最近訪問した塔婆・ご提供画像(2010/07/31〜2010/12/21)

過去の訪問塔婆履歴

2010/12/21 大和東大寺天地院塔跡 再訪 天地院塔跡など 大和東大寺
大和春日東塔跡西塔跡 再訪 春日東塔院発掘現地説明会 大和興福寺
なら奈良館
薬師寺西塔模型01
薬師寺西塔模型02
薬師寺西塔模型03
薬師寺西塔模型04
薬師寺西塔模型05
薬師寺西塔模型06
薬師寺西塔模型07
薬師寺西塔模型08
薬師寺西塔模型09
薬師寺西塔模型10
薬師寺西塔模型11
薬師寺西塔模型12
○なら奈良館薬師寺西塔模型:
昭和45年製作、大和薬師寺再興伽藍棟梁西岡常一氏の統括で製作。スケールは1/10。
製作関係者は西岡棟梁、和田安弘、和田有功ほかと云う。
翌年昭和46年から薬師寺伽藍再建が着工される。

○なら奈良館大和妙楽寺十三重塔:製作時期、作者、諸元など不詳
大和妙楽寺十三重塔模型1   大和妙楽寺十三重塔模型2   大和妙楽寺十三重塔模型3
大和妙楽寺十三重塔模型4   大和妙楽寺十三重塔模型5

○なら奈良館大和法隆寺五重塔:製作時期、作者、諸元など不詳
大和法隆寺五重塔模型1   大和法隆寺五重塔模型2   大和法隆寺五重塔模型3
大和法隆寺五重塔模型4   大和法隆寺五重塔模型5
大和西隆寺塔跡 再訪 大和の塔跡
2010/12/02 京都寺之内 京都妙覚寺京都妙顕寺京都本法寺
2010/09/12
「X」氏ご提供
越前加多志波神社三重塔跡 越前加多志波神社三重塔跡(仮称):鯖江市川島町
加多志波神社なるものの実態が不明のため、当面「加多志波神社三重塔」とは仮称ということにせざるを得ない。
この三重塔跡については鯖江市教委の解説がWebにある。要旨は以下の通り。
 現在は11個の礎石が残る。もとは一辺3,5mの三重塔であったと推定できる。時代は鎌倉中期〜江戸前期であろう。
 「越前地理指南」貞享2年(1685)では、三重塔があったことが確認できる。
 「鯖江藩寺社改牒」<享保6年(1721)では、鎌倉中期、洛陽深草の隠士・覚念が建立し、寛文2年(1662)の地震により大破したと云う。
 越前加多志波神社三重塔跡2鯖江市教委のサイトから転載
また
加多志波神社のWeb上の情報では、延喜式内社加多志波神社は「論社」であると知れる。つまりは式内加多志波神社などと云うのは早い段階で廃絶し、近世から近代にかけて復古神道が適当にかつ無理やり付会したという代物であると知れる。
更に別のWeb情報では拝殿・本殿のほかに観音堂が残り、塔跡に建つ建物は塔佛堂と称すると云う。
要するに加多志波神社などと云う名称は眉唾もので、寺院なのか社なのかは調査を要するため、「仮称」とせざるを得ない。
 ※礎石11個残存とは、写真で判断すれば、塔佛堂正面と背面は2間、両側面には3間の礎石が置かれているのであろう。
(現地未見のため、推定)であるならば、塔の礎石は動かされていると判断される。
また塔佛堂に使われる柱・長押は正規の仏堂に使用された材のように見えるが、もしそうであれば、寛文年中に大破した塔の残材で建立されたことも考えられる。(斗栱は良く分からない。)
越前慈慶寺心礎 越前慈慶寺心礎:在法雲寺(法雲寺は真宗出雲路派、越前市桧尾谷町4−4)
現地掲示の説明板の要旨は以下のとおり。
法雲寺の前身は真言宗慈慶寺であり、堂塔を備えた大刹であった。
桧尾谷町奥ノ谷口の小字地境寺(1Ha)に礎石や墓石が残っていたが、昭和46年の圃場整備で礎石などを法雲寺に移す。
礎石中央の枘穴の径は15cmを図り塔の心礎である。これら礎石・五輪塔は中世のものである。
慈慶寺は鞍谷氏(斯波義俊)の菩提所であったが、天正3年(1575)織田信長の一向一揆討伐の将瀧川一益の焼討で壊滅する。
 ※以上によれば、塔は中世の建築であり、かつ礎石は移動し、さらに元位置での遺構状況の情報がなく、心礎と断定するには躊躇せざるを得ない。
2010/11/14 播磨鶴林寺 再訪 播磨鶴林寺
岡山吉備別院 再訪 岡山吉備別院二重塔
2010/11/07 丹波伝知足寺石製露盤1
丹波伝知足寺石製露盤2
丹波伝知足寺石製露盤3
丹波伝知足寺石製露盤4
丹波伝知足寺石製露盤5
丹波伝知足寺石製露盤6
丹波伝知足寺石製露盤7
大賣神社境内に石製露盤が残る。大きさは110×110cmの方形で、厚さは40〜41cm、中央に上部の径36〜37cmの貫通円穴を穿つ。笹山市教委では鳥居袴石もしくは心礎との見解を採るが、正方形の形状であること、中央に貫通円穴を穿つこと、やや磨耗してはいるが上面の四辺の角を丸め露盤らしき形状に整形した形跡が見られること、真偽は不明ながら寺院のものであると伝えることなどから見て、鳥居の台石や心礎ではなく、石製露盤である。
法量についても他の現存する石製露盤の法量の分布に問題なく当てはまる法量であり、この点からも石製露盤とすることに矛盾はない。 →参照:石製露盤一覧表
以下に述べるように、篠山教委は「丹波志」を根拠に知足寺のものとの伝承があるとするので、名称は「伝知足寺石製露盤」とすべきであろう。
○笹山市教委のサイト>篠山市の文化財>市指定文化財>大売神社礎石には写真と以下の解説がある。
「『丹波志』(江戸期の篠山藩領地誌)によれば、往古知足谷から三岳へ登る中腹に、知足寺という寺院があり、そこにあった鳥居の袴石または宝塔の真柱の礎石を当地へ移したものとされる。
縦115cm、横110cm、高さ40cm、中央に直径35cmの穴が底まで貫通して穿ってある。
大賣(おおうるめ)神社所在。」※袴石とは台石・亀腹・根巻のことであろう。
○大賣神社(近世の社名称の情報なし)は延喜式内社というも確証があるわけではないであろう。中世八上城主波多野秀治は大般若経350巻を書写、奉納と云う。明治維新後は国家神道のお決まりのコースを歩む。
なお室町期のものと推定される石造狛犬が残る。
また元の拝殿が小社として残るが、これは多紀三嶽(御嶽)に在った修験道場「鳥の堂」遺構という。
播磨明楽寺町推定心礎1
播磨明楽寺町推定心礎2
播磨明楽寺町推定心礎3
播磨明楽寺町推定心礎4
播磨明楽寺町推定心礎5
播磨明楽寺町推定心礎6
○「播磨明楽寺の塔心礎と八角形石燈籠--付・弘安8年銘宝篋印塔」藤原良夫・鈴木武・福澤邦夫(「歴史考古学(51)」2002 所収) より
六所神社(西脇市妙楽寺町)境内に塔心礎と推定される石が残る。この推定心礎は手水鉢として加工され転用される。地名である明楽寺は遺構も由緒も不詳で、遺瓦の出土もないが、当地には「大門」「寺田」の字を残し、薬師堂の東北約90mの所に荒井山明楽寺があったといわれていると云う。しかし何れにしろ明楽寺の実体は全く分からないのが現状である。
 推定心礎は安山岩の自然石で、大きさは196×135cm高さ約75cm(見える高さは51cm)、上面平坦部に(であるからやや中央を外す位置に)径65cm深さ3〜3.5cmの浅い円孔を彫り、さらに後世の加工と思われる長径60cm短径48cm深さ20cmの円形水溜部分を穿つ。
この後世の加工で、舎利項や枘孔の有無などの詳細は不明である。
 播磨明楽寺町推定心礎実測図
○さてこの「手水鉢」が心礎かどうかという点であるが、大きさや円孔の形状などからは、心礎である可能性は非常に高いであろう。しかし、出土地や伝承などの情報が無く、また後世の彫り込み加工もあり、心礎と明確に断定するには若干の躊躇がある。
なお当論文では1状の排水溝があるとするが、雑な彫りであり果たして排水溝かどうかは分からない。単なる「傷」であるかも分からないし、溝だとしても後世の加工の可能性がある。
 なおここ明楽寺には六所神社(由来の情報なし)と神社境内に接して薬師堂・鐘楼(青嶺山奥山寺飛地境内)が残る。また薬師堂脇には古式の八角石燈籠残欠と弘安8年銘宝篋印塔残欠が残る。
 播磨明楽寺町薬師堂     播磨明楽寺町薬師堂鐘楼
 播磨明楽寺町薬師堂遺物:右は石燈籠残欠、左は宝篋印塔残欠
播磨朝光寺多宝塔11
播磨朝光寺多宝塔12
播磨朝光寺多宝塔13
播磨朝光寺多宝塔14
播磨朝光寺多宝塔15
播磨朝光寺多宝塔16
播磨朝光寺多宝塔17
播磨朝光寺多宝塔18
播磨朝光寺多宝塔19
播磨朝光寺多宝塔20
播磨朝光寺多宝塔21
再訪 播磨朝光寺

播磨朝光寺本堂11    播磨朝光寺本堂12    播磨朝光寺本堂13
播磨朝光寺本堂14    播磨朝光寺本堂15
播磨朝光寺鐘楼11    播磨朝光寺鐘楼12    播磨朝光寺鐘楼13   播磨朝光寺鐘楼14
播磨朝光寺仁王門     播磨朝光寺吉祥院     播磨朝光寺総持院

○五重塔全景
兵庫無量壽寺五重塔11
兵庫無量壽寺五重塔12
兵庫無量壽寺五重塔13
兵庫無量壽寺五重塔14
兵庫無量壽寺五重塔15
兵庫無量壽寺五重塔16
兵庫無量壽寺五重塔17
初重一辺5.45m、高さ32.7m、総木造。和様を基調として唐様を混用する。垂木は全て扇垂木を用いる。相輪長は10m。
塔本尊は釈迦涅槃像(中国の中国人作家の彫刻)。
彩色は朝鮮の朝鮮人作家による朝鮮古来の丹青塗。
無量壽寺は念仏宗総本山と称する。伽藍は平成20年落慶、五重塔も同時に落慶と推定される。
○五重塔遠望
 兵庫無量壽寺五重塔18   兵庫無量壽寺五重塔19   兵庫無量壽寺五重塔20
 兵庫無量壽寺五重塔21   兵庫無量壽寺五重塔22   兵庫無量壽寺五重塔23
 兵庫無量壽寺五重塔24   兵庫無量壽寺五重塔25   兵庫無量壽寺五重塔26
 兵庫無量壽寺五重塔27   兵庫無量壽寺五重塔28   兵庫無量壽寺五重塔29
 兵庫無量壽寺五重塔30   兵庫無量壽寺五重塔31   兵庫無量壽寺五重塔32
 兵庫無量壽寺五重塔33   兵庫無量壽寺五重塔34   兵庫無量壽寺五重塔35
○五重塔詳細
 兵庫無量壽寺五重塔36   兵庫無量壽寺五重塔37   兵庫無量壽寺五重塔38
 兵庫無量壽寺五重塔39   兵庫無量壽寺五重塔40   兵庫無量壽寺五重塔41
 兵庫無量壽寺五重塔42   兵庫無量壽寺五重塔43   兵庫無量壽寺五重塔44
○本堂、山門
 兵庫無量壽寺山門:木造二層門、屋根入母屋造本瓦葺。高さ35.6m桁行34.5m梁間13.8m。上段斗栱は六手先総詰組、下段斗栱は四手先総詰組を用いる。
 兵庫無量壽寺本堂:木造二層堂、屋根入母屋造本瓦葺。高さ51.5m桁行67.9m梁間58.2m上段は斗栱は六手先総詰組、下段斗栱は四手先総詰組。
総敷地面積45万坪に本堂・山門・五重塔のほか総門、手水舎、地蔵堂、聖徳太子殿、北鐘楼・南鐘楼鐘楼、釈迦堂、観音堂、経蔵、廻向堂、開山堂、講堂などの大建築から成る。
播磨金剛寺五重塔11
播磨金剛寺五重塔12
播磨金剛寺五重塔13
播磨金剛寺五重塔14
播磨金剛寺五重塔15
播磨金剛寺五重塔16
播磨金剛寺五重塔17
播磨金剛寺五重塔18
2008年4月落慶。総高22m(塔身17m)、一辺2.6m。
金属製、柱鉄骨、屋根・相輪は青銅鋳造、垂木・天井はステンレス、総重量約60トン。相輪金箔張、屋根緑青、勾欄朱色と云う。総工費1億2千万円。
印象は、金属製であること、また絵図がモデルであることを割り引いても、重厚さに欠ける嫌いがある。また細部(特に斗栱)ももう少し丁重な造作をして欲しいと云う印象である。
(株)平安美術<仏像・仏具製造会社>施工。兵庫県三木市大村
金剛寺は白雉2年(651)法道仙人開基と伝える。天長4年(825)空海が来錫。如意山と号する。
天正の兵乱で焼失、寛文5年(1665)に現本堂建立。
・廃大和内山永久寺密教両部大経感得図」(善無畏金粟王塔下感得図及び龍猛南天塔相承図)
(国宝・保延2年<1136>・藤原宗弘筆・藤田美術館蔵)に描かれた塔をモデルとするという。
 ※両部とは大日経及び金剛頂経を云い、善無畏が北天竺乾陀国金粟王塔の下で、「大日経」を書写し、龍猛(龍樹)が南天竺の鉄塔中の「金剛頂経」を暗唱・書写したと云う伝承を描く。
・なお直接の関係は無いが、大和龍蓋寺(岡寺)にも「両部大経感得図屏風」(江戸期、屏風絵)が伝わり、この絵は岡寺三重塔の内部荘厳や軒下の荘厳・琴の参考にされたと云う。
図1〜3:2008/05/16「X」氏撮影
 図    1     図    2     図    3
2010/11/06 山城石清水八幡宮 西谷大塔跡及び瀧本坊跡発掘調査現地説明会
 山城石清水八幡宮
山城紀伊寺心礎  山城紀伊寺御香宮内東照宮
2010/10/19 摂津阿弥陀池「宝塔」6
  同     「宝塔」7
  同     「宝塔」8
  同     「宝塔」9
  同     「宝塔」0
「放光閣」と称する堂宇を「宝塔」と称しているあるいは「宝塔」と呼ばれている。
しかし、戦前の堂宇も現存の堂宇も宝塔形式ではなく、方3間の堂に相輪を載せた形式である。
昭和20年空襲により焼失。昭和22年再建。塔は木造建築でペイント系塗料で保護・彩色する。
元禄7年(1694)四天王寺で善光寺が出開帳を行う。
元禄11年堀江新地が開発され、幕府の命で和光寺が創建される。
境内1800坪、智善上人が善光寺如来出現の地として伽藍を整備する。往時は本堂・阿弥陀池放光閣・観音堂・薬師堂・普門堂・愛染堂・閻魔堂・地蔵堂・金毘羅権現・金銅地蔵 尊・鐘撞堂などを有する。「摂津名所図絵」
蓮池山智善院和光寺と号するも、阿弥陀池と通称される。
※「日本書記」に云う、「百済伝来の阿弥陀如来は排仏派物部氏が難波の堀江に棄てたが、推古天皇代、信濃の本多善光が堀江で拾った阿弥陀如来を、善光寺の本尊にした。」
この伝説と阿弥陀池との関係は近世の「こじ付け」の類とされる。
○「大阪名所独案内」森琴石、明治15年 より
 摂津阿弥陀池「宝塔」5:銅版画と思われる。
○「写真集 明治大正昭和 大阪 下巻」1986より
 摂津阿弥陀池「宝塔」:昭和戦前の「放光閣」で、戦後も同一形式で再興される。
○2007/04/27追加:JIT(日本画像行脚)様より:
 「日本写真帖」明治45年、ともゑ商会 より :
   摂津阿弥陀池「宝塔」1
 「日本名所図絵」明治23年 より :
   摂津阿弥陀池「宝塔」2:明治中期の姿と思われる。
○2008/12/31追加:「続近畿名勝写真帖」明治34年 より
 堀江阿弥陀池和光寺1:全景    堀江阿弥陀池和光寺2:放光閣部分図
○2010/10/26追加
 阿弥陀池法光閣:昭和29年撮影:新聞写真
2010/10/12 能登滝谷妙成寺 再訪。 能登滝谷妙成寺
能登永光寺利生塔跡

能登永光寺利生塔

能登国分寺塔復原基壇1
  同           2
  同    塔礎石1
  同    塔礎石2
  同      心礎1
  同      心礎2
  同      心礎3
  同      心礎4
  同      心礎5
  同      心礎6
  同      心礎7

  同   復原南門・塀
  同  金堂・中門・塔
 左:金堂、中央:中門跡
  同  塔・講堂・金堂
 左:塔、中央手前:講堂
 中央遠方:中門跡

  同   復原金堂跡1
  同   復原金堂跡2
  同   復原金堂跡3

  同   復原講堂跡1
  同   復原講堂跡2

2010/10/19追加:
塔跡:発掘調査で花崗岩の自然石を用いた側柱礎7個を発掘。柱間は等間で150cm(5尺)と判明する。復元基壇は凝灰岩製の切石でもって壇上積基壇として復原され、欠けた礎石は補充し、心礎位置には「草塚 」に伝えられた心礎(「イボ石」と呼ばれていた)をそのまま据え付ける。
心礎の大きさ(実測値)は175×130cm、高さは埋められているため、不明。表面中央に「洗面器」様の円孔がある。(心礎にしては不自然か)円孔の上辺の経は約28cm、下辺の経は約26cm、さらに上辺の縁は喇叭の先のような状態を呈する。円孔の深さは約11cm。
底は水平ではなく、やや球状に抉られる。
金堂跡:通称「草塚」と呼ばれていたところで、小宇と心礎があったと云う。
発掘により22×18mの基壇と礎石5個が発掘され、5間×4間の建物と判明する。復元基壇は玉石積基壇で復元され、基壇上には欠けた礎石を補充して、復原される。
講堂跡:発掘調査により7間×4間の建物が発掘される。基壇は玉石積で復原され、欠けた礎石は補充される。

「石川県の文化財」昭和60年 より
能登国分寺は、承和10年(843)定額寺である大興寺を昇格させて設置するとされる。
昭和45年(1970)からの3ヶ年にわたる調査で全貌が判明。寺域はほぼ2町四方(東西200m弱・南北200m強)と推定される。
中軸線上、南大門の48m北に中門、中門から東西にのびる築地塀があり中門の北48mの地点の東側に塔、西側に金堂が、距離48mで並ぶ。さらに北30mに講堂がある。(法起寺式伽藍配置)。
塔跡は心礎と四天柱礎石以外の側柱礎石が遺存(基壇は削平されている)し、塔の柱間は1.5mと小さく、三重塔かと推定される。
心礎は原位置ではないが、2m×1,25mの自然石に径30cm?深さ10cmの孔を穿つ。
素縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土し、それにより8世紀初頭の創建と考えられる。
元慶6年(882)風雷のため堂塔が破損し、修理を加えた(『三代実録』)とされるが、塔の再建はなされず瓦塔をおさめて代用したことが確かめられる。
「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさ190×130cm、円孔は径30×11cm。
2008/07/16追加:
「石川県史蹟名勝調査報告 第2輯」石川県編、大正13年 より
能登国分寺:
中世に至り、天正の頃附近は戦乱の巷と化し、堂舎は荒廃し田園となりたる。寺院伝承地は1個の塔礎石と小形の草塚(又は石塚)を残すのみ。然るに近年の調査で残礎を水田下に発見する事態にも至れり。
 能登國分寺舊跡實側圖
・礎石:
小径の傍にあり、俗に「イボ石」と云い、卵形の花崗岩である、その大きさは6尺2寸×4尺5寸×高2尺5寸(地表上)、中央に刻せし円孔は径9寸5分・深3寸5分、表面に近き部分の縁は著しく削磨せり。
伝説によればこの礎石はかって他に運搬せん為に引き上げしことありと云う。
・草塚:
水田中にあり面積1畝歩高さ水田面より2尺5寸、北及び西の縁辺には石材を配置、外表面には何らの石類なし。国分寺の遺跡と伝える。
・東方礎石群:
南北に通じる小径の東方・水田底に一群(8個)の残礎石あり。その配置は図の如くであるが多少動いていて如何なる堂舎かは不明。
・大門礎石:
草塚の南60余間の水田中に一群の礎石あり、この地の字を大門と云う。
2009/09/14追加:
「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
能登国分寺は全く廃絶し、遺跡は僅か田圃の中に礎石と土壇様のものを存するに過ぎない。
七尾街道から分岐し中川原に至る小径の傍らに塔心礎がある。心礎は卵形の花崗岩で、大きさは6尺2寸×4尺5寸高さ2尺5寸で、径9寸5分深さ3寸5分の円孔を穿つ。かって道路改修の時、東へ5〜6尺移動したと云う。この付近に塔跡が想定できるであろう。
 能登国分寺心礎121
塔址の東北約10間の水田中に8個の礎石と1個の礎石の痕跡がある。恐らく礎石は動かされている。
塔跡の西約12間半に草塚と云う土壇があり、西辺北辺に礎石が残る。ここは近世初期まで国分寺の草堂があったところと推定される。
塔礎石の南方約67間余の水田中に8個の礎石がある。この付近を大門と称し、恐らく南大門跡であろう。
 能登国分寺址礎石実測図:礎石実測図ならびに心礎図
補足:
昭和45年から9次に渡る発掘調査が行われる。その結果塔をはじめ多くの遺構が発掘される。
塔の発掘で一辺は4.5m、柱間は5尺(1.5m)と判明、心礎以外に側柱礎石7個(花崗岩の自然石)が発見される。
 能登国分寺塔跡検出状況:七尾市教育委員会1990『史跡能登国分寺跡−第八次発掘調査報告書−』所収
 能登国分寺整備状況:七尾市教育委員会1994『史跡能登国分寺跡整備事業報告書−史跡等活用特別事業「ふるさと歴史の広場」−』所収

石動山梅の宮遺構
:【現金刀比羅神社拝殿】
梅の宮遺構正面妻飾
梅の宮遺構正面妻飾彫刻
梅の宮遺構細部
七尾金毘羅権現拝殿は石動山梅の宮を移建したもの。
能登赤蔵山 能登赤蔵権現
2010/09/26
「X」氏ご提供
三河随念寺三重塔11
  同        12
  同        13
2011年完工予定。総檜造、純和様を用いる。総高16.7m、一辺5.4mの基壇(写真ではコンクリートと思われる)上に建つ。初重屋根一辺は約7m。
工費2億5000万円、大工は豊田市在住の宮大工。平成16年着工、平成22年にほぼ外装が完成、内装等は平成23年完了予定。(以上報道発表) なお屋根は銅板葺(人工緑青銅板)。
随念寺:岡崎市門前町、浄土宗、仏現山と号する。永禄5年(1562)徳川家康(松平三河第9代)が創建する。
松平三河第7代世良田次郎三郎源清康(松平清康)の荼毘所・墓所である。
元和年中(1615-1624)徳川秀忠、山門・本堂を大改修する。
2010/09/12 備中吉備寺心礎11
  同       12
  同       13
  同     山門
  同     本堂
  同  吉備真備廟
再訪
従前の記事には誤りがあり、今般訂正
 備中吉備寺
備中宝福寺三重塔21
  同        22
  同        23
  同        24
  同        25
  同        26
  同        27
  同        28
  同        29
  同        30
  同        31
  同        32
  同        33
再訪

備中宝福寺山門
備中宝福寺仏殿
備中宝福寺庫裏
備中宝福寺方丈
備中宝福寺般若院

備中久米廃寺心礎11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同     塔土壇
  同    金堂土壇
  同    講堂土壇
久米廃寺記念五重塔
2010/09/12撮影:
久米廃寺は中国道高架橋直下及びその南北にある。塔・金堂土壇は夏草が繁茂する。
○唐臼にある。唐臼とは大きな円形刳りのある塔心礎を意味し、中国自動車道がこの心礎を掠めて建設された。
発掘調査により寺域は東西130m、南北110mで、塔跡と塔の東西に主要建物跡を発掘、白鳳期の寺院とされる。
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
 美作久米廃寺遺構図:建物Tが塔、建物Xが金堂、Uが講堂と想定される。
1969年発掘調査、塔は一辺11.2mで、その中心に心礎が原位置で残存する。
心礎の大きさは2.1×1.5mで厚さは80cm超、径23×15cmの円孔を穿つ。
○2007/04/25追加:「岡山の宗教」から
 久米廃寺跡:中国道工事前の状況と思われる 。(写真背景は姫新線列車、今では考えられない長大な列車編成が写る。)
○2008/12/25追加:「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告004−久米廃寺」 1974 より
中国縦貫道が寺域の中心部を東西に縦貫する計画で策定される。日本道路公団に計画変更を求めるも、受け入れられず、やむなく昭和43年、発掘調査に着手する。
昭和44年3月第1次発掘調査:既に露出していた塔心礎は原位置を保つこと、及び版築の基壇の遺存が確認された。塔基壇の一辺は約10m、軒の出は約3mと推定された。その他の遺構の 遺存も推定される結果となる。しかし道路公団はこれだけの成果では遺跡の保存は不可との結論を示す。それに伴い、遺跡の全面発掘に着手する。
昭和44年4月以降昭和47年7月まで第2次発掘調査:この発掘調査は基本的には中国縦貫道および山陽新幹線の計画・工事で少人数の体制で多くの発掘調査を行う必要に迫られ、また道路公団の場当たり的かつ無計画な工事工程により混乱を究めたものとなる も、継続して実施される。多くの遺構の遺存が明らかになし、昭和47年2月道路公団との協議を実施、その結果廃寺の大部は高架橋(173m)とすることに計画変更され、ようやく保存が図られることとなる。 主要な成果は以下の通り。
 心礎は花崗岩製、大きさは2.1×1.5×0.8m以上、心礎上面やや東に平滑面があり、その中央に径22/23cm・深さ15cmの孔を穿つ。
塔基壇は版築で、一辺11.2m、高さ1.5mで、周囲には約1mの雨落溝がある。
建物Uの基壇は約15×21mの大きさで、礎石7個を遺存、及び礎石据付穴13個を検出。建物は5×4間。
塔跡周囲からは相輪破片を多数発掘、相輪は青銅製。
 美作久米廃寺心礎1       同     心礎2:西側断面        同     心礎3:北から撮影        同     心礎4
   同     心礎5:心礎土壇・東より撮影      同     心礎6:塔心礎実測図
   同    塔基壇1:全景、北から撮影        同    塔基壇2:塔基壇北西隅部、右側の中央より下の2個の礎石は建物Wの礎石。
   同   相輪破片
2010/09/08 能登石動五社権現
     (能登石動山)
能登石動五社権現
2010/09/07 加賀宮地廃寺心礎11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
心礎が現存し、地元では「じょうじゃの釜」と称したと云う。 現在圃場整備された田中のなかに心礎のみ遺存し、その他の遺構は全く目認できない。心礎は粗い火山岩様の石で2個に割れている。
心礎大きさは2.2×2,1×1.2mで、径92×15/20cmの孔があり、更に径15×9cmの孔を穿つ。土壇様の高まりにある とも云うが現状は良く分からない。白鳳期の瓦を出土する。
○「幻の塔を求めて西東」:二重円孔式、大きさは240×230×130cm、径93×18、径15×10cmの円孔を持つ。白鳳。半分に割れている。
2008/07/16追加:
○「石川県史蹟名勝調査報告 第2輯」石川県編、大正13年 より
宮地の礎石:この大塔礎石は通俗「じようじようノかま」と称する。礎石は黒色の火山集塊岩で今2個に分割される。
心礎は大よそ一辺7尺の方形で高さは4尺(地上)を測る。表面中央には径3尺1寸深さ6寸の円孔を穿ち更に底中央に径5寸深さ3寸4分の小円孔がある。
 加賀宮地廃寺心礎
○「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987 より
地名として「テランマエ」「ダイモン」「コンドウ」「ソウボ」などが残る。昭和50・51年に範囲確認調査を実施するも、数次の耕地整理で削平され、遺跡の残存状況は悪く、明確な遺構は出土せず。
 宮地廃寺遺構図
2009/09/14追加
○「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
心礎は現在2個に割れているが、大きさは一辺約7尺、見える高さ約5尺、中央に径3尺1寸高さ6,7寸の円孔があり、底中央に径5寸、深さ3寸5分の舎利孔がある。付近に金堂・講堂の名を存す。
 加賀宮地廃寺心礎実測図
加賀弓波廃寺心礎11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
現在礎石がある忌浪社の東300mに寺田と云う地があり、この心礎は「宝塔石」と呼ばれていた礎石で、そこから運ぶと云う。この古代寺院は 弓波の天台宗諦通院として存続したが、中世真宗に転じ、加賀打越勝光寺、小松勝光寺となると伝える。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさ200×170×85cm、径68×21/21.5cmの円孔を持つ。白鳳。弓削神社境内にあり。
○2008/07/16追加:
「石川県史蹟名勝調査報告 第2輯」石川県編、大正13年 より
忌浪の礎石:
県社忌浪神社の境内に手洗水鉢として使用する巨石は、元当神社東方約3町の通称「宝塔谷」と称する畑地より3余年前に今の場所に移す。
礎石は凝灰岩製で、大きさは径6尺・高2尺3寸5分(地上)、上面に径2尺2寸6分深さ7寸2分の円孔を穿つ。
旧地である畑地では多数の古瓦が埋没する。世俗には勝光寺跡(打越勝光寺の原寺地と伝ふ)と云う。
○「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987 より
昭和52年加賀市教育委員会の範囲確認調査で、掘立柱建物跡や柱穴列跡等が検出され、塔心礎石が所在した位置から、「法起寺式」の伽藍配置が想定されている。出土遺物は、多量の瓦と奈良時代前半と平安時代前期の土師器、須恵器、円面硯、鋤鍬先などがある。
「テラダ」「コンドウ」「ホウトウイン」の字が残る。
 弓波廃寺寺域推定図
○「日本の木造塔跡」
円穴の底に三日月形の孔が2個ある。(一つは長さ22cm×幅4.8cm×深さ4.8cm、もう一つは長さ9cm×幅3cm×深さ3cm)これを舎利孔として見るのは無理があるだろう。
後世の偽刻とも考えられるが良く分からない。
加賀末松廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同 金堂・塔復元基壇
  同   塔復元基壇1
  同   塔復元基壇2
  同   塔復元基壇3
塔は柱間12尺(3.6m)の等間である。心礎のみ復元基壇に置かれる。心礎は青戸室石を用いる。
塔阯からは平安期の瓦塔が出土する。心礎は唐塔石(カラトイシ)と呼ばれて水田に横たわっていたと云う。
平安後期に規模を縮小して再建されるも、鎌倉期には廃絶したと推定される。
「石川県の文化財」昭和60年 より
白山に源を発する手取川の、扇状地に位置する。昭和42年(1967)−43年に発掘調査。
その結果、1辺13mの基壇上に、1辺10.8mの塔建物があったと推定される塔跡と、その西側に東西20m・南北18mと推定される金堂跡基壇が検出される。講堂跡や門の跡は未確認と云う。
寺域は、東西が80m、南北の規模は不明。これらの建造物群が廃絶したのち、平安後期に再建されたことが、金堂跡基壇の上の石敷きや掘立柱建物群から推定される。主な出土品には、単弁系蓮華文軒丸瓦を初めとする多量の瓦や銀銭和銅開珎などがある。
心礎は明治21年に東にある大兄八幡宮に奉納されていたが、史蹟整備で原位置に戻される。
心礎は2.24m×1.65m、中央に径58cm深さ11cmの孔を穿つ。
なお文化会館(フォルテ)常設展示場には、末松廃寺復元模型が展示され、七重塔として復元されていると云う。(未見)
 加賀末松廃寺塔基壇    同       塔跡    同       心礎
 同末松廃寺塔模型1     同        2     同        3(写真は「X」氏 ・2002年11月撮影画像)
「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさ224×165、径58×11の円孔を穿つ。白鳳。
2008/07/18追加:
「石川県史蹟名勝調査報告 第2輯」石川県編、大正13年
末松の唐戸石:
末松部落の西に通称「唐戸石」と唱ふる地籍あり、この地の一部分に近年まで表面に円孔を有する巨石あり世俗にその岩根は竜宮城に達すと称せられ藩主前田綱紀この石を金沢城に運搬せんため多人数を使役せしも動かざりしと伝える。また土木用に転用のため爆薬で破壊を試みるも破壊に至らず。
然るに近年之を村社大兄八幡神社の境内に移し手洗水鉢として使用するに至れり。
この石は卵形で大きさは6尺×5尺×高4尺(地上部)、表面にはやや偏して径1尺9寸2分×3寸5分の円孔を穿つ。
この礎石はかつては加賀国分寺ならんと考証せし者あれど、何等の確証なし。
「のっティ新聞Vol.9」記事:
「末松廃寺の名が朱仏寺である可能性が高い」と云う。
その根拠は昭和42年末松廃寺で発掘された土器の底に「朱仏寺」の墨書があったことによる。
 朱仏寺墨書:「のっティ新聞6月号」2008年夏号 より転載、解読は国立歴史民俗博物館の平川南館長と云う。但し肉眼では判読し難い。
「日本の木造塔跡」
現在寺院跡は史跡公園として整備される。整備にあたり、心礎は大兄八幡社より戻される。
加賀寺瑠璃光殿
加賀寺五重小塔1
加賀寺五重小塔2
加賀寺五重小塔3
加賀寺瑠璃光殿内に金色八角五重塔が安置と云う。高さ17m。堂内人工池泉中に建つと説明がある。(屋内小塔)
加賀寺は「三論宗別格本山豊星寺、大韓仏教三論宗観音院加賀寺」と称する。
昭和62年「ユートピア加賀の郷」と称する観光ランドとして着工、このランドは仏教寺院がメインテーマと思われる。総工費280億円と云う。
現在(2010/09)寺院やその他施設は営業を停止中(ほぼ確実に倒産状態)のようで、堂宇は施錠され立入は出来ず、従って八角五重小塔を見ることは出来ない。敷地内は自由に立入は可能。
尤も必見すべきものとは思われず。
※瑠璃光殿:中央の堂宇が瑠璃光殿、小塔1:掲示写真を撮影、小塔2・3:他サイトの写真を転載。
※他サイト:http://www41.tok2.com/home/kanihei5/kaganosato.html
加賀雨宝院全景1
  同   二重塔1
  同   二重塔2
  同   二重塔3
  同   二重塔4
  同   二重塔5
  同   二重塔6
  同   二重塔7
  同   二重塔8
 同 金毘羅権現印
上下とも1間の木造二重塔である。従って正規の塔建築ではない。建立年・規模など不詳。
基本的に禅宗様を用いる。(斗栱は出三斗、台輪、木鼻を用いる、軒はニ軒の扇垂木)屋根は銅板葺き。戦後昭和の建築か。
高野山真言宗。千日山と号する。本尊金毘羅大権現(大和の雄星当山再興のおり、持ち来る金毘羅権現を供奉と云うも、なぜ本尊なのか分からない)。
天平8年(738)泰澄の創建と伝え、中興は文禄4年(1595)雄勢による。室生犀星は当院の養嗣子であった。
雨宝院は金沢寺町寺院群の一番西端に位置する。
【心礎推定説有】
加賀金沢城手洗石11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
  同        20
  同        21
金沢城三十間長屋
 :手洗石はこの写真右手方面にある。
○2010/09/07撮影:
加賀金沢城三十間長屋前にある「手洗石」が心礎である可能性【心礎推定説有】は実見した形状から判断すると可能性は低いと思われる。
大きさについては小型ではあるが心礎である条件を備えている。
しかし致命的なのは円孔のある表面が平滑にされていないことである。現存する心礎を見た限り、まず例外なく表面は柱座を作らないまでも、円穴・円孔の縁のレベルにあわせて最低限平滑に削平する加工がなされるもしくは表面が平滑である自然石が使用される。この点でこの「手洗石」 が心礎とすれば極めて異形な心礎と云わざるをえない。
さらに実測はしていないが、この円孔は円筒形ではなく、上面の径が下面の径よりやや大きい円孔(断面は台形)になっていると思われる。現存する心礎の円穴もしくは円孔は知る限り円筒形に彫られているであろう。これは心柱の安定支持の観点からも、 また日本建築の基本は垂直・水平に造作するという基本形から、この穴・孔は円筒形であるべきであろう。
以上の2点から、形状的には心礎である可能性は低く、やはり手洗石として、自然石が加工されたと考えるのが自然であろうと思われる。
但し、下記のサイトでの論述のように「柱の礎石であるとの言い伝え」があることや城址の元々の前身は古代寺院であった可能性も排除できず、もし古代寺院であったならばその心礎が「手洗石」として転用された可能性も残るからである。また加賀末松廃寺の心礎について「この地の一部分に近年まで表面に円孔を有する巨石あり世俗にその岩根は竜宮城に達すと称せられ藩主前田綱紀この石を金沢城に運搬せんため多人数を使役せしも動かざりしと伝える。」との伝承もあり金沢城に「心礎」が搬入された可能性もあるからである。
○2010/08/13追加:加賀金沢城跡に心礎と推定される巨石がある。
この巨石についてはサイト「天海屋源七本舗」中の「著作集 歴史家 藤原知行」のページに「金沢城跡推定心礎」の論考があり、以下にこの論考を要約する。
・加賀金沢城址内に一つの大石がある。
それは自然石を加工したもので、長径は170cm、上部に径60cmの円孔が彫られる。手水鉢として使われたと伝承する。
・「金沢大学資料館だより bT」:二の丸から極楽橋を渡り石段を上ると、三十間長屋のある平面に出る。
ここに「手洗石」という中央に窪みを持つ巨石がある。178cm×113cm高さ71cmの大きさで、径59cm深さ19cmを測る円孔がある。
これは、藩政時代石垣に組み込まれたとされる巨石と対をなし、柱の礎石になっていたという言い伝えがある。
・「金沢城の発掘」井上鋭夫(金沢大学教授):「・・極楽橋を渡ったところには、藩政時代から石段が築かれており、これを登り切った平地(本丸付段)に手洗石という巨石がある。利家入城の頃は二箇あったが、一つは薪の丸の石垣にはめこまれたと伝えられる。手洗鉢用の石が二つ本丸付段にあるのも不可解であるし、その形状も手洗用には不向きであって、中央部を丸くくりぬいたところは、巨大な柱の礎石として用いられたようにも見られる。」
・「金沢城東御丸御本丸絵図」(金沢市近世資料館蔵)などでは、「手水鉢」の記載が見られると云う。(未見)
・この地金沢城は、通説では文明年中の建立になる真宗金沢御堂の跡で、御堂跡に天正8年佐久間盛政が築城、天正11年前田利家が入城したといわれる。
では金沢御堂以前の状態はどうであったのか。近年以下のような考古的な事実が知られるようになる。
即ち昭和43年の金沢城内の発掘調査で、「四脚門跡」(正方形に並ぶ礎石4個と基壇)、2棟以上の礎石建物、宝篋印塔の塔身・相輪、五輪塔などの残欠が出土する。さらに平成8年以降の発掘で、城 跡の南に位置する広坂遺跡では古瓦(奈良期)が大量に出土し、さらに寺院建物と推定される礎石建物跡も出土する。
つまり以上で得られた考古的な事実は以下を意味するのではないだろうか。即ち金沢城のある高台は、真宗寺院(金沢御堂)が構築される以前には古代寺院が営まれていたのではないだろうか。
Webサイトから直接の引用をすれば、「浄土真宗では、他の宗派で普通に見られる仏塔や石仏(地蔵菩薩など)をたてない。むしろ徹底的に破壊してきたほどである。浄土真宗寺院跡に築城された城の跡地から石塔類が発掘されるということは、真宗以外の寺院が以前そこに存在したと考えるべきである。」ということとなる。
以上のようなことが事実であるならば、現在金沢城址にある大石(手水鉢)はその大きさ及び形状から古代寺院の塔心礎である可能性が大きくなる。
(石川県埋蔵文化センターの報告書『金沢城跡T』)
ところで、昭和43年に発掘された云う四脚門については以下のように推論する。
発掘地は、「鉄門跡」より本丸跡地へ向かって東に70mほど入った地点である。柱間180cmの正方形の四個の礎石が発掘される。これは塔の四天柱礎ではないだろうか。
 ※しかしこの推論はやや暴論であろうと思われる。
なお、参考ながら、以下のような論察もある。
金沢御堂以前の寺院について、近世の地誌や寺伝など二次的な史料から、金沢城のあたりに真言宗「金沢寺」があったことがうかがえる。金沢寺とは白山加賀馬場の白山寺に属したと伝える寺院であると云う。
加賀心蓮社多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
平成元年完成。小型塔。富山県砺波市(株)白井大工施工。
その他の詳細は不詳。
心蓮社は浄土宗、金池山と号す。慶長17年休誉(能登七尾長氏の出身、京都清浄華院に入り、清浄華院法主となり、隠遁の後金沢に来たりと云う)の開基という。
 ※(株)白井大工施工塔婆は越中氷見永明院五重塔、越中高岡山藤三重塔、加賀心蓮社多宝塔がある。
白井大工永明院五重塔
加賀心蓮社多宝塔「X」氏ご提供画像
2010/08/19 野口廃寺推定塔土壇1
  同     塔土壇2
野口廃寺推定講堂土壇1
  同     講堂土壇2
野口山王五社宮社殿
2010/08/19撮影:山王五社宮社社殿の背後左右の土壇がある区域にはフェンスが設置され入ることはできない。推定塔土壇は明確な土壇を残さない。 (従って、掲載している塔土壇写真はややずれている可能性はある。)一方、推定講堂土壇は半壊した土壇を残し、土壇には古瓦が散乱する。
▲野口神社境内地に複数の土壇跡といくつかの礎石が残る。発掘調査により、塔跡・講堂跡・回廊跡・北方建物跡が検出される。塔遺構として、基壇の外周が検出される。瓦の年代から8世紀前半の創建で9世紀まで存続したと推定される。▲
○2010/07/30追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
野口神社境内の門・拝殿・社殿・社務所の付近は後世の整地のためか土地は平坦地である。しかし社殿の西側及び背後には地形の高まりを認めることができる。特に西側の高まりには古瓦が散布し、礎石様の巨石の発見も伝えられる。なお神社を取り巻く方形区画及び濠は古の伽藍地を示唆するものかも知れない。
 野口廃寺跡実測図
 ※野口神社の沿革を明らかにする資料は無いが、旧号は「五社大明神」であり、播磨鑑には「中尊山王大権現」とあり、地元では当社を「山王五社宮」と今も呼ぶということからして、おそらく天台宗念仏山教信寺が山王権現を古の伽藍地の跡に勧請したものかも知れない。
○2010/08/12追加:「野口廃寺発掘調査概要報告書」加古川市教委、2004 より
 播磨野口廃寺遺構配置図
播磨古大内大歳社
播磨古大内遺跡礎石1
播磨古大内遺跡礎石2
2010/08/19撮影:
 遺蹟は昭和15年頃から急速に破壊され、現在では西南部の一角の祠(大歳神)を中心に残されている状態で、礎石と推定される自然石十数個が、祠の周辺や記念碑台石に使用される。
記念碑は古大内城跡とある。
 最近の発掘調査で古大内廃寺は寺院跡ではなく、賀古駅家と判断される。
「延喜式」(927年)には以下の記載があると云う。「播磨国駅馬、明石30疋。賀古40疋。草上30疋。大市、布勢、高田、野磨各20疋。越部、中川各5疋。」当然山陽道の駅家の記載である。
以上によれば、賀古駅家は馬40疋を備え、これは最大級の駅家であった。当然この駅家は「駅館院」(宿泊・接待施設)に類する施設があり、その建物は礎石建物・屋根瓦葺・丹塗柱・白壁であったと推定される。
 ※古代の遺構で、寺院以外にも、礎石建物・屋根瓦葺建物が存在したと云うことである。古瓦・礎石だけの出土でもって寺院跡と判断すうことはできない。
 ※播磨では近年駅家跡とされる以下の遺構が発見されている。古大内の遺跡もこれに準ずる駅家跡であろう。
・布勢駅家:「驛」及び「布勢井邊家」と墨書された土器が出土、「驛」の土器は昭和61年出土。この遺跡は以前は小犬丸廃寺と呼ばれていた遺構である。
・落地<おろち>遺跡(上郡野磨駅家跡):2002年からの発掘で駅家と判明する。なを「唐居敷」も出土と云う。
 兵庫県立考古博物館(2009年古大内廃寺を発掘)は、その成果から古大内遺跡は賀古駅家跡であろうと発表する。駅家跡とする根拠はおおよそ以下のとおりある。
1)古代山陽道から駅家の入口へ続く進入路を確認(発掘された道は遺跡の東辺の築地溝と直交して東に延び、山陽道と直交することから進入路と判断する。つまり東側に駅家正面入口があったと結論付けられる。山陽道と見られる遺構も発掘される。
但し、侵入路とされる遺構と東の築地溝とされる遺構の交わる付近で門跡が発掘されたという報告はない。
なおこの地点は現在の大歳神社東60〜70mの地点である。
2)大歳社境内で、唐居敷(門礎石)2個を発見。
礎石は、竜山石(凝灰岩)製。2個ともほぼ同じ大きさで、縦115〜130cm横60〜85cm厚さ40〜50cmの大きさで、それぞれ「軸摺穴」と「方立穴」と推定される方形の穴が2つある。(未見)
しかし、なぜこの礎石が東の門の礎石とされるのかの根拠は良く分からない。事実は門礎と思われる礎石が神社境内に搬入され現存していたということだけである。
 門礎石(唐居敷)     唐居敷実測図:いすれも兵庫県立考古博物館提供
3)播磨国府系瓦が発掘される。
4)付近(北東)に「駅ケ池」と称する池がある。この池は平安期、教信寺開山教信沙弥が造ると伝える。
 ※承和3年(836)教信沙弥、山陽道を西へ進み、賀古駅家の北に住む。(「日本往生極楽記」)
→現段階では古大内廃寺は寺院跡とも駅家跡とも断定は出来ないであろう。なぜなら寺院跡とするあるいは駅家跡とする決定的物証が未だ無いからである。上記1〜5)の根拠は駅家とする有力な状況証拠ではあるが、決定的証拠とは成り得ていない。
1)山陽道にほぼ接してあるから駅家とは断定できない、寺院が建立される可能性もある。
2)唐居敷(礎石)の存在をもって、駅家の礎石と断定はできない。この遺跡ではまだ門跡は出土していない。
3)播磨国府系瓦は駅家と寺院跡両方で出土する。「兵庫の遺跡10号」(兵庫県教委埋蔵文化財調査事務所、昭和61年)では以下のように述べる。「播磨国で奈良時代後期の播磨国府系瓦がまとまって出土する遺跡は14カ所あるが、このうち塔跡があって確実に寺であるものは5カ所である。」
4)この池の存在は有力な傍証ではあろう。
○2010/08/25追加:「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
南北84m東西37mほどの短冊形をした松林(壇ノ森)があり、この中に土壇があり付近に伽藍石を残す。また道路を挟んで、古瓦が散布する。またこの付近は「播磨風土記」で云う駅家里もしくは「延喜式」で云う賀古駅家の地であることは容易に推測できる。
土壇は南北14m東西12m、高さ80cmを測る(A地点)。表面には礎石抜取穴が残る。2小祠の台石、碑の積石に13個ほど火中した礎石を残す。
A地点東25m付近には古瓦の散布を見る(B地点)。更に北側30m付近には古瓦と焼土とが横たわる(C地点)。A地点を塔阯と仮定すれば、法隆寺式伽藍配置を彷彿とさせる。
 播磨古大内廃寺付近地籍図    同     塔阯付近礎石    同  講堂跡古瓦包含層
2010/08/18 伯耆藤井谷廃寺塔土壇1
  同      塔土壇2
  同      塔礎石
  同       心礎1
  同       心礎2
  同       心礎3
  同       心礎4
  同       心礎5
  同       心礎6
  同      布目瓦
2010/08/18撮影:土壇(塔土壇?)と土壇上に心礎を残す。伽藍配置は不明、出土瓦は8世紀前半とされる。なお土壇上には心礎のほか数個の礎石を残す。
土壇・心礎は関金を見下ろす広い台地上にあり、遺構は分かり難い場所にある。しかも寺院の実態が不明で謎に満ちた遺構である。心礎そのものは伯耆・因幡に残存する 他の優秀な心礎に比べ、やや雑な「造り」の心礎である印象は否めない。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、心礎の大きさは210×185cmで、表面に径42×13cmの円孔がある。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「千代川 第6号」鳥取大学歴史学研究会、1968 より
心礎:大きさは2.1×1.8mで中央に径42cm深さ13cmの柱孔あり。
心礎のみ遺存、未調査のため詳細不明。心礎は原位置ではない。
伯耆斎尾廃寺塔跡11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同   四天柱礎
  同    脇柱礎
  同     金堂跡1
  同     金堂跡2
  同     講堂跡
  同     中門跡
  同     鐘楼跡
  同     遺構図
2010/08/18撮影:寺跡は南面し、東に金堂(5間×4間、礎石10個を残す)、西に塔、金堂の直背後に講堂 (7間×5間、礎石14個を残す)などの各跡を残す。瓦・磚仏・塑像など多くの出土品がある。
塔跡は東西16m、南北15m、高さ1mの土壇および、自然石(一辺6.3m)の礎石を残す。
そのほか中門跡土壇残欠、鐘楼礎石?、北方寺域区切などの遺構も残す。
○「日本の木造塔跡」:一辺12.4mの土壇上に四天柱礎3個、脇柱礎7個を残す。心礎は抜き取られて既に無い。塔一辺は6.1m。
白鳳期または奈良期の寺院とされる。
X」氏2003/10/11撮影:伯耆斉尾廃寺塔跡1        同        2
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「特別史跡 斎尾廃寺跡」(「鳥取県文化財調査報告書 第1集」)鳥取県教育委員会、1960 より
塔心礎は検出されておらず、1.6m土壇下に現存すると推定される。
 ※この文献では地下式心礎の存在を想定しているが、発掘調査はなされており、心礎は土壇に現存しない。
 斎尾廃寺塔跡概要図     斎尾廃寺寺域図
伯耆上淀廃寺 再訪:史跡整備済   伯耆上淀廃寺
2010/08/01 因幡寺内廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同     薬師堂
  同  薬師堂礎石
  同  薬師堂内部
2010/08/01撮影:薬師堂南の路傍に心礎が現存する。周辺では布目瓦を採取と云う。 薬師堂前には礎石と思われる石が置かれ、薬師堂礎石にはおそらく転用と思われる礎石が使用される。集落の中に心礎のみが剥き出しで置かれ、その傍らに薬師堂一宇のみがぽつんと建つ情景である。
○「日本の木造塔跡」:心礎は農家の庭にある。大きさは1.6×1.3×0.7mで、径53/54×25cmの円孔を穿つ。廃寺は宝照寺と号したと伝承する。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「寺内廃寺発掘調査概報T」関西大学考古学研究室、鹿野町教育委員会、1979 より
心礎:一辺約84cm高さ約60〜70pの四角形心礎の中央に径約56cm深さ約28cmの枘穴をもつ。
塔心礎のみ検出。心礎は原位置をとどめておらず基壇規模等不明。
 寺内廃寺心礎実測図
伯耆野方弥陀ヶ平概要

伯耆野方大門谷
 :谷の南方を望む、左手上方に弥陀ヶ平がある。
伯耆野方弥陀ヶ平
 :平坦地があるもほぼ叢木に蔽われる。
伯耆野方弥陀ヶ平入路
 :中央の降り路の先に弥陀ヶ平の平坦地がある
2010/08/01撮影:東伯郡東郷町野方にある。
下に掲載の岸本論文から判断すれば、心礎は現存していると思われる。しかし、現地では心礎位置の確認が取れず、心礎の現状が把握できない。
現地での4名の聞き取りを総合すると以下と判断される。
・大門谷に寺院があったと聞く。今は何も残らない。心礎や礎石などの遺構は地上には全くない、また大門谷に心礎や礎石が残るといった話も知らない。
※岸本論文では弥陀ヶ平から大門谷に寺院が降りてきて、大門谷に伽藍が営まれたと解釈できるが、もしそうであるならば、大門谷に塔があったと推定されるが、 塔や心礎の手掛かりは一切なし。現地の人も大門谷に伽藍があったと聞いている。
※岸本論文にある弥陀ヶ平から降りるとは覚善寺もしくは鐘楼の礎石が降りたという意味であって、必ずしも大門谷に寺院が降りたと云う意味では無いと も解釈できるが、もしそうであるならば、塔は弥陀ヶ平にあったということになるが、ここに塔があったという情報はない。
・児童館すぐ東の某氏邸の土蔵は寺院の礎石の転用と聞く。(未見)
・弥陀ヶ平に廃寺跡があり、今なお大きな礎石を残す。(弥陀ヶ平土地所有者など)
以前は果樹園であったが今は耕作を放棄し、荒地となる。従って案内無しには行くことはできない。時々廃寺跡を尋ねる人がいて、弥陀ヶ平に案内をすることも多い。(行政に案内板設置を要望するも未だ実現せず。) (案内人)
大きさは1反(300坪)位はあると思う。(案内人)
※弥陀ヶ平は荒地と化し、夏場に短時間で礎石を探すのは不能。
※野方の北東数町に方地に覚善寺が現存するも、岸本論文で云う覚善寺かどうかは未確認。
さらに現地では瓦あるいは鴟尾の破片などが出土していると云う。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、230×230×95cmで、径50cmの円穴を彫る。白鳳。・・・このデータは下記の岸本論文からの転載であろうと推定される。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「野方・弥陀ヶ平廃寺」岸本浩忠、昭和43年刊(「鳥取県立博物館所蔵 古代寺院関係資料集」鳥取県立博物館、2003 所収) より
塔の情報として以下がある。
心礎のみ遺存、心礎は径2.3m、中央に50cmの柱孔あり。未調査のため詳細不明。原位置ではない。約400年前覚善寺鐘突堂の土台石に弥陀ヶ平から降りると寺史にあり。円形の柱座がある。現地に礎石4個露出しており、柱間は2.74m。
 ※以上であれば、心礎は現地に現存するとも思われるが、不詳、現地未見。
なお、現地には塔とは別の堂宇の礎石6個が残ると云う。
 弥陀ヶ平に残る礎石配列・・・弥陀ヶ平に 残る礎石建物実測図
伯耆大原廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同  推定塔礎石
  同   伽藍配置
 :図中の礎石建物は伽藍廃絶後の中世の遺構
2010/08/01撮影:土壇上に塔心礎を残す。昭和9年畑の開墾中に心礎が発見される。
心礎は2.9×2.8mで中央に枘穴(径65cm、深さ11.5cm)を穿つ。塔土壇の一部が残る。
土壇脇上に1個の推定礎石が残存する。
昭和60年からの発掘調査で、塔・金堂・講堂跡が検出され、金堂背後に講堂、金堂東に塔が配置される変則的な法起寺式と判明する。
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは2.64×2.7m、径67×15cmの円穴を彫る。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「倉吉市文化財調査報告書 第100集 史跡大原廃寺発掘調査報告書」倉吉市教育委員会、1999 より
心礎:長径2.9m短径2.8m厚さ30cmの安山岩で、直径65cm深さ12cmの円形枘穴を設ける
基壇上面は削平されているため建物規模不明。基壇北・東辺で2列の川原石列を検出。内側石列は一辺約9.8m外側石列は一辺約11mとなり、二重基壇となった可能性が考えられる。北辺中央では3列目の石列の一部を検出しており、階段がとりつく可能性も考えられる。また、塔と講堂の間で、ガラス玉片が出土しており、舎利に関連する可能性がある。
 大原廃寺塔遺構図
伯耆大御堂廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同   四天柱礎
伯耆大御堂廃寺跡
駄経寺廃寺。
2010/08/01撮影:奈良期。昭和26年工場建設に伴い、発掘調査が行われ、心礎が発掘された。
心礎は長径2.3mで、径87cm、深さ15cmの孔を穿つ。塔跡以外は不明で、中心部は工場敷地となってい たが、現在では工場は撤退し、地表はただの更地が展開する景色となる。
かっては駄経寺町隈巡に土壇状の高まりがあり、径約80cmの円形柱座を造り出した1.2m大の四天柱礎が表れていたという。現在心礎と四天柱礎1個は上灘小学校に移転し、下田中・勝宿禰神社石垣、駄経寺町・新宮神社鳥居台石に礎石が転用されていると云う。 (いずれも未見)
○「日本の木造塔跡」:心礎は小学校校庭にある。大きさは2.22×2.0mで、径85×14/10cmの円穴を持つ。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「倉吉市文化財調査報告書 第107集」倉吉市教育委員会、2001 より
心礎は2.3×2.04mで中央に径87cm深さ14cmの円孔あり。
青銅製品の破片出土。上部は削平により不明。心礎抜取穴あり。礎石は上灘小学校敷地に一部あり。「倉吉市誌」(倉吉市、1956)によると、心礎円孔内に炭化した柱の一部があったとある。
 大御堂廃寺塔遺構図
伯耆国分寺塔復元基壇1
  同     復元基壇2
  同     復元基壇3
  同     復元基壇4
  同     復元基壇5
  同     復元心礎
復元廻廊金堂講堂土壇
復元金堂・講堂土壇
伯耆国分寺推定礎石
2010/08/01撮影:寺域は東西182m、南北160m。寺域西3/1の線上に南門、(中門)、金堂、講堂を配置し、塔を南東隅に配置する。
塔跡は基壇一辺13.6m、塔は一辺7.2mで、礎石および礎石抜き取り穴、地覆石、羽目石などが発見される。
心礎及び礎石は既に抜き取られ、抜取穴のみを確認と云う状況であるから、塔復元基壇上の心礎・礎石は復元礎石であるが、なぜ例えば心礎は小さい枘孔を穿ち、しかも中心を外す位置に穿ち、さらには半裁(復元の後に割れたのかどうかは不明)された形式に復元した根拠は全く分からない。
X」氏2003/10/11撮影:
 
伯耆国分寺復元基壇        同     塔礎石        同      塔心礎
○2006/11/03追加「各地の国分寺」:
 伯耆国分寺伽藍概要図
○2009/09/14追加:「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
国庁裏神社の北に接して「古寺屋敷」と云う地があり、ここが伯耆国分寺址である。現存寺は元禄6年に現在地(国府部落)に移転すると云う。
古寺屋敷には薬師堂一宇が残り、薬師堂土台および踏石として4個の礎石が残る。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「特別展 伯耆国分寺」倉吉市立倉吉博物館、1983 より
心礎:心礎は柱穴を確認するのみで礎石は検出されず不明。
東側柱列と東縁は削平を受ける。基壇は安山岩の地覆の上に羽目石を立てた壇上積。地覆石と羽目石の一部は西辺6m北辺5.5mの範囲で残存する。地覆石の失われた部分では抜き取りの溝がめぐるが、西辺と北辺の中央部分がとくに深く、切石が落ち込む状態である。北・西・南各辺の中央部分に幅2m高さ10cmの歩道のような高まりがとりつく。火災に遭い西北方向へ倒れたと考えられ、この方向に焼土・瓦とともに風鐸が検出される。
 伯耆国分寺跡遺構図     伯耆国分寺塔跡実測図
伯耆石塚廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
2010/08/01撮影:径2m余の心礎(径69.5cmの円孔を持つ)が残る。 「日本の木造塔跡」で云う「孔の縁の底に7×4×3cmの孔があり、おそらく舎利孔であろう 。」という記述は確認が出来ず。
なお、北方の金堂跡は未見。
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは約2.15m×1.94m、径70/69cm・深さ13/12cmの孔がある。孔の中央に少し掘った穴があるがこれは後世の加工であろう。孔の縁の底に7×4×3cmの孔があり、おそらく舎利孔であろう 。
心礎周囲は30−50cmの高まりになっている。心礎から北に25mのあたりに金堂址と推定される東西15m、南北13m、高さ1,2m位の基壇が遺存し、5.6個の自然石礎石を残す。
X」氏2003/10/11撮影:伯耆石塚廃寺心礎1      同        2
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「鳥取県立博物館所蔵 古代寺院関係資料集」鳥取県立博物館、2003 より
 石塚廃寺塔心礎図
2010/07/31 因幡土師百井廃寺塔跡1
  同        塔跡2
  同        塔跡3
  同        塔跡4
  同        塔跡5
  同        心礎1
  同        心礎2
  同        心礎3
  同        心礎4
  同       脇柱礎
  同    伽藍配置図
2010/07/31撮影:土地の人は慈住寺跡と呼ぶ。昭和53・54年に発掘調査され、中門・金堂・講堂・廻廊跡が確認され法起寺式伽藍を採ると確認される。塔跡には礎石を完存する。四天柱礎が巨大であり、そのため同一レベルに心礎を置くスペースがなく、心礎は一段下げて置かれたものと推定される。 (そのため心礎の全容は見えない。)
○「日本の木造塔跡」:心礎の他、四天柱礎、側柱礎も完存する。心礎の大きさは 1.6×1,5mで径70×10cmの円穴がある。その他の礎石も心礎に匹敵するほどの大きさがある。塔の土壇は一辺12m、塔一辺は6.7m。慈住寺と称したと伝える。
X」氏2003/10/11撮影:因幡土師百井廃寺1    同        2    同        3
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)
心礎は他の礎石群より約64cmほど低く据えられ、柱座は径68cm深さ約9.6cmの枘穴を持つ。
心礎より南へ8mのところで東西の瓦・石列を検出したため、基壇規模は16m四方と想定されたが、南側中央のため階段の可能性が考えられ、おそらく基壇は推定 14m四方であろう。
「土師百井廃寺塔阯」上田三平(「史蹟調査報告」第七輯、文部省、1935 所収) より
 塔跡礎石配置図
「土師百井廃寺跡発掘調査報告書T」郡家町教育委員会、1979 より
 塔跡礎石実測図
因幡源門寺廃寺心礎1
  同       心礎2
  同       心礎3
  同       心礎4
  同       心礎5
寺屋敷三界万霊塔
中河原妙見堂
中河原石造五重塔
寺屋敷残存推定礎石
2010/07/31撮影:中河原に源門寺(ゲンモジ)の寺名が残る。部落の東部に寺屋敷と称する一画が残り、ここに一基の石造「三界万霊塔」(高さ2m、文政13年<1830>当寺10世瀧本院了宥代・・・銘)が残る。 平成16年、寺屋敷背後すぐ上(北西)に妙見堂(寺屋敷にあったと云う)及び石造五重塔が建立され、寺屋敷にあったと云う宝篋院塔などが移される。
現在、心礎はこの妙見堂前にある。おそらく妙見堂再建によって堂前に再び移されたものと思われる。現在のところ心礎・源門寺・妙見堂・寺屋敷(瀧本院か)などの関係については一切が不明であり、この心礎についての由来も全く不明である。心礎は枘孔が 整って彫られ、少なくとも古代寺院の塔心礎であることは間違いないであろう。
○「鳥取県埋蔵文化財センター」(「国府町誌」昭和62年に記載)及び「X」氏情報を総合すると概要は以下の通り。
廃寺は岩美郡国府町中河原にある。現状は道路北側に心礎(元位置から動いていると云う)のみを残す。また現地は土地狭隘で大伽藍は想定し難いとされる。また瓦の出土はないと云う。
心礎は1.7m×短径1.2m×60cmの自然石で、径47cm、深さ15cmの円孔を穿つ、さらに写真で明瞭に分かるように円孔周囲には径72cm幅13cmの円形柱座が浮き彫りされている。
石質は花崗岩と思われる。
 「X」氏2003/10/11撮影:因幡源門寺廃寺心礎1       同         2
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「源門寺廃寺跡」(「国府町誌」国府町、1987 所収) より
心礎は径1.7mの自然石に径37cmm深さ15cmの柱孔が穿たれ、径72cmの円形柱座が浮刻される。舎利孔はなし。
塔心礎のみ検出、詳細不明。
因幡栃本廃寺東塔心礎1
  同        心礎2
  同        心礎3
  同        心礎4
  同        心礎5
  同        心礎6
  同        心礎7
因幡栃本廃寺南塔心礎1
  同        心礎2
  同        心礎3
  同        心礎4
  同        心礎5
  同        心礎6
  同        心礎7
因幡栃本廃寺金堂跡1
  同     金堂跡2

因幡雨滝
因幡布引滝
因幡雨滝の小滝
 
2010/07/31撮影:廃寺遺構は整備されるも、このような遺跡整備の可否については賛否両論があろう。
なお付近(東北)の山中に雨滝がある。落差40m、下流に布引滝(落差20m)、小滝(名称不明)がある。
○金堂の南と東に塔が位置する特異な伽藍配置を採る。
東塔心礎:1.1m×0.9m、径35cm、深さ19cmの孔とその底に径13cm、深さ8cmの孔を穿つ。 発掘により基壇は一辺8.4mと判明。
南塔心礎:1.7m×1.4m×80cm、径70cmの円形柱座を持ち、径49cm、深さ20cmの孔とその底に径15cm、深さ10cmの孔を穿つ。
この心礎は従来西塔と云われていたものである。基壇は一辺約10mとされる。
伽藍配置:金堂を中心として、塔は東と南に2基あり、講堂は金堂北にあるが、金堂と南塔の中軸線から西にずれる。
X」氏2003/10/11撮影:
 因幡栃本廃寺東塔心礎1      同           2
 因幡栃本廃寺南塔心礎1       同           2
○「国府町教育委員会・2000年3月現地説明資料」:
・伽藍配置:今回の調査により南塔・東塔・金堂・講堂が南北に配されていることが確認された。
南塔と金堂の基壇はほぼ中軸線を揃えている。講堂は西へ約11mずれた位置にある。(地形の制約か?)
東塔は金堂東に基壇南辺を揃える位置にある。
同時期のものとすると金堂の南と東に2塔を配した類例のない伽藍配置となる。
・南塔跡:従来の西塔遺構で、心礎は僅かに原位置を動く。基壇は削平され、心礎以外の礎石・基壇外装は全て失われている。
基壇掘込地業と数pの盛土は残存。基壇は約10m四方、高さは約1m以上で、地上式の心礎と推定。
・東塔跡:心礎は、ほぼ原位置を保つ。基壇盛土を確認。基壇は約8.4m四方、高さは、約60〜70pと推定。
・金堂跡:南塔北で新たに基壇を発見。(明治期まで土壇状の高まりがあったと伝える。)上面は削平され、原位置の礎石及び礎石の抜取跡は残存しないが、穴に落込まれた礎石や乱石積の基壇外装を確認。基壇外装は、約1m前後の大型自然石を並べ、その上にやや小型の石を2〜3段に積み重ねているものと思われる。規模は、東西約14.8m、南北約12.4mを測る。
現存基壇高は、南辺で約1.0m。基壇の周囲は、人頭大の自然石を敷き並べた幅約1.0mの犬走り状の石敷を設ける。
5間×4間の金堂が想定される。
・講堂跡:金堂跡の北西で新たに乱石積基壇を発見。基壇外装は、約50p前後の自然石を立て並べて構築、基壇高は南辺で約30pを測る。北側・西側の基壇外装は遺存状態が不良であったが、基壇は東西約16.0m、南北約13.6m。基壇周りは、人頭大の自然石を敷き並べた幅約1.2mの犬走り状の敷石を設ける。礎石は4箇を確認。5間×4間の建物に裳階が取り付く構造と想定。
・瓦は全く出土せず、堂塔は非瓦葺と推定される。創建・廃絶時期は不明であるが、出土遺物から白鳳〜平安前期と推定される。
この寺院の特異性は法美郡の中心地から外れた山間部の大草郷に立地する。つまり古代の銅生産に関わる豪族の建立の可能性が推測される。
2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
 栃本廃寺伽藍配置図
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「史跡栃本廃寺跡発掘調査報告書」鳥取市教育委員会、2008 より
 栃本廃寺伽藍平面図
栃本廃寺東塔心礎:径1.2×1.05m。柱孔は径39cm深さ19cmで、さらに径13cm深さ8cmの舎利孔を穿つ。
 栃本廃寺東塔平面図     栃本廃寺東塔トレンチ図     栃本廃寺東塔心礎図
栃本廃寺南塔心礎:径1.8×1.48mで、柱孔を幅13cm高さ2.5cmの柱座で飾る。柱孔径49cm深さ18cmで、さらに径15cm深さ10cmの舎利孔を穿つ。
 栃本廃寺南塔トレンチ図     栃本廃寺南塔復元概念図     栃本廃寺南塔心礎図
因幡国分寺推定塔礎石1
  同    推定塔礎石2
  同    推定塔礎石3
因幡国分寺有出枘礎石1
  同    有出枘礎石2
  同    有出枘礎石3
  同    有出枘礎石4
細男神社境内推定礎石
因幡国分寺現堂宇

2010/07/31撮影:現国分寺にある礎石は国分寺集落の南に田中から運んだと云う。その大きさから塔礎石であろうと推定される。その中で心礎の可能性のある出枘のある礎石の大きさは220×140cmを測る。
現国分寺東に細男神社があり、この境内が金堂跡と推定され、礎石と思われる石がある。
なお現国分寺は延宝2年(1674)黄檗宗として再興される。本尊薬師如来。
○発掘により南門跡のみを確認、主要伽藍は現在の国分寺集落にあったとされる。
塔礎石などは現国分寺(最勝山と号する)境内に移し保存される。下の写真2の礎石(大きさは不明)には出枘が見られ、国分寺系の心礎の一類型とも思われ、心礎で ある可能性もあると思われる。
X」氏2003/10/11撮影: 因幡国分寺礎石1       同       2
○「日本の木造塔跡」心礎なりや否かは不明
○2009/09/14追加:「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
国分寺集落の西端に原国分寺(黄檗宗)があり、その南方字竹ノ下、東南塔ノ隈、東方細男神社境内に旧国分寺遺址が存する。
竹下には8個の礎石を存し、その中の最大のものは9尺5寸×5尺高さ4尺、最小のものは方2尺8寸ほど高さ1尺3寸ほど。その中の一個には径1尺5寸の円柱座の突起が微かに認められる。礎石は全て原位置を動き配置は不明であるが、礎石の巨大さから塔跡と比定すべきであろう。
竹下の東の塔隈の地の田圃中に5個の礎石を残す。最大の礎石は4尺5寸×3尺2寸、小なるものは2尺7寸×2尺2寸で、表面に繰出しと思われるものを存ずるものもある。 しかし「塔隈」の字に礎石はあるが、礎石の大きさから見て、この地は創建時の塔跡と到底思われない。
細男神社境内には数個の礎石があり、礎石転用と思われる手水鉢などもある。
この神社北約80間に墓地があり、その10間ほど西の田圃の畔にまさに転落せんとする礎石2個が残る。踏石は最大の礎石で4尺2寸×2尺8寸×1尺を測る。この薬師堂は金堂跡かと推測するのみで、他の遺構は全く残らない。
 因幡国分寺礎石121:竹下所在の礎石
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「因幡国府遺跡発掘調査報告書W」鳥取県教育委員会、1976 より
心礎:径80cmの柱座と27〜28cmの枘状造出し。
礎石下のみ壷掘り地業した跡が検出される。四天柱礎部は頭大の河原石を混入し築き固めたものである。礎石は国分寺境内に移転される。
 因幡国分寺伽藍配置図:推定      因幡国分寺塔跡実測図

因幡菖蒲廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
2010/07/31撮影:塔心礎及び推定礎石1個、石塔類の残欠などの雑多な遺物が田中の只中に 雑然と残るのみである。なお心礎にたまる水は「イボ水」さんと呼ばれ信仰の対象であったと云う。
○塔心礎が現存し、出土瓦から7世紀末、8世紀初頭のものとされる。
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは差し渡し2.5mの丸い石で、径40×14cmの円孔を持つ。なお側柱礎と見られる礎石が1個残存する。
最近発掘調査が行われたが心礎の他に遺構は見つからなかったという。この廃寺は座光寺と称したと伝える。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円穴式、大きさは240×179×40/50cm、径40.6×11.5cmの円孔がある。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「菖蒲廃寺発掘調査概報」鳥取県教育委員会、1968 より
心礎:長径2.58m短径1.8mで、径40cm深さ12cmの枘穴を持つ。
塔心礎のみ検出。心礎は原位置から移動する。基壇等は検出できず。
 菖蒲廃寺心礎実測図他
因幡岩井廃寺心礎11
  同        12
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  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
  同        20
2010/07/31撮影:心礎の置かれる岩井小学校は既に廃校、校舎も無く更地となる。
○奈良時代前期の様式の方形柱座と2重式円孔をもつ心礎を残す。心礎は3.64m×2.36m×1mの凝灰岩で、一辺1.4mの方形柱座が造り出され、中央に径77.5cm深さ32,7cmの孔とその底に径20cm深さ14.2cmの孔を穿つ。
土地の伝承では宇治長者が建立した弥勒寺跡と云う。基壇や礎石は残存しない。
白鳳−平安初期の瓦を採取すると云う。心礎は岩井小学校校庭にあり。
なお美濃岩井の岩井山延算寺本尊木造薬師如来立像(重文・平安初期)は平安期当寺から遷座したと伝えられる。
 ※薬師如来は、最澄が因幡国岩井郡の温泉(岩井温泉)の楠から彫り上げた三体の薬師如来像の一つであると伝える。つまりこの薬師は因幡岩井廃寺(弥勒寺)の薬師如来像であったと云う。
○「因幡岩井温泉誌」森永清畔編、岩井温泉組合事務所、明治45年 より
 弥勒寺の礎石:
御湯神社の華表の右側田圃中にあり、長さ1丈2尺横8尺の大石にして中央に直径2尺餘の深き穴あり、
口碑の伝ふる所に依れば上古此附近に弥勒寺と伝へる一大伽藍在りて法灯頗る灼然たりしも、何時の頃か頽敗して此の礎石を残すのみと土俗今此の石を指して鬼の碗と云ふ・・・
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは3.3×2.3×1,12mで、径77×30cmの円穴とその中央に径23×13cmの舎利孔がある。円穴の外側に一辺130cmの方形の造出しがあるが、装飾であろう。心礎は小学校校庭にあり、金堂は小学校運動場付近にあったとされる。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「岩井廃寺跡発掘調査報告書」岩美町教育委員会、1986 より
 岩井廃寺心礎実測図:心礎のみ検出、東西3.64m南北2.36m厚さ1mの凝灰岩の巨石の上に一辺1.4m正方形の柱座が造り出されその中心に心柱を据えた径77.5cm深さ32.7cm円孔とさらにその底に径20cm深さ14.2cmの仏舎利納入孔がある。

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