万治寛文リンク | 東北 | 関八州・江戸 | 東海・北陸・甲信 | 近畿 | 中国 | 四国 | 九州 | 洋上 | 前ページへ |
●万治元年(1658)
●万治3年(1660)
●寛文元年(1661)
●寛文4年(1664)
●寛文6年(1666)
●寛文7年(1667)
●寛文8年(1668)
●寛文9年(1669)
●寛文10年(1670)
●寛文11年(1671)
●寛文12年(1672)
大阪の平野屋清右衛門・漬田屋(つくだや)清兵衛が吹屋銅山の経営を請け負う。
このころ、上道郡金岡新田が開発される。
熊沢蕃山が岡山藩を去り、京都におもむく。
津田永忠が岡山藩大目付に抜擢される。このころ岡山藩で評定所政治がはじまる。
岡山藩がキリシタン神道講を実施する。
岡山城内の石山に仮学館が設けられる。
岡山藩が領内の日蓮宗不受不施派寺院・僧侶・信者を取り締まる。
岡山藩が多数の寺社を整理する。
岡山藩が日蓮宗不受不旋派をきぴしく弾圧し、同派寺院313カ寺を整理、僧侶585人を追放・転宗させる。
岡山藩が城下に町人の子弟のための手習所をつくる。
6月19日−岡山藩が日蓮宗不受不施派の僧侶日閑(にちかん)ら6人を斬罪に処し、その妻子28人を追放する。
岡山藩が庶民教育のため、領内に手習い所123か所を設置する。
岡山藩が農民の衣類に制限を加え、紅・紫に染めることを禁止する。
7月25日−岡山藩が岡山城下の西中山下(にしなかさんげ)に藩校を建設し、陽明学者熊沢蕃山を
招いて藩校を開く。
岡山藩主池田光政が郷学(後の閑谷学校)を設立する。
11月−津田永忠によって岡山藩に社倉米(しゃそうまい)の制度が設けられる。
岡山藩主の池田光政が隠退し、子の綱政が藩主となる。