備前新熊野十二所権現(五流修験・五流尊瀧院)

備前新熊野十二所権現(五流修験・五流尊瀧院・尊瀧院三重塔)

新熊野十二所権現概要

2015/08/07追加:
児島五流の縁起には「長床縁由興廃伝」「大権現縁起」「新熊野山社中並に寺家伝記」などがある。いずれも近世の写本である。
ただ「長床縁由興廃伝」だけはその内容から近世初頭に著されたものと推定される。

伝承(長床縁起等):
文武天皇3年(699)役小角は、讒言によって、朝廷から訴追され、熊野本宮に隠れるも、その後伊豆大島に配流される。(「続日本紀」)
そのとき義学・義玄・義真・寿玄・芳玄の五大弟子を中心とする門弟300余人は熊野本宮の御神体を捧持し、3年にわたり各地を放浪する。(これは内海を漂流したのであろう。)
大宝元年(701)彼らは福岡神の神託を受け、備前児島半島に上陸し、現在地に、熊野十二所権現の御神体を安置する。
そしてその上陸地には惣願寺を建立し、熊野道には地蔵堂を建立し行路安全の守りとする。
天平20年聖武天皇、児島に神領を寄進し、天平年中、紀伊熊野権現を模し、この地には、本宮・長床・五重塔・仁王門等々の壮大な伽藍が造営され、さらには木見に新宮諸興寺を造営し、山村(瑜伽山)には那智山を模した新熊野山由伽寺を開設、新熊野山と称したという。また付近には堂舎僧房60余院を建立、近郷には王子社を建立し、隆盛を極める。
大願寺は清僧であり、また報恩大師建立の児島山上伽藍の一つといい、30余の下寺を持ち、新熊野山の社僧として勤める。
その他数々の伝承があるが、それは史実かどうかは定かではない。
2015/08/09追加:
「長床縁由興廃伝」の「六、児島新熊野山大権現勧請譚」では以下のように云う。
文武天皇3年(699)役小角の流罪を機に、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄の五大弟子を中心とする門弟300余人は熊野本宮の御神体を捧持し、権現を祀る霊地を求めて船出する。
淡路に六嶋権現、阿波に勝浦権現、讃岐に多度権現(多度津)、伊豆(伊予であろう)に御崎権現(佐田岬か)、九州諸国に権現を祀る。その後東に移動し、備前と備中の境の児島に至る。すると児島の西の山頂で呼ぶ声がする。(呼待浦、今呼松)上陸地を求めて南下し、柘榴浜(下村)に至ると、老翁が現れ、自らを福岡権現と紹介し、福岡邑こそが権現を祀る霊地と云う。一行はその地に上陸し、そこに精舎(惣願寺、今廃寺)を建立し、大宝元年(701)年福岡の地に至り、権現を安置する。
天平20年(748)には聖武天皇より児島を神領とし下賜される。

「長床縁由興廃伝(五流尊瀧院)」:
新熊野那智山は児島郡山村の地に権現の社を建て本地仏を営み、観音の聖像を安置し、新熊野山瑜伽寺と号す。・・・・近来改めて瑜伽山蓮台寺と号す。諸興寺瑜伽寺の二所を当社本宮に合して熊野三社とす。
本社証誠伝一本社にては阿弥陀、新宮にては薬師、那智にては千手を本地とす。

承久の変
承久2年(1220)後鳥羽上皇の第4皇子冷泉宮頼仁親王が承久の変に連座して、児島に配流される。
頼仁親王は尊瀧院に入り、後鳥羽上皇の崩御に当り、石塔(現存・重文)・廟堂等を建立し供養する。
頼仁親王はこの地で崩御、長男道乗(覚仁法親王弟子)が五流一山(尊瀧院・伝法院・太法院・報恩院・建徳院をはじめとする諸院)を再興、5院各々を子たちに継がせる。
なお、弟宮桜井宮覚仁法親王は承久の変の前年に当地に下向し、紀伊熊野三山と新熊野三山の検校を兼ね、尊瀧院に庵室を設け、そこに住するという。頼仁親王長男道乗を弟子とし、五流一山の法嗣とする。

中世の新熊野十二所権現
中世には 強大な勢力を誇る。また児島の大半を領有するともいう。
□児島高徳は五流の出身といわれる。
しかし、そのため、室町幕府の権力が確定すると南朝方として寺領の半分が没収される。
□応仁の乱では一山が割れ、覚王院は細川方・その他は山名方として抗争し、細川の軍に一山全焼する。
応仁元年(1457)覚王院円海(細川勝元の縁者:一山抗争で西阿知に逃れ、この地に熊野権現を勧請する。)は、西阿知で細川を主力とする兵を集め、新熊野山に乱入し、一山を焼き払う暴挙に出る。
 → 備中西阿知には熊野十二所権現及び神宮寺(西阿知遍照院)が現存する。
 但し明治の神仏分離の処置で権現及び神宮寺は分離させられている。
2015/08/07追加:
 「長床縁由興廃伝」>第八寺院興廃伝 では次のように云う・
「・・覚王院円海細川勝元の所縁により其権威を借り・・・時に応永元年・・・細川勝元輿山名宗全於京都合戦。此乱に乗じて大衆覚王院を亡んと謀る。之依りて備中国西阿知地に退き、彼地に権現を勧請す。返って本山を亡さんと謀り、細川の遠兵をかり、当山に乱入、社中三十有餘の伽藍僧舎寺院一宇も残さず一時に灰燼と成るかな。・・・」
□明応元年(1492)大願寺の天誉が諸国を勧進し、再興する。
この時の再興は以下の通り。
 本社・若殿・西宮・中西社等の社殿、長床・観音堂・三重塔・神楽殿・御供殿・鐘楼・仁王門が再建され、さらに行者堂・楼門・唐門・回廊・経蔵・千躰仏堂・後鳥羽院廟堂・覚仁法親王廟堂も再建されるという。
修験の院坊・大願寺・神宮寺等の山内諸院も造営される。
山外には新宮として木見・諸興寺(本地としての薬師堂・阿弥陀堂・若宮・・)、背後の山には毘沙門堂(近世の再建堂が存在すると云う)、由伽山には権現堂・本地堂(那智権現の本地十一面観音)が造営される。
また附近には一山菩提寺として有南院、熊野権現お旅所・清田八幡宮、琴浦・総願寺、福南山・妙見社、本庄・本庄八幡社、林・福岡明神、惣堂大明神等も造営され、そのうち幾つかは現存する。
□長床結衆寺院(座衆:五流と公卿)は尊瀧院・伝法院・太法院・報恩院・建徳院の五流と
公卿の吉祥院・智蓮光院・覚城院・南滝坊・常住院・本城院・青雲院・宝蔵院・大弐・千手院・正寿院・大善院で構成され、
非座衆(社僧)として大願寺を官主とする35ヶ寺(神宮寺・是如院・密蔵坊・多宝坊・大覚坊・極楽寺・善誓院・西光坊(西方寺)・中之坊・清楽寺・阿弥陀寺・為連坊・慶弁(琳)坊・岡本坊・室生坊・宝光坊・法華坊・観音寺・因幡坊・奥之院・南之坊・西蔵坊・西条坊・延長坊・玉泉寺・仁平寺・実相坊・惣持坊・杉本坊・普賢坊・有南坊・真如院・金蔵坊・新之坊)が存在したと伝える。
 仁平寺:仁平寺の後身が現在五流報恩院跡の一画に移転現存する真浄院と推定される。
□戦国期は一山が武装するも、戦国諸勢力の間で翻弄され、次第に寺領伽藍を喪失する。

近世の新熊野十二所権現
本山派修験として聖護院に属し、本山派内で高い地位を占めるも、岡山藩の宗教政策に翻弄される。
池田光政は新熊野山に200石を寄進するも、一方では寺院整理を断行する。
即ち、寛文の池田光政による廃仏である。これにより、 諸興寺・神宮寺・是如院・密蔵坊・多宝坊・惣堂大明神等多くが廃絶・還俗させられ、徐々に衰微する。
 ※往時は非座衆の35ヶ寺は寛文6年(1666)頃、既に6ヶ寺に減じていたといい、寛文の廃仏でついには非座衆の寺院は本願・大願寺 と葬式寺・有南院のみ残し他の4ヶ寺(神宮寺・是如院・密蔵坊・多宝坊)を廃寺とする。
大願寺については神主になるように強いるも、本山の寛永寺から住職が派遣され、大願寺は東叡山末として存続する。
 当時の一山は五流の六院(上記の五院に塩飽本島の吉祥院が加わる)と公卿十二院(智蓮光院・宝良院・覚城院・南滝坊・常住院・本城院・青雲院・常楽院・大泉院・千手院・正寿院・不善坊→宝乗院・観了院)及び社僧大願寺で構成されることとなる。
寛文の廃仏の後、備前吉備津宮から神主藤原朝臣光隆の義弟大守隠岐掾が祠官として送り込まれ、廃寺とした是如院と神宮寺の社僧は下禰宜とし、新熊野山は神官、五流及び公卿十二院、社僧である大願寺の三者で管理する体制が整えられ、幕末までこの体制は続き、明治維新を迎える。
 ※児島五流修験(山伏)
天保年中(1830-44)の本山派聖護院の組織は以下の通りで、五流山伏は特別の地位にあったことが分かる。
 門跡: 聖護院門跡、聖護院一品法親王
 院家; 熊野三山検校宮三井寺長吏(園城寺長吏)
 熊野三山奉行: 若王子僧正
 院室: 院室の住心院、積善院、播磨伽耶院豊前求菩提山筑前竈門山
 長床宿老: 備前児島五流報恩院、尊瀧院、太法院、伝法院、建徳院、公卿智蓮光院、塩飽吉祥院
 先達: 諸国の大先達(27先達)
  ↓       別段別格: 児島公卿
 年行事
  ↓
 准年行事
  ↓
 御直院(同行)
             ※児島公卿:一老付宝良院・覚城院・正寿院・宝乗院・大泉院・
                     太法院付常住院・尊瀧院付青雲院・常楽院・備前矢掛一流公卿智教院・
                     讃岐丸亀内伝法院・下威徳院・讃岐塩飽吉祥院・下真滝院

 □
「中国名所圖會」巻之2より:新熊野十二所権現社
記事:「宝塔(長床の東、山の上にあり。方3間。高さ10間余、二重)」・・・ニ重とは間違いであろう。
本殿の西に大別当大願寺がある。
仁王門(西向き)からの山内参道南に五流五院・公卿九院が展開していた。
 熊野神社全図(部分図)、三重塔(部分図)・・現存塔婆

明治の神仏分離・修験道廃止
明治の神仏分離により、五流修験より十二所権現は熊野神社として分離する処置がとられる。
五流修験は旧観音堂を本堂として、上記五流の六院と智蓮光院が一山を構成し、その他は神社に奉仕すると云う。
明治5年修験道廃止、寺院は天台宗寺門派に属する。
 明治維新の神仏分離の処置で、五流の5院や公卿12院は壊滅状態になったと推測されるも、幸いにも、三重塔・本地堂・鐘楼・長床などは辛うじて存続し、長床を除き、尊瀧院所属とされ、比較的熊野十二所権現時代の景観を多少なりとも今に伝えるのは僥倖とすべきであろう。
○「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」田辺進、2005 より
 今熊野十二所権現の鎮座する林村は、幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏であり、修験道廃止によって、失業となる。
五流尊瀧院のみ天台宗の寺院となり、後は全て還俗する。
還俗後、このころ警察官・軍人の職業が生み出されたので、そちらに就業した人も多かったといい、五流伝法院の兄弟は軍人となり高官に出世したと伝える。
伝法院も建徳院も大阪のほうに移るともいう。(この項は詳細不明)
五流建徳院の薬医門は通生(かよう)の般若院に移建され現存する。<五流建徳院薬医門
○「郷内の史跡探訪」田辺進、2010 より
「廃仏毀釈という神殺し」・・・これは山陽新聞に梅原猛が書いたものである。(要約)
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
 江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。
廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。
 このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。

今次大戦後、五流尊瀧院は自らを本山とする「修験道」として独立する。

2015/08/07追加:
「修験道と児島五流」宮家準 より
 明治4年熊野十二所権現絵図:明治初頭の新熊野十二所権現の山容を窺うことができる絵図である。

新熊野十二所権現現況

●新熊野十二所権現空撮:YahooMapに文字入れ

今熊野十二所権現空撮:左図拡大図
 

2015/09/17追加:
「親子で読む 郷内の歴史散歩」田辺進、2002 より

山伏寺等判明図:左図拡大図

五流;
  建徳院(高槻市内藤家)、報恩院(林・新見家)
  伝法院(大阪市三宅家)
八院:
  大泉院(林・三宅家)、正寿院(林・内藤家)
  観了院(林・本多家)、宝良院(林、岡田家)
非座衆35ヶ寺
  大願寺(今、宮本家)、西光坊(今、西方寺)串田
  有南院(今、一等寺)曽原、惣持坊(今、宝寿院)福江
  杉本坊(今、慈眼院)尾原、仁平寺(今、真浄院)林
  南之坊(今、大慈院)植松、法華寺(今、蓮華院)浦田
  神宮寺(禰宜屋敷)
  是如院(報恩院の上手)
  蜜蔵坊(竹田の田の中)
  多宝坊(宝良院の下手)
  宝生坊(木見、惣願寺)
  清楽寺(祠官屋敷)
   以下省略
  

「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」田辺進、2005 より
明治期の絵葉書
 児島郡熊野山三重塔     日本第一熊野大権現本堂

2015/09/17追加:
「倉敷市郷内地区の文化財」原 三正、児島地区老人クラブ連合会郷内支部、1981 より
真浄院:金光山妙音寺真浄院、もと北村にあったのを摩尼大道が現在の市場の報恩院の南半分に移す。昔は仁平寺と称していた。本尊は観音。
太法院:本尊は不動明王、現在は名籍のみ、最後の住職は細川定海。
報恩院:本尊は不動明王、現在は名籍のみ、最後の住職は新見宣永。
宝良院:本尊は青面金剛、現在は名籍のみ。
薬師庵:林、熊坂の谷合にある。大師堂と薬師堂がある。
常住院:林の竹田にあった。明治末年まであり。(左記の意味は不明)今は仁科良平宅地となる。
大師堂:林の市場にある。これは宮本広太氏のものであり、覚城院跡に祀る。阿弥陀庵と称するのは大願寺にあった札所が移される。
五流本坊:林の太法院跡にある五流の霊屋。今大仙智明院と云う。
大泉院:林の竹田にあり、明治末年まで三宅円真が住職を務める。
伝法院:最後の住職は三宅円真でその子は二人とも将官となるという。北村にあったが(意味は不明)今は宅地址と周囲だけが残る。
観音堂:沖にある小宇である。
建徳院跡:今は畑地となる。
西方寺:津田字西谷にある。元は新熊野山と称したという。西之坊とも呼ばれたという。
一等寺;曽原字北谷にある。新熊野山福聚寺有南院と称した。新熊野山の有力な一院であった。
宝壽院:福江字下之丈にある。新熊野山宝壽院と号した。
大願寺:非座衆35ヶ寺の首座であったことは前掲の通り。
寛文6年(1666)には僅か大願寺以下6寺となり、次のような役僧を勤める。
 社官:是如院、神宮寺、有南院  三昧僧:蜜蔵坊  供僧:多宝坊

新熊野十二所権現三重塔

文政3年(1820)建立。
一辺4.3m、総高21.5m(青銅製相輪6.8m)。
別当大願寺湛海が願主となり、文政3年に再興したと伝える。
柱は欅、屋根本瓦葺き。塔本尊大日如来坐像。
熊野十二所権現社の長床前広場の東・段上に鐘楼・役行者堂とともにあり、
さらに上段に本地堂(観音堂)を配置する。
(下図何れも「三重塔1」を参照)
2000/12/27撮影:
備前五流尊瀧院三重塔1
備前五流尊瀧院三重塔2
備前五流尊瀧院三重塔3
備前五流尊瀧院三重塔4
備前五流尊瀧院三重塔5
2005/05/02撮影:
備前五流尊瀧院三重塔1
備前五流尊瀧院三重塔2:左図拡大図
備前五流尊瀧院三重塔3
備前五流尊瀧院三重塔4
備前五流尊瀧院三重塔5
備前五流尊瀧院三重塔6
備前五流尊瀧院三重塔7
備前五流尊瀧院三重塔8
備前五流尊瀧院三重塔9
備前五流尊瀧院三重塔10
備前五流尊瀧院三重塔11
備前五流尊瀧院三重塔12
備前五流尊瀧院三重塔13

2015/06/21撮影:

熊野十二所権現三重塔21
  :左図拡大図
熊野十二所権現三重塔22
熊野十二所権現三重塔23
熊野十二所権現三重塔24
熊野十二所権現三重塔25
熊野十二所権現三重塔26
熊野十二所権現三重塔27
熊野十二所権現三重塔28
熊野十二所権現三重塔29
熊野十二所権現三重塔30
熊野十二所権現三重塔31
熊野十二所権現三重塔32
  :各重細部
熊野十二所権現三重塔33
熊野十二所権現三重塔34
熊野十二所権現三重塔35
熊野十二所権現三重塔36
熊野十二所権現三重塔37
熊野十二所権現三重塔38
熊野十二所権現三重塔39
熊野十二所権現三重塔40
  :三重目軒先腐朽する

三重塔は応仁の乱で焼失し、別当大願寺天誉上人によって、一山の社殿堂塔とともに再興されるも、安永から天明年中(1781-89)には既に破損するという。
「郷内の民話集」では東京日比谷公園ができたとき(毎時36年開園)、この日比谷公園に移建の為、東京しが三重塔の買取り交渉に来たという。この時、五流の関係者ははっきりと断ったと伝える。

○印は2000/12/27撮影、□印は2005/05/02撮影、無印は2015/06/21撮影

本地堂;本堂、権現堂、観音堂とも呼ぶ。
十一面観音立像を安置する。大願寺廃寺の折、遷されるという。
 □熊野権現本地堂(旧観音堂・江戸期):三重塔・鐘楼のさらに上段(東)に現存する。
 本地堂11     本地堂12     本地堂13
鐘楼:三重塔北に鐘楼<桃山期の建築と推定>がある。
この梵鐘は「康正3年(1457)釈元柔の発願にして、熊野山常備の鐘として鋳造」(銘文)という。
 鐘楼11     鐘楼12
十二所権現社殿
第2殿は明応元年(1492)の再建で重文(正面1間側面2間、春日造、正面1間向拝付設)、
第1殿は春日造で第2殿と同規模、第3殿は桁行3間梁間2間の入母屋造、第4殿及び第5殿は4間社流造、
第6殿は1間社流造で小振りである。
第2殿以外は池田光政により正保4年(1647)再建とされるが、天保11年(1840)再建との古記録もあり、様式上からは天保11年再建とする方が妥当であろう。
なお、現在、神社側では「熊野神社祭神は伊邪那美神、伊邪奈岐神、家都御子神、速玉之男神」と説明するが、どうなのであろか。 それ以外にも記紀の神々(アマテラス、ニニギなど)が祭神としてあるが、これはどうしたことであろうか。
 ○熊野神社本殿
 □新熊野十二所権現社殿1:2004年8月長床焼失。従って、この写真のように、社殿が剥き出しになる。
 □新熊野十二所権現社殿2
 十二所権現社殿:向かって左から、第三殿、第一殿、第ニ殿、第四殿、第五殿、第六殿(最右端でこの社殿のみ 小規模)

 十二所権現第三殿;奥は第一殿
 十二所権現第一殿1     十二所権現第一殿2:奥は第ニ殿
 ○熊野神社弟二殿
 □十二社権現第二殿-1    □十二社権現第二殿-2    □十二社権現第二殿-3    □十二社権現第二殿-4
 十二所権現第二殿1     十二所権現第二殿2     十二所権現第二殿3     十二所権現第二殿4
 十二所権現第二殿5     十二所権現第二殿6     十二所権現第二殿7     十二所権現第二殿8
 十二所権現第二殿9
 第四殿/第五殿1       第四殿/第五殿2
 十二所権現第五殿
 十二所権現第六殿
長床:
◎焼失前長床
「岡山文庫51 岡山の宗教」 より
 新熊野十二所権現長床: 下図拡大図
 

 ○新熊野神社長床: 焼失前長床撮影画像:2000/12/27撮影

2004年8月神社側の失火により、長床を焼失。貴重な佛教建築が失われる。

 ☆長床は元の修験道場で、享保年中(1716-35)の再建と伝える。瓦には室町期のものが多くあり、おそらく室町期の建築を再興したものであろうと推測される。
あるいは明和5年(1768)の再建との記録があるとも云う。
13間×3間の長大な建築で、中央右2(?)間が通路で、拝殿も兼ねると云う。
長床焼失前は、社殿はほぼ長床によって隠蔽されていたが、焼失後は社殿が剥き出しになり、秘密性が損なわれたというべきであろう。この方が開放的でよいとの見解もあるようであるが、歴史的景観が損なわれたというべきであろう。
 ☆明治維新の神仏分離の処置で、三重塔の建つ5段ほどの石階から上は五流山伏の所有地、それ以外は熊野神社の所有地と分離されたが、長床は神社の所有地に建つが、建物は五流山伏の所有とされる。そのため、神社側は拝殿として長床を使用するため、五流側から食用する形を採っていたという。
◎再建長床:
平成19年「所有者五流尊瀧院の寛大なご理解により」再建される。
再建長床も五流の所有という意味なのか、元の所有舎である五流の理解を得て、神社の所有として再建したという意味なのかは不明である。
 再建長床:いずれにせよ、風情のない建築として再興されたのは残念である。
大願寺跡:
十二所権現本堂の西側に大願寺はあった。その様子は「中国名所圖會」巻之2「熊野神社全図」で偲ぶことができる。
明治の神仏分離で大願寺は廃寺、住職は復飾・神職となり、明治10年頃まで奉職するという。
明治7年桜井小学校が旧大願寺に新設され、旧大願寺客殿及び長床が教室となる。
なお、 大願寺天誉上人は明応元年(1492)本殿再興、湛海上人は文政3年(1820)三重塔再建の事績がある。
 大願寺本堂跡:大願寺跡の木標が建つ。     大願寺客殿跡1:大願寺客殿跡の木標が建つ。
 大願寺客殿跡2:この更地が客殿跡であろう。
桜井塚:
大願寺南は行者池であり、その中島(今は地続きとなる)に桜井塚はある。
この中島は後鳥羽上皇皇子桜井宮覚仁法親王の御墓所(「備前紀」)という。
石造十三重塔は覚仁法親王の供養塔と云われ、初重の軸部(鎌倉中期)であったのであるが、福田海によって、現在のように十三重石塔として再建されるという。
 桜井塚     桜井塚供養塔1     桜井塚供養塔2

後鳥羽上皇供養宝塔(重文):
 三重塔南にある。桜井宮覚仁親王と冷泉宮頼仁親王が 、父後鳥羽上皇一周忌供養のために仁治元年(1240)に建立したと伝える。高さ3.8m・花崗岩製。
往時は覆屋(御廟)を建て、一切経を納めた経蔵を付設するという。
 □後鳥羽上皇供養宝塔
 後鳥羽上皇供養塔1     後鳥羽上皇供養塔2     後鳥羽上皇供養塔3     後鳥羽上皇供養塔4
神官屋敷跡
 下禰宜高木家跡

 □熊野権現院坊跡1:仁王門附近から東を望む。手前の白塀は民家、その奥が太法院跡、さらに奥が報恩院跡
 □熊野権現院坊跡2:写真手前は太法院跡、その奥は報恩院跡

五流報恩院跡:
下禰宜屋敷跡西にある。東側には倉敷市郷内憩の家、南側には真浄院が建つ。
 五流報恩院跡1:倉敷市郷内憩の家が建つ。     五流報恩院跡2:奥の白壁は真浄院土塀
 五流報恩院跡3:右奥の柵より奥は郷内憩の家     五流報恩院跡4
真浄院:
明治23年、五流報恩院の土地建物を譲り受けて、現在地へ移転する。報恩院の広い敷地の南側1/3程度の区画が現在真浄院敷地となる。
寺号は「備前記」では「新熊野山仁平寺」、「備陽国誌」では「金光山妙音寺真浄院」とある。現在、この寺は「金光山妙音寺真浄院」と公称するが、「仁平寺」とは十二所権現非座衆35ヶ寺中に見える寺号であり、おそらくは十二所権現の社僧の流れを汲むものであろう。
 真浄院鐘楼門:大正6年頃新築という。報恩院時代には西面に城門のような4枚扉の表門があったという。
 真浄院客殿1:報恩院明細帳には文政年中(1818-)本堂破壊以来再建迄本尊自坊ニ安置ス」とあるという。この客殿は五流報恩院の客殿であった建物であり、唯一の報恩院の遺構であろう。
 真浄院客殿2:報恩院客殿     真浄院庫裡
 真浄院本堂::北村にあった本堂を移建する。五流報恩院本堂は文政年中(1818-)既に退転。
 真浄院不動堂:大正期の建立と云われるようである。
五流尊瀧院現況:
 五流尊瀧院御庵室1     五流尊瀧院御庵室2     五流尊瀧院御庵室3
 五流尊瀧院護摩堂1     五流尊瀧院護摩堂2:本尊は神変大菩薩、両脇侍は不動明王という。平成4年修復。
 五流尊瀧院役行者像
 五流尊瀧院本殿1     五流尊瀧院本殿2     五流尊瀧院本殿3     五流尊瀧院本殿4
 五流尊瀧院稲荷大明神     五流尊瀧院庚申堂     五流尊瀧院三宝荒神
五流建徳院跡:
尊瀧院北側にある。
跡地は、定期的な刈込は行われている模様ではあるが、ブッシュの茂る荒地であり、その中に「五流建徳院」の扁額を掲げた小宇(おそらく戦後それも近年に近い時の建築であろう)が一宇、広い荒地に建つ。
現地にはそれ以外建徳院を偲ぶものは無いが、通生の般若院には建徳院廃寺の後、薬医門が移建されて現存するという。
 五流建徳院跡1     五流建徳院跡2     五流建徳院小宇
 五流建徳院薬医門:現在は通生の般若院山門、明治の神仏分離の処置で建徳院廃寺の際、移建されたのであろう。
  :本画像は通生般若院のサイトから転載する。
五流伝法院跡:<未見>
建徳院跡西側にある。酒蔵が西にあり、酒蔵が境界線という。
現地には五流伝法院跡との木標が建つようである。
五流太法院跡
:建徳院跡北側、報恩院跡西側にある。
五流太法院跡の南の一画に大仙智明大権現の堂宇があり、太法院跡の西側には無数の地蔵石仏が並べられる。
 □五流太法院跡
 五流太法院跡1     五流太法院跡2
 五流太法院跡3:2つの堂宇が写るが、向かって左の堂宇はかって大久保利通が暗殺された時に乗っていた馬車が保管されていたと思われる保管庫(現在は五流尊瀧院本殿に保管と思われる)で、右は大仙智明大権現本堂である。
大仙智明権現:
五流太法院跡の南の一画に大仙智明大権現の堂宇があり、太法院跡の西側には無数の地蔵石仏が並べられる。
現在は五流尊瀧院が管理するようである。
近世、一般寺院の僧侶が檀家の人々と伯耆大山に登拝する風習が盛んになるが、大山への登拝許可などは五流山伏が握っていたので、各地から五流の山伏寺に登拝許可を受けに来たという。
こうした大山と五流山伏との関係から、大山智明権現が五流に勧請されたのであろう。智明権現の本地は大山寺本尊地蔵菩薩なのである。
 大仙智明大権現鐘楼門1    大仙智明大権現鐘楼門2
 大仙智明大権現本堂1      大仙智明大権現本堂2
仁王門跡:
仁王門は「中国名所圖會」巻之2「熊野神社全図」で偲ぶことができるが、今仁王門を偲ぶ具体的な遺物は何も残らない。
 十二所権現仁王門跡
覚城院跡:
覚城院も山伏廃止令で廃寺となったものと思われる。しかし、児島四国88ヶ所第53番札所が大願寺から移され、そのため覚城院堂宇は天台宗阿弥陀庵として現在まで存続したものと思われる。
本尊は阿弥陀如来坐像で、元の覚城院本尊という。
また、覚城院は明治維新まで十二所権現裏(北)にある福岡山に鎮座する福岡明神の別當であったようである。
 □公卿十院覚城院跡:仁王門跡南に公卿十院の一つ覚城院堂宇が辛うじて残る。
この写真は平成17年(2005)撮影で、大改修前のものである。改修前は屋根本瓦葺であったと知れる。
 公卿覚城院跡:門前向かって左に五拾三番札所石碑がある。
 五拾三番札所石碑:児島四国88ヶ所第53番札所石碑、嘉永2酉(1849)三月」年紀、札所はもともと社僧太願寺であったが、明治の神仏分離で廃寺となり、札所は覚城院跡に移されたものである。この時、この石碑も大願寺から移されたもので、この意味でこの石碑は廃大願寺の遺物である。
 公卿覚城院本堂1     公卿覚城院本堂2:入母屋造、建物平面は4×4間、元禄期の建物と伝える。平成18年大改修が行われ、屋根は本瓦葺から桟瓦葺に改められる。
 公卿覚城院本堂3     公卿覚城院本堂4:かなりの彫刻が見られる。
 公卿覚城院看経堂:看経堂落慶の絵馬が掲げられ、明治34年落慶、願主は第53番札所看経堂再建有信者と知れる。
 公卿覚城院石塔類:向かって左から、宝篋印塔(享保元年/1716年紀)、南無遍照j金剛塔(享保19年/1734年紀)、十一面観音立像(文久2年/1862年紀)、地蔵坐像(安永9年/1780年紀)、地蔵立像などが写る。その他手水鉢(安政5年/1858年紀)があり、境内には「長床宿老」の肩書のある墓石が多くあったが、本堂大改修の時整理されたという。

新宮諸興寺跡:
諸興寺は応仁元年(1457)覚王院円海による兵火のよって灰燼に帰し、その後再興されず、殆ど記録も寺跡も残さない。
現在、頼仁親王陵の裏は広場で公会堂・お薬師様などがあるが、ここは戦前瓢箪型に近いような池(12m×26m)であったという。おそらくはこの池は諸興寺の庭園の池であったのかも知れない。であるならば、この付近一帯に諸興寺が建っていたのかも知れない。このことは古瓦の出土からも裏付けられる。
 新宮諸興寺跡1:生垣の中の木立は伝頼平親王陵である。北から撮影。    新宮諸興寺跡2:諸興寺跡の木標が建つ。
 新宮諸興寺跡3:現在は広場であるが、戦前は池であったという場所である。おそらくは諸興寺の園池であったのであろう。
 新宮諸興寺跡4:お薬師様と呼ばれる諸仏や石碑があるが、 諸仏の殆どは地蔵尊であろう。近世のもので、諸興寺とは無関係であろう。
頼仁親王陵:
大正7年宮内省が調査に来て、五流尊瀧院の記録などに基づき、今の墓所を決定したという。現在墓所は宮内庁の管轄で、五流尊瀧院の管理である。
古老の談では、当時この付近は草がびっしり生えていて牛の放牧に恰好の場所であったそうで、その一角に五輪塔があり、「若宮様の御霊や」と言われていたという。但し、初期の五輪塔は荘内滝の正覚院にある(部分)という。であるならば、現在の五輪塔は後世のものということであろう。
 伝頼仁親王五輪塔1       伝頼仁親王五輪塔2
真浄院跡:
郷内小学校下小字北村に真浄院(仁平寺)はあったが、明治23年道路貫通のため、現在地・報恩院跡の一画に移転する。
 真浄院跡:この一郭に次のような遺物が集められている。
 惣堂大明神小祠;「児島郡史」には「諸興寺・由加寺の両権現を始め九十九ヶ所王子の眷属を勧請したもので、寛文6年(1666)社殿が頽廃す」とあるという。今は小祠となり、ここに祀られるのであろう。
 古石塔類:残欠を寄せ集めたものであるが、鎌倉期や室町期のものと伝えられる。仁平寺や諸興寺などに祀られていたものとも推定される。
 立江寺地蔵堂     立江寺地蔵立像:銘文には当地は真浄院の旧地にして、境内826坪を有し、明治23年現在地へ移せり。よって後世に昔地を億知施しめんが為、茲に立江寺地蔵尊を勧請し皇国の安泰を願う云々とある。
なお立江寺とは阿波立江寺をいい、四国88ヶ所第19番札所である。つまり、仁平寺とは無関係の代物である。

福岡神社:<未見>
十二所権現背後(北側)の山を福岡山といい、その山頂に鎮座する。
福岡神は縁起でいう、大宝元年(701)内海を漂っていた熊野権現を現在地に鎮座するよう神託した神である。
現在の社殿は享保年中(1716-35)の建立という。
明治維新までは覚城院が別當であったという。

参考文献:
山岳宗教研究叢書12「大山・石鎚と西国修験道」の第2篇「五流修験と山陽の霊山」
岡山文庫・各巻など
「郷内の史跡探訪」田辺進、2010
「親子で読む 郷内の歴史散歩」田辺進、2002
「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」田辺進、2005
「修験道と児島五流」宮家準、岩田書店、2013
「倉敷市郷内地区の文化財」原 三正、1981


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