武  蔵  喜  多  院  多  宝  塔

武蔵喜多院多宝塔

武蔵喜多院多宝塔

明治45年移転前多宝塔
もともと、多宝塔は本地薬師堂の北、山王権現社・白山権現社の間の塔の山(古墳)上にあった。
そしてこの多宝塔は、寛永16年(1639)再興塔という。
明治45年、多宝塔は本堂北側の本坊に至る渡り廊下の中ほどに移築される。
大正12年、道路開削によって、塔の山(古墳後円部)は毀されという。
下に掲載する写真のように、多宝塔は移築前に(恐らく明治維新の頃に)すでに上重は失い、下重を宝形造に改造し、その上に相輪を載せた姿であった。

2007/11/06追加:
「関東天台宗の堂舎構成に関する研究-星野山喜多院(仙波東照宮)-」柳田記未子他
   (「日本建築学会大会学術講演梗概集」(東北)2000/09 所収) より

近世川越喜多院伽藍図:左図拡大図
 寛永期の復興から明治維新まで、概ね左図のような伽藍配置であった。
  ※近世の多宝塔および廻りの堂宇が確認できる。
南北線上に東照大権現本地薬師堂と多宝塔(釈迦・多宝如来)その左右に山王・白山権現を配し、東西線上に東照大権現、東照大権現の鬼門に慈眼堂(天海)を配する。

2007/11/17追加:
「武蔵三芳野名勝図会」、享和元年(1801)中島孝昌著
 星野山喜多院全景
   方位は、ほぼ北から南を俯瞰したもので、山王、白山の間に多宝塔がある。多宝塔南の大堂は本地薬師堂。
「江戸時代図誌 巻10」より(原図不詳)
 喜多院 境内図:同じく山王・白山の間に多宝塔があり、本地堂(薬師堂)の真東に位置する。

2008/08/03追加:
「多濃武野鴈」(タノムノカリ) 大陽寺盛胤、明和3年(1766)
 仙波星野山図:上は南・下は北、本地堂薬師は北面し、その正面に多宝塔、その東に山王権現、西に白山権現が配置される。

2005/12/03追加:
「写真集 明治大正昭和 川越」より
 明治33年の多宝塔: 上記「伽藍図」を参考にすれば、おそらく東の惣門の方向から西を撮影した写真と思われる。
 (不鮮明であるが、写真中央やや右側に小さく多宝塔屋根の上部と相輪が微かに見える。)
  ※写真左は山門で、その左が明治9年上野寛永寺に移建した大堂(本地堂・薬師堂)の跡という。
 古墳上の多宝塔: 上記「伽藍図」を参考にすれば、薬師堂附近から北を撮影した写真と思われる。
 (不鮮明であるが、中央やや左が古墳で、木立の中の木立の後に隠れるように、微かに相輪・屋根が写る。)
 (一見良く分からないが、良く見ると、屋根及び相輪が木立に同化するように写る。この時期既には上重を失っていたと思われる。)
  ※写真右建物が山王権現社務所・屋根だけ見えるのが拝殿。
  古墳は大正12年道路開削で取り壊される。埴輪多数が出土と云う。
 2007/11/17追加:
 古墳上の多宝塔・部分(部分図): 上の写真の多宝塔を中心とした部分図、
   良く観察すると、既に上重を失い、下重と思われる方形堂に屋根を架け、相輪を挙げている様子が窺える。
2016/09/05追加:
○古墳上の多宝塔写真を入手:本人(s_minaga)蔵:
上掲の「古墳上の多宝塔」写真の原画と思われる絵葉書を入手:

 喜多院境内多宝塔:左図拡大図

年代推定の公式では
表面には
1)菊切手(水色)が貼付され、その値段は壱銭5厘である、
このはがき代金は明治32年〜昭和12年4月(2銭)まで
スタンプも押されるが、その年代は読み取れない。
2)はがきタイトルは「きかは便郵」とあり、
明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月までの形式である
3)通信欄の罫線が3分の1でありこれは、
明治40年4月〜大正7年(1918)3月までの罫線である。
 以上から、本絵葉書は明治40年から大正7年の間の発行と推定される。
上掲の写真では明治33年とするが、その根拠は不明ながら、罫線の形式を除けば、1)・2)から明治33年の発行であることも十分ありうることとも思われる。


喜多院境内多宝塔2:多宝塔部分拡大図

 喜多院境内多宝塔2:左図拡大図

多宝塔は南面した古墳上に建ち、本地堂(薬師堂)と対面して建つと伝える。
写真を見ると小高い土壇上に建つように見えるが、小高い土壇とはおそらく古墳の封土であり、そこに石階を設け、古墳上に建築したのであろう。
多宝塔は既に上重を失い、下重に宝形屋根を架し、その上に相輪を上げる単層堂(いわゆる塔堂)となる。
写真が不鮮明で、下重の柱間やその装置ましてや組物などは一切分からないが、辛うじて、椽を廻らせ、擬宝珠勾欄を付設している様子が分かる。
屋根は本瓦葺で、本来も本瓦葺であったのを踏襲しているものと思われる。
相輪は路盤・伏鉢・請花・九輪・龍車・宝珠がほぼ揃っているものと判断される。

2016/10/07追加:
○五百羅漢と多宝塔絵葉書

 五百羅漢と多宝塔絵葉書:左図拡大図:本人(s_minaga)蔵
柱間は3間、腰長押を打ち、擬宝珠勾欄付の椽を廻らすことが写真に写る。
◇絵葉書の推定年代
はがきタイトルは「きかは便郵」とあり、これは明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月までの形式である
また、通信欄の罫線が3分の1であり、これは明治40年4月〜大正7年(1918)3月までの罫線である。
 以上から、本絵葉書は明治40年から大正7年の間の発行と推定される。

2014/04/02追加;
塔の山(古墳)は現在「仙波日枝神社古墳」もしくは「多宝塔古墳」というようである。
 ※「多宝塔古墳」はまだしも「仙波日枝神社古墳」とはいかなる感覚で命名したのであろうか。「仙波」・「古墳」とくれば当然名称としては歴史的に正統な名称が来るべきで、明治維新の神仏分離の処置で改号された「日吉神社」などを冠するのではなく「仙波山王権現古墳」と命名すべきであろう。要するに何も考えていないのである。もっとも、 「仙波山王権現古墳」と呼ぶ以前に「塔の山」と呼ぶ方がよほど風情があると思われるが、いかがなものであろうか。
 川越喜多院航空写真:YahooMap
「塔の山」はいわゆる前方後円墳であった。そして、上で見たように、薬師堂(本地堂・今は無い)正面(北側)には西から白山権現・多宝塔・山王権現が配置されていた。
前方後円墳は前方部を東に後円部を西にして築かれ、後円部西に白山権現、後円部に多宝塔、前方部に山王権現が建立されていたようである。そして薬師堂正面(北側)に多宝塔があったのである。
上に示した「川越喜多院航空写真」は以上を図示したものである。
後円部はほぼ全壊、道路となる。したがって多宝塔は現在の道路上にあったことになる。前方部は現存し、そこに山王権現があることになる。
なお、後円部は大正12年の県道工事で破壊されたとのWeb上の記事もある。
◇「喜多隠」大西芳雄、昭和31年(「古寺の旅 東日本編」東京美術、昭和48年 所収)より
喜多院付近(仙波地区ほか)には多くの古墳がある。慈眼堂(天海僧正を祀る)は前方後円墳(東西30間南北25間)の前方部に建てられている。大正末年山王権現脇の新道開設工事の際、石箱に収納されている古墳遺物を発掘する。これは宝永15年(この年紀の根拠は不明)多宝塔建立の時一度出土したものを石箱に納め、再び埋めたものである。現在寺には剣と玉類が保存されている。

昭和50年復元移転前多宝塔

昭和50年復原移転前多宝塔

「日本の塔総観・下巻」より:
 
修復前喜多院多宝塔:昭和43年撮影:左図拡大図
   :明治45年移転後、昭和50年修復前:
上重は既に明治45年以前に失い、竜宮門風の漆喰基壇に下重部分を乗せ、宝形屋根に相輪を上げた姿であった。

なお、昭和46年に、その当時の喜多院伽藍配置図(この当時の多宝塔位置が図示されているものと推定される)を入手した記憶があるも、本人(s_minaga)の管理が不十分のため現在所在が不明である。従って、残念ながらそれを掲載して示すこと能わず。

2014/04/02追加;
◇「喜多院」大西芳雄、昭和31年(「古寺の旅 東日本編」東京美術、昭和48年 所収)より
 ※以下のように昭和31年以前の多宝塔の姿の様子が分かる記述がある。
薬師を本地佛として祀る本堂は明治10年上野寛永寺に移建されなく、慈恵堂(大師堂)が本堂の役目を果たしている。この慈恵堂と回廊で連なっている多宝塔は明治年中に修理をするも、今は根太も腐り歩くたびにぎしぎしと揺れ破損の跡が目立つ。内陣中央には慈覚・慈眼大師を厨子に納め、両脇には不動明王を安置し、小型の四天王を始め雑多の仏像が並ぶ。護摩が焚れる為、堂内は黒く燻んでいる。右隅には毛利輝元が家康追悼の為幕府に収めた宋版一切経5400巻余がここに遷されて置かれている。外陣には護摩木が置かれ、正安2年在銘の梵鐘が架かる。
 ※上掲載の「川越喜多院航空写真」では本堂西北から渡り廊下が写るが、その中間付近に多宝塔は昭和50年まであったものと推測される。

現多宝塔

寛永16年(1639)再興塔
当初は、境内東方の日枝神社と白山神社の中間の「塔の山」(古墳)に建立される。
明治45年道路工事で本堂と書院を結ぶ廻廊の中間に移転、上層は既に失っていた。
その姿は竜宮門風の漆喰基壇に下層部分を乗せ、宝形屋根に相隣をつけた姿であった。
 ※参考:上掲載:修復前喜多院多宝塔:昭和43年撮影
 ※本尊は釈迦・多宝如来とする。(現在も同一なのかどうかは不明)
昭和50年失われた上層を新材で復元し、現位置に多宝塔として修復される。
復元根拠は幕府作事方平内家伝来の木割「匠明」に基ずくと云う。
2007/10/26追加:復元の根拠としては以下の事情もある。<「O」氏情報>
本堂の屋根裏かどこかに失われた上層の部材が発見されると云う経緯があり、この物的証拠によって上重の復元が可能となる云々。

2007/11/06追加: 「O」氏ご提供(1997/12/28撮影)
 武蔵喜多院多宝塔11:左図拡大図
 武蔵喜多院多宝塔12
 武蔵喜多院多宝塔13
 武蔵喜多院多宝塔14

2005/08/29撮影:
 武蔵喜多院多宝塔1    武蔵喜多院多宝塔2    武蔵喜多院多宝塔3
 武蔵喜多院多宝塔4    武蔵喜多院多宝塔5    武蔵喜多院多宝塔6


武蔵川越喜多院概要:(星野山)

奈良期、仙芳仙人の創建と伝えるも伝説の域を出ない。
天長7年(830)慈覚大師円仁より創建され、無量寿寺と号す。
元久2年(1205)兵火で炎上、永仁4年(1296)尊海僧正により再興、元三大師を祀る。仏蔵院(北院)、仏地院(中院)、地蔵院(南院)が建立される。
天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で焼失。
天正16年(1588)随風、北院に入院、豪海に師事、天海と改名する。
慶長4年(1599)天海(慈眼大師)、北院第27世となる。慶長13年、徳川家康の知遇を得る。
慶長17〜18年、家康は寺域4万8千坪、寺領500石を下す。酒井忠利を奉行に伽藍を造営。無量寿寺仏蔵院(北院)を喜多院と改称。
元和3年(1617)、家康(遺骸)の久能山から日光山への遷座の途中、喜多院に4日間逗留して供養。
寛永10年(1633)天海が喜多院の一画に東照宮を創建。(仙波東照宮)
寛永15年(1638)川越大火、山門(寛永9年建立)を除き灰燼に帰す。
同年徳川家光は堀田正盛を造営奉行として再建に着手。
寛永17年(1640)喜多院・仙波東照宮再建。
江戸城紅葉山別殿を移築(客殿、書院等)、慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、仙波東照宮、日枝権現などが再興され現存する。
(客殿、書院、庫裏、慈眼堂、鐘楼門、山門は重文)
 喜多院鐘楼門
仙波東照宮(本殿、唐門、珠垣、拝殿、弊殿、石鳥居、随身門<仁王門>が重文)
 喜多院仙波東照宮1:仁王門   喜多院仙波東照宮2
徳川家綱、仙波東照宮に200石を下す。
明治2年、神仏分離の処置で、仙波東照宮が喜多院より分離。

中院:現在も広大な伽藍を有する。正安3年(1301)に関東天台本山となる。かっては無量寿の中心であったようであるが、天海入山より喜多院にその地位が移 る。 中院は無量寿の南(現在地)に移転させ、跡地に東照宮を造営と云う。南院は現在廃寺。
 中   院
なお、中院は「日蓮上人伝法灌頂之寺」という。(上の写真に石碑が写る。)
その由来は、建長5年(1253)4月28日、蓮長は上る太陽を拝し「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、日蓮宗を開宗、名前を日蓮と改める。
その後、日蓮上人は中院において、尊海和尚より恵心流の伝法灌頂を受けるという。

喜多院東、日枝権現南に仙波山仙芳塚(開山仙芳上人入定地)がある。
またこの西の地は元和8年家康の日光山遷座の途中に大法会が行われた本地瑠璃薬師堂があったという。
この薬師堂は明治12年上野寛永寺の再興にあたり本堂として移建・現存する。
 (明治12年大慈院跡に喜多院本地堂<寛永15年建立>を移し寛永寺根本中堂とする。>


2006年以前作成:2016/10/07更新:ホームページ日本の塔婆