければならない」という有益な示唆を残したまま、その後は絵画の問題に取り組むようになってしまったのである。したがってわれわれは、彼の画像ないし絵画の知覚理論から有益な部分を抽出して、ロールシャッハ・テストに応用しなければならない。画像知覚に関する彼の定義は変遷しているが、結局のところ「画像は、それ自体として面であり、しかも他の何かについての情報を表示しているものである」とか、「われわれは画像の面と画像のなかの面とを区別する」と述べて、「画像知覚の二重性(duality of picture perception)」(Gibson, 1979)を強調するに至った。彼は次のように述べている(Gibson,1971)。


「その絵に表現されている事物に関する知覚を成立させる情報だけを認識できるし、絵画そのもの(すなわち、材料、画風、様式、構図、面とその処理法)に注意を向けることもできる。一方から他方へ観察態度を変えることも、もちろん可能である。また、絵によっては、絵の中に存在する仮想的対象(virtual object)と、絵そのものという現実的対象(real object)との間で、見え方が行きつ戻りつするものもある。……(改行)……この二重性こそが、表現(representation)の本質ではないだろうか」


 このように、絵画とは、描き手によって捉えられた光学的情報、すなわち知覚を成立させる情報の呈示である。その際に問題となるのは、間接的な「把握(apprehension)」あるいは「絵画によって媒介された知覚(pictorially mediated perception)」である。これらのことをロールシャッハ・テストに置き換えていえば、たとえば第Ⅰ図版のインクブロットにコウモリを見る場合それは仮想的対象であり、その面にインクブロットの描かれた図版は現実的対象である。そして、その際の絵画によって媒介された知覚には、把握されたコウモリを特定する情報と、面としての(インクブロットの描かれた)図版そのものを特定する情報が同時に抽出されるという、二重の意識性が伴われることになる。


 次に、知覚ではなく表象に関する彼の意見について触れておく。Gibson(1982)はあくまで「絵画は情報の源である」として、絵画ないし画像を表象として理解することを拒んだ。それは「絵画は、それが描写している事物に類似してはいない。したがって、表象(representation)という語は、絵画を指して用いるべきではない。さらにイメージという語は、途方もなく曖昧である」という一文に顕著に認められる。また、他の箇所(Gibson, 1980)では「表象(representation)とはいったい何なのだろう。かつて自分の視覚に現前(present)していたものを、文字通りに観察者の眼前に再-現前化(re-present)するのであろうか。とんでもない。……『表象』という言葉は、光学的刺激に関するまったく誤った仮定を物語るものである」と述べ、ここでは表象という概念それ自体に対して疑問を呈している。

 このように、彼の理論は、感覚与件論を否定する直接知覚論である。表象世界を否定する姿勢には疑問を呈するものもいるのかもしれないが、ロールシャッハ・テストが光学的なレベルから論じられるべきであることを示唆しており、一考に価するのである。

 最後に、Leichtmanである。もちろん彼(Leichtman, 1996) は、Weiner(1998)が批判するように、知覚過程と連想過程を混同して双方を不明瞭にしたわけでも、ロールシャッハ反応を単なる印象とみなしたわけでもない。彼の独創性は、「認知としての知覚(perception as recognition)」と「解釈としての知覚(perception as interpretation)」を区別し、インクブロットが「画像(picture)」であることをはっきりと打ち出しながら、ロールシャッハ・テストにおける知覚と表象の絡み合いを発達の視点から追跡した“representation”に関する理論(シンボル的表示論ないし表象理論)であるというところに見出すことができるであろう。基本的に彼の理論は、「話し手(addressor)」と「聞き手(addressee)」、「指示対象(referent)」と「シンボル体(symbolic vehicle)」という四つの構成要素からなる、Werner, H., and Kaplan, B. (1984) の「シンボル状況(symbol situation)」に関する考えを応用したものである。「画像表現(pictorial representation)」という視点からロールシャッハ反応と描画の接点を見出し、ロールシャッハ・テストを超えた一般理論への通路を開拓したことも画期的である。

 Leichtman (1996) は、ロールシャッハ反応過程について、「たとえパーセプトの適合性やコミュニケーションの適切性に関わる意思決定によって補完されるにせよ、ロールシャッハ反応は、知覚や連想のプロセスというだけでは、あるいは両者の相互作用というだけでは、十分に説明することができない」と述べている。そして、そこには知覚と連想を合体して両者を一変させる「何か」が絡み合っているとして、対象なり概念を表示するために刺激を利用しようとする「意図(intention)」、つまりインクブロットを他の何かとして見ようとする意図の重要性を説いている。知覚と連想のプロセスは、意図という「上位システム」のもとでその構成要素として統合され、それによっておのれの機能と様式が決定されることになる。Leichtmanにとって「インクブロットは媒介であり、被験者が向き合う課題はそれを何かにすること」である。クライエントは、彫刻家が手やノミを用いて大理石で彫像を作るように、「道具としての眼差しを用いて、それと類似するプロセスに関与する」のである。

 このようにLeichtmanは、感覚与件論とは一線を画する独創的な反応過程論を展開している。彼から学ぶべきは、場の理論や、反応形成過程における意図の重要性であろうか。もちろん、認知と解釈を区別する考え方には、感覚与件論的な知覚の二段階仮説の臭いを嗅ぎ取ることができるし、通常の物の知覚と画像知覚を峻別する姿勢には、一定の留保が必要であろう。

 さて、RorschachからExnerに至るロールシャッハ・テストの反応過程論は、「純粋な感覚与件」+「解釈・判断・記憶・連想・その他」という知覚の二段階仮説であり、哲学的には感覚与件論と呼ばれるものである。はたしてこのような仮説は、インクブロットを目にするクライエントの生きた現実を反映しているのであろうか。大きな疑問である。感覚与件論は、われわれが具体的に生きている日常生活世界とは何の関係もない。われわれの日常において事物の知覚は、個々バラバラな感覚要素を何らかのかたちで加工しなければ成立しないというわけではないし、まず見て次に考える継起的操作によって成立しているわけでもない。このような理論は、ロールシャッハ状況にあるクライエントの現実と、あまりにもかけ離れているのではあるまいか。

 もしも感覚与件論が真実であるとすれば、ロールシャッハ状況についていったものではないが、次のようなこっけいな事態が生起するはずである(Ryle, G., 1949)。


「この囚人がどれほど多くの光のゆらめきを見たり物音を聞いたりするとしても、不幸にも彼はフットボールの試合そのものを見たり聞いたりすることはできない……しかし、事実はそれとは逆に、われわれが観察するのは……試合なのであって、われわれのけっして観察することのできないものが感覚なのである」


 われわれは、クライエントの生きた現実を反映していない、このような感覚与件論を脱した反応過程論を展開する必要がある。それは、感覚与件論とはまったく正反対の反応過程論である。たとえば、Leichtmanが引用しているWernerのシンボル状況論が、われわれの進むべき方向を示唆しているように思われる。Werner and Kaplan (1984)は、「この理論は、知覚物の純粋感覚的(たとえば視覚的、あるいは触覚的)性質といった原子論的な考え方を排し」たもので、「指示対象の形成は感情的要素・内受容的要素・姿勢的要素・心像的要素等によって構成された原初的母体(matrix)からはじまる。そしてこの母体が、シェマ化活動によって導かれ水路づけられて十分な知覚的分節を得るに至るのである」と述べている。

 このように、われわれが目指すべき方向は、感覚与件から出発するのではなく、ロールシャッハ状況という全体的な「場」から出発するような、原子論的な考えとは一線を画する反応過程論に依拠することである。そうすることによって、クライエントのみならず、臨床家のふるまいも含めた、全体的状況の中からひとつの反応が分節化するプロセスが、見て取れることになろう。また、知覚と思考をあらかじめ峻別する知覚の二段階仮説を脱却しようとすれば、その意味でも、知覚と思考が統一された場の理論に依拠する必要がある。そのためには、従来的なモデルを一新するような、新たなロールシャッハ状況論を構築する必要があるだろう。

 クライエントの側の反応過程論は、臨床家の側の解釈過程論と不可分である。その意味で、従来的な感覚与件論に依拠するということは、構造一覧表が完成した段階ではじめて解釈を始めるということ、つまりすでに出来上がってしまったもの、あるいはたんなる結果から解釈を始めるということである。言い換えれば、それは、構造一覧表を構成する数値化された諸変数という部分から、レポートに描かれる人物像の全体へと、「豊饒化」というかたちで歩を進めることである。

 一方、ロールシャッハ状況という全体から、クライエントがそのつど機能する部分へと、「分節化」というかたちで歩を進める反応過程論に依拠するかぎり、われわれの解釈は具体的なロールシャッハ状況からすでに始まるということになろう。これは、インクブロットを臨床面接の媒介として利用する手法に他ならない。

 このような解釈過程の起始点に関わる問題ついては、次に検討を加える。


Ⅳ.解釈はいつ始まるのか


 まず、力強いPhillips, L. (1992) の言葉からはじめよう。引用はAronow, E., Reznikoff M., and Moreland, K.L. (1995) からである。

「Exnerや、ロールシャッハについて叙述するたいていの著者は、出発点としてスコアリング・サマリーから解釈を始めることを好むようである。私は違う。パーソナリティというのは、ロールシャッハ・ブロットに対して反応するクライエントの、そのつどの行動の顕現のうちに直接的に現われ、直接的に観察される最たるものであると思っている」

 Phillipsが批判する包括システム (Exner, J.E., 1991) は、クライエントの言語が記された「プロトコル」、それがコード化された「スコアの継列表」、各カテゴリーの頻度や百分率が記された「構造一覧表」を利用して解釈される。基本的な解釈仮説はあくまで「客観的データ」としての構造一覧表から導き出され、プロトコルやスコアの継列表は、その仮説を点検したり、あるいは新たな仮説を発展させたりするための従属的な位置づけが与えられているだけである。

 Weiner (1994) がいうように、確かに包括システムは、いまや「注意、知覚、論理的分析といった諸過程を伴う認知構造」を評価する実証的なアプローチであることを超えて、「投影や象徴化といった諸過程を伴う主題的イメージ」をも含めて、「パーソナリティの機能を描写するデータを収集する技法」として理解される。彼は「全体として捉えると、ロールシャッハはテストではなく技法である」として、ロールシャッハ・テストをRIM (Rorschach Inkblot Method) と呼ぶことを提案しているほどである。だが、やはり包括システムにおいては、主題的イメージなどに関わる分析は量的分析の後で、なおかつ量的分析の枠組の中で行われるわけであるから、前者はあくまで「二の次 (back seat)」(Aronow, Reznikoff and Moreland, 1995) にすぎないのである。

 解釈は、つまりクライエントに関わる臨床家の理解は、いつ始まるのであろうか。Phillipsはロールシャッハ状況からそれを始める。包括システムに依拠する臨床家は事後的解釈場面で、さらにいえば反応のコード化と集計を経た構造一覧表が完成してから始める。この違い、つまり関与的観察者として反応が形成されるプロセスからすでに解釈を始めることと、クライエントに影響を及ぼさない客観的観察者として主観によって汚染されていないデータを収集し、すでに出来上がってしまったもの(構造一覧表)を出発点としてそこから解釈を始めること、という違いを生むのは、やはり両者が依拠する方法論であろう。結論からいえば、臨床家の「知覚の材料は、事後になってはじめて何らかの概念的形式に鋳造されるのではない」(Cassirer, E., 1910) のだが、それに反して、包括システムには観察と理論を分断する論理実証主義的な帰納法に対する信奉がある。

 このような違いは、事後的解釈場面が重視される量的分析ないしカウンティング・メソッドと、インクブロットを臨床面接の媒介として使用しながらロールシャッハ状況における解釈を重視する手法とのあいだに認められるものである。ロールシャッハ解釈を超えた臨床心理学研究法にまで範囲を広げると、前者は量的研究法として、後者は質的研究法としてそれぞれ理解されるのかもしれない。しかし、質的研究法のなかにも上記の帰納法的な特徴を色濃く残している手法があり、質と量の二分法的思考によっては、ロールシャッハ状況ないし臨床場面そのものをあくまでデータ収集の場とみなして空洞化してしまう危険性を忘却してしまうはずである。

 たとえば、現象学的な立場にあるGiorgi, A. (1997) は、具体的個別の認識から自由変更を経て普遍的な本質の把握に至るEdmund Husserlの形相的還元の手順を応用して、質的研究の手順を、(1)言語的データの収集、(2)データの読み込み、(3)諸部分へのデータの分割、(4)一定の視点からのデータの組織化と表現、(5)研究者共同体への伝達を目的としたデータの綜合ないし要約、という五段階に区分している。彼の手法においても、解釈 (現象学的還元の手続き) が始まるのはあくまで(1)言語的データの収集後であり、やはり具体的な対人関与の場面はデータ収集の場としての位置づけを与えられているにすぎないのである。このことは、同じく現象学的分析を標榜するChurchill, S.D. (2006) においても、同様である。

 ロールシャッハ状況が、事後的に解釈するためのデータをたんに収集する場へと堕することは回避できないのであろうか。豊穣であるはずの臨床場面が空洞化してしまうことを、われわれは回避することができるのであろうか。

 空洞化しつつある臨床場面の復権を狙って、ロールシャッハ状況に遡及して検討を加える。まず、着席する位置に関してである。論理実証主義的な包括システムに依拠する臨床家は、「意図的でないにせよ非言語的な手がかりが、誤った構えを作り出してしまう」ことを回避するために、「対面する配置は決してとらない」(Exner, 2001) ことになっている。Beck, S.J.(1944)によると、Herman Rorschachの原法は、対面か、クライエントの背後に座るものである。また、Klopfer, B. and Kelly, D.M. (1942) は、何よりもまず雰囲気を大切にした上で、クライエントが求めるのであれば横に並んで着席するが、臨床家自身にも図版が見えるように、それからクライエントの邪魔にならないように、若干その背後に着席することを求めている。

 いずれのシステムも、一見するとクライエントが反応しやすいように配慮する目的があって、あるいは古典的精神分析療法を範例として、そのために着座位置を指定しているかのようである。しかし、包括システムが臨床家の着座位置を指定するのは、別の意図があるからである。つまりそこには、反応に及ぼす臨床家の影響を極力排除して、事後的にコード化するための客観的データを収集しようとする意図があるのだ。包括システムが危惧しているのは、臨床家の影響によって諸変数が変化してしまうことなのである。

 包括システムには、他のシステムには見られない特異な施行手続きがある。それは、13個以下の反応数の場合に、最初から実施しなおすことである。変数としての反応数Rは、「構造的データを規範的に (つまり法則定立的に) 使用する際のアキレス腱のようなもの」(Mayer, G.I., 1992) であり、包括システムのみならず、すべてのロールシャッハ・システムにおいて、その諸変数に少なからず影響を及ぼすのである。

 このように、包括システムは、ロールシャッハ状況を経験的な自然科学における観察と実験の手法に近づけるために、臨床家とクライエントとの相互作用を極力回避すると同時に、テストとしてのアキレス腱 (つまりR) を死守しようとする標準化された心理測定法的な施行法に依拠している。ロールシャッハ状況は、事後的に解釈すべきデータを収集する目的のためにあるのだ。そこに予め立てられた概念 (展望するための何らかの視点) が何もないとすれば、それは純粋な観察あるいは「いかなる概念的前提をも混入しないと考えられる『純粋の』経験」(Cassirer, 1910) であり、収集されたデータは、臨床家の主観によって汚染されていない (バラバラの) 観察のたんなる帰納的総和ということになる。包括システムに依拠する臨床家が構造一覧表から解釈を始めるということは、実は「生の事実が数学的シンボルによって表わされ、それと取り替えられてはじめて、その事実を現象全体と体系的に統合する概念的把握 (das Begreifen) という知的作業が始まる」(Cassirer, 1910)、そうしたFrancis Bacon的な帰納主義を意味しているのである。これは、時々刻々と変化する瞬間に身をおく能力、あるいは個々の個別性をそのまま捉える能力を減退させる、臨床場面の空洞化ではあるまいか。しかしながら、このようにして観察と理論を分断し、双方の解釈学的循環を無視することは、すでに述べたように、Hanson(1958)の「理論負荷性 (theory-ladenness)」テーゼによって否定されるのはいうまでもない。

 その一方で、上記の自然科学的な観察とは異なる精神分析的アプローチによって、ロールシャッハ・テストを施行する臨床家も存在している。実験的にではなく、あくまで臨床的に施行するのである。たとえば、Smith (2005) は「パーソナリティ・アセスメントというのは、客観的データを収集してそれを分析することではない。それは人間的な出会いであり、あらゆる人間的な出会いがそうであるように不確定性を伴っている。もちろん、そこに関与する両者に対して、それが変化と成長をもたらす可能性にも満ち溢れているのである」と述べている。彼にとっては、心理療法のみならず、ロールシャッハ状況も出会いに他ならないのである。

 このように、出会いを強調する臨床的な手法と、包括システムの施行法は対照的である。しかしながら、自然科学の観察法が対象にまったく影響を及ぼさない静的観察で、臨床的な手法が対象と相互作用する動的実践であると、単純に規定することはできないのではあるまいか。というのは、自然科学における純粋無垢の観察に (無いものとして捨象されている観察者の) 主観/主体を導入した場合には、両者のあいだにそのような差異を指摘して強調することが困難になってしまうからである。Weizsӓcker, V.v. (1988)は、以下のように述べている。

「実験し、配置し、動かし、行為することによって対象が特定の存在になるまで調整し、対象を攪乱したり刺激したり興奮させたりすることによって客体/客観を生み出す-これが経験的および理論的な自然科学における観察/観測と実験の手法である。すべての規範的なものの中にも、同時に攻撃的な契機が含まれているのだし、[真理の]アプリオリによる後見と、あらゆる法則による命令が、極めて容易に力ずくという性格をおびることになるこの強引さを、われわれの目から覆い隠してしまう」

 言うまでもないが、これはあくまで自然科学における実験場面について描写したものである。純粋無垢の観察者などひとつの虚構にすぎないことが、あるいはかくあるべしという理想にすぎないことが理解されるであろう。したがって、私は、Smith (2005)とともに次のように述べることができる。すなわち「私は決して、この施行の様式 (標準化された施行の様式のこと―田澤注) を変更したアセスメントへのアプローチを是認するわけではないし、中立的で客観的な試みの放棄を勧めているわけでもない。というよりもむしろ、どんな出会いであれ、それは人の心に影響を及ぼすこと、それから他者に関するわれわれの理解が、われわれに与えるその人のインパクトの所産であること、これらを念頭に置いておくことが極めて重要である」ということである。

 中立的にロールシャッハ・テストを施行し、客観的なデータが収集されれば、たしかに当初の目的は達成されるであろう。だが、そこには落とし穴がある。帰納法が目的とするのは理論の生成、つまり事実を (記号であれ、図式であれ、文章による命題であれ) 何らかのシンボルに変換することであるから、臨床家は感性的直観の具体的現実からますます遠ざけられてしまうのである。したがって、臨床家が構造一覧表において到達するのは、「われわれを感覚の真の現実性からますます疎遠にする新しい<命名 (Namengebung)>にすぎない」(Cassirer, 1910) ことになろう。

 では、精神分析的アプローチをとるLerner, P.M. (1996) はどのように解釈するのであろうか。彼のアプローチは、Schachtel,E. (1966)の体験的アプローチ、Mayman, M. (1964) の臨床的-直観的アプローチ、Kohut, H. (1978) の共感的な現象学的アプローチを取り入れた臨床的なもので、推論の流れとしての解釈過程は、(1)テストを施行してプロトコルをコード化し、それを一覧表にまとめる「データ収集(data gathering)」の段階→(2)一覧表に整理されたスコアを確認する「量的分析(quantitative analysis)」の段階→(3)質的なプロトコルのデータと個々のコードを関連づけながら一連の推論を導き出し、実質的な解釈が開始される「一次推論(first-order inferences)」の段階→(4)レポート作成に向けて、各々の推論の分類と結合をワーク・シートに記入しながら行う「変換(transformation)」の段階→(5)最終的な「レポート作成(report writing)」の段階に大別される。

 彼のように事後的な「一次推論の段階」において共感や直観を重視して、量的分析よりもプロトコルの質的解釈を優先すれば、具体的現実から疎遠になることは回避されるであろうか。このようなアプローチ、つまりロールシャッハ状況においてではなく事後的に解釈を始め、レポートの作成を終結とするような直線的アプローチを総称して、本論では「直線モデル」と命名する。このようなアプローチでは、プロトコル解釈を重視しようが、構造一覧表による解釈を重視しようが、次のような結論に至るだけである。つまり「われわれが所与の直観にたいして行なうすべての論理学的作業はただ単にわれわれをその直観からしだいしだいに遠ざけることにしか役立たないという、奇妙な結論が出てくる。所与の直観の内実とその構造をより深く捉えるのではなく、われわれはもっぱら個々の事例に固有の特徴がすべて見失われた浅薄な図式に達するにすぎないということになる」(Cassirer, 1910) ということである。

 このような問題を解決するためには、臨床家の解釈過程としての認識の最終段階に、直観を置くことである。というのは、「直観は特殊を普遍にただ包摂するだけでなく、両者をただひとつのまなざしのもとにまとめあげるからであり、そしてそれによって、すべての存在の諸原理を抽象的な考察のもとに隔離するのではなく、諸原理をそれらが直接機能している現場において捉え、このようにして事象のあくまで特定の一回かぎりの秩序を見渡すから」(Cassirer, 1907) である。直線モデルのように、構造一覧表に始まりレポート作成に終わる解釈過程論では、観察と理論は分断されたままである。観察と理論を分断しないのであれば、解釈はすでにロールシャッハ状況から始まるはずである。だが、そこから解釈を始めたとしても、構造一覧表を経てレポート作成に終わるのであれば、結局はそれも直線モデルと変わりないことになる。そこで、レポート作成の後に臨床場面に帰還して、レポートに記された命題が直接機能しているであろう現場で、それを直観的に捉えるというわけである。テスト結果のフィードバック面接がこれにあたるであろう。

 ロールシャッハ状況、事後的解釈場面、それからフィードバック面接という三つの諸段階がここに出揃った。しかし、これらをただつなぐだけでは、たんに接木するようなものである。これらのプロセスを、節目によって分節化したひとつの全体として統合するには、上記の直線モデルに代わる新たな原理が必要である。


Ⅴ.法則定立的方法と個性記述的方法


 Exnerは、ロールシャッハ・テストを「個人差のテストである」(Exner, 1994) と規定して、「ある人物についての記述が、科学的法則に基づいた結果と個性記述的結果の両方から引き出されたものであるということが、ロールシャッハ独自の特徴である。だからこそ、ロールシャッハはその個人の唯一無二性をつかむことができる」(Exner, 2000) と述べている。たしかに、臨床家の到達すべき地点は、クライエントの個別性・特殊性・固有性について理解することであるのかもしれない。だが、レポートの作成を目的とするかぎり、現実の個体性は無化されてしまうことになるのではあるまいか。というのは、クライエントのパーソナリティ像が「~は~である」という命題に形成されるということは、ロールシャッハ状況においてはじめに保持されていた感性的直観 (直観的個別事実) が度外視され、現実から疎遠になった抽象化を目指すことに他ならないからである。

 レポートの用語が抽象的であるから個別性を表現できない、という側面もあるのかもしれない。Kleiger (1992a) がいうように、包括システムの「要求刺激」などの「認知的メタ心理学的ジャルゴン」や、非個人的な諸力や諸構造を表わす抽象的言語としての「精神分析的メタ心理学的ジャルゴン」は、クライエントを具体的に理解するためには不必要かつ不適当である。しかし、問題はそれだけではあるまい。そもそも個性記述的方法ではない、法則定立的方法である心理測定法は、クライエントの個別性を捉えることができるのであろうか。

 臨床心理学の世界では、Allport, G.W.(1937, 1938) 以来、一般法則の発見を目的とする「法則定立的 (nomothetic)」アプローチと、個別事例の唯一無二の特質を徹底して研究する「個性記述的 (idiographic)」アプローチのふたつに、パーソナリティ・アセスメントの方法を区別するのが一般的である。ロールシャッハ・テストの量的分析は前者として、質的解釈は後者として、それぞれ捉えることができるであろう。そして、このような考え方は、自然科学的手続きとしての法則定立的方法ないし一般化的方法と、歴史的手続きとしての個性記述的方法ないし個性化的方法を区別し、自然科学的な概念形成 (類概念) と歴史的な概念形成 (個体概念)、それから「常住不変なるもの (das Immergleiche)」と「一回的なるもの (das Einmalige)」との対立から出発する、Windelbant, W. (1894) や Rickert, H. (1898) の哲学にまで遡ることが可能である。

 個性記述的な方法と法則定立的な方法の違いは、次のPoincaré, H. (1902) のたとえ話によって理解されるであろう。つまり、一回的な特殊的・歴史的事実を重視する歴史家は「事実だけが重要である。John Lackland (土地のないジョーン・ラクランド王) はここを通過した。賛嘆すべきことがそこにある。私が世界の全理論をそのために投げうってもと思うひとつの実在がそこにある」と述べ、普遍法則を重視する物理学者は「John Lacklandはここを通過した。そんなことは私にはどうでもいい。その人がそこを再び通過することはもうあるまいと思われるからである」と述べるわけである。

 Cassirer (1910) は、Rickertの法則定立的な自然科学的概念形成の理論について、「思惟の『概念』に向かう方向と現実に向かう方向とは、そこでは互いに排訴しあっている。というのも、概念が自らの課題を実現するにつれて、直観的個別事実の領域はますます後退していくからである」と述べている。法則定立的方法におけるすべての概念形成は現実の個体性を無化し、それと引き換えに、「事物の自然法則的必然性への洞察」を得るというわけである。Rickertにとって、現実を概念的に理解することは、「現実に固有の基本的内実を消し去ることと同じ」であり、概念は、個別的実在の条件を捨象して表象される「共通なるものの表象」つまり「ただ漠然たる類表象 (Gattungsbild) の普遍性」を指向するにすぎない。

 法則定立的方法がクライエントの生きた個別性を捉えることができないのは、こうした個別事実の後退によるだけではない。われわれが臨床場面で法則定立的な方法によってアセスメントを行うことにはどんな意味があるのか、もう少し考えてみよう。

 クライエントも、臨床家も、個別的な欲望や嗜好を持った個人である。そして、客観的な心理測定法は、そのような擬人的要素を排除すると同時に、臨床家の個別的感覚の感性的内容 (印象の個人的特殊性やその内的異質性) を除去して、万人に共通するある類的構造や諸特性を測定しようとする。それによって測定された「あらゆる個別は、全体に対するその位置を示す添字を伴い、この指標にその対象的価値が刻印されている」(Cassirer, 1910) ことになる。クライエントはある特性において数値化され、一義的な秩序をなす固定した座標系の中に位置づけられることによって、はじめて他よりも~であるという比較が可能となるのである。

 ロールシャッハ・テストに関して、Sugarman, A. (1991) は、「テスト・サインを臨床上の特徴と結びつけた定量的調査研究の結果にのみ基づいて推論を行うことは、MMPIのような客観的テストに歴然としている数理的かつ非個人的なアプローチと何ら変わらない。このようなアプローチに依拠したレポートでは、個人のパーソナリティ構造に備わる唯一無二性や固有性を理解することなど、ほとんどできない」と述べている。なるほど、法則定立的な方法による「注意の焦点づけが及ばない観念活動は平均的な水準にある」という陳述は正確には違いないが、それは臨床にはほとんど「関連性がない」し、「彼女は怒りっぽい人である」という「特性-心理学」による陳述も、「特性等価的行動 (traitlike behavior) を生み出す、根底にあるダイナミクスについて何も語っていない」(Smith, 1997) のである。

 客観的テストが個別性を捉えることができないのは、「個人差」が「個別性」とは異質の概念であるからに他ならない。Smith (1994) がいうように、法則定立的な「テスト (testing)」は個人間の比較が問題であり、「アセスメント (assessment)」は個別的パーソナリティの全体的布置のなかでデータを理解するという意味で、あくまで「個人内の比較 (intra-individual comparisons)」が問題なのであって、個人差は前者に、個別性は後者に、それぞれ属する概念なのである。

 われわれが用いる心理学的な尺度とは、諸要素を比較して順序づける観点が理論的に確立され、実証的に基礎づけされたものである。具体的印象としての感性的な質が、「系列形式をした規定に翻訳されることによって」心理学的対象となるわけであるが、ロールシャッハ状況におけるクライエントの言語表現は、「諸性質の総和」から「何がしかの比較尺度に関して定められる値の数学的総和となる」(Cassirer, 1910)。言い換えれば、尺度とは「所与を系列において捉え、その系列のなかでそれらにきまった位置を割り振るための」手段であり、それによって変換された値が帰結するのは、「ある全体系のなかに一義的に規定された位置を定めること」(Cassirer, 1910) である。Cassirer (1910) がいうように、「われわれがある物理学的対象ないしは事象を規定する一定の数値とは、普遍的な系列関連への秩序づけ以外の何ものをも語っていない。個別の定数は、それ単独では何の意味ももたない。その意味は、他の値との比較および判別的統合によってはじめて確定される」のである。

 このように理解すると、ロールシャッハ・テストの量的分析を含めて、法則定立的な心理測定法一般が目論むのは個人間比較であるということであり、そのようなわけで、パーソナリティの個別性を捉えることができないということになる。では、個性記述的な質的解釈によるのであれば、われわれは特殊・個別的なパーソナリティを捉えることができるのであろうか。答えは、否である。というのは、「歴史学的な概念もまた、一般に、多かれ少なかれ、強い抽象の産物であり、したがって、そのものとしては自然科学の概念が直観的でないのと同じくらいに、直観的でない」(Cassirer, 1910) からである。われわれは、このように「静的な『個性記述的』対『法則定立的』のような痩せた概念」(中井, 1990) に依拠しているかぎり、個別的なパーソナリティを捉えることはできないのである。

 ある人物についての記述が、法則定立的方法と個性記述的方法の両方から引き出されることにロールシャッハ・テストの独自性があり、だからこそロールシャッハ・テストは、その個人の唯一無二性をつかむことができる、というのがExnerの論旨であった。しかし、これまで二つの異なる方法論について検討を加えてきたことから理解されるであろうが、彼の主張には根拠が見出せない。これまでのロールシャッハ・テストは、あくまで異なる方法論を無頓着に併用してきただけなのであって、両者が統合されたものであるとはいえない。つまり、ロールシャッハ・テストにおける量的分析と質的解釈は、「それぞれがまったく異なった科学の世界で営まれるので、原則として互いの誤りを証明することができないし、矛盾することもない」(Andronikof-Sanglade, 1995) といえるだけであって、方法論を併用すればその個人の唯一無二性をつかむことができるなどとはいえないのである。異なるパラダイム間の「通約不可能性(incommensurability)」については、Kuhn, T.S.(1970)が論じている。

 このように、法則定立的方法と個性記述的方法はそれぞれ異なった論理的次元にあるので、ロールシャッハ・テストの量的分析と質的解釈の結果のあいだには何の矛盾も対立も生じることはない。それゆえ、一方を他方に一元化することは、原理的に不可能である。われわれが目指すのは、これら両者の間である。すなわち「われわれに求められているのは、主観を客観化することなく主観のままで『非合理的』に、しかも『科学的』に思索するという、困難な途である」(木村, 2005) ということである。

 具体的にいえば、それは「事実を超えた仮説を検証するためではなく、事実そのものにある内的意味を与えるため」に「現象の内具的性格の分析」に入り込んで、「ただひとつの症例を徹底的にさぐり、諸症状を内的につき合わせようとする」(Merleau-Ponty, M., 1988) ものである。言い換えると、計量的知識によってクライエントを普遍的な系列関連の秩序のうちに客観的 (数量的)に位置づけるのではなく、ただ一人のクライエントの内在的な反応の分析に専念するということである。さらにいえば、次の木村 (2001a) のようになるであろう。

「『患者の全体』は、患者の個々の言表の『全部』を残らず寄せ集めてみても得られない。患者の全体はむしろ患者の個々の行為、個々の言表のすべてに宿っている。『全部』は個別を含むけれども、『全体』は個別に含まれる。しかしたった一つの個別から単刀直入に全体を直観する名人芸はさておいて、一般には全体の把握に至るために個別についての多数の経験を重ね合わせる作業が必要となる」

 経験の全体は、個々の感性的所与のたんなる総和ではない。われわれには、「個別と全体とのあいだの『解釈学的循環』の中に身を置くこと」(野家, 2001)、すなわち行為的直観が必要である。だがその直観は、経験的全体を一気に「踏み越える (uberschreiten)」ことではなくて、「規則的な歩みにおいて通徹する (durchschreiten)」(Cassirer, 1910) ことである。そして、個別性と内在性を超えた普遍性と超越性は、他の値との比較によって「もの」としての個別の定数を確定するような客観性に求められるのではなく、個別事例に関する経験の蓄積と、臨床家各自にとって観察可能な「こと」を記述する間主観性に求められる。内在的であると同時に超越的であり、個別的であると同時に普遍的でもあるようなアプローチが、木村 (2001a) のいう方法論としての「臨床哲学」である。

 たんなる個性記述的方法であれば、いまここで何が起こっているのかという、ある出来事の個別的な意味が重視されるであろう。つまり、他の誰でもない「この私」が、特定の地点と瞬間において体験する意味が重視されるのである。それに対して、法則定立的方法であれば、個別的な出来事そのものではなく、出来事が生起する諸条件が探究されることになる。つまり、同じ出来事がいつでもどこでも誰にでも観察可能であるような一定の諸条件や、諸条件の変化に応じて出来事がどう変わるのかが探究されるのである。

 われわれがクライエントの個別性を捉える際には、いまここで何が起こっているのか、それについて知る必要があるのはいうまでもない。では、一回的な出来事の意味にとどまったままで、出来事の反復やその生起を左右する諸条件について探求する必要はないのであろうか。通常われわれは、直接的に知覚されたり直観されたりしたもの、つまりいまここに与えられている個別的存在に繋ぎとめられている。われわれがそうしたいまここの感覚に固執してそれを超越しないのであれば、つまりたんなる感覚の所与性にとどまるのであれば、それは意識に与えられた事物しか実在として認めない、いわゆる現象主義にとどまるのではあるまいか。

 われわれに求められるのは、そうした対立しあう二元性を互いに結びつけ、相互浸透させることである。つまり、クライエントの個別性を反復可能性の相のもとに見て取り、類似する出来事の反復のうちに現われる規則性のうちに、個別的かつ特殊的な出来事を組み入れるということである。あるクライエントとのあいだで生起し、さまざまに変容する現象からひとつの共通した意味、つまりパターンを抽出することによって、そのつどの個別的なもののうちに、クライエントのパーソナリティ全体の表示を見て取るのである。簡潔にいえば、法則定立的方法と個性記述的方法という二分法を拒絶するということは、個別的内容を論理的に分節化し、その内容を分節化した全体のうちに秩序づけることなのである。

 われわれが臨床場面で行っているのは、あるクライエントと他のクライエントを比較する、法則定立的な個人間比較ではない。われわれは、一人の個別的なクライエントと治療的に関与しながら、個人内比較によってそのつどパターンを発明するのである。けれども、あるクライエントの個別的な同一性の定立は他のクライエントとの区別のうちで行われ、他のクライエントとの区別はそのクライエントの個別的な同一性の定立のうちで行われることに疑いはない。もしもそれがなければ、われわれは個性記述的方法のようにパーソナリティにおける「内在」ないし「個別性」のみ扱い、「超越」ないし「普遍性」には無頓着であるということになろう。

 もちろん、いま目の前にいるクライエントと他のクライエントたちとの比較は、一義的な秩序をなす固定した座標系を用いてなされるのではない。では、どのようにして行われるのであろうか。おそらくそこには、個別事例に関する臨床家の経験の蓄積が絡んでいるはずである。

 われわれ臨床家とクライエントとの関係は、「存在的-実在的な関係ではなく、シンボル的関係」(Cassirer, 1929)である。つまり、「単なる知覚においてさえもすでに、それはけっして直接与えられているものではなく、知覚を介して表示されているにすぎず、知覚において『表出[=代理]レプレゼンツイーレン』されているにすぎない」(Cassirer, 1929) のである。このように考えると、臨床家の経験はその身体に歴史性として蓄積され、そのようにして蓄積された多数の個別事例との経験を地として、その上にいま目の前にいるクライエントが図として現われると理解されないであろうか。言い換えると、あるクライエントとの関係においてその個人内に内在する固有の部分的パターンは、その人のパーソナリティ全体を地としてそのつど姿を現わすだけでなく、その臨床家にとっての他のクライエントたちとの経験をも地として、その上に図として姿を現わすのである。

 では、われわれが指向すべきアプローチにおいては、量的分析はどのような位置づけを得るのであろうか。Smith (1997) は、包括システムを精神分析的アプローチに取り入れる立場をとっている。彼は包括システムに基づいてプロトコルをコード化し、構造一覧表を利用して構造的変数を考察することから解釈を始めるのだが、構造的な変数と物語的なデータとのあいだを往復することによって両者は統合されるのだという。

 以前の彼 (Smith, 1991)は、理論に基づかない量的分析を構造的データに適用し、精神分析理論に基づく質的解釈を反応内容に適用するような立場に対して、「作話的結合も同然である」と批判していた。認識論的な矛盾を考慮せずに、安易に統合をはかる立場に、批判的であったのである。このことは、「異なるアプローチから派生する異なった哲学的意味合いと理論的意味合いが与えられるのならば、同一人物に関する一組のデータに一方のモデルを、もう一組のデータに他方のモデルを当てはめるだけなら、それは解釈的な意味をなさない」(Smith, 1994) という言葉にも現われている。

 だが、Kleiger, J., and Peebles-Kleiger, J. (1993)、Kleiger, J. (1997, 1999)、Ivanouw, J. (2000)のような、経験主義に由来する構造的データの心理学的意味に対して精神分析的に、あるいは現象学的に接近し得るとする立場が現われることによって、彼は考えを前進させて、次のように述べている。すなわち「私は、量的データをその他すべての観察される現象と同様に扱い、精神分析的に解釈することを提案する。つまり、従来的な経験主義に由来する特殊なスコアや布置の解釈は、最終的な陳述とみなされるべきではないということだ」(Smith, 1994) である。具体的にいえば、以下のようになるであろう (Smith, 1994)。

「たとえば対象関係論の観点からすると、多量の人間部分反応は、対象恒常性の欠如を示唆したり、みずから責任を負う独立したセンターとしての他者と関与するのではなく、自分の特定の欲求を満足させたり挫折させたりする部分-対象としての他者と関与する傾向のあることを、示唆したりする。クライン派の観点からいえば、その人が一次的には投影の防衛機制が優勢な妄想的-分裂的態勢から対人関係を営んでいることを、さらに推測することができるであろう」

 彼は一体ここで何をしているのであろうか。このアプローチが行っているのは、プロトコルのあるがままの秩序ではなく、質的な分類としてのコード化を経て数値に変換された、構造一覧表としての秩序を精神分析理論によって解釈するということである。彼にとっては、コード化された記号や構造一覧表の数値は、さらに解釈されるべき抽象的なシンボルなのである。簡単に言えば、こういうことになるかもしれない。すなわち「対象をその一群の数値的諸定数に分節することは、評価の新しい特有の範疇を導入する」(Cassirer, E., 1910)ことになるということである。彼は、数値化された構造一覧表という全体をある一定の理論的観点にのっとって分節化し、それを組織的に整序しているのである。

 このようなことが可能となる理論的前提は何なのであろうか。われわれは個別的なクライエントと関与するわけであるから、もしも数値化によって個別性が失われるのであれば、量的分析は端的に放棄されるはずである。クライエントのロールシャッハ反応はある要素的特性において数値に変換され、要素間に想定される全体的連関すなわち構造一覧表のうちで捉えられるわけであるが、そうすることによって、その個別性は失われてしまうのであろうか。

 Cassirer (1910) は、一定の数値的定数の値が「一般的法則の諸公式のなかに代入されてはじめて、経験の多様は『自然』に刻印されるかの確実で一義的な構造を獲得する」ことになるが、その特定の数は「複数個の標本に含まれる普遍的な類概念」として存在しているのではない、と述べている。もちろんそれは感性的な存在ではなく、純粋に概念的な存在であることに疑いはないが、たとえば「2とか4とかは、具体的な二個ないしは四個のすべての対象において実現されている類として」実在しているのではなく、「単位が措定された列における定められた項として、ただ『一回』かぎり存在している」のである。したがって、「科学的概念が個別のものを、もっぱら順序づけられた集合の特殊の要素としてのみ捉えるからといって、科学的概念にとって個別の確立が否定されているのではない」のである。

 次に、Smithの方法がどうして異なる方法論の無頓着な併用とは違うのか考えてみたい。法則定立的方法、つまり「物体の科学、そしてまた他のすべての自然科学が追求する最終目標は、その概念内容から経験的直観を遠ざけることにある」(Cassirer, 1910)のだが、彼の手法では、クライエントの個別性が抽象的な概念へと希薄化されるのではなくて、むしろ反対に濃密化されているように思われるのである。

 Cassirer (1910) は、次のように指摘している。すなわち「普遍的になればなるほどそれだけ直観的な厳密さと明晰さとが失われ、ついには真に現実的な内実のない単なる図式にまで萎縮してゆくということは、『表象』についてのみ語りうることであって、他方『判断』は、個別を比較と対応づけのより広い範囲内に関係づけるに応じて、それだけ精確に個別を規定する」である。形式化が発展するほど個別の固有性もいっそう際立ってくるという結論であるが、このような結論を導くことができるのは、判断が「その『使用』においては、それが体系的形式を与えようとするこれらの印象の全体とあらためて関連づけられる」からである。「思惟が直観から身を離すのは、もっぱら新しい独立した補助手段によって直観に回帰し、こうして、直観をそれ自身において豊かにするため」であり、抽象するということは、現実の存立を変えるのではなく、そこに一定の枠づけを措定するだけなのである。

 このように考えると、われわれは、量的分析と質的解釈から導き出された結果を、具体的な解釈行為における直観において統合することができるといえるであろう。法則定立的方法への一元化では直観が排除されてしまう。個性記述的方法への一元化では(一過性の意味はともかくとして)超越的な意味(パターン)が排除されてしまう。また、いずれの方法によっても、直観から遠のいた浅薄な図式に到達するにすぎない。われわれは、臨床家の生きた行為という視点から、方法論について見直す必要があるのである。


Ⅵ.情報収集モデルと治療モデル


 そもそもどうして心理テストは必要なのであろうか。研究を目的とする場合はともかくとして、臨床場面でクライエントに心理テストを実施することには何か意義があるのだろうか。

 1951年に出版された『クライエント中心療法』のなかで、Rogers, C.R. (1951)は「われわれは体験を通して、心理力動の診断は不要であるばかりでなく、ある意味で有害あるいは賢明ではないという暫定的な結論に達している」と述べている。これが、彼の有名な心理診断不要論である。その主たる理由は、評価の位置が臨床家の側に置かれてしまい、それによってクライエントの依存傾向が助長され、状況を理解して改善する責任が臨床家の手にあると思いこませてしまうからである。クライエント中心療法ではむしろ反対に、「クライエントが自分の不適応の心因的な側面を診断し、その診断を体験し、さらにその診断を受容できる状況を提供すること」が臨床家に求められるのである。

 Rogersの言葉を、半世紀たったいま読むと、とても新鮮に響く。なるほどと思えるのである。心理療法には、治療初期の見立てをしっかりしなくても、つまり「問題やその問題の因果関係についてまったく知らなくても始められるという側面が少なくともある」ことは、確かなことであると思う。心理療法初期の見立てを強調する臨床家たちは、彼のこのような姿勢を、臨床家として無責任だと非難するのであろうか。

 だが、Rogersを非難する前に、当時の、あるいはそれ以前の、心理診断の実態について知っておく必要があるのではないだろうか。Rogersにそう言わしめた、当時の心理診断についてである。米国最初期の心理臨床家であるJessie Taftは、おそらく1920年代のことであろうが、当時を回顧して次のように述べている。すなわち「強く望んではいたものの、自分には他の人たちを援助するための基礎がないことは分かっていた。子どもの心理テストが有用であることは百も承知しているが、それは治療的なものではなかった」(Taft, J., 1958)である。

 おそらく当時の心理診断は、クライエントに対して一方的に実施されるだけで、その結果が話し合われるようなこともなかったのであろう。やりっぱなしである。あるいは、Rogersが批判していたように、臨床家の側が一方的に評価するものであったに違いない。このようなやり方は、臨床家の側には何がしかの役に立つのかもしれない。けれども、クライエントにとっては治療的ではないのである。この文脈でいえば、一方的に見立てばかりを強調する臨床家は、批判されることになるであろう。

 ここまでは心理テストを用いたアセスメントと、面接などによるアセスメントを区別しないまま論じてきたが、心理テストを用いたアセスメントに関していえば、われわれはTaftの時代から何か進歩したのであろうか。やりっぱなし、一方的なアセスメントがまだ続いていないであろうか。

 Finn, S.E.(2007)は、従来的なアセスメントを「情報収集」アセスメントと、新たなアセスメントを「治療的」アセスメントと、それぞれ呼んで区別している。前者は、診断、見立て、治療の評価を主たる目的として、クライエントに心理テストを実施するモデルに従ったものである。後者は、心理アセスメントについての臨床家の「態度(attitude)」のことであり、クライエントのアセスメント体験が肯定的なものになり、クライエントに肯定的変化が生み出されることを願いつつ実施されるものである。

 この二つのモデルをさらに詳しく説明すると、以下のようになる(Finn and Tonsager, 1997)。

 まず、アセスメントのゴールである。情報収集モデルでは、現存する特性次元とカテゴリーを用いてクライエントを正確に記述すること、クライエントの見立てに役立てることなどが目標である。それに対して治療モデルは、クライエントが自己と他者に対する新しい考え方や感じ方を学ぶこと、クライエントがこうした新しい理解を模索して、日常生活の諸問題につないでいくために役立てることが目標である。

 次に、アセスメントのプロセスである。情報収集モデルの流れは、データ収集、テスト・データの解釈、というものである。それに対して治療モデルは、クライエントと共感的なつながりを発展させること、個に即したアセスメントのゴールを明確にするために、クライエントと共同制作的に話し合うこと、アセスメントのプロセス全体を通じて、クライエントと一緒に情報を分かち合って探究すること、というものである。

 次に、テストの定義である。情報収集モデルにおけるテストとは、法則定立的に比較することができ、アセスメント場面外の行動を予測することができる、そうしたクライエントの行動の標準化されたサンプルを収集するものである。それに対して治療モデルにおけるテストとは、日常の問題状況への特徴的な反応の仕方についてクライエントと対話する機会であり、クライエントの主観的体験に臨床家がアクセスすることを可能とする、共感のための道具である。

 最後に、重視する点である。情報収集モデルで重視するのは、テストのスコア、アセスメントの後になされる見立て、である。それに対して治療モデルは、クライエントと臨床家のあいだに生起するプロセス、クライエントの主観的体験、臨床家の主観的体験、である。

 情報収集モデルによってもたらされた大きな弊害は、おそらく心理テストを用いた「アセスメント」と、「心理療法」を区別してしまうことであろう。Weiner(1975)が、アセスメントを実施する臨床家を「たんに情報を収集する人([someone] merely obtaining information)」、心理療法の担当者を「理解することに専念する人(someone intent on understanding)」と呼んでいるように、評価と理解(心理療法)に世界が分断されてしまうのである。

 われわれがいままで行ってきたアセスメントは、Finnの言葉でいう情報収集アセスメントである。そして、それは論理実証主義的な方法論に基づいたものである。それに対して、治療的アセスメントは、心理アセスメントのプロセスそのものがクライエントにとって治療的であるような、一種のブリーフセラピーである。RogersやTaftがいま生きていたなら、一体何というであろう。いずれにせよ、われわれが目指すのは、アセスメントそれ自体がクライエントにとって治療的であるような、Finnのいう治療的アセスメントの姿勢である。


Ⅷ.まとめと方向性


 最後に、いままで述べてきた現行のロールシャッハ・テストに認められる方法論的諸問題について、「反応過程に関わる問題」「解釈過程に関わる問題」「量的分析と質的解釈に関わる問題」という三つの視点から整理する。ロールシャッハ・テストは、そもそものはじめから、異なる方法論を無頓着に併用するアセスメントの道具であった。これまでの歴史のなかで幾度となく存続の危機を迎え、いまは、論理実証主義的な包括システムが主流となって生き残っている。だが、そうした法則定立的な方法論であれ、反対に個性記述的な方法論であれ、もはやわれわれは方法論の問題に無自覚であることはできないのである。


 1.反応過程に関わる問題

 論理実証主義的な方法論の立場では、クライエントの反応過程が感覚与件論の枠組みのなかで理解されている。これは、クライエントの生きた現実を反映していない、原子論的な世界観を背景とするものである。また、詳しく検討は加えなかったが、個性記述的な方法論の立場では、たとえば、クライエントがインクブロットに対して個別的な思考内容を投映するものと考えられている。

 たしかに、クライエントの個々の反応は、そのつど思考が優位になったり、知覚が優位になったりするのであろうが、本来的にいってインクブロットを「見る」、あるいはインクブロットをそれとは別の何か「として見る」体験は、クライエントにとってはなかば知覚であり、なかば思考でもあるようなものであるはずである。また、クライエントはインクブロット、つまり全体としてのゲシュタルトをなしている「色の形」を(たとえば)「コウモリ」として見るのであって、要素的な「色」や「形」のモザイクから成り立っている感覚与件+解釈という二段階の知覚を経て、はじめて「コウモリ」を見るのではないのである。

 われわれに求められるのは、そのような知覚と思考の二分法を超えた、あるいは知覚の二段階仮説を超えた、新たな反応過程論である。クライエントの体験に即していえば、インクブロットに何かを見るということは、文字通り「閃く」ということであろう。知覚と思考に分けて考えるのは、あくまで臨床家の側の理論にすぎないのであって、クライエント本人の体験は、知覚と思考への分断を超えた、インクブロットをそれ以外の何か「として見る」というひとつの行為に他ならないのである。このような反応過程論にうってつけなのは、たとえばWittgenstein, L. (1953)の「アスペクト知覚」論なのかもしれない。

 また、感覚与件論に依拠する限り、われわれはインクブロットの色や形といった部分的な諸要素から出発することしかできない。部分から全体へのモザイク的豊饒化である。しかし、クライエントが実際に生きているのは、ロールシャッハ状況という現実である。ひとつの反応が形成される過程を現実に即して考えるのであれば、われわれは、クライエントと臨床家が二人で創造するロールシャッハ状況という全体的な場から、個別的な反応がその部分としてそのつど分節化するさまを、光学的なレベルも含めて描出する必要があるだろう。つまり、われわれに求められるのは、ロールシャッハ・テストの包括的な場理論である。

 以上を要約すれば、科学の解釈学の立場から提出されるべき新たな反応過程論は、従来的な感覚与件論とは正反対の、クライエントの「として見る」という行為に即した、包括的な場理論である。


 2.解釈過程に関わる問題

 論理実証主義的な方法論の立場では、クライエントと臨床家が実際にやり取りするロールシャッハ状況は、あくまで事後的に解釈されるデータを収集するための場にすぎない。相互作用によって、あるいは理論的先入観によって汚染されていない、純粋無垢のありのままのデータを収集することが目指されるのである。

 このようにして帰納法的な、あるいは実験的な実施法によってロールシャッハ・テストが施行されることによって、そこからはクライエントと臨床家との「出会い」が捨象されてしまうことになる。また、ロールシャッハ状況がクライエントと交流する場ではなくなり、評価(診断)のための「アセスメント」、理解(治療)のための「心理療法」という、抜き差しならない分断が発生してしまうことにもなる。これが、私のいう「臨床場面の空洞化」である。

 ロールシャッハ状況が心理療法の場面と異なることは確かなことである。クライエントの葛藤がロールシャッハ状況で話し合われるようなことは、極めてまれであろう。だが、われわれに求められるのは、心理療法場面と同様に、ロールシャッハ状況においてもクライエントとの出会いを大切にする態度である。そして、論理実証主義的な方法論のように事後的に解釈を始めるのではなく、ロールシャッハ状況からすでに解釈を始めることである。

 もちろん、これだけで終わってしまうのでは、情報収集モデルによるアセスメントと大差ない。アセスメントの全体的なプロセス、つまり受理面接、心理テストの実施、結果の話し合いという一連の流れのなかにロールシャッハ・テストを位置づけ、そのプロセス自体がクライエントにとって治療的なものになるように配慮する必要があるのだ。そのためには、従来的な直線モデルを超えた、アセスメントの全プロセスを包括するような、新たなモデルを提起することが求められるであろう。

 次に、解釈に理論は必要なのかという問題である。論理実証主義的な方法論では、臨床家には純粋無垢なデータが与えられ、それを記述するだけでよいので、理論は無用である。けれども、臨床家の生きた現実に即していえば、与えられる観察事実はすでに何らかの理論を背負って解釈されたものである。われわれに求められるのは、臨床家の解釈過程において、ボトム・アップ的な帰納的・分析的推論過程と、トップ・ダウン的な演繹的・綜合的推論過程は、分かちがたい解釈学的循環を形成しているのだということを忘れないことである。

 このような解釈学的循環のうちに、臨床家はクライエントに固有のパターンを発明する必要がある。法則定立的な方法ではクライエントの生きた個別性と臨床家の直観は排除されてしまう。個性記述的な方法では、普遍法則や出来事が生起する諸条件の探究が排除されてしまう。われわれに求められるのは、認識の最終段階に直観をおいて、クライエントの個別的な普遍法則としてのパターンを、おのれの行為的直観において発明することである。

 以上を要約すれば、科学の解釈学の立場から提出されるべき新たな解釈過程論は、アセスメントそのものが治療的であるという意味で従来的な直線モデルを超えていると同時に、アセスメントの全プロセスを統一的に理解することのできる、包括的モデルである。加えて、そのつどの解釈過程における解釈学的循環が意識され、クライエントに固有のパターンを行為的直観において捉えることのできる、そうした質的解釈のための具体的な手法が提出される必要があるだろう。


 3.量的分析と質的解釈に関わる問題

 ロールシャッハ・テストにおいて量的分析と質的解釈を無頓着に併用するということは、両方の異なるパラダイムから等しく距離を置いていることを意味している。けれども、そのような中立的態度など実際にはあり得ないのではあるまいか。われわれが常に一定の立場にコミットしているからこそ、そのパラダイムのもとに秩序をなす世界が現われるのであって、そのような一定のパラダイムを指向する態度がなければ、世界は秩序化さえされ得ないのである。質と量は「並存」するのではなくて、このように「転換」するのである。言い換えれば、二つのパラダイムは連続しているのではなく、断続の相において捉えられるといえるであろう。

 法則定立的方法と個性記述的方法、あるいは論理実証主義と解釈学という方法論のもとに、世界は二つの秩序として分節化する。そして、自然科学と精神科学を横断するような知識を実践的に獲得しようとするのが、野家の「科学の解釈学」である。それは方法論的な多元主義であり、唯一無二の科学の方法を否定するものであるが、何でもありという相対主義的な姿勢ではなく、方法論的なひとつの選択なのである。彼はこう述べている(野家 ,1993a)。

「今一度繰り返せば、異なるパラダイムを理解するためには、われわれはそのパラダイムにコミットする必要もなければ、またあらゆるパラダイムの外部に立つ中立的な傍観者となる必要もない。われわれには、自分が帰属するパラダイムの内部に身を置いて、そのパースペクティヴから異なるパラダイムを『解釈』する道しか残されてはいないのである。それは解釈するものと解釈されるものとの『地平』のぶつかりあいであり、そこに生じる衝撃こそが『解釈学的経験』と呼ばれるものにほかならない」

 われわれが目指すのは、あくまで科学の解釈学というパラダイムの側に身を置いて、異なる他方のパラダイムを解釈することである。ここには、他方の秩序へと越境して、知の全体性を獲得しようとする姿勢がある。これは、ロールシャッハ・テストにおける数値化された構造的データを、一定の視点からさらに質的に解釈することを意味するであろう。

 また、ロールシャッハ・テストにおいて量的に分析された結果は、質的解釈にとって通約不可能であることに変わりはない。しかし、それは理解不可能あるいは比較不可能というかたちで超え難い壁として現われるのではなく、臨床家が営む質的解釈という行為を反照して自己の秩序を形成するための鏡となる。ロールシャッハ・テストによって、論理実証主義と解釈学という異なるパラダイムが統合されたり、融合したりするわけではない。質的解釈によって自明視されることが量的分析の結果とぶつかり合って衝撃を受けることで揺さぶられ、科学の解釈学という一定の秩序のもとに形成されている、臨床家本人のいまあるパースペクティヴが変容するのである。

 このような意味でいうと、ロールシャッハ・テストには、方法論的な意味での統合的アプローチなどあり得ないであろう。異なるパラダイム同士は、一方における他方、他方における一方として理解されるのみである。論理実証主義的な方法論にしたがえば、ロールシャッハ・テストの質的解釈は放棄されてしまうか、その結果が利用されたとしてもあくまで二の次である(質的解釈は「肉づけ」であり量的分析は「骨組み」であるという比喩が使われることもある)。だが、本論でいう科学の解釈学にしたがえば、実践行為としての質的解釈に主眼がおかれるにせよ、量的分析が放棄されてしまうようなことはない。そこで起こっているのは、一定のパラダイムにコミットしている臨床家の、実践的性格のある生きた直観の秩序が、他方のパラダイムの衝撃を受けることによって統合的に変容するということであろう。もちろん私は拒絶するが、そのことを称して、統合的アプローチと呼ぶものもいるのかもしれない。

 「統合」について、さらに考えてみよう。Smith(1994)は、ロールシャッハ・テストにおいては、構造的な変数と物語的なデータとのあいだを往復することによって量的分析と質的解釈が統合されるのだと述べている。彼(Smith, 1993)が構造的な変数と物語的なデータのあいだを往復するのは、「どのような内的過程が、構造一覧表によって予測される行動を生み出すのであろうか?」と自問しつつ解釈するからであり、このように考えることが「精神分析に由来する仮説のチェックとしても役立つ」からでもある。そして、「両方の方法論から得られた洞察は、ひとつのパーソナリティの記述に、このようにして結合される」のである。

 Smithがここで行っている臨床家としての行為は、「さまざまな言説のあいだをとりもつソクラテス的媒介者(Socratic intermediary)」(Rorty, R., 1979)のようなものであるのかもしれない。彼の記述には、二つの異なる方法論から等しく距離を置いているような中立的態度を匂わせるところや、あくまで量的分析の枠組の中で質的解釈を行っているような実証主義的な姿勢を匂わせるところもあるが、基本的にはひとつの立場に身を置いて他方を翻訳しているのである(不一致が調停できない場合もあろう)。だが、われわれにとって「翻訳が可能であることは、そのパラダイムを受け入れて自分のものとすることを意味するものではない。一人の科学者は、同時に二つのパラダイムに属して研究を進めることはできない」(野家, 2008)わけであるから、このような実践行為はパラダイムの統合を意味するのではない。つまり、一定のパラダイムに身を置いて、他方のパラダイムから導き出されることをおのれの理解へと翻訳しているだけなのである。

 したがって、科学の解釈学というパラダイムにコミットすることは、方法論的一元化を目論むことでも、異なる方法論の統合的アプローチを提唱することでもない。科学の解釈学という一定の立場に身を置きながら、クライエントとのあいだで(あるいは異なるパラダイムとのあいだで)ソクラテス的媒介者として行為する、臨床家の実践こそ重要なのである。

 さて、科学の解釈学に依拠する限り、方法論的には量的分析が放棄されることはないと述べた。しかし、別の理由から、ロールシャッハ・テストの量的分析には慎重な態度を示さなければならないと思っている。というのは、本章で少しだけ触れたが、心理測定法として存立するための重要な基準である、信頼性と妥当性に疑問が投げかけられているからである。

 われわれは、ひとつのロールシャッハ・システム全体を構成している諸部分に対する、科学的な立場からの批判を真摯に受け止めて改善していく必要がある。しかし、だからといって、ロールシャッハ・システム全体の否定にはつながらないはずである。必要なのは、「場の内部における再調整 (readjustment)」(Quine, W.V.,1953) であって、全体の廃棄ではなかろう。このように考えると、包括システムの構造一覧表に含まれている指標の中にはいくつか優れたものもあり、それに限って使用すれば何の問題もないのかもしれない。だが、全体的なロールシャッハ・システムとしての包括システムやその他のロールシャッハ・システムを、量的分析を目的として使用するつもりはない。

 Smith, B.L. (1997) がいうように、包括システムでさえ、個別事例においては不正確であることがよくある。他のロールシャッハ・システムはなおさらのことであろう。精度の低いテストは、表面が練磨されていない鏡のようなものである。そこに映し出される像は、輪郭の歪んだぼんやりとしたものになるはずである。このような鏡を前にして、どうして身なりを整えることができようか。かりにインクブロット・テストをもっぱらサイコメトリーとして使用するのであれば、Aronow, E., Reznikoff, M., & Moreland, K.L. (1995)が指摘するように、われわれは、そのアキレス腱である反応数がしっかりと統制されたホルツマン・インクブロット法に乗り換えるべきなのかもしれない。

 このようなわけで、私はロールシャッハ・テストの量的分析には深入りするつもりはない。その結果を使うとしても、あくまで参考程度にとどめておくのがよいと考えている。その代わり、テストとしての精度の高いMMPI-1(村上・村上, 1992)を、量的分析のために使用することが多い。つまり、MMPI-1の量的データを、科学の解釈学の立場に翻訳して理解するのである(注釈3)。

 以上を要約すれば、科学の解釈学の立場では、方法論的な無頓着によって量的分析と質的解釈を統合したり、併用したりすることはない。異なるパラダイム同士は通約不可能なので「統合」は無理であり、両方の異なるパラダイムから等しく距離を置く「併用」もありえないのである。つまり、この立場での量的分析の使用は、他方のパラダイムを「翻訳」することに他ならないのである。われわれが目指すべきところは、科学の解釈学というパラダイムにコミットしながら、クライエントとのあいだで(あるいは異なるパラダイムとのあいだで)ソクラテス的媒介者として行為する、臨床家の実践を重視することである。


注 釈


 1.ロールシャッハ・テストの日本への移入についてである。このテストが日本に紹介されたのは、1920年代後半のことである。はやくは岡田(1930, 1932)などの研究がある。その後、1940年代から「阪大法」(堀見ら, 1958; 辻ら, 1963)、「名大法」(村上ら, 1959)、「日本女子大法」(児玉, 1958)、「片口法」(片口, 1956)など、日本独自のロールシャッハ・システムが開発されていったが、KlopferやBeckのシステムが踏襲されたものである。Exnerの包括システムは、彼が最初に来日してワークショップを行った1992年以来、エクスナー・アソシエイツ・ジャパンの中村紀子氏などが中心となって広がりを見せている。いま現在、日本には包括システムによるロールシャッハ学会と、それ以外の流派の研究者たちが集結するロールシャッハ学会があり、二つの学会がいわば分裂した状態にあるのが現状である。


 2.言語は実在のアプリオリな分節構造をたんに模写するにすぎないというのが、科学的実在論の考え方である。このような言語観が、包括システムの色彩反応の考え方に如実に現われているように思われる。つまり、色についてクライエントが言葉にしないかぎり、インクブロットの有彩色領域にクライエントが(たとえば)花を見てもコード化しないのである。これは、有彩色領域における色の言語化を基本的に問わないKlopfer, B. et al (1954)や、A-B-C吟味法なる特殊な方法を用いる片口 (1987) とは、随分と違っているように思われる。


 3.MMPIの量的分析から導き出される解釈について、ここで言及しておく。MMPIの臨床尺度や高点コード・タイプからは、たとえば主要5因子性格検査のように、一義的な解釈が導き出されるわけではない。つまり、複数の質問項目によって構成されているひとつの尺度には、さまざまな解釈的意味が附与されているのである。
  一例として、尺度4、つまり精神病質的偏倚(Psychopathic Deviate)尺度について、Greene, R.L. (1991)を参考にして検討を加える。50項目からなる尺度4によって測定されるのは、全般的な社会的不適応や、心地よい体験など何もないことで、質問項目がすくい取るのは、一般的には家族や権威像に対する不満、自己疎外と社会的疎外、退屈さ、恥ずかしがり屋であることの否認、落ち着きと自信などである。尺度4の高得点者は、怒りっぽく、衝動的、表面的で、行動を予測しがたい。彼らは社会との折り合いが悪く、一般的には社会的な規則や慣習を、特に権威像を無視する。権威に対して怒りや敵意を抱いているが、それは顕在化することもあれば潜在したままであることも考えられる。したがって、尺度4の顕著な上昇は、反社会的行動や態度が存在することを示唆しているが、必ずしもそれがいつも顕在化することを意味しているわけではない。
  このように、ひとつの尺度が一義的な何らかの性格特性を測定するのではなく、それ自体で多様なクライエントの諸特徴を示唆しているのがMMPIである。通常であれば高得点か、低得点の場合のみ解釈されるのだが、Greene (1991)に代表されるように、その他にも「標準」や「中等度の上昇」などに細分して解釈する立場もある。いずれにせよ、MMPIにおける各尺度の個別的数値は、固定した座標系の中に位置づけられた数学的総和であり、その数値に対応づけられる解釈文(導き出される解釈)は、生きたクライエントを記述してその行為の意味を理解しようとしたものではない。たとえば、尺度4が高得点であれば「他人を信頼できず、自己中心的で、無責任である」という解釈が導き出されるが、この解釈文は、あくまでそうである確率が高い、あるいはこの得点の範囲に収まるクライエントはそう理解できる人が多い、などのように理解されるだけなのである。


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