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●寛延元年(1748)
●寛延2年(1749)
●寛延3年(1750)
●宝暦5年(1755)
●宝暦6年(1756)
●宝暦7年(1757)
●宝暦8年(1758)
●宝暦9年(1759)
●宝暦11年(1761)
9月−暴風雨・洪水のため広島領の田畑の被害が大きく、流失全壊家屋6,421軒・死者132人。
5月−広島藩が町奉行串田孫八の建議により,綿改所が綿改めのほか融資も行うこととする。
安芸郡の神官である香川将監の指導で社倉法がおこなわれ、効果をあげる。
11月−広島藩領内で浄土真宗西本願寺派の17か寺が東本願寺派に変わる。
広島藩領の恵蘇(えそ)・三次・高田郡で1万5,000人余の農民が庄屋宅などを打ちこわす。
11月22日−広島藩は,座頭,盲女が村々を遍歴することを禁じ、
居村を定めて扶持米を与えることとする。
6月26日−暴風雨・洪水・高潮のため、広島藩内で流失損壊家屋が2万7,118軒におよぶ。
広島城下で大火がおこり、元安(もとやす)川から東部がほとんど焼失する。
8月23日−広島藩領内で,藩発行の銀札廃止のうわさが流れて相
場が混乱する。26日,藩は銀札通用停止の触れを出す。
12月5日−広島藩領賀茂郡竹原の塩田で,浜子(塩田労働者)が賃銀値上げを要求して
一揆をおこす。
古医方を唱える吉益東洞(よしますとうどう)の『医断』が刊行され、医学界に大きな影響を与える。
12月19日−広島の植木屋次郎右衛門が甘蔗(さとうきび)栽培の
ため荒地の貸与を願い出る。