初  期  古  代  神  宮  寺

初期古代神宮寺

初期神宮寺概要

参考文献:
「神宮寺成立の史的背景について」遠藤順昭(「横田健一先生還暦記念日本史論叢」関西大学史学科、昭和51年 所収)
「八幡神と神仏習合」達日出典、講談社現代新書、2007
「石清水八幡宮境内の遺跡」(シンポジウム「神仏集合」資料集)、八幡市教委、平成22年 他

神  宮  寺

創 建 創 建 年 代 備   考
備後三谷寺
 →備後寺町廃寺
- 斉明天皇7年(661)の誓願 「日本霊異記」上巻・第七話
斉明天皇七年八月の頃、百済救援を名目に出兵した倭国軍に参加した備後国三谷郡の郡司(大領)の先祖が、「若し平に還へり来らば、諸神祗の為に伽藍を造立せむ」と誓願し 、出兵する。大領は何事もなく百済の禅師弘済と共に無事帰国し、弘済が中心になって三谷寺を造立する。
即ち、三谷寺は郡(評)による諸神祗のための仏寺であることがはっきり示されている。三谷寺がもっとも古い神宮寺とされる所以である。
○現在では備後寺町廃寺が三谷寺跡と比定されている。
越前気比神宮寺
 →越前気比神宮寺
- 霊亀元年(715) 「藤原氏家伝」下「武智麻呂伝」:霊亀元年建立
霊亀元年近江守であった藤原武智麻呂に気比神の託宣があって気比神宮寺が誕する。(神身離脱の託宣)
「太政官符(天元5年<982>)」:造気比太神宮寺一院事、講堂一宇・南金堂一宇・北金堂一宇・南三重檜皮葺 塔一基(高6丈6尺)・北三重檜皮葺 塔一基(高6丈6尺)・中門一宇
若狭若狭比古神願寺
 →若狭神宮寺
赤麿 養老年中(717-724) 「類聚国史」巻180、天長6年3月乙未条
養老年間若狭比古神の託宣によって神宮寺ができる。(神身離脱の託宣)
丹波与能神宮寺
 →丹波与能神宮寺
- 奈良期あるいは白鳳期 神宮寺跡から白鳳あるいは奈良期の瓦が出土、古代の心礎・礎石も現存、但し古代瓦・心礎などと与能神社・その神宮寺との関係を証明するものは何も無いのが現状と思われる。
豊前宇佐神宮寺(宇佐弥勒寺)
 →宇佐神宮寺
- 神亀2年(725) 「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」「八幡宇佐宮御託宣集」巻5・巻6
肥前松浦神宮弥勒知識寺 - 天平17年(745) 「類聚三代格」巻3
常陸鹿島神宮寺
 →鹿島神宮寺
満願 天平勝宝年中(749-57) 「類聚三代格」巻2
摂津住吉神宮寺
 →摂津住吉神宮寺
円仁 天平宝宇2年(758) 「住吉松葉大記」巻10・勘文部、「古今著聞集」巻1・神祇第5条
伊勢多度神宮寺 満願 天平宝宇7年(763) 「多度神宮寺伽藍縁起并資材帳」 :満願禅師の建立、
天平宝字7年多度神の託宣によって多度神宮寺が出現する。(神身離脱の託宣)
その後美濃国県主新麿が三重塔建立、さらに興福寺賢mにより三重塔一期造立
 「多度神宮寺伽藍縁起并資材帳
※興福寺賢mは大和室生寺開山と云う。(「「宀一山年分度奏状」」)
伊勢大神宮寺 - 天平神護2年(766)頃 「続日本紀」:文武天皇2年の「大神宮寺」記事は誤記とされる。
天平神護二年七月二十二日の条:「使を遣わして、丈六の仏像を伊勢大神宮寺に遣らしむ」
「太神宮諸雑事記」:「逢鹿瀬寺永可為大神宮寺」
2009/08/15追加:
 伊勢神宮寺釈迦如来立像瀬戸田耕三寺が所蔵する、流転の経緯などは不明、木造釈迦如来立像(重文) 、平安初期の作と推定。カヤの一木造、像高135cm。
豊前八幡比売神宮寺 - 天平景雲元年(767) 「続日本紀」:「始めて八幡比売神宮寺を造る」
宇佐公池守が御許山山麓に建立した中津尾寺(観音寺・後身は宮佐古山栄興寺)のことか?。宇佐宮迫坊跡の更に奥が中津尾寺跡と想定される。
越前劔御子寺
 →越前劔御子寺
- 神護景雲4年(770)以前 劔大明神(劔神社)社蔵梵鐘(国宝)銘:
 劔御子寺鐘神護景雲四年九月十一日
「新抄格勅符抄」:「天平神護元年(765)劔御子神■神封十戸」とある。
筑後高良神宮寺(弥勒寺)
 →高良山高隆寺
- 奈良期後半 「高良縁起」
近江陀我大神(御上)神宮寺 恵勝 宝亀年中(770-80) 「日本霊異記」下・第24縁
下野ニ荒山神宮寺(中禅寺)
 →日光山
勝道 延暦3年(784) 「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑」(「遍照発揮性霊集」巻2所収)
近江日吉神宮寺
 →比叡山山王権現
- 延暦4年(785) 「叡山大師伝」
大和三輪神宮寺
 →大和大御輪寺
- 延暦7年(788)以前 「延暦僧録」第2・沙門釈浄三菩薩伝、「今昔物語集」巻2・第41話
山城高尾神願寺(神護寺)
 →山城神護寺
和気清麿 延暦年中(782-808」 「類聚三代格」巻2
豊前賀春神宮寺(法華院)
 参考;→豊前天台寺跡
伝教大師 延暦年中(782-808」 「続日本紀」、「叡山大師伝」
「傳教大師傳」:(弘仁)五年春爲遂渡海願向筑紫國。於八幡宇佐神宮寺自講法華經。乃託宣云。我不聞法音久歴歳年。幸値和尚得正教。自開齋殿手フ紫袈裟紫衣各一枚奉止和尚。其法衣今在山院。又於豐前國賀春神宮寺。自護法華經。于時有紫雲瑞矣。
(近世には賀春」は「香春」に転化するとされる。)
香春岳東麓に「
天台宗賀春山神宮院」が現存するも、詳細は不明。
筑前竈門山寺(大山寺)
 →筑前竈門山寺
- 延暦22年(803) 「叡山大師伝」
山城賀茂神宮寺
 ※賀茂神宮寺
- 天長年中(824-34) 「続日本後紀」
尾張熱田神宮寺
 ※熱田神宮寺
- 承和14年(847)以前 「熱田神宮文書」
能登気多神宮寺 - 斉衡2年(855)以前 「日本文徳天皇実録」
能登柳田シャコデ廃寺が気多神宮寺の可能性が高いとされる。
※近世は正覚院・長福院・地蔵院・薬師院などの存在が知られるも、明治の神仏分離で退転、正覚院のみ残存する。
近江奥嶋神宮寺 元興寺賢和 貞観7年(865) 「日本三代実録」:蒲生郡(現在は近江八幡市北津田町)
 ※近江阿弥陀寺
大和石上神宮寺 - 貞観8年(866) 「日本三代実録」
山城石清水八幡宮寺(護国寺)
 →石清水八幡宮寺
行教 貞観年中(859-877) 「石清水八幡宮護国寺略記」、「石清水八幡宮末社記」
  ↓
 石清水八幡宮護国寺略記1:重文、鎌倉期。 貞観5年行教が記した原本を寛喜4年(1232)世尊寺行能が筆写したものである。
 石清水八幡宮護国寺略記2:上記略記1の続きである。
出羽国神宮寺 - 仁和元年(885) 「日本三代実録」
和泉大鳥神宮寺
 →大鳥山神鳳寺
行基 和銅元年(708) 「行基年譜」:和銅元年行基41歳の時建立
「行基菩薩縁起絵詞」:大宝2年(702)以降、行基35歳の頃建立、「号神宮寺、今神鳳寺是也」
山城愛宕神宮寺 - . .
伊予神門山神宮寺 行信 . 「本朝高僧伝」
山城神雄寺
 →山城神雄寺
- - 近年出土する。
和泉神於寺 - - 岸和田市神於

多度神宮寺伽藍縁起并資材帳」多度大社蔵・延暦20年(801)11月3日:
桑名郡多度寺鎮三綱謹牒上
 神宮寺伽藍縁起并資財帳
以二去天平宝字七年歳次癸卯十二月庚戌朔廿日丙辰。神社之東有一レ井。於二道場一満願禅師居住。敬造二阿弥陀丈六一。于時在レ人。託レ神云。我多度神也。吾経久劫作重二罪業一。受二神道報一。今冀永為レ離二神身一。欲レ帰二-依三宝一。如レ是託訖。雖レ忍二数遍一。猶弥託云云。於レ茲満願禅師。神坐山南辺伐掃。造二-立小堂及神御像一。号称二多度大菩薩一。次当郡主帳外従七位下水取月足銅鐘鋳造。并鐘台儲奉施。次美濃国近士県主新磨三重塔奉起。次宝亀十一年十一月十三日。朝廷使レ令二四人得度一。次大僧都賢。大徳三重塔起造既畢。次天応元年十二月始私度沙弥法教。引二-導伊勢。美濃。尾張。志摩并四国道俗知識等一。造二-立法堂并僧房。大衆湯屋一。迄二于今日一遠近修行者等。作二-備供養行事並寺内資財一。顕注如レ件。
仏物
 板障子釈迦浄土 金泥弥勒菩薩像壱躯 薬師仏木像壱躯 金泥観世音菩薩像壱躯 金泥得大勢至菩薩像壱躯 金泥弥勒像壱躯
 脇侍菩薩弐躯並漆塗。未レ押レ金。
 画像阿弥陀浄土三副 画像観世(音)菩薩参躯三副 画像薬師浄土三副 太子像壱躯
 大般若経壱部六百巻 法華経拾部八十巻 大宝積経壱部百廿巻 最勝王経参部卅巻 花厳経弐部百六十巻 金剛三昧経壱巻
 潅頂経拾弐巻 金剛般若経佰巻 瑜伽論壱部百巻 智度論弐部二百巻 金剛三昧論壱部三巻 金剛三昧頌壱巻
 塔弐基並三重
 東 桧皮葺
 西 瓦葺
  水精玉七丸大一丸 中三丸 小二丸 次小三丸
  唐鏡壱面 経六寸三分 著二紫帯一在
  鏡弐拾壱面五寸以下 二寸以下
法物
 板葺堂壱間 板敷壁代板立長二丈八尺 広一丈四尺
 桧皮葺法堂壱宇 板敷三間長五丈 広三丈五史 高一丈二尺四寸板葺小堂壱間 板敷長一丈五尺 広八尺七寸
 桧(皮)葺鐘台壱宇長一丈 広七尺 高七尺  高座弐具高二尺一寸五分 広方三尺六寸  高座机弐前 椅弐前
  高座宝頂弐具各小幡四旒 宝頂骨弐具  秘錦壱床長六尺三寸 二副  小幡壱拾肆旒各長一丈 之中白色一旒
 潅頂幡伍具二具各長三丈五尺 広二尺三寸 三具各長三丈 広一尺四寸
 花縵玖勾  花机壱前  経机壱前
 聖僧御座両面壱床長三尺九寸 一副半 白紗花覆弐領各長九尺 三副 押纈帯肆条各長一丈一尺四寸 緋紗経覆壱領長八尺 四副
 悲田料苧白布帳壱条長九尺二寸 四副  紺帳壱条長二丈三尺 二副  金泥銅火炉壱合口径八寸 足五
 銅金泥香鈈肆合各口径四寸  銅火炉壱口口径七寸三分 足五
 銅磬一枚
 金鼓壱面径六寸縁火炎長一尺五寸五分 広一尺一寸  銅鐘壱口高竜頭并三尺
布薩調度  脇息壱前 如意壱柄
 籌捌拾隻 浄水丸笥弐口  袋七口一口綴 一口錦 一口押纈 四口羅  漆塗持櫃弐合播納料
楽具
 大鼓壱面 小鼓参面一破  高麗犬壱頭 高麗冒子弐頭並白
衣捌領之中一紺調服 七紗 半臂弐領並紅襴麻裏箏琴弐隻 金泥大刀壱柄  金泥飾女小刀参口 珠冠壱口
 骨笏壱枚長一尺一寸二分 厚四分 広一寸六分
僧物
 板葺板敷僧房壱間土塗長三丈一尺二寸 高九尺 広一丈三尺
 板葺小子房壱間泥塗楉敷在長三丈一尺五寸 広一丈三尺 高九尺
 草葺僧房壱間土塗長八丈三尺 広二丈一尺五寸 高八尺 南方板葺。庇在。
 草葺小子房壱間泥(塗)長二丈二尺 広一丈六尺 高六尺
 鉄湯釜壱口受二斛
 湯船弐隻一隻長三尺六寸 広二尺四寸 深二尺三寸 一隻長二尺六寸 広二尺一寸 深二尺一寸
供神料器
 漆塗轆轤椀弐合 漆塗盤肆口
通物
 白銅錫杖弐枝各袋在。珠数弐貫 西塔料
  一貫水精一百卅丸之中玖碧十七丸  一貫迦梨勒五十四丸無食子一丸 水精一丸
 木香炉壱枝合子二合
大衆
 板葺屋壱間長二丈三尺 広一丈四尺五寸 高八尺
 板葺竃屋壱間泥塗長二丈六尺 広一丈一尺 高六尺草葺韓室弐間並塗
  一間長一丈六尺五寸 広一丈一尺 高四尺  一間長一丈四尺 広一丈一尺 高三尺
 草葺厨壱間泥塗長二丈八尺 広一丈三尺 高七尺五寸
 草葺板倉参間
  一間長一丈三尺八寸 広一丈一尺五寸 高八尺  一間長一丈一尺四寸 広一丈一尺 高六尺五寸
  一間長一丈一尺六寸 広一丈 高九尺
 草葺湯屋壱間泥塗長一丈六尺五寸 広一丈一尺 高六尺四寸
 鉄釜弐口各受二斗之中一口破。 鉄堝壱口受二升。  大鎚壱隻 湯鉄参拾斤太釜余也。  鎰伍勾之中詁鎰一。法堂料 寺木印壱隻
 瓼弐口各受一斛。 油正壱口受二斗六升。  皿肆口三口各受三斗。 一口受一斗五升。
鋪設
 聖僧御座短茵壱枚 高座并礼盤短茵肆枚  長茵肆拾玖張廿六枚麻席 廿三枚縄席 長席肆枚  茅長席肆枚 縄席参拾伍枚
伊勢国桑名郡幡桙島東庄墾田并田代
 始自一条辰田里十二坪并廿五町 始自同条二土入里一坪并卅六町  始自三姫島里一坪至于廿坪并廿一町
合墾田并田代捌拾町肆段参伯肆拾歩大納言正三位藤原雄黒施入
 伊勢国肆町陸段参伯歩
  桑名郡野代郷条外里十九室木田弐段参伯歩常荒
   次廿室木田玖段常荒 次廿一室木田肆段常荒
  六条九鳥垣里廿四七原田壱段
  田代野弐所
  条外里門屋原弐町四至東南西北山
  七条二多治比辺里田代并山一処。在寺前四至東小祭社。南小山
   已上。延暦十七年人人所レ進。
  三重郡六条五鍬柄里七海辺田玖段陸拾歩荒
  十二俣田参伯歩
 尾張国墾田并田代参拾伍町捌段肆拾歩
  海部郡十三条馬背里壱町参段
  田代葦原参拾肆町伍段肆拾歩
   荒癈公田壱拾陸町伍段肆拾歩常荒八町一段 今荒捌段肆拾歩
   六年佃還公 空地壱拾捌町
    延暦五年長官紀朝臣佐婆麿。介井上直牛甘。大目大伴直赤椅。少目春戸村主広江等任時所レ進。
合稲壱仟伍伯玖拾束
 通修理料伍伯玖拾弐束伍把
 西塔修理料弐伯弐拾伍束
 同法阿弥陀悔過料伍伯肆拾束
 講経料壱伯陸拾伍束
 悲田料陸拾七束伍把
倉附
 市无伍伯木部坂継外垣倉納弐伯壱拾伍束
 出挙伍伯捌束捌把伍分
 未納捌伯陸拾陸束壱把伍分
伏願。私度沙弥法教并道俗知識等。頃年之間。構二-造法堂僧房一。太衆湯屋。種種所レ修二功徳一。先用レ廻二-施於多度大神一。一切神等増二-益威光一。永隆二仏教一。風雨順序。五穀豊稔。速截二業網一。同致二菩提一。次願二聖朝文武。フ水H善。動乾坤誓。千代平朝。万葉常君一。次願下遠近有縁知識。四恩済挺。塵篭共施覚者。現在法侶等。同蒙二利益一。遂会二界外輪際有頂一。早離二閻浮一。倶奉中極楽上。
   延暦廿年十一月三日 願主沙弥「法教」
    鎮修行住位僧「賢中」
    知事修行入位僧病
検察
伊勢国
 大国師伝灯大法師
 少国師伝灯住位僧「慈浩」
尾張国
 大国師伝灯法師「恵聡」
 少国師伝灯法師
僧綱御使 従儀僧「慈広」
僧綱判収
大僧都修行伝灯大禅師位「賢m」
少僧都伝灯大法師位「行賀」
少僧都伝灯大法師位「玄憐」
律師伝灯大法師位
資財帳四通
 一神宮寺 一僧綱所
 一伊勢国師 一尾張国師

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近江奥嶋神宮寺(阿弥陀寺と号する)

「日本三代実録」:貞観7年(865)元興寺賢和が奥津島神社神宮寺として創建する。
中世には常行堂や東谷・西谷・北谷に坊舎の存在が知られる。
文安元年(1444)の鐘楼造営勧進帳には定泉坊(西谷)・大定泉坊・中学房・本願院・定智房・東林房の名が見えると云う。
元亀2年織田信長の焼討ちで衰微する。
現在は臨済宗、小堂1宇の残すのみ。
・「忘れられた霊場をさぐる[2]」栗東市文化体育振興事業団、平成19年 より
 近江阿弥陀寺境内図:詳細は不詳、多くの坊舎址を残す、おそらく近江の天台の大寺と同じく、
  中世までは神宮寺というよりは、天台の大寺として多くの坊舎から成った寺院であったと推定される。
2008/10/04撮影:
 阿弥陀寺山門:西谷参道を一番奥に粗末な山門がある。
 阿弥陀寺本堂庫裏:西谷一番奥に民家風の阿弥陀寺がある。
 神宮寺西谷上部:西谷にはかなり崩落した石階の参道が残り、鬱蒼とした竹林・雑木の中に坊舎跡石垣と平坦地を残す。
 神宮寺西谷下部:参道左右には明瞭に坊舎跡平坦地を残す、但し立ち入りはそれなりの装備は必要。近世の中心は西谷と推定される。
  ※東谷坊舎跡は良く分からない、また住職談によれば、阿弥陀寺背後の中世伽藍地及び北谷の坊舎跡に踏み込むことは今は困難と云う。
   中世伽藍地には常行堂と坊舎があったと云う。
 大島奥津島神社:現況、素性が良く理解できない。

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2006年以前作成:2015/11/14更新:ホームページ日本の塔婆