過去の訪問した塔婆・ご提供画像(2003/04/07〜2003/08/11)

過去の訪問塔婆履歴

2003/08/11 紀伊三栖廃寺僧坊跡?
  同    弥勒堂
  同    心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
白鳳期の創建とされる。寺域は方1町と推定。現弥勒堂の位置が塔基壇と思われ、発掘調査の結果、基壇は一辺9mの瓦積基壇で南中央には自然石の石段が残存するという。
心礎はほぼ三角形で、1.7m×1,6m、中央に径67cm深さ6/4cmの円孔と円孔中央に径20cm深さ9cmの小孔を持つ。また不自然な形状の排水溝が1本ある。
以前この心礎は弥勒堂の縁下にあったようですが、現在は僧坊跡と推定される復元基壇のところに移動している。付近からは石製相輪の一部などが出土しているという。
紀伊高山寺多宝塔 1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同      本堂
再訪。一辺4.6m。
紀伊法蔵寺多宝塔跡 紀伊広八幡宮・法蔵寺・安芸三瀧寺多宝塔のページを参照
紀伊広八幡宮 紀伊広八幡宮・法蔵寺・安芸三瀧寺多宝塔のページを参照
紀伊浄妙寺多宝塔 1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同     薬師堂
再訪。一辺4.32m、高さ13m。
紀伊野上八幡宮 紀伊野上八幡宮・吉野東南院多宝塔のページを参照
2003/07/25 阿波瑞厳寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
平成元年 建立。平成2年落慶。純和様の正規の木造塔婆と思われます。総高11.3m。小型塔ですが、写真は撮り難いです。垂木は一重。屋根銅板葺き。施工は大阪金剛組(四天王寺大工)という。
鳳翔山と号する。臨済宗妙心寺派。開山は一鶚禅師。蜂須賀氏の帰依を受け、山林境内20万坪、300石という。勝瑞城下から寺町に再興されたという。
阿波大滝山三重塔跡 「大滝山三重塔」のページを参照ください。
阿波郡里廃寺 伽藍
  同     塔跡1
  同     塔跡2
  同     塔跡3
  同    塔跡礎石
  同    金堂跡
  同    南大門跡
  同    出土瓦1
  同    出土瓦2
  同    出土瓦3
昭和42.43年の発掘調査結果、法起寺式伽藍配置が確認され、寺域は東西96M、南北120M、塔は一辺約11.5mで、地下式心礎 (地下60cm)を発掘。心柱(砂岩、1.8m×1.6m)の上には八角形の竪穴(径106-108Cm、深さ60cm)が検出されたようです。心礎中央に舎利孔 (13.5cm、深さ6.5cm)を穿つという。 心礎は埋め戻されて現状は見ることはできません。塔基壇は河原石の乱積でよく見ることが出来ます。塔基壇上には自然石の上を削平もしくは柱座を持った礎石2個がある。
吉野川北岸の台地上に立地する。出土瓦から白鳳前期の創建とされる。立光寺跡とも表記される。
阿波明王院二重塔 「阿波明王院二層塔」のページを参照ください。
阿波大日寺礎石 1
  同       2
  同       3
  同       4
  同     位置
「川島町史・上巻」によると、大日寺塔の心礎石が旧川島城石垣に組み込まれている(写真付)とされる。「幻の塔を求めて西東」の手書き資料にも出枘式の心礎としての紹介がある。
しかしながらこの礎石を実見すると、柱座があり礎石であることは間違いはないと思われますが、大きさあるいは形式から見て(出枘の痕跡はないと思われる)心礎とするには無理があると思われます。
現在縦に置かれ、ほぼ1/3は埋没している。大きさは88cm×65cm(見える高さ)、径58cm×1cm未満。(これは「幻の塔を求めて西東」とほぼ一致するが、「川島町史・上巻」の大きさは良く理解できない数字になっています。)ごく最近設置されたと思われる真新しい説明石も心礎とはせず、礎石としています。
大日寺跡はJR川島駅前西北の方1町が想定されている。現在は人家が建て込み、少数の出土瓦・その他の遺物で寺院跡であろうと推測できる状態のようで、明確な遺跡が出ている訳ではないようです。塔があったとすれば法起寺式であろうと推定されている。創建は白鳳もしくは奈良期の2説があるようです。
なお礎石の位置ですが、近年の新造である新川島城(川島神社東)は関係なく、現在忠魂碑のある丘(川島神社西)が本丸跡といわれ、忠魂碑参道の左、3段構築の一番上の石垣に組み込まれています。旧川島城といえば、JR線南側の山腹の独立峰に位置する「上桜城」を意味することもあるようですが、この場合の「旧」川島城とは「新」川島城が建立されている川島城の本丸を意味します。
阿波国分寺心礎 1
  同       2
  同       3
  同       4
  同     金堂
阿波国分尼寺跡
現在は四国15番札所。塔心礎(結晶片岩の環溝式<舞木寺式>)が置かれているが、元は西方の田中 (塔の本)にあったとされる。 3.75m×1.54m×0.75mで、孔の外周径は1m、内周径は52cm、溝巾24cm、深さ10/4cm、排水溝があるともいわれるが良く分からない。
寺域は方2町が想定されているようです。現在は江戸期と思われる重層入母屋造(妻入り)の大本堂を残す。大師堂は焼失したままで基壇のみを残す。
国分寺北方約1.5kmに国分尼寺跡がある。
2003/07/24 阿波地蔵寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
明治16年建立。一辺4.15m。初重は本瓦葺き。
基本的には和様の建築で、上重は扇垂木、おそらく銅板葺き。
多宝塔造建の石碑が建ち、それによると小松島の生島伊之五郎夫妻の建立という。
真言宗。
 
阿波立江寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
大正7年建立。一辺5.59m。上重は銅板葺き、初重は本瓦葺き。
初重欄間に彫刻を置く。
当寺は四国88か所第19番札所。真言宗。
阿波立善廃寺心礎 附:隆禅寺多宝小塔、詳しくは「阿波立善寺心礎・隆禅寺多宝小塔」のページを参照ください。
2003/07/22 山城宝塔寺多宝塔 再訪。詳しくは「宝塔寺」のページを参照ください。
2003/07/18
「X」氏ご提供画像
三河高隆寺塔跡1
  同       2
  同       3
1−2:塔礎石、3:塔基壇縁石と思われます。「X」氏情報:本堂跡はまだしも、塔跡は潅木が茂る状態のようです。このままであれば山林に帰る懼れありと危惧されます。
2003/07/16 大和郡山城跡心礎写真
  同     在り場所
  同  東面石垣南端
  同     礎石1
  同     礎石2
  同     礎石3
  同     礎石4
  同     礎石5
  同     礎石6
今回は心礎を発見することは出来ませんでした。
大和郡山城石垣に半裁された心礎(同じ物半裁され2ヶ所に分散)が転用されているという。
「石造物郡山城址転用材調査概要」南村俊編、郡山城史跡・柳澤文庫保存会、1975によると
心礎写真(上記書物より転載):径1.75m、高60cm・柱座径1m、 高0.7cm、中心に径36cm、深30cmの円錐形の舎利孔が穿たれている。以上ですが、観察できませんでした。
在り場所は地図のと おりですが、東面石垣の南端近くの上部にあるとされる。片方は南面石垣の御台所橋櫓の西面にあるとされる。在るとされる面はかなり蔓草が茂り、そのために見えない可能性があります。同「転用材調査概要」によると、伝羅生門礎石、灯篭、石造仏塔、石仏などの外、礎石として確実なものは花崗岩製で36基、凝灰岩製10基であり、柱座の検出不可のもの、石塔類との区別の不可のものを入れると、さらに多数の礎石が転用されているという。
掲載の写真はその1部で、礎石と明確にわかるものもありますが、良く観察しないと分からないものも多いようです。
2003/07/05
「X」氏ご提供画像
三河丸山廃寺心礎1
  同        2
  同        3
心礎は春日神社(加良須神社)境内の小祠の前に置かれ、台石とか手水鉢へのような転用ではないようですが、放置されている状態のようです。
心礎に関する考証は数少ないようですが、以下に情報があります。
男川小学校郷土誌のページ3(3)仏教と丸山廃寺によると「からす神社の東の畑の中に礎石はあった、明治末か大正元年青年団がその礎石を神社の中に移し社を祀った。」、「美川中学校校舎建築工事で多量の瓦が出土し、文様から7世紀後半に建立された寺院があった。」との記載があります。
「幻の塔を求めて西東ー古代寺院跡の一研究」では
形式;一重円孔式、大きさ:90×75×30cm(見える高さ)、円孔:20/21×15cm、白鳳期とする。
写真でみる限り、超小型の心礎であることは間違いないようです。
三河高隆寺塔跡 男川小学校郷土誌のページ4(1)道根往還と高隆寺に紹介があります。
現高隆寺(観音堂・恵定坊・幸泉坊)西の岡上の平坦地に根本中堂礎石群とその南西に塔跡と推定される礎石群が残されている。ページの「礎石図」を拝見すると、はっきりはしませんが、本堂(根本中堂か)跡は正面70尺で8間×7間(6間?)と思われる礎石 (一部は欠と思われる)が残されているようです。塔跡は一辺18尺で9、10個くらいの礎石が残されているようです。 心礎は存在しない様子で、だとすると平安以降の塔婆と思われます。伝承では聖徳太子・秦河勝が創建に関わるといい、あるいは平安期には三河五山の一つとして(山岳信仰の聖地)栄えたともいう。出土瓦平安終期のものが出土する。戦国期の戦乱で12坊ととも伽藍は灰燼に帰したという。
2003/06/26 北野天満宮多宝塔遺構
大日如来他・擬宝珠・扉
多宝塔安置大日如来像・須弥檀・華鬘(親縁寺に現存)。
多宝塔擬宝珠は北野神社地主神社擬宝珠に転用され現存。
多宝塔扉は地蔵院地蔵堂の背後に保存されている。
詳しくは北野天満宮のページを参照ください。
山城相国寺塔跡想定地 詳しくは山城相国寺のページを参照ください。
山城妙顕寺納骨堂 詳しくは山城妙顕寺のページを参照ください。 (塔婆参考)
山城本法寺多宝塔 再訪。詳しくは山城本法寺のページを参照ください。
2003/06/24
「X」氏ご提供画像
播磨室明神社多宝塔跡 詳しくは播磨室明神社<賀茂神社>のページを参照ください。
尾張祐福寺多宝塔残欠 詳しくは尾張祐福寺のページを参照ください。
2003/05/25
「X」氏ご提供画像
甲斐円通院三重塔 1
  同        2
六角三重塔ですが、正規の塔建築ではなく、三層堂に相輪を載せたもののようです。昭和43年秋着工、染色工場の古材・建具などで建築したようです。報恩塔と称し、厨子があり十六羅漢が奉安されているようです。 当寺には「元坂の石橋 」「梵鐘」(貞享3年1686寄進)「涅槃図」(寛文13年1673銘)などの文化財があるようです。
2003/06/08
「X」氏ご提供画像
信濃照光寺二層塔
昭和9年建立。蚕霊供養塔と称する。平面6尺7寸(2m)、総高37寸(11.2m)、基壇5尺(1.52m)。屋根銅板葺き。組物三手先。棟梁:大隈流<株>石田組4代石田房茂。寸法は良く理解できない表現ですが、小型塔です。真言宗智山派。
神仏分離資料によると、平野村(岡谷市)照光寺に
下宮神宮寺仁王門及び下宮神宮寺千手堂本尊観世尊が明治初年に遷されている。藝術新潮1973.3には下宮神宮寺本尊大日如来(岡谷市照光蔵)坐像の写真掲載があります。これについては神仏分離資料では大日堂あるいは大日如来の該当がありませんが、いずれかの坊舎の安置かも分かりません。
2003/05/29 大和眉間寺跡 大和眉間寺跡を参照ください。
2003/06/04 内山永久寺跡 再訪。大和内山永久寺跡のページを参照ください。
2003/05/24
「X」氏ご提供画像
重須本門寺五重塔跡 重須(北山)本門寺五重塔跡のページを参照ください。
甲斐妙善寺多宝塔1
  同        2
  同        3
平成10年完成。高さ12,3m。木造彩色。銅板葺き。 伝統工法による木造塔のようです。
日蓮宗。多宝塔のほか、本堂、庫裏、七面堂、鐘つき堂の堂宇を備えるようです。
2003/05/28 内山永久寺跡 八角多宝塔の推定位置・三重塔跡の位置がある程度はっきりしたので再訪予定。
大和良因寺跡
 同 山内絵図(部分)
石上社の北方・厳島神社の周辺がその寺跡といいい、付近に西塔、堂の前、堂のかいと、堂のうしろの小字を残すという。おそらく何らかの塔婆が建立されていたものと思われますが、早くから退転し、塔婆を偲ぶものは何もありません。
創建年代は不詳。遍照・素性法師のゆかりの寺と伝える。現状は厳島神社と薬師堂(明治再建)とが当然のように並んで建ち、明治維新以前のごくありふれた風景を再現しています。
山内絵図は寛政7年(1795)のものと思われます。
大和正暦寺 大和正暦寺のページを参照ください。
大和古市廃寺 概要図
  同     伽藍地
  同     塔跡
古市小学校東北のごく低い丘陵地に位置する。案内板など皆無のため、位置は非常に分かり難いと思われます。現状塔跡とされる土壇らしき高まりは荒れた竹薮の中にあり、金堂跡とされる土壇は耕作を放棄した(荒れた)果樹園にあります (と地形から判断)。金堂跡(7間6間の堂跡)には礎石が若干残存するとのことですが、発見できませんでした。(あるいは金堂跡の想定を間違えているのかも分かりませんが)
1960年に発掘調査がなされ、南面する四天王寺式伽藍配置の寺院とされますが、中門・回廊・講堂などが発掘され確認された訳ではなく、塔跡とする根拠も金堂跡とされる土壇の南に位置し、土壇が方約13mであるということだけの根拠のようです。瓦をはじめ大量に出土品があったようですが、実態は依然として不明のようです。塔跡南西で耕作している人の談:「以前はこのあたり一帯は松林だった。この田圃を開墾したとき大量の瓦が出てきた。軒丸瓦もあり自宅に今も保存している。この田圃は多分寺院の築地が巡っていた場所だろうと思われる」 。瓦は飛鳥(但し1点のみ)−奈良−平安のものが出土。部分的な発掘調査の結果あるいは現地の地形などから勘案して、本格的な四天王寺式伽藍があった可能性は低いと思われます。
大和山村廃寺 トドコロ廃寺。円照寺東方、墓山古墳の東、トドコロ池の西にあるとされるが、跡地と思われる所は要するに山林で寺跡の特定は出来ませんでした。5間四面 の堂跡がある瓦積基壇を持つ金堂跡(礎石2個残存という)、その東北に一辺約8.4mの円堂跡、円堂跡の東に瓦積基壇を持つ塔跡があるとされる。 塔跡から石製相輪が出土。瓦は奈良前期とされる。
大和塔ノ宮廃寺 塔跡
  同     金堂跡
  同     礎石
かっての軍国色が色濃く残る御霊神社境内が寺跡とされる。神社は南面し、鳥居を入った右手土壇(皇祖遥拝の碑がある)が塔跡といわれ、その後方(北)にも土壇が存在し、金堂跡と想定されている。かっては土壇上に古瓦が散乱していたという。かっての軍国施設のために石が積み上げられているが、その中にいくつか古代寺院の礎石(造出の痕跡がある)と思われるものが残っている。 奈良後期−鎌倉の瓦が出土。廃大乗院、山階寺跡、大宅寺跡などの説がある。
大和願興寺跡概要図
  同     塔跡1
  同     塔跡2
弘仁寺を乗せた尾根が東から西に張り出していますが、その西の終端が平地に到達した地点(現状は水田)に寺跡はある。 通称「塔の丸」という地点だそうで、大正7年には心礎が掘り出されたという。(この心礎はどうなったのかは情報がありません)。ここに願興寺があったことを考証したのは田村吉永氏、堀池春峰氏の功績とされる。平成9年緊急発掘調査。塔基壇は一辺12.7mの正方形で、一辺34mの築地塀(瓦葺き)で囲まれ塔院を形成する。塔基壇は上面は削平されていたが、周辺には自然石を敷設した犬走り(幅70cm)があり、さらに自然石を敷いた参道(南は幅6m、北参道は幅2m)が発見された。中央には5m×4mの心礎抜き取り穴があった。石灯篭破片の出土もあったようです。
金堂などその他の遺構はまだ明確でないようです。塔跡現状は何の案内もない水田(休耕田)であり、現状は何も見るべきものは有りません。周辺にはまったく人影がなく、撮影した場所は地形図との対比で行いましたので、あるいは見当違いかも分かりません。
大和興福寺五重塔 再訪
大和興福寺五重塔1 同     2 同     3 同     4 同     5 同     6
2003/05/10
「X」氏ご提供画像
美濃 元円興寺伽藍跡1
  同         2
  同   多宝塔跡1
  同   多宝塔跡2
 
篠尾山と号し、延暦9年(790)伝教大師の創建とする。本尊は木造聖観音立像(平安初期・重文) 。
その後大いに栄え、円興寺山中に多くの堂宇、坊舎36院末寺125寺を有したという。また源頼朝寄進に寺領5000石を領有したともいう。
天正2年(1574)織田信長によって堂塔悉く焼かれたという。
慶長元年(1596)田堂に再建、承応元年(1652)雷火で再び焼失、万治元年(1658)現在地に移転再建。
山頂近くに仁王門、金堂、多宝塔、講堂、坊舎、鐘楼、御堂跡が残存し、礎石なども残存しているようです。
2003/05/07 山城平川廃寺塔土壇
  同    金堂土壇
  同    伽藍図
史跡の草の刈り込みが行われて、明確に塔跡が確認できます。
塔土壇:金堂跡(東)から撮影、金堂土壇:塔跡(西)から撮影。
山城久世廃寺塔土壇1
  同         2
  同   推定築地跡
 
特に変化は有りませんが、今回は築地跡と思われる写真を掲載。南門跡から法隆寺式伽藍配置の金堂・塔の中間に向かって築地塀跡と思われる跡が焼く10M位認められます。古代寺院のものとしては位置的にありえない位置ですし、またこの付近に散乱する瓦は近世のもののようで、おそらく近世のものと思われます。あるいは近世の久世神社に関係するものかとも思われます。
土壇跡1:北から撮影、土壇2:東北東から撮影、右は金堂土壇
2003/05/04 近江法堂廃寺塔土壇1
  同         2
近江法堂寺廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同  礎石建物跡
  同  復元金堂土壇
以前は、まったく削平され、水田の中に塔心礎のみ屹立する状態だったようですが、現在は平成8-10年に発掘調査および史跡公園整備が行われ 、きれいに整備されています。現在中門・塔・金堂・礎石堂宇(経蔵もしくは鐘楼)が復元整備。現地の案内板によると、伽藍配置は西向きのようで、中門を入ってすぐ右が塔で、正面に金堂、金堂右奥に経蔵もしくは鐘楼がある配置のようです。
沿革などはまったく不明。小字名に「法堂寺」が残る。出土瓦などから7世紀後半の創建とされる。
心礎は1.2m×1m×1,5m。上面は削平し、外径86cm深さ2cmの孔があり、内径67cm深さ13cmの2段孔になっていて、さらに中央に舎利孔を穿つ、舎利孔の蓋受孔は径12-13cm深さ1,8cm、舎利孔は径10cm、深さ6cmを測るという。要するに4段孔式心礎です。
(大きさは2.4m×1.75m×1.5m、外径90cm、内径60cmという数字もあります。対角線の距離)
平安期初頭の礎石建物(経蔵あるいは鐘楼を想定)
近江徳源院 三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同  参道・坊舎跡
再訪。
江戸期寛文12年(1672)建立と推定。讃岐・丸亀藩主京極高豊の寄進と伝える。
基本的に和様の様式を用いる。昭和53年の修理で桧皮葺きに戻す。
関ヶ原の西・中仙道の旧宿場町柏原の北方・清滝にあります。元は清滝寺と称する大伽藍だったようです。院坊跡と思われる参道の奥に清楚に荒廃した徳源院とその塔婆が在ります。
徳源院は京極氏信の創建と伝え、近江源氏京極(佐々木)家の菩提寺で鎌倉期から江戸期の歴代一族の宝篋印塔及びお墓が並んでいることで有名です。近世初頭京極氏移封によって衰退したが、寛文12年(1672)京極高豊のよって再興された。この地は京極氏が丸亀移封後も領地交換によって護持されたようです。京極家墓地上段  京極家墓地下段
清滝寺坊舎配置図はこちらです。
近江大吉寺跡 天吉山山頂付近に本堂・三重塔をはじめとする大伽藍跡は見事に残っています。
詳しくは「近江大吉寺跡」のページを参照ください。
(榎木廃寺心礎)
近江福の神境内
近江福の神心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
 
榎木集落の南側「榎木町福の神地蔵尊」と称するささやかな堂の境内にある。
詳しいことは分かりませんが、おそらく3方を田圃に取り囲まれたこの堂境内は、古の塔とか金堂とかの伽藍の土壇の名残りの可能性はあります。塔心礎はこの境内の隅に放置されている。土地の人の話によると、昔からこの石はこの境内にあるという。また道路拡張前は心礎の周りももう少し余裕があったともいう。
心礎としては小さめの自然石(1.2m×1.8mくらい)に径約42cmの円筒というより半球形に近い深さ約5cmの孔を穿つ。古代寺院の心礎としては、極めて簡単な造りで、おそらく奈良末期に近い頃の終末の心礎と思われます。 境内写真の右下に心礎はあります。
なお古代のことは不明ですが、榎木の集落は中世から近世にかけて浄土真宗の盛んな土地のようです。字名に多くの寺院名を残すという。
近江新庄馬場廃寺心礎
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
  同 牛頭天王扁額
八坂神社境内に心礎はある。1.7m×1.4mの大きさで、外径84cm、内径57cmの幅14cm深さ5cmの円周孔(枘穴)が穿孔されている。いわゆる舞木廃寺式の心礎です。石灰岩製。
詳しいことは不明のようですが、付近から布目瓦が出土し、心礎は動いていないとされる。出土瓦から白鳳期の寺院とされる。
なお八坂神社拝殿に「牛頭天王」の扁額が掲げられています。新しい扁額のようでおそらく近年のものと思われます。一つの見識というべきか。おそらく明治維新 で強制的に牛頭天王の称号を廃し、八坂神社に改称したものの収まりが悪いということなのであろうと推察します。

2003/04/10

三河猿投神社 詳しくは「三河猿投神社」のページを参照ください。
三河舞木廃寺心礎 1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
なだらかな微高地の畑地の中に不明瞭な塔土壇および心礎と3個の礎石を残す。
規模・伽藍配置はまったく不明のようです。創建は奈良前期とされる。
心礎:径約1.6Mの円形の花崗岩からなる。中央に径15Cm・深さ4Cmの孔を穿ち、周囲に幅35Cmの柱座を持ち、さらにその外周に幅17Cm・深さ9Cmの環状溝を持つ。 加工としてはかなり複雑です。
三河北野廃寺跡 1
  同    塔跡1
  同    塔跡2
  同    塔跡3
  同    心礎1
  同    心礎2
  同    金堂跡
  同    講堂跡
北野廃寺跡史跡公園として整備されている。
心礎は,径2m余で、上面に径84cmの孔を穿つ。あるいは一辺2,5m程の不整形な四角形で、径82cmのおそらく円柱孔と思われる孔が穿たれている。孔から一方に幅4p弱の水抜溝がある。
塔跡はほとんど削平されていたが、一辺10.6mとされる。発掘時には心礎は露出していたとされる。
現状は塔基壇がおそらく当初の高さ(何が根拠なのかは分かりませんが)に復元整備されていて、かなりの深さの地下式心礎のように復元されています。基壇の内側は4面とも、心礎まで、コンクリートの階段で整備され心礎まで降りることが可能です。しかし心礎の上面と同一の高さで砂利(おそらく雑草防止とか水掃けのためと思われますが)が散布されていて、心礎が通常は埋もれている状態です。見学の便宜性とか心礎の保護の観点から改善が望ましいと思われます。
廃寺は矢作川西岸約2qの洪積台地に位置し,境内は土塁(東西120数m、南北140数m)が廻り、四天王寺式伽藍であった。出土瓦などから飛鳥後期・白鳳期の建立と推定。平安時代初めに焼失したと推定される。この地の豪族物部真福(まさち)の建立ともいわれ、近隣の真福寺の前身の可能性もあるようです。
三河徳正寺三重小塔 1
  同         2
  同         3
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  同         5
  同         6
  同         7
恵城山と号する。宗旨は未調査。外見は一般的な寺院の雰囲気です。
昭和63年建立。一辺1.18cm、高さ不明ですが5〜6m位と推測。基本的に和様の仕様ですが、どういう訳か組物は禅宗様のようです。一辺1m強の小型塔ですが屋外にあり、本格的なおそらく檜製の木造塔婆(本瓦葺き)です。下記のように宮大工の造作ということもありうる出来栄えと思われます。
この小塔建立の経緯は未確認ですが、奇特な人の寄進で、造作は近隣の大樹寺の宮大工であったというようなことを小耳に挟んでいます。(あくまで未確認情報です)
三河東観音寺多宝塔 1
  同         2
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  同         9
  同        10
東観音寺古境内図
大永8年(1528)建立。 戸田家家老藤田定光の寄進という。珍しく唐様の多宝塔で、一層柱は円柱で粽を付け、貫を表面に出し、木鼻・繰形など唐様の典型を示す。匂欄には逆蓮華を用い、一層2層とも扇垂木を使用する。一辺3.33m高さ12.15m。饅頭は板張りのようです。
当寺は行基の開山と伝え、真言宗であったが、中世に臨済宗(妙心寺派)に改宗したという。
木造阿弥陀如来坐像(平安−鎌倉)、金銅馬頭観音御正体(鎌倉)の重文を有する。
元は海岸近くにあったが、宝永4年(1707)津波で伽藍は全壊し、今の場所に移転したという。塔もこの時大幅な改造があったようで、例えば中備えの蟇股はこの時のもののようで、唐様の徹底を欠く結果になっているようです。
東観音寺古境内図(紙本着色)は寺蔵で、宝永以前の旧伽藍図です。
三河三明寺三重塔 1
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  同        8
  同        9
再訪。夕暮れ時で完全に逆光でした。撮影にはおそらく午前中がベターであろうと思う。
2003/04/07 美濃日龍峰寺多宝塔1
  同         2
  同         3
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  同        10
  同       本堂
  同      仁王門
鎌倉中期の遺構とされる現存多宝塔では6〜7番目に古い貴重な塔です。寺伝では北条政子の祈願によって建立されたとする。最近修理されたようで、新材が多少目につきますが、典雅な姿は変わらないようです。 鎌倉期様のおおらかな蟇股(中備え)を用いる。基本的の和様の造作ですが、木鼻には大仏様な仕様で異質な感じです。
大日山と号す。高沢観音と通称される。寺伝では仁徳天皇の時代、両面宿難(飛騨の豪族という)が竜神を退治し、ここに祠を建てたことに始まり、北条政子が伽藍を整備したという。本堂客殿(天文3年)、本堂(舞台造り・寛文11年)、篭堂(文化3年)、白山社(元和3年)、薬師堂(貞和5年)、仁王門(享保3年)、金毘羅堂(文政3年)、鐘楼、客殿などの堂宇を有する。
美濃弥勒寺跡
 同   塔跡1
 同      2
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 同      4
 同      5
 同      6
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 同      8
 同    中門跡
 同  金堂跡礎石
 同    講堂跡
 同    経蔵跡
 同    廻廊跡
 同  円空上人塚
弥勒寺は壬申の乱で功績のあったこの地の牟義都氏が朝廷の援助を受けて建立されたと考えられている。昭和28年の発掘調査で法起寺式の伽藍配置であることが確認される。なお元禄2年(1689)円空によって現弥勒寺は再興され、円空入定屈が近くに現存します。なお現在も発掘調査が継続中で、近年弥勒寺(天台宗寺門派)は遺跡地の東に新築して移転したようです。
塔跡:基壇および心礎と側柱礎石4個が残存する。心礎は1.7m×90cm?、二段孔(外孔径93cm・深さ1.5cm、内孔径79cm・深さ1,5cm)を穿ち、孔中央に径13cm・深さ9cmの小孔を穿つ。ただし心礎の一部には欠損があります。側柱礎は自然石に近いもので、南西部2個、北部1個、南東部1個残存す。塔基壇(瓦積み)は一辺11.5m、塔一辺は6.4mとされる。
金堂跡は礎石9もしくは10個が残存し、4間3間の建築のようです。そのほか中門、回廊、講堂、経蔵、鐘楼?跡などが検出され、各々石柱で表示されています。
美濃新長谷寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
再訪。
美濃厚見廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同  瑞龍寺境内

  同      心礎6

岐阜瑞龍寺(臨済宗妙心寺派)山門を入ってすぐの左手、瑞龍寺開山悟渓国師墓に向かって左手に厚見廃寺塔心礎が置かれている。心礎は芋状の細長いものですが、かなりの大型です。厚見廃寺は瑞龍寺一帯に伽藍が展開していたと考えられるが、心礎も動かされていて、伽藍配置は不明のようです。出土瓦に「厚見寺」「中林寺」などの文字瓦もあるという。白鳳期の創建とされる。
心礎:2.7m×1.5m、高さ90cm。三段孔心礎とされる。径84cm深さ11cmの孔があり、その中心に径11cm深さ9cmび小孔、その周辺に径16cm深さ1.2cmの蓋受孔を穿孔する。通常は孔に水があり見ることは出来ませんし、心礎は柵で囲まれていて立入りできません。 <心礎6を参照>
境内にはほかの礎石も数個あるとのことですが、よくわかりません。
塔復元模型が岐阜市歴史博物館に展示されているようです。復元(模型)にあたっては、時代あるいは心礎の類似性(美濃弥勒寺)などを考慮して、各地の塔遺構・出土品を参考にしたようです。例えば五重塔で復元した根拠は心礎の大孔の径が法隆寺五重塔の径と類似するとのことのようです。
瑞龍寺は禅の大刹でいまなお塔中6院を有し、境内は清浄に維持されています。寺は土岐成頼・斉藤利藤のよって創建され、悟渓国師の開山とする。

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