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●文化2年(1805)
●文化3年(1806)
●文化5年(1808)
●文化6年(1809)
●文化7年(1810)
●文化8年(1811)
●文政元年(1818)
●文政2年(1819)
●文政4年(1821)
●文政5年(1822)
●文政7年(1824)
●文政8年(1825)
●文政9年(1826)
●文政10年(1829)
●文政11年(1828)
●文化元年(1804)
甘楽(かんら)郡塩沢村出身の儒者市河寛斎編の『全唐詩逸(ぜんとうしいつ)』が刊行される。
玉村宿の商人が生絹・白絹・太織を京都呉服問屋に売却する。
幕府が治安維持を強化するため、関東取締出役(かんとうとりしまりでやく=八州回り)を設置する。
前橋の領民が前橋城再築を願い出る。
安中藩校造士(ぞうし)館と伊勢崎藩の郷校五惇(ごじゅん)堂・きょう義堂ができる。
高崎藩士の国学者富岡正忠が『上毛野国名跡考(かみつけのくにめいせきこう)』を著す。
和算家小野栄重と門人、算額を碓氷郡八幡村の八幡宮に奉納する。
和算家石田玄圭(げんけい)と門人らが、構名山榛名神社に算額を奉納する。
10月10日−前年7月3日の町代の権限間題に、町奉行所が町組側勝利の判決を言い渡す。
11月−高崎藩領の農民が,生活困難のさい領主から食糧を惜りる夫食貸(ふじきがし)を
要求して高崎へ押し出ようとする。
沼田藩主土岐頼潤(よりみつ)が郷蔵制度を始める。勢多郡三原田村の大工永井長治郎が
歌舞伎舞台を建てる。
館林町の国学者荒井静野が「上野国神名帳」を著わす。
沼田町周辺30ヶ村、上総・下総への煙草直売りを願い出る。
館林藩士生田万(よろず)、荒井静野が「新選上野国志」の著述を始める。
この年以降、縁切寺を相模国東慶寺と上野国満徳寺に限定する。
9月28日−幕府が、関東の無宿人・農民・町人が長脇差を携帯することを禁止する。
2月−幕府が関東で改革組合村の結成を命じる(文政の改革)。
館林藩士生田万(よろず)、藩政改革の意見書「岩にむす苔」を提出するが、領外追放となる。