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●享保3年(1718)
●享保4年(1719)
●享保5年(1720)
●享保6年(1721)
●享保10年(1725)
●享保14年(1729)
●享保17年(1732)
●享保20年(1735)
3月12日−三次藩および広島藩に全藩あげての大一揆がおき、広島藩は一揆側の要求を
ほとんど受けいれる。一揆を指導した者を斬刑その他に処し、その数255名におよぶ。
1月26日−広島藩が浦法度(うらはっと)を制定し,他国の廻船を取り締まる。
三次藩主の浅野長寔(ながざね)が嗣子がなく没したので、三次藩は廃絶し、
広島藩に還付される。
イナゴの害がはなはだしく、木綿が不作となる。
広島藩が内白島(うちはくしま)に諸芸稽古場を創設し、場内に漢学教場として講学所を設立する。
7月−広島城下で疱瘡・はしかが流行する。
ウンカが大発生し、田畑の被害がはなはだしく、飢えに苦しむ者32万人、餓死者
8,000人余といわれる。福山藩も大凶作となる。
広島藩の儒者である加藤友益が『社倉攷意(しゃそうこうい)』を著し、飢餓対策を訴える。