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●文久元年(1861)
●文久2年(1862)
●元治元年(1864)
●万延元年(1860)
水戸藩士、長岡に屯集する。
3月 3日-[水戸藩士関鉄之助、斉藤監物、鯉淵要人(かなめ)、海後磋磯之助らと薩摩藩士有村次左衛門ら、井伊直弼を
桜田門外にて襲撃。]
8月15日-徳川斉昭没。
5月28日−[英国仮公使館江戸品川東禅寺、水戸藩尊攘派に襲撃される。]
幕府、江戸および関八州の宿屋・料理屋などに私娼を置くことを禁止した。
[水戸領内尊攘派の平山兵助ら、老中安藤信正を坂下門外にて襲撃する。(坂下門外の変)]
3月27日-水戸藩尊攘派の武田耕雲斎、藤田小四郎、田丸稲之衛門、岩谷敬一郎、竹内百太郎、田中愿蔵(げんぞう)ら、攘夷のために
筑波山に挙兵する。4月3日下山。(天狗党)
6月初−天狗党、再び筑波山に立てこもり本防を本営とした。
7月3日−天狗党、田中愿蔵を除名する。
7月8日−天狗党、下妻で幕府追討軍、水戸諸生党を破る。
7月26日−天狗党、市川三左衛門率いる諸生党の籠る水戸城奪還を図るが撃退される。
7〜8月−那珂、久慈、茨城、筑波郡染谷村など数十カ村の農民、天狗党への不満から庄屋・神官宅を破壊する。
8月10日−水戸藩主徳川慶篤の名代として宍戸藩主松平大炊頭頼徳(よりのり)が軍勢を率い薬王院に着陣。城中の
諸生党、頼徳の入城を拒否。
8月16日−那珂湊で頼徳軍、合流した藤田小四郎ら筑波勢と諸生隊(水戸城兵)の交戦が始まる。
以後、幕府追討軍が参戦し、那珂川一帯、領内各地で10月まで激戦が続く。
10月5日−頼徳、幕府より切腹を申付けられ自刃。その後(23日)幕軍と折衝し投降した頼徳軍榊原総督らも切腹、死罪など極刑に処せられる。
11月1日−月居峠(大子町)に陣取っていた武田耕雲斎率いる天狗党1,000余名は京をめざし大子を出立。