★備後吉備津宮(備後吉備津大明神)
◆備後吉備津宮境内古図(室町期?江戸期?):
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当社は備前吉備津宮と同じく、吉備津宮を備後に分祀
して成立と伝える。
室町期とされる左記絵図には、随身門2門、楽所、神楽殿、拝殿、本殿などがあり、社頭には、池・中島があり、三重塔が描かれる。
別当として神宮寺、中興寺の存在が知られる。
数次の災害に邂逅するも、江戸期の様子として、本殿・番所、巫坐、拝殿、舞台、楽所、随身門2門の他、境内神社仏閣として(神社は略)観音堂、阿弥陀堂(護摩堂)、地蔵堂、薬師堂、毘沙門堂、山王、輪蔵、・・
・塔の礎、屋敷跡の礎・・・御手洗池があったとする。
三重塔は江戸期には既に転退していたと思われる。
備後吉備津宮境内古図(
室町期?江戸期?)・・・左図拡大
備後吉備津宮境内古図(
室町期?江戸期?)
備後国一宮大明神絵図(
室町期?江戸期?):「塔」とあるが、塔屋敷であろう。
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◆一遍上人絵伝:
一遍上人絵伝に見る塔婆(相輪と屋根の一部のみが描かれるのみで、全貌は分からない。)
★備後吉備津宮心礎(伝備後吉備津宮三重塔心礎)
○2012/03/13追加:
「X」氏より、下記「広島県の古石塔」の資料提供を受ける。
○「広島県の古石塔」蔵橋純海夫、2007 より
心礎が現存する。心礎は現在同社駐車場の隅に他の古石塔と一緒に置かれる。
心礎の材質は花崗岩、大きさは外面径90cm、柱面径57cm、柱面高5cm、中心円孔は径21cm深さ17cmを測る。
この心礎は大同2年(807)の塔創立時の心礎か長禄から文明年中(1457-69)の頃の再興と伝える塔の心礎かは分からない。
(備後吉備津宮の史料的初出は永万元年(1165)「神祇官年貢進納諸社注文写」である。)
備後吉備津神社心礎:2013/06/24画像入替
○2013/06/24追加:
塔基壇中央から出土したということが明確であれば、心礎と断定が可能なのであるが、形状からは心礎とするにはやや違和感がある。
径90cmの柱座に径57cmの出枘を造り出した心礎とするには不自然で、径57cmの造り出し柱座に径21cm深さ17cmの枘孔を穿った心礎と解釈するしかないが、果たしてどうなのであろうか。
何れにせよ、まず心礎であるならば、珍しい形式の心礎と思われる。
心礎と云うよりは例えば石燈籠などの台石であるようにも見えるがどうなのであろうか。
○2014/01/01撮影:
◇社務所にて神職に確認。
「心礎とされる遺物は御池にある塔畑と称する三重塔跡から出土し、それを現地には運んだものなのか」
→「"伝"である。(そのように伝わるだけで、確証はない)」
「その"伝"は明治の神仏分離後の伝なのであるか。」
→「明治以降ではなく、江戸期である。」
※心礎である確証はないと思われる。ただし、心礎と云う"伝"は明治維新以前からあるようである。
◇伝備後吉備津宮心礎実測値:
大きさは径100cmであり、円形に整形される。(周囲の一部は劣化で剥落する。)高さは土中に埋まり不明。
表面に径60cm高さ約5cmの円形凸部を造り出し、さらに円形凸部の中央に径21cm深さ18cmの円孔を穿つ。ただし円孔は正円筒ではなく底に近づくにつれて径は小さくなり、底面は椀形を呈する。
また、中央の円孔の縁部を3等分した所に、一辺およそ3cmの正方形の欠き取りを彫り込む。この3か所の正方形欠取の用途は不明であるが、この円孔に嵌め込まれるであろう枘に3等分した3cmの正方形の突起を造り、それを組み合わせ回転を防止するストッパーの受け口とも思われる。いずれにせよ、通常、塔の心礎には見られないものであろう。
◇伝備後吉備津宮心礎
古石塔類・伝心礎1 古石塔類・伝心礎2
備後吉備津宮宝篋印塔 備後吉備津宮層塔残欠 吉備津宮散乱石塔部材
★備後吉備津宮三重塔跡
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御池跡現状:
御池の西側は26号線で若干狭められたと推測され、また北側の中島周囲はほぼ埋め立てられ、陸続きとなるも、ほぼ近世の景観を残すものと思われる。
御池の北側は埋め立てられ、堀跡・中島跡を辛うじて偲ぶことが出来るだけである。
三重塔があったと推定される中島は建物の敷地となり、三重塔跡を偲ぶものは地上には何もない。
2014/01/05追加:
しかし仔細に観察すれば、中島には「塔畑」の字を残し、また中島中央付近と思われる地点には近世後期に勧請されたと思われる荒神の社殿が残る。おそらくは、三重塔跡は荒神の社殿の地となって残るものと思われる。
備後吉備津宮現状図 |
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2003/12/28撮影:
御池景観1:御池東からほぼ西北西を望む
御池景観2:南より北を望む、中央が推定三重塔・中島跡
御池景観3:同上、中央左側が推定三重塔・中島跡
御池景観4:東より北西を望む、中央が推定三重塔・中島跡
御池景観5:
左図拡大図
右の窪地が御池跡、中央が推定三重塔・中島跡 |
2014/01/01撮影:
○備後吉備津宮三重塔跡再検証
三重塔があった御池の北側中島は南東を除き周囲が埋め立てられる。この北側中島の中央付近に現在「塔畑荒神」が鎮座する。
地元民に聞取:
「(三重塔跡推定値を指差し)あそこの字は<とうはたけ>と云うのでしょうか。」 → 「その通り<とうばたけ>と云う。」
「<荒神>があるのですか。」 →「荒神がある。あの病院の手前だ。」
「そこに三重塔があったと思われるが。」 →「塔があったと聞いている。」
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○備後吉備津宮略図:左図拡大図
近世、三重塔は退転し、塔があった場所は「塔屋敷」として残されたものと思われる。そして中島はいつしか陸続きとなり、跡地は耕作されるように
なり、そのため字が「とうばたけ<塔畑>」とされたと推定される。
しかし、塔の跡地である「塔屋敷」は一種の「聖地」として、周囲は耕作されるが、耕作されず、灯篭に残る年紀から、おそらくは文化14年以前に、荒神の社に転用されたものと考えられる。
荒神は今も島であった頃の中心付近に鎮座する。そのため、荒神の拝殿及び本殿のある場所が塔跡であることはほぼ間違いないと思われる。否、塔迹そのものであるから、社(荒神)が営まれたのに違いない
と推測されるのである。 |
塔跡遠望1(東より池越):中央の黄▽が荒神拝殿で塔の跡地であろう、向かって左の黄▽は厳島神社の祠
塔跡遠望2(東池跡より):向かって左端の黄▽が荒神社拝殿、写真左が島跡、右が池跡でその面影を良く残す。
塔跡遠望3(東池跡より):写真中央向かって右の黄▽が荒神祠の覆家、左黄▽が拝殿、右の駐車場は池跡
塔跡遠望4(南西より):中央向かって右の黄▽が拝殿、左黄▽が荒神祠の覆家であり、まさにこの位置が塔の跡地であろう。
塔跡遠望5(南より):厳島神社より撮影、中央切妻瓦葺建物が拝殿
塔跡遠望6(南より):厳島神社より撮影、同上
推定塔跡荒神拝殿:左は荒神祠覆屋
推定跡迹荒神社:覆屋及び本殿
推定塔跡礎石:荒神社前に礎石らしき石が残るが、確証はない。
荒神社前石灯篭:文化14丑(1817)6月吉日と刻む、これが荒神の灯篭とすれば、江戸末期には塔跡に荒神が営まれたものと推定される。
★備後一宮現況
備後吉備津宮は備後国一宮とされ、大同元年(806)備中一宮より勧請されたと伝える。
参考:備中一宮(備中吉備津宮)
寛喜元年(1229)・元弘二年(1332)に炎上。
永和二年(1376)の復興で従来の三殿並列の形式を改めて一殿に合祀したと云う。
明徳三年(1392)に桁行十二間・梁間七間の社殿が造営されたと伝える。その後荒廃する。
慶安元年(1648)福山藩主水野勝成が旧規模にならって現社殿を造営。
備後吉備津宮における神仏分離がいつ頃実施されたのかは資料不足で不明ながら、現在では三重塔を初め仏堂・神宮寺などは全く姿を消す。
2014/01/01撮影:
備後吉備津宮御池1 備後吉備津宮御池2 備後吉備津宮御池3 備後吉備津宮御池4
備後吉備津宮御池5 備後吉備津宮御池6 備後吉備津宮御池7
備後吉備津宮厳島社1 備後吉備津宮厳島社2 備後吉備津宮厳島社3
備後吉備津宮下随身門 備後吉備津宮参道:下随身門を望む
吉備津宮上随身門1 吉備津宮上随身門2
本殿;重文、慶安元年(1648)福山藩主・水野勝成造営、7間×5間入母屋造、檜皮葺、正面に3間の向拝付設(千鳥破風・唐破風あり)、正面に
は「虎睡山」(コスイザン)扁額を掲げる。この山号の掲額の意味は不明であるが、明治維新以前のものならば、神仏習合時代の仏教の山号であろうか。
備後吉備津宮本殿11 備後吉備津宮本殿12 備後吉備津宮本殿13 備後吉備津宮本殿14
備後吉備津宮本殿15 備後吉備津宮本殿16 備後吉備津宮本殿17 備後吉備津宮本殿18
備後吉備津宮本殿19 備後吉備津宮本殿20 備後吉備津宮本殿21 備後吉備津宮本殿22
2003/12/28撮影:
備後吉備津宮社殿
なお現在「桜山神社」と称する「国策神社」のある平坦地には神宮寺があったと伝える。
○備後吉備津宮神宮寺医王院(時打山医王院)
神宮寺医王院は現在神社南方の丘上(時打山)にある。古は吉備津宮桜山神社のある位置にあったのであろうが、明治の神仏分離の処置で取り壊され、本尊如意輪観世音菩薩は近隣の寺院を転々とし、現在の地である時打山薬師堂へ遷座すると云う。
現在はRCの医王院観音堂と地蔵堂がある。観音堂は備後西国三十三カ寺の結願所でもある。
時打山医王院観音堂 時打山医王院地蔵堂
○備後吉備津宮別当中興寺
時打山のさらに南の山麓にある。備後吉備津宮の別当とも云うが、確たる情報がない。
別当中興寺山門 別当中興寺本堂 別当中興寺俯瞰
2006年以前作成:2014/01/06更新:ホームページ、日本の塔婆
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