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勝海舟・宮島談判(慶応2年9月2日)

●海舟談話@

<前略>慶喜公も御帰館になって、御直(ごじき)で長州への使者を仰せ付けられたのだ。それも初めは思う仔細があって、 おれも固くご辞退もうしたが、是非にとの事だから、それではとて断然お受けをしたのだ。<中略>
たうとう宮島に於いて、双方会談することになった。<中略> 宮島へ渡って見ると、長州の兵隊がこゝそこに出没して 殺気が充ちていたが、もとよりこんな事だらうと覚悟して居たから、平気で旅館に宿り込んで、長州の使者の来るのを 待っていた。<中略>その間今の長州の兵隊や探偵は、始終おれの旅館の周囲を徘徊してたまには遠方から旅館へ向けて 発砲するものなどもあった。<中略>かれこれするうちに長州から広沢兵助ら八人のものが使者としてやって来た。 井上聞多、その頃は春木強太郎といって居たが、それから長松幹などもこの中に加はって居た。長州の方からは この通り大勢で堂々とやって来たのに、こちらでは木綿羽織に小倉袴の小男の軍艦奉行が、たった一人控へて 居るばかりだ。
いよいよ今日会合といふ日になると、おれはまづ大慈院、これが会合の場所だが、この寺の大広間に端座して居ると、 後から広沢などがやって来た。しかし流石は広沢だけあって、少しも傲慢の風がなく、一同縁側に坐つて恭しく一礼した。
そこでおれは、『いやそこではお談(はなし)が出来ませんから何卒こちらへお通りなさい』と挨拶すると、広沢は頭を擡(もた)げて 「ご同席はいかにも恐れ入る」と辞退するので、おれは全体剽軽(ひょうきん)者だから、『かように隔たっていてはお談が出来ぬ、 貴下がお否(いや)とあれば拙者がそこに参りませう』といって、いきなり向ふが座って居る間に割り込んでいったところが、一同 大笑いとなって、『それでは御免を蒙ります』といふことで、一同広間にはいっていよいよ談判を始めることになった。
談判といっても、わけもなく咄嗟の間に済んだのだ。まづおれはよくこちらの赤心を披(ひら)いて、『自分の初めからの意見は かくかくであった。貴藩においても、今日の場合、兄弟喧嘩をして居るべきでないといふことは御承知であろう』という旨趣を 述べた。すると、広沢もよく合点して「尊慮のあるところはかねてより承知して居ました」などといった。そこでおれは断然、 『私が帰京したら直ちに貴藩の国境にある幕兵は一人も残らず引き上げるようにするから、貴藩に於いても、その機に乗じて、 請願などと称(とな)へて大勢で押し上ることなどは決してないようにせられよ』と言い放ったら、広沢も承諾の旨を答えて、 談判もこれで決着した。<中略>
帰ってみると、留守のうちに一体の様子はがらりと一変して居って、わざわざ宮島まで談判に行ったおれの苦心も、 何の役にも立たなかった。しかしもしこの時の始末がおれの口から世間に漏れうものなら、それこそ幕府の威信は全く なくなってしまふと思って、おれは謹んで秘密を守って辞職を願ひ出た。するとある老中が中へはいって周旋してくれた ために、軍艦総練専務の役でもって、たうとう江戸へ帰ることになった。しかしこれがために幕府の命脈もちやうど 一年延びた勘定だ。
こんな風で、表面は長州の人を売った姿になったのだけれど、いくら怨まれても仕方がない。後からかれこれ言ひ訳する のはおれの流儀でないからサ。
なに、善後策はどうするつもりであったかと。それはわけもない事だ。おれが京都へ帰ると直ぐに、長州へ向けて、「其 藩事(こと)今般朝廷に向(むかっ)て不穏の挙動甚(はなはだ)不届に付(つき)閉門十日申付ける」この一通の書付けで 事は足るのサ。おれの流儀はいつもこんな手軽なものだ。<後略>
《氷川清話 勝海舟  江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫》

●海舟談話A

<前略>慶喜はそれから急に己(おれ)に油をかけやがって、「長州に談判に行ってくれ、天朝でも是非、お前のほかにない とおっしゃるから」などと、ひどく油をかけやがった。こっちは将軍(家茂)の棺を軍艦に乗せて、帰ろうという思いだったが 、馬鹿馬鹿しい役を言われて、承知すまいかと思ったが、まだ将軍の御葬送は済まず、将軍には恩になってるから、一生懸命 でやったのだが、まだ将軍の居らるると同じ事だから、どうせ、長州で殺されるかもしれないが行って見ようというので 往ったのサ。
その頃までは、長州への通りも善かったシ、長州からは大阪へ大層の隠密で、十分手が廻っていたから、なにもかも 知ってらあナ。広沢(兵助)が談判役サ。〔井上〕聞多も小僧でいたッけ。談(はなし)がじきに付いてしまった。己(おれ)が そう言ったのサ『なぜ、あなた方の方で、大阪に火を付けないのです、東京までは追いまくられますよ』と言ったら、 「それは知ってますが、名分がありますから」と言った。よく分かっていたよ。
そうヨ、兵を出すことをとめたのサ。公平な処置をするといって約束したのサ。ナニ、己(おれ)の考えでは、天朝に対し、 大不敬だからと言って、百日の閉門位で済ませるつもりであったのサ。それで帰って見ると、もう、大変な讒誣(ざんぶ)サ。 アア早く片付いたから、勝は何でも薩長の廻し者に違いないというのサ。それで、どうしても行われないので、直きに 東京へ帰ってしまったから、長州の方では、売られたように思うのも、無理はないサ。<後略>
《新訂 海舟座談  巌本善治編 勝部真長校注 岩波文庫》