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●寛延元年(1748)
●寛延3年(1751)
●宝暦3年(1753)
●宝暦4年(1754)
●宝暦8年(1758)
勘定奉行命の備中地先干潟新開目論見をうけ倉敷代官千種清右衛門の備前・備中国境確定に際し、両国住民が激しく対立。備中側の国境相論に発展。
9月−幕府、備前・備中国境相論に備前側主張にそって裁許。
2月25日−上道(じょうとう)郡平井で,禁教の日蓮宗不受不施派信者
が開祖日奥(にちおう)の石碑の開眼を行い,多数が捕らえられる(宝暦法難)。
7月−備中都宇郡2か村が,備前児島郡22か村を相手どり,児島湾の干潟をめぐり再度、国境争いをおこす。
6月−幕府が児島湾干潟をめぐる相論を裁許し備前・備中の国境が最終的に確定する。