安  芸  竹  林  寺  三  重  塔  ・ 東 京 椿 山 荘 三 重 塔

篁山竹林寺三重塔

篁山竹林寺縁起絵巻

篁山山頂に三重塔が描かれる。
上下巻2巻、下記の絵図は上巻の劈頭部分に描かれる。

篁山竹林寺縁起絵巻 (安芸竹林寺蔵) :  上図全体図
以上2007/11/17画像入替
篁山竹林寺縁起絵巻0:「『篁山竹林寺縁起』の世界」所収

 安芸竹林寺三重塔は東京椿山荘に移築され、現存する。
大正年間強風により、三層目が大破。奈良の骨董商を通じて、大正14年藤田伝三郎(男爵)が購入。
移築にあたり三層目は恐らく新造されたとされる。
 椿山荘は明治11年山県有朋が私財を投じてこの地を購入、大正7年藤田平太郎男爵が譲り受け、増築・庭の手入れあるいは文化財の購入・配置を行ったが、昭和20年の空襲で焼失(三重塔は焼失を免れる)、荒廃する。
 その後、小川栄一(藤田観光の創始者・藤田家の邸宅や敷地を引き継いで観光事業を起業)が、昭和23年から整備し、林泉回遊式庭園の椿山荘として復活を果たす。

  ※篁山竹林寺縁起絵巻は竹林寺に2種(原絵巻・模写絵巻)、広島大学に1種(写本)が現存する。
原絵巻:紙本彩色、竹林寺寺宝、外題・奥書ともなし、文久元年(1861)裏打の記入あり、書体や紙質から室町末期を下るものではないであろうという。
模写絵巻:原絵巻を忠実に模写したものであろう、寛永15年(1638)模写。
広島大学蔵写本:詞書のみの写本、奥書なし、江戸後期のものであろうか。

2019/10/09追加:
〇「日本の塔総観(下巻)」中西亨、1969、文華堂書店 p.82 より転載。
 (前略)三重塔は苑内小丘上にあり、他の建築より相当離れていたため戦災をまぬがれたが、この塔のもとの所在地は安芸国竹林寺である。竹林寺は現在賀茂郡河内村入野にあり、そこに所蔵される竹林寺縁起絵巻(室町)は県文に指定されているが、その中に塔の記事もみられる。所が大正年間大風のため三層目がこわれ、奈良の骨董商を通じて大正14年(1925)藤田氏に買い取られ、ここに移されたが、その時壊れた三層目は新しく造られたらしい。(後略)

安芸竹林寺三重塔跡

竹林寺三重塔跡1:下図拡大図

竹林寺三重塔跡2:下図拡大図

竹林寺三重塔跡3:下図拡大図

三重塔跡は本堂に向かって左手の丘上にある。(本堂はほぼ南面し、塔は本堂西の丘上にある。)
現状、塔跡として見るべき遺構は地上には何も残らない。
おそらく三重塔を偲ぶものとして、跡地には露座の青銅製阿弥陀仏が設置され、そのために塔跡の遺構は整地されたものと思われる。

篁山竹林寺縁起絵巻の大意

縁起絵巻は紙本着色2巻、竹林寺所蔵。室町末期頃成立と推定される。広島県重文。

上巻:
安芸国入野の地に夜な夜な光を放ち紫雲降る霊山が在った。
行基がこの山に登ると、頂上に桜の巨木があり、仏の姿をしていた。
行基は自ら千手観音を彫り出し、桜山花王寺を開基した。

この山の麓に一生不犯の女があり、その女は竹野辺秀職の下女・八千代といった。
延暦19年(800)八千代は千手観音に千日詣をし、満願の夜一人の童子が現れ五色の玉を八千代の懐へ入れた。
その後竹田村の竹林を通りかかった八千代は俄に戯れの心を起し、竹の子(笋)に嫁を為した。
八千代は懐妊し、玉体の一子を産んだ。子は自ら「篁」と名乗り、2−3歳で異常な学才を発揮した。
12歳の時家庭環境もあり、篁は都に登り天下に聞こえる諸芸全般での才覚を発揮した。
18歳の時西三条関白小野良相の姫に求愛し婿入りし、小野篁と名乗った。
嵯峨天皇に仕え、参議太夫に昇進した。さらに文章博士になり、遣唐使として白楽天と交友し詩才を示し、名声は天下に知れ渡った。

下巻:
関白良相が頓死し、地獄の光景を見、いよいよ地獄に堕とされる時、第三冥官宗帝王の謀り事によって、良相は娑婆へ帰されることになった。
この第三冥官宗帝王こそ小野篁であった。
良相は、条件として「決して娑婆では口外しない」ことを約束して、生き返った。ところが良相は嬉しさのあまり、姫君にこのことを漏らしてしまう。
口外を知った篁は仁寿2年(852)51歳の時、愛宕寺前の大道を蹴破り地獄に還って行った。
この大道はよって六道の辻という。

ほぼ100年後の天暦5年(951)篁は化僧として、花王寺に再び姿を現し、地蔵尊、十王のうちの九体等を造立し、観音像の傍らに安置し、去っていった。以降「篁山竹林寺」と号するようになった。
この奇異な行動を訝しんでいると、十王の残りの一体が出現した。この一体は篁自身の生身のものであると云う。

竹林寺の現況

2002/12/26撮影:
今も篁   山(標高535m)の山頂に位置する。適度に荒れた昔のままと思われる参道(山道)が山頂まで続く。
寺伝では弘法大師が入山し、現在の真言宗(御室派)に改宗したとする。
山道を相当程度歩き、山頂の竹林寺を訪れると、上記縁起の世界が伽藍配置の上で、今なお展開される。
伽藍(はおそらく南面し);参道最後の石段上仁  王 門があり、さらに参道を進み、池にかかる太鼓橋を渡った正面に本堂(重文・室町期)がある。
 本   堂 1      本   堂 2
本堂の右に十  王 堂、左に護  摩 堂があり、十王堂右手横に本坊、護摩堂左手前に篁   堂(小堂)がある。
太鼓橋を渡る左手に三重塔(跡)に登る坂道があり、およそ70m登ると鐘楼があり、そのすぐ上に塔跡がある。
なお、
西の山麓の入野に乾蔵坊、小野寺、南光坊、満願寺、北の山麓の中河内に甘露寺などの子院があったという。


東京椿山荘三重塔

2007/11/17追加:
藤田邸時代の三重塔
「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932) より

 藤田邸三重塔全景:左図拡大図
 藤田邸三重塔初重軒廻1
 藤田邸三重塔初重軒廻2
 藤田邸三重塔初重扉
 藤田邸三重塔初重天井

大正14年10月藤田邸に移建、 塔はそれ以前に大破し解体されていたと伝える。
また移建の際、各細部で修補された部分多く、殊に内部でニ重以上の構造においては、全部改造されて、建立当初の面影は見るべくもない。
初重中央間 3尺7寸、両脇間 3尺、縁幅 3尺5寸、縁高 3尺3寸5分
基壇は無く、縁下の部分から亀腹を設け、ここに礎石を置き、側柱を立てる。
内部には四天柱がなく、12本の側柱で各重を支持する構造を採る。

建立年代を証する資料は全くないが、細部の様式上から室町期もしくはそれ以降のものであろうと推測される。

椿山荘三重塔

安芸竹林寺三重塔:左図拡大図

 :平成5年平井彰一氏撮影画像


○2003/03/27撮影画像

  安芸竹林寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10

江戸初期あるいは室町末期の建築と推定される。一辺約3m弱、総高5丈5尺(16.65m)の小型塔である。
銅板葺き(もとは桧皮葺き)。折衷様で特に初層にそれが顕著に見られる。
内部は四天柱がない。床は拭板張,天井は廻縁をまわして格天井が組まれ,その格間には文様が彩画される。
安芸篁山普陀落院竹林寺から大正14年藤田平八郎によって椿山荘に移築される。
 (あるいはもと安芸音戸の篁尊寺塔とも云う。大正14年藤田男爵が移建。篁尊寺は小野篁・平清盛と関係があるとされる。)
椿山荘は元山形有朋の別邸で、後に藤田伝三郎男爵の所有となり、多くの石造品や山城酬恩庵開山堂などが移されたが戦災で焼失する。
幸いにも塔のみは被災を免れる。
戦後藤田観光によってホテル・式場・料亭などとして復興する。
都内とは思えない広大な回遊式庭園内の丘上に建ち、申し分のない環境の中にある。
付言すれば、塔見学についての椿山荘の対応は大変丁重なものである。

2011/11/06追加:2011/10/29撮影: 撮影時刻は夕刻、塔の周囲は整備工事で立入不可。

椿山荘竹林寺三重塔11
椿山荘竹林寺三重塔12
椿山荘竹林寺三重塔13
椿山荘竹林寺三重塔14
椿山荘竹林寺三重塔15
椿山荘竹林寺三重塔16
椿山荘竹林寺三重塔17
椿山荘竹林寺三重塔18:左図拡大図
椿山荘竹林寺三重塔19
椿山荘竹林寺三重塔20
椿山荘竹林寺三重塔21
椿山荘竹林寺三重塔22
椿山荘竹林寺三重塔23
椿山荘竹林寺三重塔24
椿山荘竹林寺三重塔25
椿山荘竹林寺三重塔26
椿山荘竹林寺三重塔27
椿山荘竹林寺三重塔28
椿山荘竹林寺三重塔29
椿山荘竹林寺三重塔30
椿山荘竹林寺三重塔31
椿山荘竹林寺三重塔32
椿山荘竹林寺三重塔33
椿山荘竹林寺三重塔34
2010/09〜2011/05の工期で
三重塔の耐震補強・改修が実施される。

工事内容:軒廻り等痛んだ部分の取替、銅板瓦の葺替。
「伝統木造建築用超塑性亜鉛アルミ合金制震ダンパー」の使用による耐震補強。

三重塔の建築年代:
従来、本塔は室町後期の建築と推定されていたが、改修工事に際し、年輪年代測定法で調査した結果、1420年頃(室町前期)の部材が使われていることが判明する。

以上は施工業者「竹中工務店」のサイト より

2013/05/09撮影:
平成23年(2011)大規模改修竣工。新に聖観世音菩薩を奉安し、圓通閣と名付く。圓通とは圓通大士即ち聖観世音菩薩の異称なり。
 安芸竹林寺三重塔41   安芸竹林寺三重塔42   安芸竹林寺三重塔43   安芸竹林寺三重塔44   安芸竹林寺三重塔45
 安芸竹林寺三重塔46   安芸竹林寺三重塔47   安芸竹林寺三重塔48   安芸竹林寺三重塔49   安芸竹林寺三重塔50
 安芸竹林寺三重塔51   安芸竹林寺三重塔52   安芸竹林寺三重塔53   安芸竹林寺三重塔54   安芸竹林寺三重塔55
 安芸竹林寺三重塔56   安芸竹林寺三重塔57   安芸竹林寺三重塔58   安芸竹林寺三重塔59   安芸竹林寺三重塔60
 安芸竹林寺三重塔61   安芸竹林寺三重塔62   安芸竹林寺三重塔63   安芸竹林寺三重塔64   安芸竹林寺三重塔65
 安芸竹林寺三重塔66   安芸竹林寺三重塔67   安芸竹林寺三重塔68   安芸竹林寺三重塔69   安芸竹林寺三重塔70
 安芸竹林寺三重塔本尊1   安芸竹林寺三重塔本尊2   安芸竹林寺三重塔相輪

2021/10/12追加:
骨董商・大隅安三郎と大匠棟梁山賀熊吉

公益社団法人・奈良まちづくりセンターの調査研究により、安藝竹林寺(現・東京椿山荘)三重塔の移築に係わった骨董商と大工が判明するという。
  竹林寺三重塔を藤田男爵に仲介したのは奈良有数の骨董商・大隅安三郎であり、三重塔を解体・修理・組立したのは奈良の大匠棟梁山賀熊吉であったということが突き止められる。
 但し、以上を直接裏付ける物的証拠(譲渡契約書や棟札)は発見できなかったが、関係者の証言などで、ほぼ間違いないことが判明する。

その調査研究結果は下記のサイトに掲載されている。

サイト:奈良まちづくりセンター>調査研究>2019奈良町モノ語り調査 より

以下、その調査研究の成果を、以下のように、抜粋・転載をさせて頂く。
  ※転載の許諾:2021/10/09”奈良まちづくりセンター”理事 清水和彦氏より許諾を得る。

「令和元年度文化庁助成『奈良町モノ語り調査』」文化庁 より
●山賀熊吉の仕事−旧大隅家住宅の建設、三重塔の椿山荘への移築
 (中略)
 大隅安三郎は奈良有数の骨董商で、大阪の藤田男爵家にも美術品を納めた。
安三郎は茶人でもあり、熊吉に自邸の建築を委ね、東京の藤田平太郎邸(現椿山荘)への三重塔移築にあたらせたと推定される。
熊吉が、それに応えるだけの技量を持つ腕の立つ大工だったことを物語る。
 (中略)
(3)東京・椿山荘三重塔の移築・修復
 (中略)
山賀家では、熊吉棟梁が移築したと言い伝えられており、故徳田キミさんの証言にも「(山賀家の敷地に)三重塔が立ててありました」 とあるが、それを裏付ける資料は見つかっていない。
しかし、古美術収集家として知られた藤田男爵が「三重塔を全国に手配し探し求めた」(藤田富子『椿山荘記』1952年)とあり、「奈良の骨董商を通じて購入」とする文献(中西亨『日本の塔総観』1967年)もあることから、骨董商の大隅家を通じて、自宅を建てた「大匠棟梁」の山賀熊吉に移築・修復を依頼した可能性が高いと思われる。

まちづくりジャーナルVol.18 『「奈良町にぎわいの家」を建てた「大匠棟梁」山賀熊吉』、理事 神野武美 より
町家の裏庭に三重塔が立っていた
 何より驚くのは「山賀家の裏庭に三重塔が立っていた」という話です。
それは、広島県東広島市にあった竹林三重塔(室町時代建立)を藤田平太郎男爵が譲り受け、大正14年に東京の男爵の邸宅「椿山荘」(旧山縣有朋邸)に移築した事業に絡むお話です。
 竹林寺三重塔は大正中期の台風で二層・三層が大破したため、建物を解体して部材を奈良に運び、熊吉棟梁の自宅裏庭で一時的に組み立てながら修理したと考えられます。
実際、裏庭に行くと平たい「礎石」と思われる石がいくつもあり、この家に住む孫の山賀慶子さん(70)も「古老の『塔が立っていた』という証言記録もありますよ」と話します。町家の裏に聳え立つ高さ18.5m(最上部の相輪まで建てたかは不明)の塔がある風景は壮観だったでしょう。

『奈良町に「椿山荘三重塔」が立っていた』歴史的風致形成建造物「山賀家住宅」モノ語り調査から、理事 神野武美 より
 (中略)
(椿山荘三重塔は)広島県の竹林寺(現東広島市)の三重塔。大破していた二層、三層目を修復し、大正14年10月に移築が完了しました。
しかし、修復や移築をしたのは誰かを示す史料や文献が発見されていません。
藤田観光を通じて2011年に改修工事を行った竹中工務店や、文京区教委にも問い合わせましたが、いずれも「(氏名が書かれた)棟札はなかった」という答えでした。
山賀熊吉棟梁が自宅裏庭で三重塔を修復
 山賀慶子さんは、数年前に亡くなった父楢治郎さんから、「子供のころ、父親(熊吉)に連れられて東京に行った。お金を胴に巻いて独りで帰った」、つまり単身赴任の父親から実家への送金役を担ったという話や、慶子さんが生まれた年に熊吉棟梁は亡くなっていますが、亡くなる数ヵ月前に法隆寺の金堂内部が焼失し、修復の相談を受けたが、高齢を理由に断ったなどの話が伝わっています。
 また、近所の女性(1910年生まれ、故人)が、平成15(2003)年2月、敷地の境界線をめぐる裁判で奈良地裁に提出した証言書に「大正10年頃(私が12歳位)山賀熊吉さんはこの土地を購入、長屋を壊し先ず仕事場にされました。
そこには三重塔が立ててありました」とあ り ます。
山賀家の敷地は幅が約7m、奥行きは30m以上。それに対し、三重塔本体の幅は9尺7寸で、縁側の幅は3尺5寸。つまり、塔の幅は16尺7寸で、メートルに換算すると、約5.6m。山
賀家の敷地の幅より狭く、自宅の裏庭で三重塔を仮組立てすることも可能と考えられます。
 (中略)
一方、三重塔の購入を仲介した「奈良の骨董商」は、明治40(1899)年の『奈良繁昌記』に名前が出ている大隅安三郎と推定できます。
中新屋町にある「旧大隅家住宅」は、奈良市が購入し、今は登録有形文化財「奈良町にぎわいの家」として一般公開されています。
大正6年に上棟された主屋(母屋)の棟札には「大匠棟梁 山賀熊吉」と書かれています。つまり、熊吉棟梁は、椿山荘三重塔の移築(1925年)の少し前に「奈良の骨董商」の家を建てたことになります。

「奈良町の大工 ・山賀家に遺る大工道具とモノ 報告会・シンポジウムの記録」、理事 神野武美 より
●「椿 山 荘 三 重 塔 の移 築 をめぐって」理事・神野武美 より
父から聞き取った祖 父の姿 ― 山賀慶子さん
 (中略)
祖父が三重塔を移築したころ、父はまだ小学生で9 歳くらいでした 。祖父に連れられて 2 回ほど東京に行ったそうです 。
三重塔について、私は若いころは全く知りませんでした。近所の人から「 あそこに昔建っていた塔はどうなったん」と聞かれて初めて父に尋ね、 解体した部材を広島から瀬戸内海を船で引いてきて家の裏で修理して組み上げ 、それを藤田さん ( 藤田男爵 ) が見に来はったと聞きました。 それを裏付ける記録が見つからなかったのは残念ですが、そのように聞いています。
父が東京に連れて行ってもらったというのも、笑い話のようですが 、子供やから狙われんやろうということで 、 胴巻にお金を入れて持って帰 っていたのかもしれません。 父がよそでそんな役をやらされていたとちょっと聞いたことがあるので、そのように 想像しています。
戦後、法隆寺金堂の火災があったあと、文化財の方が来られて祖父に 修理の仕事に来てほしいと言われ ましたが、 祖父は歳も歳やからと言って断ったそうです。 祖父は 間もなく亡くなるのですが、 酒もたばこもやらず甘い物だけで、こ時代としては長寿だったのはそうしたせいかも知れません。


藤田富子『椿山荘記』1952 より
 後に、亡夫江雪(※藤田平太郎男爵の雅号)が此の丘の樹林を背景に三重の塔を配置したいとの希望で、全国に手配探し求めたが、五重ならばそこここ見当たりもするが、三重は数少なく、やうやく安藝國入間郡の篁山竹林寺にあったのを懇望し、代りとして新塔を建立、椿山荘へ移築したのが今此の丘の一隅、緑葉の中から九輪を擢んで青銅のそり屋根を重ね、この苑の白眉として月に雪に四季を通して、見る人の心を楽しませている現在の塔である。
此の塔は遠く弘仁時代小野篁の建立になり、平清盛が第1回の修理を為したものといひ伝えてゐる。


参考:大和唐招提寺東塔心礎

大和唐招提寺心礎は近年まで椿山荘のプールに残存していたと云う。しかし、残念ながら、近年つまらないことで破壊されたと云う。
大変「遺憾」なことと思われる。
  →大和唐招提寺

椿山荘は元藤田男爵の東京別邸と云う。藤田男爵の大阪本邸の庭園は太閤園として、蔵は昭和28年藤田美術館として公開される。
 →太閤園・藤田美術館
  ※藤田美術館には高野山光台院多宝塔が移築・現存する。また大和東大寺塔の心礎もしくは礎石も移転・現存する。  


2006年以前作成:2021/10/12更新:ホームページ日本の塔婆