河  内  叡  福  寺

河内叡福寺

河内叡福寺多宝塔

承応元年(1652)の建立。重文。一辺4.8m、高さ18m。かなりの大型塔である。
江戸の三谷三九郎の建立。本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の3尊像、西面は大日如来。
2001/06/24撮影:
 河内叡福寺多宝塔01     河内叡福寺多宝塔02    河内叡福寺多宝塔03    河内叡福寺多宝塔04
2008/08/31撮影:
 河内叡福寺多宝塔1     河内叡福寺多宝塔2     河内叡福寺多宝塔3     河内叡福寺多宝塔4
 河内叡福寺多宝塔5     河内叡福寺多宝塔6     河内叡福寺多宝塔7     河内叡福寺多宝塔8    河内叡福寺多宝塔9

2010/03/10追加:
叡福寺の塔婆について
当然であるが、偽書・椿井文書である「建久4年古図」を除いて、「上太子伽藍之絵図」「叡福寺境内惣絵図」「叡福寺境内古絵図」(何れも近世初期と推定される)の塔婆を観察すると、叡福寺には以下の塔婆が存在したものと推定される。
. 上太子伽藍之絵図 叡福寺境内惣絵図 叡福寺境内古絵図
本堂前塔婆・現多宝塔 多宝塔 多宝塔 五重塔(一遍上人絵伝では層塔)
石塔院(一山北西部) たうのあと 塔跡 三重塔
東側伽藍(東福院東) たう跡 塔跡 三重塔

 ※中世には現多宝塔位置に三重塔か五重塔があり、さらに石塔院に三重塔、東側伽藍にも三重塔があった可能性が高いと推定される。
現多宝塔位置に層塔があったことは一遍上人絵伝ではっきり分かる。
石塔院・東側伽藍に三重塔のあったことは、「上太子伽藍之絵図」「叡福寺境内惣絵図」とも塔跡を認識し、「叡福寺境内古絵図」ではその位置に三重塔を描くことなどからほぼ確かであろう。
 ※「建久4年古図」(椿井文書・偽書)では、石塔院には「新御塔頼朝公影安置」なる五重大塔、東には転法輪寺の伽藍と推測される古代寺院風な伽藍の中に東西両塔が描かれるが、 やはり虚偽であろう。
 ※「上太子伽藍之絵図」「叡福寺境内惣絵図」「叡福寺境内古絵図」及び「建久4年古図」(椿井文書・偽書)の評価については下掲の
「河内叡福寺」の項を参照、就中「叡福寺境内惣絵図」は信憑性が高いと思われる。

河内叡福寺概要

上の太子と称する。号は磯長山。
○2007/02/10:
寺伝では
推古天皇28年(620)聖徳太子、生前この地を墓所と定めると云う。推古天皇29年、太子生母穴穂部間人皇后をここに埋葬、翌年、聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたと 云う。
 ※墓は叡福寺北古墳と称する。但し、聖徳太子を被葬者とすることについては異説もある。
 ※叡福寺付近には敏達、用明、推古、孝徳各天皇陵がある。
推古天皇30年推古天皇、香華寺として坊舎10軒を営む。
神亀元年(724)、聖武天皇発願で東院・西院が整備され、東院は転法輪寺、西院は叡福寺と号する。(※)
古代・中世には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝、また空海、親鸞、日蓮などが参籠したことが知られる。
天正2年(1574)織田信長の兵火により灰燼に帰す。
豊臣秀頼により聖霊殿などが再建、その後も堂宇の再建を見、ほぼ現在の寺観となる。
現在、堂宇は金堂・聖霊殿(太子堂・桃山末期・重文)・廟所・仁王門・浄土堂・見真大師堂・弘法大師堂・念仏堂・客殿・二天門・上の御堂・聖光明院等多くを具備する。
 ※東院・西院を備えるというのは法隆寺に擬えたものと思われ、明治以降に作られた説と思われる。
  あるいはこの説は椿井文書である「建久4年古図」(偽文書)を根拠にして、形成されたとも思われる。
2001/06/24撮影
 河内叡福寺廟所1     河内叡福寺聖霊殿1(太子堂・重文)
2008/08/31撮影
 河内叡福寺金堂       同河内叡福寺廟所2
2006/01/29追加:パンフレット「叡福寺と聖徳太子」 より
 叡福寺全景

河内叡福寺絵図
以下は次の2書からの転載を主とする。
「叡福寺の縁起・霊宝目録と境内古絵図」太子町立竹内街道歴史資料館、2000・・・【A】
「平成12年度 企画展図録 聖徳太子廟の香花寺 叡福寺縁起と境内古絵図 」太子町立竹内街道歴史資料館編 、2000・・・【B】
 ※以降各々は【A】及び【B】と表示する。

2003/10/17追加:
「一遍上人絵伝」
 一遍上人絵伝(巻8)・・・中世の様相である 。最上階のみの絵であるが、当時は多宝塔ではなくて層塔があったものと推定される。
  ※小野一之氏は三重塔と想定する。
2010/03/10追加:【A】 より
小野一之氏は豊富な史料を基に、太子廟前の塔は平安期以降その位置を継承しつつ、以下の変遷を辿ると考察する。
即ち石塔(天喜5年1057〜建保3年1215頃創建)→三重塔(建暦2年1212頃〜寛元3年1245頃創建)→多宝塔(正平3年1348〜建徳2年1371頃創建)と変遷すると。そして鎌倉初期から南北朝までは三重塔があったと考察した根拠の一つには「一遍上人絵伝」の描く塔婆が他の堂宇との比高差から三重塔と思われると判断したことによる。

2010/03/10追加:
「河内鑑名所記」」巻3、延宝7年(1679)刊
  河内上太子
絵図は大まかであるが、ニ層塔が描かれる、本堂跡は礎石を描く。五字の峯には宝篋院塔を描く。

2010/03/10追加:【A】 より
「上太子伽藍之絵図」

上太子伽藍之絵図:太子町立竹内街道歴史資料館蔵:推定貞享3年(1686)出版
 :左図拡大図

上太子伽藍之絵図読取図

この絵図には年紀が記されていないが、貞享3年(1686)に出版された「上太子寺略縁起」とともに出版されたものと推定される。
この根拠は以下の通りである。

本図も「上太子寺略縁起」もともに叡福寺の寺号が記されていなく、「上太子寺」「上太子伽藍」の寺号を使用する。
つまり叡福寺の寺号が記されていないということは、当寺の庶民向け寺号は貞享年中末から元禄年中初頭にかけて、上太子から叡福寺に移行したと考証されていると云うことから、貞享3年の出版であることに全く矛盾はない。
さらに描かれた堂塔を検討すると、廟所前の伽藍はある程度復旧が進んでいるも、周辺部の多くは堂跡のままであり、中心部の本堂・中門・鐘楼なども再建が果たせていない情況である。
例えば本堂は「本堂やしき」とあるままである。これが意味するところは次の通りである。
本堂の再建は享保17年(1732)であり、それに先立ち享保5年(1720)には仮金堂の記録があり、さらに正徳5年(1715)の金堂造立棟札が残存し、この棟札が仮金堂造立の棟札とすれば、この絵図の開版は正徳5年以前に溯ると考えられる。
このことも貞享3年の出版であることを妨げない。
 なお本図の特長として、堂塔は未復興の堂塔(23例)を含め、58例描かれるが、塔頭については皆無に等しいほど描かれない。
(近世初頭には塔本坊・聖光明院・中ノ坊・多聞坊などの名が知られ、江戸初期に一山を支配した東福院・閼伽井坊などが知られるも描かれていない。)これは、後出の「叡福寺境内古絵図」が塔頭を一切描かず、堂塔のみを描くのと同じ特長と思われる。
(「叡福寺境内古絵図」では59例の堂塔が描かれ、このうち40箇所ほどは殆ど「上太子伽藍之絵図」と合致している。ただし、本図の特性上、堂塔跡は建物が描かれる体裁となっている。)
 さらにもう1点注目すべき点がある。
右下に「是よりひがしてんほうりんじ」と記入がある。しかし、「是より東」にあるのは牛頭天王・鐘楼以外は全て跡地で ある。このことは東側の復興は全く顧みられなかったことを示すのであろうが、この書込みがある以上、東は転法輪寺であるとの何らかの認識はあったのではあろう。
しかし伽藍の復興状態から見て、江戸初期には、「是より東転法輪寺」と云う認識は希薄な状態であったと知れる。
(聖武天皇の建立した廟前寺院は東を転法輪寺、西を叡福寺と称したという東西に2寺説は明治以降戦前までの文献で説かれるごく最近の説と思われる。)

2010/03/10追加:
「叡福寺境内惣絵図」

叡福寺境内惣絵図:叡福寺蔵 :【B】 より
 :左図拡大図
元禄元年(1688)に大阪奉行所に提出した境内図の控である。表題寺名を「上太子叡福寺」とし、「転法輪寺」名は全く記録されない。
この時点での復興・未復興の堂塔及び同じく復興・未復興の塔頭を網羅した絵図であり、その信憑性は高いと思われる。
またこの時点では焼失前の叡福寺境内は東西900m南北300mほどとし、その中に20余の塔頭があったと把握していたことを示す。

 叡福寺境内惣絵図読取図:【A】 より
絵図には「河州石川郡上太子叡福寺境内惣絵図 叡福寺坊中 惣代持参僧 閼伽井坊英尊 元禄元戊辰年十月廿九日 大阪御奉行所」とあり元禄元年(1688)に大阪奉行所に提出した控えである。
堂塔などの書込みは102点あり、現存堂塔は勿論、堂塔跡、現存塔頭、塔頭跡もあり、元禄元年当時の叡福寺の姿を子細に捉えることが出来る。特に塔頭の全容を示す唯一の資料とされる。
即ち、来迎院、自性院、無量寿院、塔之本坊、閼伽井坊、石蔵坊、薬師院、角之坊、東福院の9ケ院が復興している。
未復興には、最勝院坊、西福院坊、谷之坊、多聞院坊、文殊院坊、中之坊屋敷、常光院、地蔵院坊、持宝院坊、尾崎坊、宝瓶院坊、大乗院坊、文殊院坊(同名)、極楽院坊、往生院坊、地蔵院坊(同名)がある。
  ※西方院も既に復旧しているが、この当時は叡福寺の塔頭ではなく、山外の寺院として独立したものとして諸資料では扱われている。
  因みに叡福寺の資料では「末寺」とも記す。
寺号について見ると、「上太子叡福寺」とあり、これ以降一般向けの縁起などは「叡福寺」の寺号を用いることとなる。
一方この絵図の信憑性については、大阪奉行所に提出した控え(公文書)であると云う性格から信用に足るものであろう。またこの絵図の堂塔及び跡などを現実の地形に充て嵌めるとほぼ合致し、元禄期の叡福寺の堂塔の復興状態をほぼ正確に示すものと評価できよう。
 なお 転法輪寺については「上太子伽藍之絵図」では認識が辛うじてなされていたが、当図では一切記入がなく、問題外であったと思われる。
何れにしろ、当図の正確性・詳細さは信憑性が高いが、基本的な堂塔の構図(堂塔の種類・配置)としては「上太子伽藍之絵図」、「叡福寺境内古絵図」と同一のものと云える。 勿論、「叡福寺境内古絵図」は未復興の堂塔を存在するかのように描く違いはあるが、基本的な堂塔の種類・配置は同一と云ってよい。

2010/03/10追加:
「叡福寺境内古絵図」
室町期の作と解説されるも、疑念がある。江戸初期の作とも推定される。

2006/01/29追加:パンフレット「叡福寺と聖徳太子」 より
 叡福寺境内古絵図(室町):全図 :叡福寺蔵
 叡福寺境内古絵図:部分図

2010/03/10追加:
 叡福寺境内古絵図読取図:【A】 より

 

本図は室町期の作とされる。それは上掲の「上太子伽藍之絵図」や「叡福寺境内惣絵図」と構図(堂塔の種類と配置)は同系統ながら、跡地とされる堂塔に建物が描かれる故に、天正の兵乱で焼失前の伽藍を描いたものとされたためである。
しかし以下の点で疑念がある。
 まず本図では現多宝塔位置に五重塔が描かれる。上掲のように小野一之氏の研究では、室町初期は三重塔、それ以降は多宝塔であるとされ、五重塔であることは室町期の姿とは違うことになる。ただし、三重塔であることは推定であり、五重塔であった可能性もある。
 次に本絵図の記録は元禄5年(1692)が初見(「当山伽藍之絵図 四幅 夢幻法師筆」)であり、慶長5年(1600)や貞享3年(1686)に記載がないため、室町期の作とするには疑義がある。
何度か述べるように、「上太子伽藍之絵図」や「叡福寺境内惣絵図」と構図(堂塔の種類と配置)は同系統であり、おそらく左図の2絵図は当時の現状をありのままに描いたものであるが、本図は2絵図と同時期に天正の兵火での焼失前の姿を想像して描いたものと解釈することが可能であろう。2絵図が描かれた江戸初期には金堂などの再建に向けた開帳が頻繁に行われ、その勧進促進の意味などで、現状図とは別に焼失以前の伽藍図の必要性があり、作成されたものではなかろうか。もしそうであるならば、この絵図は貞享-元禄期の作と推定できるであろう。

「河内名所圖會」享和元年(1801)刊より:

河内叡福寺(上太子諸堂):・・・2010/03/10画像入替
 :左図拡大図

記事:「多宝塔(金堂の西南にあり。東面、釈迦三尊佛。西面、金剛界大日如来。
四柱に四天王の像を安んず。)」

2010/03/10追加:
「上太子御廟伽藍之絵図」

上太子御廟伽藍之絵図:左図拡大図:近つ飛鳥博物館蔵:【B】 より

開版時期は不明、金堂が復興すているので、享保17年(1732)以降の開版とも思われる。しかし、叡福寺文書で上太子が単独で使用されるのは元禄頃までであるので、このタイトル「上太子・・伽藍之図」は不審である。
この絵図は上掲の「上太子伽藍之絵図」と良くにているが、享保以降の開版ではあるが、タイトルを「上太子伽藍之絵図」から採用した為であろうか?
ただし、「上太子伽藍之絵図」で見られた東の転法輪寺や周囲の堂宇は描かれていない特長がある。

2010/03/10追加:
建久4年古図」・・・建久4年の古図の複写と云うも、確実に椿井文書であろう。天保4年(1833)作成の偽書である。

 ◎「椿井政隆による偽創作活動の展開」馬部隆弘(「忘れられた霊場をさぐる[3]」栗東市文化体育振興事業団、平成20年(2008)所収)
では以下の評価を下す。
この図が建久4年の作とするには既に「上野勝巳」氏の論文(上記【A】の箇所)によって疑義が呈されている。
 書込みに「南都興福寺官務家最勝院室所在」、「雍州南縣椿井廣雄重再写」とあり、さらに中世文書を近年に模写するとの常套手段を備えており、椿井文書と断定して差し支えない。西方院の所蔵に帰した経緯など不明ながら、天保4年の軸箱の記入もあり、一応天保4年頃の椿井の最晩年(椿井は天保8年没)の作としておこう。
 ※椿井文書であることは確実であり、天保4年(1833)の制作であることで矛盾はない。

建久4年古図(西方院蔵):河内西方院蔵 :【B】 より
 :左図拡大図、カラー版は下に掲載。
「此一図者 建久四年発丑年九月所図・・・・椿井廣雄重再写」と記される。
本図の模写の時期は記されていないが、本図を納めた軸箱に天保4年(1833)とあり、この頃の模写と推定される。
しかし、原図成立と云う建久4年(1193)にういては、太子廟に東接して記される「後嵯峨院、後深草院・・・各塔所」など建久4年以降の記録が各所に見え、建久4年は信用し難い。

おそらく江戸初期の寿性尼の西方院再興時に織田信長の兵火に罹る以前を想定して描かれたものと推定される。これは西方院(法楽尼寺)が異様に詳細に描かれていることに照応する。

また本図には叡福寺と転法輪寺の2寺が展開するように描かれ、明治以降の法隆寺のように東西2院が展開していたかのような説の拠り所とされたものと思われる。

     2020/09/13追加:
     ○「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より
      建久4年古図(西方院蔵)2:カラー版

 建久4年古図西方院蔵読取図:【A】 より
本図右下には「此一図者 建久四年発丑年九月所図画之即南都興福寺官務家最勝院室所在旧紀之古図之其一也今般模写之畢 雍州南縣椿井廣雄重再写之」と記される。この模写時期は(上述のように)天保4年(1833)と考えられる。
本図の特長は、堂塔は117個の多くが描かれるが、塔頭は具体的には描かれず、また異様に南側(西方院)は詳細に描かれる。さらに転法輪寺や政所・公文所などが描かれるのが特長であろう。
 まず、東西に転法輪寺と叡福寺の2院が展開していたという(明治〜戦前の)説であるが、これは成立するのか。
まず鎌倉中期の「聖徳太子伝私記」法隆寺顕信では「御廟寺 同国(河内国)転法輪寺、或科長寺、或石河寺と名ずく」とあり、つまりは御廟寺は転法輪寺もしくは科長寺・石河寺とも呼ばれたというだけで、叡福寺や2院の存在を窺うことはできない。ましてや本図にある叡福寺の寺号は近世前期からのことで、鎌倉期に叡福寺の寺号は使用された形跡はない。
 次いで、太子廟に東接して記される「後嵯峨院、後深草院、前大宮院、遊義門院 各塔所」は前大宮院の遺骨が叡福寺に納められるのは永仁2年(1294)で建久4年の約百年後のことである。また中央下部にある「三尼公影堂・三尼公墓」は西方院創建伝承に基ずくもので、鎌倉後期を溯るものではない。
 さらに、太子廟を巡る結界石の描写に疑念がある。また本図には多宝塔(四尊塔)が描かれるが、多宝塔の上限は正平3年(1348)〜建徳2年(1371)頃との詳細な研究もあり、この研究と矛盾する。
その他にも、建久4年の古図とするには疑問と思われる内容が含まれる。
 以上により、この図が建久4年の古図を複写したとは考えられない。
 おそらく、建久年中は諸資料に見られるように、太子廟前寺が注目される時期にあたり、この点などから、建久4年の古図とした可能性もある。では、本図の制作時期は何時なのであろうか。
寛永16年(1639)は蓮誉寿性尼が西方院再建勧進を遂行中であり、かつ本図には異様に詳細に西方院(法楽尼寺)が描かれ、また西方院の所蔵であることも考慮すれば、西方院の勧進活動と密接な関係があったのでないだろうか。
であるならば、本図の制作時期は寛永16年前後ではないだろうか。
あるいは中央上に五字ケ峯に石塔が描かれるが、これが宝篋院塔であれば、五字ケ峯の宝篋院塔が東福院玄祥らによって建立されたのは正保4年(1647)であり、もしそうだとすれば、制作時期は正保4年以降となる。
またあるいは本図の多宝塔が現存する多宝塔を描いたものとすれば、現存多宝塔は承応元年(1652)の建立であるから、承応元年以降ということになる。

なお本図と同様の絵図が西方院に1軸、叡福寺に1軸残る。さらに最下段中央の仏眼部分のみが複写されて地元渡辺家に残る。
 仏眼寺複写図:「仏仲山仏眼寺建久年中旧図 明治廿年九月写」とあり、仏眼寺部分をのみを複写(図は不掲載)
仏眼寺は明治初頭に廃寺となるも、復興運動が起こり、その過程で明治20年仏眼寺部分が複写される。復興運動にかかわった地元旧家渡辺家が所蔵する。
 明治24年複写建久4年古図:西方院蔵、【B】 より
複写原図(西方院蔵天保4年建久4年古図)とは多少違いがある。右下の「建久4年・・・」の原図言及部分などは複写せず。
 明治40年複写建久4年古図:叡福寺蔵、【B】 より
ほぼ模写原図を忠実に写す。


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