スクラップダウンとビルドアップの狭間
昭和32年(1957)、全国に散らばる大手炭鉱数は864か所。
その内、北海道には155か所が存在したとされるが、
個人経営の零細炭鉱もカウントすると赤平だけで79か所近くに及んだと言われる。
ペンケキプシュナイ川に沿って登る。
炭鉱数に大きな開きがあるのは、グループを一炭鉱とカウントするからだ。
例えば住友赤平炭鉱の中には16か所(山下上赤平/坂上赤平/梅の沢/北坑/要など)
もの小炭鉱が含まれるからだ。
4月初旬、残雪の山に入る。
日本の大手石炭資本は、長らく『差額地代』によって左右されてきた。
これはその土地の豊度や位置の差によって、
最劣等地の価格によって支配されてきたことである。
推定の地には鋼製の遺構が朽ちている。
差額地代がいわば土地の生産性の差によるものであるのに対し、
『絶対地代』は土地の私的所有それ自体から生まれるコストであり、
この『差額地代』と『絶対地代』が石炭の独占的価格に反映されてきた。
以下にも人工的な平場がある。
独占的な価格は昭和30年代のエネルギー革命に対抗するべく、
国家政策による合理化により低減される。
雪原に腐食した配管が残る。
どうやらこの積雪の下は、
排気立坑のようだ。
水槽の様な廃祉も残る。
この石炭合理化政策は段階をもって、
石油価格に対抗するため強化されていった。
雪原に再び人工物が埋もれている。
昭和33年〜36年は石炭価格を引き下げ、
合理化を推進する第一段階。
埋もれていたのは日産キャラバンの廃車体であった。
林道もないこの山中に、長年の豪雪で潰された自動車だ。
この場所に産業があったのは間違いない。
廃車跡から更に上流へ進む。
石油との価格差競争に対抗できなくなった昭和37年〜40年度は、
市場の政策的保護によって石炭生産を維持しようと試みた第二段階となる。
深い山中に更に2台の廃車体だ。
第三段階は昭和41年以降、財政援助により
石炭産業全体の崩壊を防ぐため、
スクラップダウン(閉山)の対象炭鉱が拡大していくこととなる。
1台は日産セドリックかグロリア、高級車だ。
スクラップダウン対象炭鉱が増加する一方で、
少数となったビルドアップ(建設的)炭鉱には
残存のための援助が強化され、政府資金の投入がなされた。
もう一台はホンダ系の車両のようだ。
スクラップとビルドの境目は、炭鉱を持つ資本の優劣よりは、
天然の資源的条件(炭質/炭量など)である賦存状態が大きく影響していた。
付近には他にも遺構が残る。
石狩炭田の賦存状態、つまり炭質・埋蔵炭量・炭層が、
生き残りを左右する炭鉱群の生命線となった。
再び廃車だが、年代は新しく昭和50年代かもしれない。
炭質については、
「粘結性」
加熱時に石炭の粒子同士が結合しやすく発熱量が高い
が高いものが工業用原料炭となり(=高級炭)、
非粘結性のものは一般家庭炭として消費される。
粘結性の炭質を持つ炭鉱は
赤平・
歌志内・
砂川・
万字・
夕張・
平和・
大夕張・
真谷地・
登川
などで、
一方、非粘結性のものは
高根・
美唄・
奈井江・
奔別・
朝日・
美流渡
となり一般炭としてのみ生産される。
この差は燃焼効率となり、6,000cal/gを境界とする。
谷を超えると選炭場の様な一角もある。
埋蔵炭量としては石狩炭田の63億9,000万tから逆算すれば、
昭和32年度以降からも76年間は枯渇しない計算となる。
いつの時代のどの炭鉱の施設かは特定に至らない。
埋蔵炭量は西芦別、赤平・歌志内、大夕張、真谷地・登川の4地域が比較的多く、
平岸・高根、奈井江、朝日、角田、穂別の5地域が極端に少ない。
炭層については炭丈、深度、傾斜や断層、褶曲やガスなどにより採掘能率が左右される。
炭層枚数は芦別、赤平・歌志内、砂川・美唄、幾春別地区では多く、
夕張、大夕張・登川地区では少ない。
それらを統合すると、西芦別、赤平・歌志内、砂川の北空知3地域は、
傾斜が急であること以外は恵まれており、
万字、夕張、平和・清水沢の夕張3地域も、炭層枚数が少ないこと以外は安定している。
大夕張・登川地区、そして奔別、幌内の幾春別2地域 と東美唄の5地域が比較的恵まれた資源条件にあることとなる。
逆に炭層の薄い北芦別、美流渡、そして平岸、高根、奈井江等は、
炭量が決定的に少なく、
資源条件が厳しい炭鉱群となる。
森の奥には廃バスが残る。
スクラップダウンとビルドアップの境界は、
このような綿密な調査の下でソートされていたのである。
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