★妻沼聖天歓喜院略歴
○2008/01/16追加:
治承3年(1179)齋藤別当実盛(長井庄<妻沼>を本貫とする)、大聖歓喜天を祀ると云う。(寺伝)
建久8年(1197)良応僧都(斎藤別当実盛ニ男・実長)本殿を現在地に移転、歓喜院長楽寺を建立、十一面観音を本尊とすると云う。(寺伝)
近世初頭、徳川家康によって再興されるも、寛文10年(1670)妻沼の大火で焼失し、長い間再建は実現せず。
その後、寛保2年(1742)本殿竣工及び遷宮。 宝暦5年(1755)拝殿と相の間着工、翌年上棟。宝暦10年(1760)本殿全てが竣工。
宝暦11年(1761)鐘楼建立、嘉永4年(1851)貴惣門竣工。
明治元年、神仏分離の処置で、世の復古神道家どもは、おそらく寺院を廃し神社に復古するなどの処置を画策したのであろうと推測されるも(資料は未確認)、妻沼郷28ケ村は聖天堂を寺院のまま護持することに決すると伝える。
※「(聖天宮歓喜院は)往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。云々」の説が流布しているようである。
しかし、この説は、復古神道家の常套手段から判断すれば、延喜式内白髭社などははるか昔に霧散(退転)していたのであろうが、それでは復古神道にとっては許すべからざることであろうから、白髪神社を聖天宮に付会したという類のいい加減なものであろう。
現在、付近には白髭神社とか大我井神社(明治の神仏分離で聖天宮から分離独立)とかの「式内白髭社」の論社が存在すると云うも、所詮空虚な付会でしかない。
※国家神道の画策は妻沼聖天堂では失敗するも、収奪に成功した例は本ページ最後の<附:常陸塙世聖天>の項を参照。
★武蔵妻沼聖天歓喜院多宝塔
昭和33年建立。一辺3.7m(3.65m)、高さ約15m(14.9m)。伝統工法による木造塔。平和塔と称する。
屋根銅板葺。上重は扇垂木を用いる。
★武蔵妻沼聖天歓喜院聖天堂
○2010/04/11追加:2013/02/16修正:
・聖天堂(本殿・重文真偽は不明ながら、修理完工後国宝に指定替か?)・・・・・平成24年7月国宝に指定される。
近世の歴史は以下の通り。
慶長9年(1604)徳川家康、伊奈備前守忠次に聖天堂造営を命じ、朱印50石を付与。
寛文10年(1670)聖天堂など焼失。
享保20年(1735)聖天堂再建事始。大工棟梁林兵庫正清、彫刻棟梁石原吟八郎。
宝暦10年(1760)本殿竣工、工期は25年、工費は2万両を要す。
明治元年3月28日神佛判然令に対し、住職英隆及び妻沼郷28ケ村の村役人は寺院として護持することを決する。
平成15年聖天堂保存修理開始、平成23年6月完工予定。総工費13億5千万円。
以下「O」氏ご提供、2010/03/29撮影:
(一般人は入ることが出来ない場所からの写真で貴重なものであろう。)
聖天堂拝殿瓦棒銅板葺屋根1:今般の修理で「チャン塗り」が復元される。
同 2
聖天堂拝殿軸部(部分):拝殿の4連続海老虹梁と、木鼻や台輪上の蟇股の装飾
聖天堂奥殿瓦棒銅板葺屋根1
同 2
聖天堂中殿装飾:中殿は拝殿と奥殿との繋ぎの間である。
→その他の写真は下に掲載。
聖天堂は拝殿と奥殿を中殿で結ぐ権現造の形式を採る。
3殿の構造は以下のとおり。
奥殿:桁行三間梁間三間、一重入母屋造、両側面軒唐破風、背面軒唐破風及千鳥破風付、向拝一間
中殿:桁行三間、梁間一間、一重両下造、北面御供所附属
拝殿:桁行五間、梁間三間、一重入母屋造、正面軒唐破風及び千鳥破風付
屋根:瓦棒銅板葺
「O」氏情報:瓦棒銅板葺屋根は「チャン塗り」と称するグレーがかった黒色塗装される。
「チャン塗り」とは、膠と何か(失念)に墨を混ぜた塗料を銅板の上に塗る技法を云う。
おそらく今般の修理で「チャン塗り」された銅板が発見され、そこから「建立時再現」として、「チャン塗り」が採用されたと思われる。
※その他の「ちゃん塗り」の例としては出雲杵築大社本殿屋根が、平成の遷宮に伴い、突如「チャン塗り」として強調されるようになる。
●2013/02/16追加:2010/03/29「O」氏撮影:
歓喜院聖天堂天井1 歓喜院聖天堂天井2 歓喜院聖天堂天井3
歓喜院聖天堂小屋組1 歓喜院聖天堂小屋組2 歓喜院聖天堂小屋組3 歓喜院聖天堂小屋組4
歓喜院聖天堂木階 歓喜院聖天堂擬宝珠胴
●2013/02/16追加:2012/02/03「O」氏撮影画像:
2013/02/17追加:
●重要文化財(国宝)建造物聖天堂の奇妙な造作について
上記の写真のように聖天堂保存修復工事は竣工する。ほぼ同時期に聖天堂は「国宝」に指定される。
しかし、某氏より指摘を受けたのであるが、子細に見ると、この重要文化財(国宝)建造物に「奇妙な造作」がなされている事に気付く。
即ち、上掲の「歓喜院聖天堂拝殿14」及び左記の「拝殿14写真・部分拡大図」で分かるように、重要文化財(国宝)拝殿に「ガラス入り引戸」が取り付けられているように見える。
この状況を内部から写した写真が、上掲の「聖天堂拝殿天井2」であろう。
この写真からは、当然、重要文化財(国宝)の部材には一切触れないように造作されてはいるように見えるが、明らかに新材と思われる着色角材を縦横に組立て、堂内(拝殿内)に木枠を作り、その設置木枠に「ガラス入り引戸」を入れ、
ご丁寧にもカーテンとカーテンレールまで取り付けていることが分かる。(ただし「引戸」であるかどうかは不明である。)
これは一体どうしたことであろうか。ここは居住空間である居間ではないのである。古から引継いできた文化財であり、信仰の場なのである。
このような歴史的建造物に「ガラス入り引戸」やカーテンなどはだれが見ても不釣合いなのである。
拝殿は仏堂でいえば、礼堂あるいは内陣に対する外陣であり、その機能は参詣者が祈る場所であり、寺院などの主宰者が会式を執り行う場所なのである。今般の修復工事前あるいはそれ以前の拝殿の柱間がどのような装置であったは寡聞にして知らないが、今般の修復も吹き放ちのように修復されているので、吹き放ちであったのであろう。おそらくは、拝殿とは日本全国どこであろうとも、古よりそのような構造であり、吹き放ちの構造で会式を行い、礼拝を行ってきたのであろう。
以上のようにこの「奇妙な造作」は常識を欠いたものと思われるので、少なくともこういった造作は止めて欲しい、またその価値を損ねるような構造物は撤去して欲しいと願うものである。ましてや、聖天堂は明治の神仏分離の処置で神社と改竄されることを拒絶してきた建造物であるから尚更である。
※2013/02/17現在、聖天堂の「奇妙な造作」がどのようになっているのかは、寡聞にして、不明である。
※文化財ではないが、山城法輪寺(虚空蔵)多宝塔には意味不明・目的不明なアクリルの覆いがある。
勿論建築の外部と内部と云う違いはあるが、著しく建築価値を下げるという観点からも伝統的な信仰施設という観点からも、
著しい違和感を覚える。
もっとも、雪深い雪国では、小社殿や小堂を雪囲いの板などで覆うケースが多いが、これは文化財や建物の保護の観点から
止む終えないものであろう。この多宝塔の場合は雪国の場合とは違うのである。
→参考:山城法輪寺 に掲載の多宝塔写真: 山城法輪寺多宝塔14、山城法輪寺多宝塔15
2013/02/28追加:
「O」氏より、保存修復工事前の聖天堂写真の提供を受ける。
写真及び「O」氏の言によれば、修復工事前の拝殿はかなり「自由」であったようである。一般人も、正面階段を上り、少なくとも拝殿の椽まで立入が「自由」にできたようである。要するに、拝殿とは参拝者が本尊を拝むごてん(御殿)であるので、建物構造も「自由」に立入が可能なような「造り」であったのであろう。蓋し当然のことであろう。
1996/12/29「O」氏撮影画像:
1996年妻沼聖天堂1 1996年妻沼聖天堂2
本写真ではその「自由」な造作(柱間装置)を覗うことができ、また写った参詣者の姿からも、その「自由」さを覗うことができる。
★妻沼聖天その他伽藍
貴惣門(重文):安政2年(1855)頃建立、八脚門・屋根銅板葺、屋根を三層に重ねる構造(妻側には3つの破風がある。)
※貴惣門の遺構は、本寺の他には陸奥弘前誓願寺山門<陸奥弘前大円寺のページ中にあり。但し妻入りである>、美作豊楽寺仁王門に残る。戦前には摂津四天王寺東大門(元和4年建立)があったが、戦災で焼失する。
明治27年仁王門建立。昭和61年寺中花蔵院本堂を移築、護摩堂とする。
○2009/06/25撮影:
妻沼聖天貴惣門1 妻沼聖天貴惣門2 妻沼聖天貴惣門3 妻沼聖天貴惣門4
妻沼聖天仁王門 妻沼聖天中門
附:龍泉寺観音堂:熊谷市善ヶ島(歓喜院南東約3kmにある。)
江戸初期建立と推定、方形造。平成2〜3年度に解体修理を実施。屋根茅葺を銅板葺きに変更。
屋根裏の束の墨書には、元禄7年(1694)とあり、修理銘と思われる。
○「O」氏ご提供画像:1995/11/05撮影
武蔵龍泉寺観音堂1 同 2
同 3
同 4
同 5 同 6
同 7
同 8 同 9
2013/02/16,17追加:
附:常陸塙世聖天:常陸旧真壁町
現在は八柱神社の本殿に改竄される。元来は真言宗(大覚寺末)金剛院聖天堂であった。
○「真壁町の社寺装飾彫刻」真壁町歴史民俗資料館、平成6年 では
「八柱神社は元来歓喜天を内部に安置した聖天堂で、・・・・構造的に一体である本殿・幣殿を合わせて天堂と呼び、近在の人々も昔から塙世の聖天様と通称し信仰してきた。(聖天の別当は金剛院であり、あるいは聖天堂は金剛院に属する建造物であった。)
明治初めの神仏分離で、金剛院は塙世神社に聖天堂を残し廃絶し、これに村内の七社を合祀し八柱神社に改称」するとある。
本殿は三間社入母屋造向拝付、四面に唐破風を付ける。建物の外観は彫刻で飾られ、朱・緑の彩色の跡を残す。
農村の荒廃の最中の天明5年(1785)頃に聖天堂は建立と伝え、これは農村の荒廃が背景にあるのであろう。
※上著には「新編常陸国誌」の金剛院条に「朱印地25石、除地3石、当村聖天ノ別当ヲ帯ス」とあると云う。
また、元禄10年の「塙世村明細帳」には「真言宗山城大学(覚)寺末」とあり。末寺門徒33ヶ寺を有すると云う。
○サイト:「堂宮彫刻写真美術館」>八柱神社に
、本聖天の社殿及び彫刻の写真がある。
また、本サイトでは以下のように云う。
明治の神仏分離の処置で「素盞鳴尊を祭る牛頭天王社を遷座し、社名を塙世神社とした。さらに塙世村内の雷、愛宕、富士浅間、新宮八幡、稲荷、日枝、厳島の7社を合祀し改称した。」
※7社合祀は全国に吹き荒れた国家神道の一村一社令による文化の破壊の一例であろう。
なお、「拝殿は昭和62年の再建」と云うから、おそらくは創建当時から「権現造」であったのであろうが、拝殿と石の間は近年の再興であろう。
※蓋し、妻沼聖天は仏寺として存続するも、塙世聖天は神社に改竄される。文化財に対する国家神道の破壊行為の一例である。
2006年以前作成:2013/02/28更新:ホームページ、日本の塔婆
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